峯野龍弘のアガペーブログ

心にささやかれた愛の指針

序 「主と共に歩む生涯への召命と献身」

                      G.サーバント

 

 

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この一文は、主としてキリスト者の方々のために書き下ろした小論です。ですから何よりもキリスト者である皆様に、是非とも愛読して頂けたら幸いです。しかし、同時にそれ以外の一般の皆様にも、是非読んでいただけたら光栄です。なぜならキリスト者のために書かれたと言っても、決してキリスト者でなければ理解できないとか、役立たないと言うものではありません。お互いが人間として、まさに正しく、聖く、幸せにその生涯を、つまり「人生」を過ごして行きたいと望まれるならば、必ずどなたも同感し納得して頂けると確信しています。

 

にもかかわらずあえてキリスト者の方々にと記しましたことには、いささか訳があるのです。その訳と言うのは筆者が長い間半世紀以上にも亘って牧師を務めて来て、今更のようにつくづくと思わされたことがあったからです。それは他でもない、何と多くのキリスト者が、これから以下に書き記すような最も大切にして基本的なキリスト者としての考え方と生き方を、喪失してしまっているままで生活しているかに気付かされたからです。これは実に悲しい事でもあり、またショッキングなことでもあるのです。

 

そもそも「キリスト者」とは、「キリストに属する者」とか、「キリストに組する仲間」と言う意味で、寝ても覚めてもキリストと共に歩み、何事につけても万事キリストでなければ夜も日も明けないと言うほど「キリストかぶれ」している人のことを言うのです。こうした人々のことを初代教会時代の世間の人々は、彼らを揶揄(やゆ)して「キリスト野郎」(使徒11:26『キリスト者』、『クリスチャン』)と呼ぶようになりました。ですから彼らは常に、どこにあっても「キリストと共に、キリストに倣って」生き、かつ歩んでいて然るべき者たちだったのです。ところが今日、キリスト者の中で本気・本音で「キリストかぶれ」して、「キリストと共に、キリストに倣って」よくよくその言行に注意深く生活している人が、どれほどいるでしょうか。自分をも含めて、決して他人ごとではなく、深く反省させられています。

 

この点において紛れもなく第一人者は、使徒パウロではなかったでしょうか。彼は、「生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」(フィリピ1:20~21)と言い、また「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラ2:20)ときっぱりと言い放っています。何と素晴らしい晴天白日の心意気でしょうか!彼の心には何一つ心残りの物はなく、まさに何ものにも優って尊いキリストで、その心は満たされ切っていたのです。ですから彼はこうも言いました。「しかし,わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見做すようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです」(フィリピ3:7~9)と。

 

ですからまさしく使徒パウロは、骨の髄までキリストが浸み込み、「キリスト漬け」になっていた正真正銘の真の「キリスト者」だったと言えます。遂に彼は次のような言葉をもって聖なる自己主張をしています。「これからは、だれもわたしを煩わせないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです」(ガラ6:17)と。

 

そもそもこの「焼き印」とは、当時の奴隷たちが自らを買い取った主人の「所有物」であることを、他者に向かって表明するための目印でした。それゆえ奴隷にはもはや自己の願望や主張をする自由はありませんでした。ただ彼らに許されていた一事は、「常に主人と共にいて、主人の意のままに、主人の望むように生きること」でした。そのように使徒パウロは、あえて自らを「キリストの囚人(奴隷)」(エフェソ3:1、4:1、Ⅰテモテ1:8、フィレモン1:1)と呼び、自らは尊いキリストの十字架の死の代価を払って買い取られたキリストの「奴隷」であることに甘んじたのでした。なぜならこの世の主人に帰属する「奴隷」は、「不幸」そのものですが、キリストに帰属する「奴隷」は「光栄」であり、キリストと共に、神の聖き御心に従って生き、「キリストに倣い、キリストのように」神に栄光を帰す聖なる生涯を全うすることが出来るからです。そしてその自らの内には聖霊が宿り、自らは聖霊の盈満(えいまん)する神の「神殿」としての役割を果たすことが出来るようになるからです(Ⅰコリ6:19~20参照)。

 

そこでお互いも使徒パウロの生き様に倣って、「主と共に、主イエスに倣って」生き、かつ歩む者となるために、今ひとたび深く自分自身を反省吟味し、御言葉を学び直してみようではありませんか!