峯野龍弘のアガペーブログ

心にささやかれた愛の指針

第3章 主と共に歩む生涯の必要性と重要性

                       G.サーバント

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主と共に、主に倣って歩む生涯の必要性と重要性については、そもそも冒頭から記して来た事柄の中で既に示されていたことでしたが、ここで改めて次のような形に整理して記しておきましょう。

 

Ⅰ、神御自身がそれを要請しておられること

まず第一に、何よりも主ご自身がお互いキリスト者が「主に似る者」となって、この世で主を証する者となってくれるように願っておられるからです。なぜなら神が人間を創造された時、お互い人間をご自身に「似せて」、「御自分にかたどって」お造りになったからです(創1:26~27)。そうすることによって人間が神と親しく交わり、心通わせ、神の御心に従って共に歩み、共に生きることが出来るようにするためでした。そして共に「エデンの園」(創2:15)に住み、神と共に歩み、死も痛みも悲しみもなく、何一つ悩み苦しむこともなく、神の永遠の祝福の内を進み、幸せに生きるものとされていたのでした。

 ところが人間は、その神の御心に背き、罪を犯し、堕落してしまいました。その結果「エデンの園」を追われ、再び人間の力によってはそこに戻ることの出来ない者となってしまったのです(創3:23~24)。この時から人間の世界には、罪と死、諸々の病と苦しみ、悩ましい痛みや悲しみなどの悪が侵入し、そしてお互い人間は不幸と呼ばれる人生の難題を背負う者となってしまったのでした。

 しかし、神はこうした人間を救い、神との親しい交わりを回復し、神共にいます「エデンの園」のような生活と人生を復元して下さるために、その独り子イエス・キリスト(救い主)をお遣わし下さったのでした(ヨハネ3:16~17参照)。そしてこの神の御子、主イエス・キリストを救い主として信じ、神との親しい交わりを回復された「神の子」(ヨハネ1:12)であるお互いキリスト者に、主は今こそこう言われたのです。

 「父がわたしを愛したように、わたしもあなたがたを愛して来た。わたしの愛にとどまりなさい。・・・わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(ヨハネ15:9,12)と。

 また使徒ペトロはこう記しています。「従順な子となり、召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。『あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである』」(Ⅰペトロ1:14~16)と。

 そうです。主は、十字架の尊い贖いの死をもって罪と死とサタンの支配から贖い出し、「神の子」として回復されたお互いキリスト者を、何としてもご自身に「似る者」として新創造され(Ⅱコリ5:17参照)、お互いをこの世に遣わし主とその福音を力強く証しする者となさせたいのです。とりわけ主の御本質である「愛と聖さ」において「神に似る者」として証させたいのです。ですから「主と共に、主に倣う者」として歩むことを、お互いに要請されたのです。これは私ども「神の子」、「キリスト者」一人一人に対する主の御心であり、また御期待です。お互いは、この主の御心であり、ご期待である神のご要請にお応えする者とならなければなりません。

 愛する兄弟姉妹、あなたはこの主の御要請のあることを、日々自覚して歩んでこられましたか?残念ながら今日多くのキリスト者たちが、この自覚なしに日々を過ごしています。毎週、忠実に聖日礼拝を守り、日々聖書を読み、祈りを捧げているキリスト者の中でさえ、この自覚を欠いている人々が少なくありません。ましておや、しばしば礼拝を休み、余り聖書も読まず、祈りもしない人であったなら、おそらくこのような大切な神の御心も御要請も知らず、その自覚は皆無に等しいかもしれません。それでいてそのような人々に限って、神からの祝福や祈りの応答は人一倍強く期待し、それが叶えられないとするならば不平、不満、呟きが多く積み重なるのです。「神の聖なるご要請を知らず、自覚できない人は、より多く自分の要求を神に突きつける人となる」とは、昔からよく言われてきたことですが、現代もやはり少しも変わっていないのではないでしょうか。いやむしろそれ以上なのかもしれません。

 愛する淀橋の「アガペー共同体」の愛兄姉方は、果たしていかがでしょうか?皆で励み、よく自覚して主の御要請にしっかりと答えながら、「主に似る者」、「主と共に、主に倣い歩む者」として進んでまいりましょう!

 

 

Ⅱ.主と共に歩み、主に似るものとなることは、人間の本分である

さて、このように人間が神と共に歩み、御心を行い、主に似る者となるよう創造され、しかも更に創造主である主ご自身からそのように生きるようにと要請されているのですから、「主と共に歩み、主に似る者となる」ことこそ、お互い人間の本分であると言うことが出来ます。

 この本分を明確に認め知って主と共に歩み通して、神の御許に迎えられた典型的な人類最初の模範者は、「エノク」でした(創5:22~24)。創世記の記録によれば、筆者は、人類最初の人間アダムからノアまでの間の系図の中でただ一人、エノクについてだけ、たった四節しか記されていない僅かな記録の中で、二度までも重複して「神と共に歩み」(同5:22,24)と言う言葉を明記しています。しかも、他のすべての人物紹介の最後には、「そして死んだ」と言う言葉をもって結んでいるのに、エノクに関してだけは「神が取られたのでいなくなった」(同24b)と言う言葉で結んでいます。これは他の人々にはるかに優ってエノクがその全生涯を通して、「神と共に歩んだ」極めて優れた人物であったことを示唆していたのだと思います。

 ずいぶん以前のことですが箱根のケズィック・コンベンションの折に、今は亡き名説教者ポーロ・リース博士が、非常に感銘深いメッセージを取り次がれたことがありました。それはまさに「神と共に歩んだエノク」についての言及でした。それによれば「ある晴れた日の秋の夕暮れに、一人の少女が大好きなおじさんと仲良く手を繋ぎながら、だんだんと西空に沈み行く夕日に向かって、緩やかな坂道を登って行きました。その二人の後姿を微笑ましくずっと見守っていると、やがて遠のいて行く二人の姿が輝く夕日の中に、あたかも吸い込まれるように溶け込んで、すっかり見えなくなってしまいました。そのようにエノクも大好きな主イエス様と仲良く手を繋ぎながら共に歩き続け、天国への坂を上りながら、死んだのではなく、いつまでも歩き続け、遂に輝く永遠の御国に登って行ったのです」と言うメッセージでした。そこにいたお互いは深い感動をもって、この説教を拝聴しました。エノクは死んだのではなく、主と共に歩み続けて、そのまま主イエスと共に天まで登って行ったのだとは、何と美しい「主と共に歩む」人生の象徴的描写でしょうか!これこそお互いの主にある人生の歩みの理想像です。是非そのようでありたいと願うものです。

 ところで祝福に満ち溢れたクリスチャン生涯を生き抜くための秘訣があるとすれば、それはやはり「主と共に歩み、主に似る者となる一筋道を登る」と言うことではないでしょうか。この点での模範者は、同じく旧約聖書の中に登場してくるヨセフです。ヨセフは、いついかなる時にも自らと共におられる主を仰ぎ見つつ、その生涯の坂道を登った人と言えましょう。ですから聖書はヨセフのことをこう記しています。

 「主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ」(創39:2)。また「主がヨセフと共におられ」(同39:21,23)と特記しています。この表現は、主の方がヨセフと共におられたと言う、主ご自身を主体として表現されていますが、いわばヨセフはいつどこにおいても主ご自身に見守られていたと言うことで、これほど「主と共にいる」ことが保証付きの幸いな人生はありません。ですからヨセフは、この主が共におられると言う恵みを存分かみしめていましたから、彼もまた「主と共に歩む」人生の重要性を深く認識して、彼の波乱に満ちた人生を常に共におられる主を仰ぎ望みながら、歩んだに違いありません。それゆえ彼の生涯上の最も重要な場面で、共におられる主を見失うことなく人生を歩み通して、遂には逆境の地エジプトで、エジプトの全土を支配する王に次ぐ宰相(顧問)の地位を占めるまでに至ったのでした(同45:8)。

 ですからお互いキリスト者の本分は、他ではないこの一事にあるのだと言っても過言ではありません。それにも拘わらず多くの人々がこの本分を離れ、それ以外の他の道を辿り主の祝福に与ろうと考えています。しかし、それは結局徒労に終わる以外の何ものでもありません。どうか愛兄姉方よ、この本分を忘れることなく、エノクやヨセフの如く、いつまでもどこまでも「主と共に歩む」一筋道を登って行こうではありませんか!