峯野龍弘のアガペーブログ

心にささやかれた愛の指針

第3章 世俗的価値観③

第3章 ウルトラ良い子の抑圧の最大要因

  1. 世俗的価値観
    6). 相対主義、他者比較主義

更にまた、ウルトラ良い子たちを抑圧し、彼らを対人関係不全症候群に追い遣る恐ろしい考え方とあり方に、相対主義、他者比較主義というものがあります。そもそもウルトラ良い子たちは、既に何度も記してきましたように、本来は本質的なものや絶対的なもの、更には純粋かつ理想主義的なものを志向する性質を宿しているため、他人と自らを比べ合ったり、また他人同士を比較し合って、その優劣や善し悪しを自ら決めることや、とりわけ他者からそうされることに馴染みません。彼らはそうした相対的な他者との比較の上で物事を考えたり、行動したり、かつ判断することにおいて一般人に比べて、一見奇妙に思えるほど過剰反応を示し、更には強い抑圧感や時には一種の恐怖感をさえ抱くことがあります。

 

そこで他人や両親から、特に母親から、幼少時代より長い間かかる取り扱いを受け続けると、多くの場合は、遂に小学校上級生になる頃から高校時代を迎える頃までの間に、極度の対人関係不全症候群を呈するようになります。もはやその長い間の抑圧感が累積し、耐えきれなくなってしまったからです。そしてその頃までにはかなり深く心が傷つき、すっかり病んでしまっていたのです。

 

この場合、何故母親からの取り扱い方が圧倒的に多くの発症例となるのでしょうか。それは、今日では比較的父親より母親の方が口やかましく、しかも常に身近にいて抑圧するからですが、何よりも決定的な理由は、他の平均的な子供たちに比べて、生まれつき心優しく甘えん坊であるウルトラ良い子たちを、彼らの期待に応えて幼少時代に充分に受容し、満たしてやることをせず、それを怠り、のみならず彼らの感性に合わない相対的、他者比較的な世俗的考え方に従って、他の一般的な子たちと同様に、若しくはそれ以上に立派に育て上げようと、常に厳しくしつけたり、宥めすかしたりするからです。

 

その結果、大好きな母親から嫌われないようにと、ウルトラ良い子たちは健気にも、懸命に母親の期待に応えようと努力するのです。そのために彼らの心身に及ぼす重圧は並なものではありません。絶えず頑張り「良い子」を装い続けなければならない彼らの苦悩は、親の想像を絶するものがあります。

 

かくしてその抑圧、ストレスが徐々に蓄積されて大きなトラウマになり、それが遂に異常心理、異常行動を生み出すようにまでなるのです。受容しなければならないのは母親なのに、皮肉なことに受容して来たのはウルトラ良い子たち自身であって、彼らは母親から嫌われ見捨てられるのではないかとひたすら恐れ、母親から愛されたいばっかりに、ひたすら長い間母親の要求を受容し、満たそうと努力してきたのでした。しかもその途上、常に聞かされてきた脅威の言葉は、「他の子どもたちはこうしているのに、あなたはどうしてそれが出来ないの」とか、「他の子に負けないように、もっとしっかりと頑張りなさい。意気地なし!」とかの叱咤激励の言葉でした。

 

この他者との相対的比較の上に責め立てる母親の叱咤激励は、如何にわが子を思う母親の親心とは言え、かかるウルトラ良い子たちにとっては、害あって益なしの母親の有害言動なのです。しかし、いかに多くの世の母親、いな父親までもが揃いもそろって、わが子を傷つけてきたことでしょう。この点、お互いはよくよく留意したいものです。

 

 

  1. 世俗的価値観を構成する恐るべき諸要素

7). 排他主義、競争主義

最後にもう一つの世俗的価値観を形成している悪しき考え方について述べてみることにしましょう。それが排他主義と競争主義です。これこそが世俗社会を象徴する最たる特徴の一つです。今までに述べてきた6つの世俗的価値観を形成している諸要素の総和の帰結は、必然的に排他主義、競争主義に陥らざるを得ません。

 

しかし、ウルトラ良い子たちの本来の感性は、これまたこの排他主義、競争主義に馴染みません。彼らにとってこれほど恐ろしいことはないのです。先にも述べたように、彼らは元来純粋志向の持ち主で、人や物事の本質を探究し、絶対的に尊いものは何かを模索し、更にまた人や他の生き物に優しく、生命あるものには深い畏敬の念を持ち、その上彼らは目に見えない霊的、神秘的なものに強い関心を示し、更には夢や理想を追い求め、閃きや独創的な発想が豊かで、かつまた思いついた事柄には深くのめり込み易くあるという、真に多種の卓越した特性を有しています。

 

こうした彼らは、極めてユニークな発想をもって人や物事に対処する傾向が強いので、しばしば物事の判断が、一般人の常識的な考え方とは異なってきます。彼らにとって、人間は一人一人が掛け替えのない存在で、能力の如何や障害の如何で、断じてその人間評価をすべきではないと考えています。人間は本質的に皆平等であって、如何なる人でも、誰一人として見離されたり、見捨てられたりすべきではなく、むしろ弱く、乏しく、致命的なハンディを身に負っている人こそ、より多く愛され、重んぜられ、優遇されるべきであると彼らは思うのです。ですから、彼らが排除されたり、足手まといのように看做され置き去りにされるようなことは、断じて理解することが出来ないのです。

 

ところが今日の世俗社会にあっては、至るところに排他的行為や出来事、また相互に競い合って自己の願望を遂げようと、醜いまでに競い合い奪い合う競争社会が目の前に広がっています。ウルトラ良い子たちはこうした社会がどうしても理解できず、受け留められず、遂にこの社会から脱落・落後して行ってしまうのです。

 

彼らは決して能力がないのでもなければ、障害があるわけでもないのです。むしろ彼らこそ、その内に通常人に優った能力や感性を宿している場合が、圧倒的に多いのです。それなのに、どうして彼らは、そうなってしまったのでしょうか。その理由(原因)こそ、彼らにとって受け入れ難く、理解し難い排他主義的、競争主義的日常生活にあります。

 

彼らは何故かこれらのあり方や生き方に馴染めず、それどころか嫌悪感や恐怖感をさえ覚えるのです。何か理性をはるかに越えた彼らの内に働く霊性とでも言うべきものが、これらの考え方に怯え、反発するのです。

 

その結果、いつしか彼らはこのような社会から身を引き、これまた対人関係不全症候群に悩まされるようになってしまうのです。果たして皆さんは、このような彼らの摩訶不思議な心理を、どこまで理解できますでしょうか。しかし、これこそが彼らの現実なのです。受け留めてあげようではありませんか。