第3章 我執(がしゅう)
第3章 ウルトラ良い子の抑圧の最大要因
2、我執(がしゅう)
さて、以上において縷々とウルトラ良い子に対する抑圧の最大原因であり、また同時に根本原因でもある二つの元凶の内の「世俗的価値観」について詳述してきましたが、次にもう一つの元凶である「我執」についても記してみたいと思います。
今ここで「二つの元凶」と申しましたが、実はこの二つは深いところにおいて繋がりがあり、決して切り離せない関係にあります。言わば後者の「我執」は、前者の更に奥に潜む「真の元凶」と言ってもよく、これは個々人の人格並びに思想を形成している各人の人間性の奥にあり、その人間性を支配している醜悪な性質を意味しています。この個々人の内に巣食う醜悪な性質が顕在化し、更に集団化し、社会化したものが前者の「世俗的価値観」と呼ばれるものなのです。
そこでどちらか一つに抑圧の最大原因を絞り込みたいところではありますが、しかし、抑圧を受けるウルトラ良い子の側から見るときに、「世俗的価値観」と「我執」とが、あたかも双頭の大蛇の如く鎌首を上げて、入れ代わり立ち代わり自らを抑圧してくることを、非常な脅威に感じているのです。概して「世俗的価値観」の抑圧は、彼らが接するのっぴきならない様々な他者から、そして「我執」の脅威は、何と彼らの他ならない両親たちから主に被っているという悲しむべき実態が、臨床的に報告されています。
こうした実態を踏まえる時、やはり「世俗的価値観」という要因と、「我執」という要因の二つを、あえて「二つの元凶」として並列させて熟慮し、これらの恐るべき弊害からウルトラ良い子たちを保護し、あるいは癒やし、救済して行かなければならないでしょう。そこで以下において「我執」とは何か、また「我執」を形成している主なる要素は何かについて、詳述してみたいと思います。
では先ず「我執」とは何でしょう。これを定義すれば、「我執とは、お互い個々人の内に宿り、お互いを駆り立て支配している自己に対する悪しき執着若しくはこだわりである」と言うことになります。
この「我執」は、単に他者を悩まし、悲しませ、傷つけるようになるばかりか、実はそれほどまでに自分自身に執着していながら、悲しいかな決して自分自身に対して良い結果を齎しはしないのです。「我執」から行為されたことや、発した言葉は、あくまでも思い通りのことを行為し語っているのですから、当座は非常に楽しくもあり、幸せに思えるのですが、あにはからんや、何と後になってみると、そのこと自体がいかにも自己の人生を狭め、不自由にし、かつ悩まし、苦しめ、不幸に陥れてしまっていたかに、いやと言うほど気づかされる結果になるのです。お互いはもっとよくこの厳かな事実について知らなければなりません。
この「我執」について使徒パウロは聖書の中で、「肉の人」(Ⅰコリ3章1、3節)などと呼んでいますが、ある有名な聖書註解者は、これを「聖められていない自我性若しくは自分性」などとも呼んでいます。いずれにしてもこの「我執」は、聖められなければならないお互いの人間性の中に内住する極めて悩ましい悪しき性質なのです。これによってお互いは、自他ともに人生をより悩み多きものとしてしまう結果になるのです。まさに「我執」は、「世俗的価値観」と共に、ウルトラ良い子たちを悩ませ、傷つけてしまう二大元凶であるのです。
(1) 我執と原罪
さて、このお互い個々人の心中に執拗に巣食い、お互いを支配し駆り立てている「我執」のことを、聖書は「罪」と呼んでいます。ではこの醜悪なお互い個々人の中に根を張り支配している「罪」は、果たしていつ頃から、どのようにして人間性の中に巣食うようになってしまったのでしょうか。
聖書は、これを天地創造の始め最初の人間として神によって造られた「アダム」と「エバ」の堕落に起因していることを明示しています。それによれば、そもそも人間は、神の御心に従ってその御愛の内に、神ご自身の御本質に「かたどって」(創世記1章26、27節)、神ご自身に「似る」(26節)ものとして創造された「極めて良い(尊い)」(31節)存在であったと言われています。ですから人間は神から愛され、かつ神を愛し慕いつつ、どこまでも神の聖き御心に従って生きる存在でなければなりませんでした。
そこで、かくして誕生した最初の人間世界は、「エデンの園」(2章8、16節)と呼ばれる実に美しく聖い、かつ愛と平和に満ち溢れた神の聖き御心に適った楽園そのものでした。もちろんそこには罪も汚れも悪もなく、更には死も病も、痛みも悲しみも、そして何一つ苦しみも悩みもない、まさに地上に具現された「天国の地上的投影」つまり「地上天国」そのものでした。神が人と共に住み、人は神と共に生きるまさしく「エデン(楽園)」だったのです。
ところがある日、最初の人間「アダム」と「エバ」は、「園の中央に生えている木の果実」(3章3節)に目を止めました。それは誠に見て美しく、食べるに好ましく思われる素晴らしい木の実だったので、エバの心は取って食べたいとの強い衝動に駆られました。そこでエバは、その衝動に耐えかねて遂にそれを取って食べてしまいました。のみならず彼女はそれをアダムにも薦め、アダムも取って食べてしまいました。
しかし、そこには一つの重大な問題がありました。それは創造主である神が、彼らに他の如何なる果実も食べ物も取って食べてよいが、ただ「園の中央に生えている木の果実だけ」は、絶対に「食べてはいけない、触れてもいけない」(3章3節)との厳命を発しておられたからでした。アダムもエバもこの創造主からの唯一の厳命を決して忘れてなどいませんでした。しかも、この厳命を守るか否かによっては、「命か死か」という重大な人生の二者択一の運命がかかっていたのでした。
ところがエバも、そして続いてアダムも共にこの重大な禁を犯して、神の厳命された御心を斥けて、自らの願望、つまり「見たい」、「食べたい」、「取りたい」という欲望を満たすために、遂に「死」への道を選択してしまったのです。つまり、彼らは創造主である神の御心(厳命)よりも、自己の願望(欲望)に強い執着を覚え、遂にこの強い執着に支配され、敗北し、神の聖なる御心を踏みにじる重大な「過ち」を犯してしまったのでした。実に聖書では、自分の願望(欲望)に執着し、この神の厳命(御心)を否定し、それに背くことを「罪」と呼んでいます。
そしてこの重大な神の厳命(御心)をさえ斥けて自分の願望(欲望)に強く執着し、あえてこの人生での誤った選択を自らに迫る心中に潜む「恐るべき執着心」、「御し難い悪しき性質」のことを「我執」と言います。そして更に、この人類最初の人間「アダム」と「エバ」によって引き起こされた「我執」によるエデンの園での最初の背きの罪を「原罪」と呼ぶのです。
何とこの「原罪」の恐ろしさよ、またその「呪い」と「裁き」の大きかったことよ。「アダム」と「エバ」、つまり人間は、この「我執」の結果引き起こしてしまった「原罪」のゆえに、遂に神と共なる「エデンの園」での生活を喪失し、園からの「追い出し(追放)」(同3章23節)の身となってしまったのです。その結果、「エデンの園」つまり「神の楽園」の中においてのみ人間に保証されていた不死(永遠の命)、不変の愛、そして恒久的平和や絶対安息、更には無病、無痛、無苦、無悲などのすべての喜ばしい祝福された生活(幸福・至福)を喪失してしまったのでした。これを「人間の堕落」とか「失楽園」と呼ぶのです。
それにしても何と「我執」の恐ろしいことよ。「我執」こそ、「罪」、「原罪」の元凶であって、「堕落」、「失楽園」を結果させたのです。そして、今やウルトラ良い子たちを抑圧し、傷つけ、悩まし、遂には異常心理、異常行動にまで追い込んでしまう恐ろしい元凶こそ、実は「世俗的価値観」と不可分離に結び合っている各人の内に潜む「我執」なのです。
(2) 我執を構成している二つの要素―悪しき性質
そこで更にこの「我執」を構成している主なる要素について言及しておきたいと思います。そもそも「我執」は、以下の二つの要素すなわち各人の内に潜む二つの悪しき性質から構成されています。
ⅰ.まずその第一のものは、お互いの心中に潜む「欲望」です。ここで「欲望」とは、お互いが日常、心に抱く単なる「願望」や人類生存のために不可欠な「本能的欲求」とは異なります。これらは人間が幸せに生きて行くために必要かつ不可欠な尊い生命的営みであって、何人によっても否定されるべきではありません。これはお互いが生きていくために保証されている生存権でさえあるのです。「善」であって、断じて「悪」でも、ましてや「罪」などではありません。
では、ここで言う「欲望」とは何でしょう。それは、他者との均衡や調和を著しく欠いた「過度の願望」や、更には不純な動機や目的または真理に適わない自己本位の「悪しき願望」を言います。聖書ではこれを神の御心に沿わない利己心から出た間違った願望と理解し、この「欲望がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生む」(ヤコブ1・15)と警告しています。
それにしてもお互い人間は、何とこの「欲望」に弱く、「欲望」にしばしば容易に支配されてしまうことでしょう。そしてこの「欲望」への強いこだわり、即ち執着が遂に「我執」となるのです。
ⅱ.そこで第二のものは、同じくお互いの心中に潜む「自己中心癖」です。これはよく「自己中心主義」などとも呼ばれますが、それはお互いの中に巣食う強烈なほどの自己への執着心を意味し、これが他者との調和や均衡を破るほどまで自己主張される時、しばしば他者との間で摩擦が生じ、よろず争いの元となるのです。
しかし、これまた前者において述べたと同様に、闇雲に自分を大切にすることや自分の考えを正しく主張することのすべてを、「自己中心癖」という名の下で嫌しめたり、否定したりするのではありません。人間はそもそも個性や独自性を神から付与されている尊厳ある一人一人であるが故に、この点においてはむしろ大いに自己主張、自己確立を図るべきです。同様に自己保全本能は、人間各人が生存していくために極めて重要な人間資質であって、これなくして人間は健常に生きていくことができません。
ところが、これらの大切な良きものが、他者との調和や均衡を無視して独り歩きし、まさに過度に独善的に主張され、更には他者の生存や生活、心を脅かすほどまでに増長されていく時、この「過度な自己主張」を「自己中心癖」、「自己中心主義」などと呼びます。また神の御心や真理に背く「誤った自己主張」や、不純な目的や動機に基づく邪にして自己本位の「悪しき自己主張」は、自己への行き過ぎた執着であって、これはあるべからざる「自己中心癖」であり、いわゆる「自己中心主義」と言われるものとなるのです。
お互いはいつしか知らず知らずの内に、正当な自己主張という名の下に、その実「過度な自己主張」に陥り、また「自己中心癖」というまことに醜い性質に流されていることが、何と多いことでしょう。
かくして「我執」は、お互いの内心に潜み、支配するこの二つの性質、つまり「欲望」と「自己中心癖」という二要素によって構成されているのです。その結果、そこには更に以下のような四重の「悪しき主義」を生みだすことになるのです。
イ.巧妙な打算的利己主義
ロ.執拗な我欲充足主義
ハ.貪欲な自己保全主義
ニ.強烈な自己優先主義
(3) 四重の悪しき主義(イズム)
さて、今掲げた四重の悪しき主義(イズム)について、簡略説明しておきましょう。これは先にも述べましたように、我執の二大要素である「欲望」と「自己中心癖」の合したところに結果する悲しき四大主義(イズム)です。
イ.巧妙な打算的利己主義
我執は、必ず打算的利己主義を生み出すのです。その日常生活の中で常に自らの利に敏く、計算高く、巧妙に自分の利益を追求するようになってしまうのです。それは人間的と言うよりも、まさに動物的習性に類似しています。
ロ.執拗な我欲充足主義
我執は、更に何事をするにも自らの内にある我欲が動機と成り、物事の選択と決定をする時、その我欲の充足を図ろうと試みるのです。それもまたあたかも本能的習性の如く、執拗に自己の充足を図ろうとするようになってしまうのです。
ハ.貪欲な自己保全主義
そして更に我執は、貪欲なほどに自己の保身を図ろうと試み、他者や出来事によって自らが傷付けられ、何ものかを喪失し、不利益を被ることを極端に恐れ、身を守ることに執着してしまうのです。それは単なる自衛本能のゆえであるとは言えないほど、自己に執着し、貪欲なほどに自分の身の安全と利益を図ろうとしてしまうのです。
(4)強烈な自己優先主義
ですから我執は、帰するところ何かにつけ、他者のことはどうであれ、先ず自らの願望や計画を優先し、他者のことは後回しにしてしまうのです。それは誠に強烈なほどに自らの思いを支配し、もはや自分でも気付かない内に、自己優先させてしまっているのです。
かくして、我執は悲しくもお互い人間をここまで狂わせ、誤った主義主張にお互いを追い遣ってしまうのです。何と言う我執の恐ろしいことでしょう。人は、一旦この我執の虜になってしまう時、此の底なしの「原罪」の泥沼の中に引きずり込まれ、容易に脱出できない者に成り果ててしまいます。これはあたかも「我執の呪い」に罹ってしまったにも等しく、それは何と巧妙、執拗、貪欲、強烈であって、醜悪な我執の果ての悪しき四大主義としか言いようがありません。
それゆえ帰するところ、「世俗的価値観」と「我執」が主流となって支配している今日の人間社会の究極の問題とその原因は、他ではなくここにこそ潜(ひそ)んでいたことに、お互いは大いに気付かされることでしょう。