第3章 世俗の価値観②
G.サーバント
第3章 ウルトラ良い子の抑圧の最大要因
- 世俗的価値観
- 世俗的価値観を構成する恐るべき諸要素
4). 欲望充足主義、名誉出世主義
さて次は、欲望充足主義、名誉出世主義という、これまた典型的な世俗的価値観を構成している恐るべき要素について、解説することにいたしましょう。
非打算的献身的志向性や他者貢献的、かつ他者受容的感性を持った純粋志向性に富んだウルトラ良い子たちは、この欲望充足的な両親や世の人々に強い嫌悪感を持っています。自己の名誉や出世を求め、それを自分に強要する両親や他の人々に、当然ながらこのウルトラ良い子たちは、厭らしいと思うほど、生理的にさえ拒絶感を抱きます。とりわけそれが両親、更には最も信頼し大好きな母親が、このような考え方を持つ人間であることを知るようになった時のウルトラ良い子たちのショックと悲しみ、そしてその戸惑いは、並大抵のものではありません。
もちろん中にはそれほど強い衝撃を感ぜず、戸惑うこともなくこの時期を過ごしてしまうウルトラ良い子もないわけではありません。なぜなら、小さい内から母親から徐々に徐々に欲望充足主義や名誉出世主義の毒を盛られ、彼らの純粋感性が麻痺し、また彼らの考え方が知らず知らずの内に毒され、あるいは洗脳されてしまっているため、悲しいかな強い衝撃を受けられなくなってしまっていたからです。
しかし、そのような場合であっても、彼らの心の中のどこかでは、これはおかしい、これは真実な人間の生き方ではないとの疑問や問い返しが湧き起こってくるのです。そして、それにもかかわらず、相も変わらず母親たちがこうした考え方や価値観を強要し続けると、遂には彼らの心に大きなストレスをもたらし、その継続的な世俗的考え方の抑圧のゆえにそれがたまってトラウマとなり、その果てには遂に対人関係不全症候群を引き起こし、先にも述べてきた者たちと同様に、異常心理、異常行動を呈するようになってしまうのです。
そこで一つの実例を紹介しましょう。
ある時、ウルトラ良い子であったOLのA子さんが、職場からの帰り道に、某駅の構内で電車に飛び込み、自殺を図ろうとしました。幸いその不審な行動に気付いた駅員さんが、駅ホームに入車中の電車に今まさに飛び込もうとしていたA子さんを取り押さえて、九死に一生を得ることが出来ました。気力を失ってぐったりとしていたA子さんは、そのまま救急車で病院に運ばれ、その回復を待ちました。
その際、彼女が心理カウンセラーに打ち明けたことは、自分は小さい頃から母親から事あるごとに、「あなたは自分のことだけをしっかりと考え、他人のことなど後回しにしなさい。自分のこともろくすっぽ出来ないで、他人のことなど考える暇など、あなたにはないのよ」と叱られ続けてきたこと、まただんだん大きくなるに従って、「あなたは何でそんなことも良く出来ないの。全く仕方のない人間ね。そんなことをしていたら、将来良い大学にも、仕事にも、そして結婚にもありつけないわよ! そうしたあなたが惨めになるのを、見てなんかいられないわ」とたしなめられ続けてきたというのです。
心の優しいA子さんは、もとより大好きであった母親から、このような自己充足的かつ欲望充足主義的などぎつい言葉や、また名誉出世主義的な考え方を聞かされ続け、すっかり母親に失望し、のみならずやがて嫌悪感から憎悪感をさえ抱くようになりました。そんな母親からの強烈なインプットに曝され続けてきた彼女は、母親を見る度にまたこう言われるのではないかと常に緊張し、自由な対話が出来なくなりました。のみならず自分の最愛の母から、このように欲望充足的で、かつ名誉出世主義的な世俗人間であることを見せつけられることは、彼女には耐え難いことでした。そして、自分がこのような汚れた世俗的な考えを持つ母の胎内から生まれてきたのかとを思うと、悲しくなって一層のこと生れて来なければ良かった、死んでしまいたいとさえ思いつめるようになりました。
そんな彼女が、その日職場に行き、昼休みに友人たちと食事を共にしていた時、いつもながらのことではありましたが、その場の話題が勢い相互の内にある欲望充足的な考えや名誉出世主義的感情を丸出しにするような場面展開となり、その雰囲気に彼女は居たたまれなくなり、その場を飛び出しました。そして職場からの帰り道、遂に彼女はもはやどこに行っても、この欲望充足主義的で、かつ名誉出世主義的な人間社会でしかないことを思い、もはやこの世での生きる張り合いを見出せず、自殺を図ろうとしたということでした。
小僕も後日、本人からこの事を直接聞かされて、如何にウルトラ良い子たちが、純粋志向性を持った、物事の本質や絶対価値を追求してやまない超鋭敏な感性を持った人々であるのかを、あらためて痛感させられました。
5). 画一主義、規格準拠主義
さて、次には画一主義・規格準拠主義という、これまた典型的な世俗的価値観を構成している更なる要素について、解説することにいたしましょう。通常この画一主義、規格準拠主義と呼ばれることが、事物や人の外的側面だけを評価する場合に適用されるのは、さほど弊害もなく、むしろ有益である場合が断然多いのですが、しかし、これがこと人間の内面や人間性そのものを評価・判断するために適用された場合には、そこにはとんでもない悲劇が生み出されてしまいます。
そもそも人間には、個々人異なった固有の特性つまり個性があり、もとよりこれは画一化出来ないものです。世界広しと言えども、同一の人間はどこにもおらず、ただ一人しかいません。言わば一人一人が皆、規格外なのです。だから、一人一人は極めて希少価値が高く、のみならず世界唯一の尊い存在なのです。一卵性双生児の瓜二つの兄弟でも、それぞれ固有の個性を持っていて、全くの別人です。
まさに人間は、“オンリー・ワン”であり、各人掛け替えのない存在です。なぜなら天地万物の創造者である全能の神が、一人一人の人間をそのような掛け替えのない存在として母の胎内で形造り、しかもその一人一人に固有の尊い使命を与えて、誕生させて下さったからです。
たとえ人々が“生まれながらの障害者”などと呼び、とんでもない“格付け”をしようとも、それは人間が勝手に決めた世俗的価値観によって判断した、全く誤った悪しき罪深い判断であって、その“障害”と呼ばれる事実の奥にさえ、人生の偉大な宝が隠されており、それがその人のより優る尊い個性を際立たせ、かつその障害を通して、通常“健常者”と呼ばれる一般人が、到底足元にも寄りつけない素晴らしい人生や生き方のあることを教示してくれるのです。ですから人間は、皆、誰でも素晴らしく、最高なのです。
ところが、こうした個性や特性、更には個々人の尊厳や素晴らしさを蔑ろにして、その生きる喜びや幸せを各人から奪い取ってしまう恐るべき過ちが、人間の行為や外観をもって画一的に、また何らかの基準・規格によって、人間性や人間存在そのものまでも推し量ってしまおうとする、いわゆる“画一主義”、“規格準拠主義”なのです。
ちなみに、この“画一主義”、“規格準拠主義”的人間評価の下に形成される人間像とは、果たしてどのようなものなのでしょうか。その典型的な例を挙げれば、戦時中の旧日本軍が成した画一的軍隊教育の齎した日本帝国主義的軍人像です。もう一つは、今日の日本の学校教育が生み出した世俗的価値観を基盤とした“偏差値教育”であり、その大なる弊害は“マニュアル人間”の造成です。いずれも個々人の個性や特性を抑圧し、個人の尊厳や独自性を奪ったり、歪めたりしてしまったのです。
その結果、自らが自由に、主体的に、とりわけ個性的に堂々と物事を選択したり、意思決定したりする能力が減退し、いつでも誰かの指摘を恐れ、また何かの規制に脅え、他者の動向を伺い、マニュアルを検索しその指示を待ち、更には他者やマニュアルとの同一性を確認しなければ、不安で怖くて、何一つ行動を起こせないといった人々が、激増してしまったのです。その果て様々な精神疾患を引き起こしたり、不登校、引きこもりなどの、筆者のよく言う諸々の“対人関係不全症候群”を引き起こしてしまうのです。
これが恐るべき世俗的価値観の一翼を担っている“画一主義”、“規格準拠主義”の弊害です。そこでお互いは、これらの考え方によくよく注意しなければならないのです。
(続く)