峯野龍弘のアガペーブログ

心にささやかれた愛の指針

第3章 両親からの抑圧と諸問題②

                             G.サーバント

第3章 ウルトラ良い子の抑圧の最大要因

2、 父の役割と母の役割の欠如による抑圧の素地

(3) 真善美、神愛聖、命霊祈、天永滅などの見えざる尊いものへの畏敬心の啓発

さて、子育てに当たるご両親たちには、またしても是非心に留めて頂きたい更なる基本的重要事項があります。それはお互い人間には、他の被造物には決して与り知ることの出来ない、人間だけが理解することの出来る、目に見えざる極めて尊い存在と世界があり、そして人間はそれらを知って心から畏敬しなければならないということです。

 

果たしてそれらは一体何でしょう。それらのものこそ、実に人間をして人間以外のすべての被造物と決定的に峻別させる、人間のまさに尊厳に関わるものであり、人間が真に人間らしく価値ある存在として生きるための人間としての一大特質であり、まさに人間が人間であるための条件でもあります。

 

それではこれらの目に見えざる尊いものにして、かつ人間が畏敬しなければならないものとは何でしょうか。ここではそれらの中から特に重要且つ本質的な畏敬の対象としての四大類型だけを記しておきましょう。

 

➀真善美

先ず第一の類型は、「真善美」です。

 

a.人間は「真」を求めて生きる存在です。「真」とは何でしょう。それは一般的には「真理」とか「真実」と言われるものです。しかし、それをより本質に従って説明すれば、純粋にして永遠に変わることのない人生における生きるための法則を意味しています。お互い人間はこれに従って生きる時、その真理や真実は、人間各人の性質や人格の内に宿り、それがやがて言葉や行動、そして生活や生涯の中に開花し、結実するようになるのです。

 

ですから誰でも真に人間として生きたいならば、「真」を求めて生きなければなりません。その時、お互いは真に尊く価値ある存在としてその人間の尊厳を確保することが出来るのです。

 

しかし、もしもお互いが「真」を求めて生きようとしないならば、それは所詮人間の姿をした動物に過ぎません。なぜなら彼らは「真」を求めず、「真」を所詮理解することが出来ないからです。

 

b.また人間は「善」を求めて生きる存在でなければなりません。「善」とは何を意味しているのでしょうか。先の真理や真実は、その本質上当然「善」以外ではありませんが、しかし、「真」はそもそもそれ自体、絶対的不変的なものであって、他との比較の上で選択されたり、決定されたりすべきものではありません。

 

しかし、「善」とは、そのものが置かれている状況や環境の中で、最もふさわしく適合した状態や、また他との比較の上でより優れたものを意味しています。更にまた「善」には、「喜ばしいこと」、「幸せなこと」の意味がそこに付加されています。

 

そこで人間は常に自らの置かれている場の中で、ふさわしい適格な言行をなし、常にその直面している固有の状況下で最も優れたものを選択し、自らと他者に喜びと幸せを齎すものとならなければなりません。およそ自分だけで善しとして、他者には喜びも幸せも齎し得ないのは、不適格で決して「善」ではありません。

 

このような人は、もはや真の人間の尊厳を自ら放棄してしまったも同然で、今や動物の次元で生きている者に過ぎません。何と哀れなことでしょう!

 

 

c.さて、第一の類型にはもう一つ「美」があります。人間が「真」を求め、「善」を求めて生きなければならないと同時にいま一つ「美」を求めて生きてゆかなければなりません。「美」とは、事物が完全に仕上がり、実に見事に周囲と調和し、しかもその存在が周囲を麗しく装い、人を幸せな思いにさせる極めて良好な状態を言います。

 

ちなみに、お互い人間が美しい花や自然を見た時、あるいは美しい他人の姿や生き方を目にした時、まことに幸せな気持ちにさせられますが、その理由はそこに「美」が存在するからです。「美」はそれに触れる人々を慰め、癒やし、力づけ、更には喜びと楽しみを与え、幸福な思いに満たしてくれます。これこそ「美」の「美」たる所以です。

 

しかし、その反対を「醜」と呼びます。ある人が面白いことを言いました。「醜」とは、「鬼が酒を飲んで酔払った状態」を言い、これは実に「醜く」、これを「醜態」と言うのだと。誠に穿った面白いコメントだと思います。

 

そこで実に人間は美しいものを愛し、美しく生きることによってこそ真に人間らしく、幸せに人生を暮らすことが出来るのです。

 

さて、以上の如く「真善美」について述べてきましたが、これらに対する畏敬心を両親たちは、我が子がまだ小さい内から、特に3歳位までにしっかりと育成しておくことが大切です。お分かりのことと思いますが、これらの育成は知識としての育成ではなく、感覚若しくは感性の育成です。ですからまだ言葉も知らない、読み書きも出来ない乳児、幼児であっても充分に学習、体得出来るのです。

 

むしろ知的情報の詰め込まれていない純粋無垢なこの時期の幼子であればこそ、自らの感覚を通して体験される「真善美」の世界をストレートに自らの感性の中に取り込み、受け入れ、体得し成長して行くのです。これは体験的育成であって、体験知です。

 

ですから生まれながらに知的障害を身に負っていても、彼らもこの「真善美」の幸いな世界を体験することが出来るのです。いやむしろ彼らにとってこそ、この人間としての最も重要な基本的資質の育成が必要不可欠であり、この点の習得能力においては、彼らは決して健常者に優るとも劣ってはいないのです。

 

ところがどうでしょう。今日の社会においては、大多数の両親たちが自らの大切な子供たちに対して、この重要な基本的育成を、且つ何よりも最優先されるべきこの時期に、育成し損なってしまっているのです。ここに今日の児童教育上の恐るべき社会問題が潜んでいます。

 

 

②神愛聖

さて、次に重要なことは、「見えざる尊いものへの畏敬心」の第二の類型として、「神、愛、聖」が挙げられる。これこそ人間にとって最も畏敬しなければならない尊い存在であり、かつ最重要の認識の対象である。これは決して肉眼で検証することの出来るものではないが、本来、人間である限り誰でも、神が天地創造の初めから人間各人に分かち与えられたその理性と感性と霊性を駆使することによって、必ず認識することが出来るはずのものなのである。

 

そもそも「愛」と「聖」は、元来、「神」なるお方の本質に属する極めて尊く、聖い性質(神の属性)であって、神は人間にこれに倣って生きるよう定められたのである。それゆえ人間は、その理性、感性、霊性を幼い時より養い育てることによって、「神」ご自身の存在と共に、その神の本質的属性である「愛」と「聖」を認識することが出来るようになるのである。

 

ちなみに聖書には、以下のように記されている。

 

a.「愛」について

 

「愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです」(Ⅰヨハネ4章8節)

 

「神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」(同4章11節)

 

「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13章34節)

 

b.「聖」について

 

「召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい」(Ⅰペトロ1章15節)

 

「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」(同1章16節)

 

かくして人間は、「神」の存在を認知して、「愛」と「聖」を追い求めて生きる時、人間として最も「真・善・美」に満ち溢れた極めて尊い神に近似した存在として、生きることが出来るのである。とりわけ「ウルトラ良い子」たちは、平均的な世間一般の人々に比べて遥かに強く、このような生き方を渇望する存在として生まれついており、特色づけられていると言っても過言ではないだろう。

 

それなのに通常世間の父母たちは、このような「ウルトラ良い子」の生まれながらの感性や特質に気付かず、それを無視し、およそそれとかけ離れた、それどころかむしろそれに逆行するような躾や養育を平気で押しつけてしまっているのである。ここにも恐るべき抑圧が惹き起され、また大きな過ちが犯されてしまっているのである。

 

そこでこれを未然に防ぐためには、よくよく小さい頃から、いわゆる「神信仰」と言う宗教的枠組みを越えて、彼らの知性(理性)に神の存在を知らしめ、彼らの感性に「愛」と「聖」を体感させ、願わくは彼らの霊性に「神」、「愛」、「聖」の存在とその尊さを畏敬させるよう養育しなければならない。(続く

 

 

③命霊祈

さて、ここで更に生まれながらにして純粋で、卓越した、かつ鋭敏な感性をもって世に生を与えられてきた「ウルトラ良い子たち」に、「見えざる尊いものへの畏敬心」を育むためになお必要な第三の類型として、「命霊祈」が挙げられる。これまた前項で述べた「神愛聖」と共に人間にとって最も畏敬しなければならない最重要の尊い資質であると共に、きわめて大切な認識の対象である。

 

言うまでもなく決して肉眼で検証することの出来るものではないが、本来、人間である限り誰でも、神が天地創造の初めから人間各人に分かち与えられた天的資質であって、その理性と感性と霊性を駆使することによって、必ず認識することが出来るものなのである。

 

そもそも「命」若しくは「生命」は、それ自体人間の肉眼をもって、認識、識別することは出来ない不思議な、聖なる、神秘的存在である。それは単に人間ばかりではなく、動物や植物などの内にも宿り、そのものを生命あるものとしてそこに機能若しくは存在させている「生かす力」である。この場合、お互い人間はその命を与えられている人間自身や動物、植物を目撃することは出来るが、決して命そのものを認識することが出来ない。

 

ちなみに「命」はまことに神秘にして、厳かである。今の今までそこに命を与えられ生きていたものが、ひとたびそのものの内から命が出て行けば、たちどころにそのものは死んで、朽ち果てて行く。そしてそのものは命のある内は、決して朽ち果てない。

 

ではこの「命」とは、果たして如何なるものか。聖書は、この「命」について以下のように教示している。

 

a.天地万物の創造者である神が、命の付与者。神は人間をはじめ、天地万物の唯一の創造者にして、全能者。このお方が人間の内に命を与えられた(創世記1章1、27節)。

 

 

b.神は人間に命の息を吹き込まれ、人間は生きる者となった(創世記2章7節、ヨブ記33章4節)。この場合「息」とは「霊」と同義語であって、実に神ご自身は永遠の命を持ち給う霊的御実在であって、人間の「命」はこの永遠の命の源である神の霊の分与である。

 

そこで人間はこの分与された命の霊によって神に命を付与されたばかりでなく、霊なる神と深く交わり、神の御旨を知って、霊と真実をもって神と共に歩むのである。これが霊的礼拝であり、祈りである(ヨハネ4章24節、ロマ12章1節)。

 

 

  1. かくして神の聖い御心に従って人間が生きる時、人間を生かすため神から注がれた命の霊が、人の内に住み、人は生きることが出来る。しかし、人が神の御心に背く時、その命の霊は取り去られ、人は死んだ者となる(イザヤ38章16節)。

 

さて、通常人々は「命」について何を思い、何を感じ、どのように生きようとしているだろうか。「命」、「霊」、「祈り」の深い関わりについて、相当の学識経験者であっても、また実力者であってもほとんど考えることも、語ることもない。のみならず世俗的価値観、人生観を基盤として生きている現代人は、かかる人間の深層に迫り、人生を熟考することなど、皆無に等しい。

 

しかし、前述した生まれながらにして純粋志向性を有した、事物の本質を追い求め、絶対志向性、霊的志向性の強い「ウルトラ良い子たち」は、かかる深くして神秘的な「命」や「霊」や「祈り」の世界を、心の奥底で希求しているのである。ここに「ウルトラ良い子たち」の抑圧と渇望が余儀なくされるのである。世俗的価値観に日々生きている両親たちは、またしてもこの点において、大事な子育てに失敗してしまうことになるわけである。(続く)

 

 

 

④天永滅

さて、目に見えざる尊いものへの畏敬心ということに関連していま一つ述べておきたいことがある。それが「天永滅」ということである。これまたいずれも肉眼で認識することの出来ない世界であるが、神によって創造された極めて尊い存在であるお互い人間は、先にも既に述べたように、その内に「霊」性を与えられていることから、天を思い、永遠を見つめ、またその肉体と霊魂が死して滅び行くことを極度に恐怖する、他の被造物には断じてあり得ない極めて尊い思いと感性を有しているのである。おお、何と人間お互いは神秘的にして、不思議な存在であろうか。実にここにこそ人間の尊厳がある。

 

ちなみに「天」とは、人間の創造者である全能の神のおられる所、つまり「神の国」を意味し、「天国」とも呼ばれる。こここそ人間に生命の霊を注がれたお方、神が居ますところであるから、人間は皆、人間の霊と命の出所である「天国」を思慕するのである。そこで聖書の中には、「わたしたちの本国は、天にあります」(フィリピ3章20節)と言われていたり、また「彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していた」(ヘブライ11章16節)と記されたりしている。

 

更にまた「永」とは「永遠」のことで、これまた聖書には「神は、すべてを時宜にかなうように造り、また永遠を思う心を人に与えられる」(コヘレト3章11節)と記されている。そもそも神は永遠の実在者であり、無限である。この神が人間をこの上なく愛されて人間を創造され、その時神は、人間が神の御心に背き、罪を犯し、神に謀反さえ起こさなかったならば、人間には永遠の命を付与され、神と共に永遠に生きることが出来るよう保証された。

 

しかし、人間は愚かにも神の御心に背き罪を犯し、堕落し、「死する者」、有限な者となってしまったと聖書は教えている。この事はとりもなおさず人間には、本来あるべき「永遠」と「永遠の生命」への思慕と回帰願望が心と魂の深奥に潜在し、それが永遠への憧れを生み出しているということである。

 

最後にいま一つの「滅」についてであるが、これは「滅び」、「滅亡」の意味であって、とりわけ肉体の生命と霊魂の「死」を意味している。前者の「天」と「永」を思慕する人間にとって、当然ながら「天」と「永」から完全に切断され、「死」んで「滅亡」し、皮肉にも永遠に「滅び」ゆくことは耐え難い恐怖以外の何ものでもない。

 

「ウルトラ良い子」たちは、これらのことを認識し、「天」と「永」を心の深いところで渇求し、「滅」を恐怖し易い鋭敏な感性を有しているのである。それゆえ両親たちは、我が子のこれらの「ウルトラ良い子」性を一早く見抜いて、幼い頃よりこの感性を受容し、満たし、その渇求に応えて行かなければならないわけである。言うなれば彼らは生まれながらにして強い霊的感性と志向性を持つ「小さな宗教家」なのである。

 

それなのに両親が、世俗的価値観に支配され、世間的見栄えを気にして、知的能力の開発や他者に優る人物となるようにと英才教育や躾に明け暮れしているとしたら、早晩「ウルトラ良い子」の感性を持った子は、徐々に抑圧を受け、やがて傷つき、無気力になり、その上何かにつけ苛立ち易い精神的に不安定な心病む子供になってしまうことであろう。ここにまた両親の大なる過ちが犯されてしまうのである。(続く)