峯野龍弘のアガペーブログ

心にささやかれた愛の指針

第10章 「愛(アガペー)による全面受容と心の癒しへの道」の結び

                      G.サーバント

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さて、遂に心傷つき病んでいる「ウルトラ良い子」の癒しのために共に学んでまいりましたも、これをもって不十分ながら結ぶこととなりました。ケアーに当たるご両親やワーカーの読者の皆様にとって、少しでも役立つことが出来たとしたら幸いです。何よりも本書が心傷つき病んで苦悩してきた当該の「ウルトラ良い子」たちの癒しのために役立ったとしたら、これほど筆者にとって大きな喜びはありません。

 

そこで今終わるに当たってどうしても書き記しておきたい幾つかの重要事があります。その重要事について以下に順次、記して終わりたいと思います。

 

まず第一に、筆者は一介の宗教者、つまりキリスト教会の牧師であって、決して心理学者でも、ましておや精神医学者でもありません。しかもキリスト教会における神学者でもありません。ただ、半世紀以上の永きにわたって教会の牧会に当たり、とりわけ本書において書き記して来ましたような心傷つき病み、かつ苦悩する「ウルトラ良い子」とその家族たちの痛ましいほどの現実に直面し、ひたすら祈り、聖書の教える主イエス・キリストの愛による癒しの真理を深く掘り下げ、学んでくるその過程で実践してきた牧会カウンセリングと奉仕活動を通じて、多様かつ無数のクライアントの痛みと叫びを見聞きする中から習得してきた神からの「恵みの知恵」もしくは「体験的・実践的・臨床的真理」を、ここにまとめ上げてみたものでした。

 

第二に、ですから本書は、その基盤と本質を何と言っても聖書の全巻的教えの上に据え、とりわけ聖書全巻を貫いて流れる大河の流れのような神の愛(アガペー)に置いています。それゆえ本書において解き明かしてきた「アガペーによる全面受容の癒しの法則」は、当然ながら心理学的でもなく、もちろん医学的でもなく、あくまでも聖書的、つまりキリスト教的かつ霊的牧会ケアーの原理なのです。それを出来る限り宗教性や信仰という次元で論ぜず、普遍的一般的次元に置き換えて適用可能なものとして解説したものです。もとより真理は普遍だからです。

 

第三に、本書の冒頭の序言においても記しましたように、筆者はキリスト教の牧師になってからすでに54年になりますが、不思議な導きの許でその当初からこのような癒しのミニストリーに携わるようになり、今日までに実に多くの心傷つき、病み苦悩してきた多様なケースのクライアントと共に歩んでまいりました。そうした中で途上の多くの試行錯誤やまた数多くの失敗や敗北と思われる悲しい経験を繰り返しつつ、遂に辿り着いた普遍の癒しの真理、根本原理と言うべきものが、「アガペーによる全面受容の癒しの道」であったのです。しかもこの道は、単に「道」と言うよりも「愛の原理」であり、筆者はこれをあえて「法則」と呼ぶことにしたのでした。「法則」なのですから、これに従ってケアーに当たるならば、いつ、だれが、どこで行っても、洋の東西を問わず、人種の如何に関わらず、必ず例外なく癒しに辿り着くことが出来るわけです。筆者は、この貴重な体験と確信に過去の数多くの臨床例と実績を通して、行き着くことが出来たのでした。これは単なる特定の誰かに与えられた「個人的賜物」と言うべきものではなく、万民に与えられている「普遍的法則」と言っても過言ではありません。だから「アガペーによる全面受容のあるところには、必ず癒しが起こる」と声を大にして断言することをはばかりません。

 

第四に、ここで「癒し」と言うのは、いわゆる「医学的な癒し」を意味してはいません。ここで言う「癒し」とは、「心穏やかに愛のケアーの中で、麗しい人間関係を結びながら、尊い固有の人生を生き抜くことの出来る人間となること」を意味します。そこには生涯身に負わなければならないある種のハンデがあったとしても、それはその人の人間としての尊厳を何一つとして失せるものでは断じてないのです。むしろそのハンデがあることによって、にもかかわらず懸命に生き抜くその姿、その生き様にこそ、かえってその人の人生が輝くのですから。

 

第五に、この「癒しへの道程(みちのり)」は、当然のことながら個々人によって異なります。しかも、すでに何度も前述してきたように、ある人の場合はまさに奇跡と言えるほど速やかに癒しが実現する場合もあれば、しかしある人の場合は相当の長い年月を費やさなければならない事もあります。それはその癒しを必要としている人の病める度合いや、その身に負っている症状の性質の如何(いかん)によるのです。しかしながらたとえ後者の場合であったとしても、決していたずらに嘆いたり失望したりする必要は全くありません。そうです、すでに繰り返し学んできたように「癒しの螺旋階段」を確実に上っているのですから。しかもそこには他者には到底気付いてはもらえないかもしれない、当事者のみが味わうことの出来る「途上の慰めと喜び、そして希望」が与えられるからです。それは以前の最も厳しく、苦しかった時には経験することのできなかったものでした。それゆえ決して中途で挫折せず、なおも「癒しの螺旋階段」を上り続けたいものです。そうすれば遂には心傷つき病める者と共に、そのケアーに従事した両親や関係者も共々に、愛によって築かれた美しい人間関係の頂(いただき)を極めることが出来るのです。その間に流した涙も、担った労苦も、如何(いか)なる犠牲も、何一つ無駄になることはないのです。そこで筆者は、こう激励したいのです。 「真に美しく幸せな人間関係の頂(いただき)に立つために、『愛による癒しの螺旋階段』を上り続けよう!そこに真の癒しが待っている!」と。

 

第六に、この「アガペーによる全面受容の癒しへの道」と言う真理・原理・法則は、如何なる人間も神の深い愛の御心の内にあって誕生し、たとえ先天的などんなハンディキャップをもって生れて来たとしても、本質的には何ら人間としての尊厳に目減りがあるわけではないと言う確信の上に築かれている論理です。もとよりのこと神が最善以外の何事もなさらず、また何ものをも創造されず、ましておや聖書が明記しているように人間は「神に似る者」(創世記1:26~27参照)として創造された尊い存在なのですから、誕生してきた人間は一人残らずすべて尊い価値ある存在以外の何ものでもなく、誰一人としてその尊厳性において遜色のある者はおりません。この点に関しては本文の最初からすでに強調してきましたが、今ひとたびこの終わりにおいても強調しておきたいと思います。ですからその一人一人に与えられた個性と人格は、どこまでも尊重され、絶対的に肯定されなければなりません。諸悪の根源は、すでにこれまたくどいほど論じてきたように「世俗的価値観」にあります。この「世俗的価値観」と言う悪しき枠組みの下で、お互いが人間評価をするところから、この本質的に最善以外ではない人間の尊厳や個性、人格が傷つけられ、抑圧され、更には否定されるまでに至ってしまったのです。ですからその「癒しの道」は、徹頭徹尾その癒されなければならない一人一人の人間の尊厳、個性、人格をとことん尊重し、「絶対肯定」するところに、「不動の大前提」を置かなければなりません。この大前提の崩れたところでは、絶対に真の癒しは生み出されず、促進しません。その反対に、この大前提が崩れず、持続し、その上に固く立ち、「アガペーによる全面受容」をもってケアーに当たる時、癒されなければならない相手と必ず心が繋がり、その癒しが功を奏すると言って過言ではありません。これが筆者の確信です。

 

第七に、これは蛇足のようなことかもしれませんが、この「アガペーによる全面受容の癒しの道」は、その癒しの道に従事する両親はじめケアーに当たる関係者が、常により謙虚で真実な心と姿勢をもって、愛と祈りの内に事に当たらなければならない極めて大切な一筋の道であると言えましょう。と言うのは如何に、「この道を行くならば必ず癒しに辿り着くことが出来る」と確信したとしても、それが「“自分”はここまでアガペーしているのだから、子供は絶対に癒されないはずがない。だから“自分”には自信がある。“自分”は必ずやり遂げてみせる」と言うような強い自負心を抱くようになってしまったとするならば、それは「行き過ぎた確信」と言うもので、これはもはや「傲慢」に他なりません。この傲慢さが、癒されなければならない相手に対して、新たなストレスを与えるようにもなりかねません。またその反対に、一見より謙虚な心と姿勢に見えるかもしれませんが、ある方々は途上で我が子が心傷つき病んでしまったのは、自分が極度な世俗的価値観を押し付けてしまったからだと気付かされ、深く心から悔い改め、謙虚に相手に謝罪するまでは良かったのですが、それが今度は受容するのがこの「自己の罪責感から出た我が子に対する償いの業としての受容」と言う事になってしまうと、これまた「行き過ぎた罪責感」となり、これは謙虚・真実とは異質の「自己卑下と隷従」に脱してしまう危険を冒します。こうした場合が、しばしば「アガペーによる全面受容」とは似て非なるいわゆる「共依存」を生み出してしまうのです。ここには決して人間の本質と尊厳に深く根差した相互信頼は造成されず、本来あるべき美しい人間関係や人間性の構築は起こり得ないと言えましょう。

 

そこで最後の第八として、あえてこの一事をここに記して結びたいと思います。それは「祈り」と言う事です。「祈り」とは、人間が人間自身の力や知恵によってはどうすることもできない人生の重大事・重要事に対して、目に見えない人知を遥かに超えた聖なる大いなる存在に対して、その助けを求めて心からより頼む願いや叫び、また感謝や讃美、時には会話を意味しています。「愛は祈り、祈りは愛を深める」と言われていますが、愛する者が死に直面したり、重大な事柄で悩んでいる時、自分たちの知恵や力では如何ともし難い時に、お互いは思わずその愛が祈り心に変わることを、体験したことがないでしょうか。そして祈るうちに相互の内に働き、相互の間に通う愛がより深くなるのを覚えたことがなかったでしょうか。

 

ましておや本書で学んできた「アガぺ—」と言う究極の愛は、もとより聖書が指し示している天地万物の創造者にして人間の創造者でもある神の本質である聖なる愛に基づくものでもあるので、「愛と祈り」は、深い関わりの中に置かれています。そして「祈り」は、単に人間の願望・欲求を満たすための大いなる方に対する嘆願と言うような、ご利益主義的な祈願とは無縁のものです。「祈り」は、愛と真実と謙遜な心より発せられた、大いなる方の聖き御心に適った無欲な「聖願」です。このような「聖願」であってこそ、人の心、とりわけ心傷つき病めるウルトラ良い子の心を動かし、大いなる方の御心に適い人知を遥かに超えた奇跡とさえ思われる不思議な良き結果に巡り合うことが出来るのです。これこそ愛と真実と謙遜をもって人生を生き抜く聖き人間だけが見いだすことの出来る人生の秘儀・奥義、さらには人生の至高の境地・醍醐味とでも言えましょう。そうです、「アガペーによる全面受容の癒しの道(法則)」に従事する者のためには、究極この「祈り」が不可欠と言えましょう。最後の今一度申し上げましょう。

 

「愛(アガペー)は祈り、祈りは愛(アガペー)を深める!」と。

 

 

<付記>

 以上、随分長きに亘って「アガペーによる全面受容と心の癒しへの道」について記して来ましたが、既にこれをお読みになり、おそらく多くの方々が、いったいこのような「癒しへの道」を筆者である小僕以外に誰が唱え、誰がこのような言説を主張しているのだろうかと思われたに違いありません。それはまさしく当然と思います。なぜならこれまた既に折々記し、また語ってきましたように、私自身がどなたか特定の専門家や研究者の論説に教えられ、それに範(はん)をとって記したり、語ったりしたものでは全くなかったからです。もちろんそうした専門家や研究者、医者や学者の方々の書物や言説に多くを学び、教えられて来たことは言うまでもありません。また多くの宗教家や神学者の書物や言説からも学ばせて頂きました。そうしたことを基盤に据えて長年、いや生涯を通じて教会の一牧師として心と体と霊魂の全人的ケアーに当たる中で、試行錯誤や時には失敗をも繰り返しながら、これまた先にも述べましたように心傷つき悩む人々に寄り添い、共に苦闘しながら歩んでくる中で、祈りの内に示され、聖書に教えられ、実践してくる中で体験して来た、いわば霊的体験知の集積なのです。ですからそれは一つの仮説にすぎないと一笑に付されても仕方がないわけです。しかし、そうしたことを充分わきまえつつも、あえて恥も外聞もかなぐり捨てて、あざけ笑われ、袋叩きにあっても、この長い間自らも体験し、癒された多くの悩める人々の存在とその喜びを思う時、記し語らざるを得なかったのです。

 その上、本書において終始くどいほどこだわりながら述べて来た「ウルトラ良い子論」並びに「アガペーによる全面受容の癒しとその王道と法則」は、ユニークな一見偏ったようにも思われる論説ですが、小僕はあえてこれこそ多くの人々によって見落とされてきた最も重要な奥義を物語るものとして、世に公にすることを決意したのでした。このような人間の本質の中に深く根差した、単なる精神医学的及び心理学的な「病的治療としての癒し」ではなく、人間性の本質に根ざした「真の人間性回復並びに人間関係復元の結果としての癒し」こそ、現代社会が最も求め必要としていた「癒しの道」であると、強く確信させられたからです。この事柄の真偽は、今後大いに専門家や研究者の方々の正しいご判断にお委ねすることにして、これに共感し、自らこの「癒しの王道と法則」に則って実践してみようと、心底思われる方々がおられるなら自己責任をもって、本気で実践してみて頂きたいのです。事実そうした方々によって、どれだけ多くの「癒される道なし」、「改善の余地なし」、「生涯変わることがない」と諦めていた人々とその家庭に、希望と慰めと癒し、そして何よりも喜びと幸せな人間関係と愛に満ち溢れた家庭生活が訪れて来たことでしょう。是非それを皆さんにも、確実に体験してほしいのです。

 ましておやこれは単なる理想論を述べたものでは、絶対にありません。本気でこの道筋に従って歩まれ、実践された多くの方々並びにその家庭において体験された喜びの証しが、その現実性を立証し、裏付けてくれています。ですから実験済み、体験済みのお墨付きの論説なのです。この事を実践するために失うものは何一つありません。取り返すことの出来ない、引き返すこの出来ない損失は、皆無と言って良いでしょう。あえて失うものがあるとするならば、その考え方や、その生き方を引きずっていたならば、絶対に改善されない、癒されることはないであろうと言い切ることのできるような悪い考え方や生き方が、各人の内から取り去られること以外ではありません。これは損失ではなく、大なる祝福の獲得になります。ですから是非、この道筋に従って歩み出してみて下さい。希望を抱いて、勇気をもって実践してみてください。

 最後にまたしても繰り返し申し上げたいと思います。この「アガペーによる全面受容と心の癒しの道」は、決して単なる方法論やテクニックを教示したノウハウ本ではないと言う事です。本書は、真の人間性の本質にお互いを立ち帰らせ、真の人間関係をそこに築き上げて行かせるための「深みの人間性修得」もしくは「真の人間性復元」の書です。ですから本書に従って「癒しの道」を歩み出した者は、何よりも先ず癒しの働きに従事するお互い自身の考え方、生き方、つまり人間性を真の人間の本質に従って復元しなければなりません。「医者よ、まず自らを癒せ」と言う言葉がありますが、本書に従って「心傷つき病んでいるウルトラ良い子」を癒そうと望むなら、まず癒す側の自らの人間性を癒し、修復しなければなりません。そしてその癒された真の人間性をもって癒しを必要としている相手のケアーに当たる時、その相手の内に癒しが促進されることを思うと、これはあくまでも単なる方法論やテクニックでは断じてなく、癒しに従事する者と癒しを必要としている者の双方の人間性そのものの変革に本質があるのだと言う事を、最後にもう一度力説して、稿を結びたいと思います。