峯野龍弘のアガペーブログ

心にささやかれた愛の指針

第3章 両親からの抑圧と諸問題➀

                           G.サーバント

第3章 ウルトラ良い子の抑圧の最大要因

  1. 両親からの抑圧と諸問題

さて、以上のようにウルトラ良い子の身に起こる極度の抑圧の最大原因が何であり、何に基づくものであったのかを突き止めて来ましたが、次にお互いは、その抑圧の最大の付与者、つまり加害者が実にその子の両親自身であったという、極めてショッキングな問題について言及してみたいと思います。

 

このことについては、言わば本来聖域であるはずの幼稚園や学校という神聖な環境においてさえ、もはやそれは例外ではなく、まだ幼い無垢な子供たちから成長途上の児童たちまで、世俗的価値観に支配された幼児教育や学校教育制度の中で、日々洗脳・抑圧されていってしまうのです。

 

のみならず、しかも今やそれは家庭の中まで汚染が浸透し、もはやウルトラ良い子たちは何処へ行っても逃げ場のない状況に追い込められてしまっています。時には一般社会や幼稚園、学校以上に家庭の方が遥かに汚染が進み、世俗的価値観の枠組みの強烈な両親や祖父母、時には年上の兄弟姉妹、そして更には近隣に住む親類縁者などによって、より強力に抑圧を受けていたりする場合もあるのです。

 

しかし、こうした中にあっても何よりも圧倒的に多い典型的事例は、以下のような両親若しくはそのいずれかに淵源する抑圧です。

 

A.先ずは、そもそも父の役割と母の役割の欠如ということが底辺にあって、それが真の背後の原因となって、ある時から徐々にその子の抑圧を引き起こす結果となったというケースです。

 

この場合の父母の役割の欠如とは、一体どのような役割なのでしょうか。それは概ね以下のような幼少期、つまり人間性の形成・発育期に充分に与えてあげなければならなかった基本的重要事の欠如を意味します。

 

ⅰ.第一に、先ず誕生から3歳までの間に存分与えてあげなければならなかった「愛による十全な全面受容」の欠如です。

 

これはその子の発信する心の声に良く耳を傾け、その要求する真意をしっかりと解読し、それを満たしていく豊かな受容を意味します。こうすることにより、その子の心に豊かな充足と安息を齎し、徒に無駄な不安やいらだち、更にはストレスを起こさせないで済みます。

 

その結果、その子が心まろやかな子供として成長していくことに役立ちます。のみならず何よりも大切なことは、こうすることによってその子は、自分が両親からどんなに深く愛され尊ばれている存在であるかを体感していくことが出来ます。

 

この体感こそ極めて重要であって、それは言葉や説明に遥かに優って自己の尊厳と存在価値、生への喜びを、まさに体感をもって学習し、将来如何に他者や外界からの抑圧や挑戦を受けようとも、それらをみごとに跳ね除け、自ら消化していくことの出来る充分な資質、能力を培うことになり、堅固にして豊かな感性を育成することに確実に繋がるのです。

 

平たい言葉でこれを表現するならば、将来決して如何なる場面でも「パニック」を起こさない子供に育っていくのです。ですから、この「愛による十全な全面受容」が極めて重要なのです。しかも、この学習をするのに最適な時期が、生後満3歳ぐらいまでの時期なのです。

 

 

 

1父の役割と母の役割の欠如による抑圧の素地

(1) 満三歳頃までの愛による十全な全面受容の欠如

今ここで「満三歳頃」までにと記しましたが、勿論これは厳密な意味で期間限定したのでは決してありません。経験的、臨床的な様々なケースとデータを見て、総合的に判断すると、ほぼこの辺りの年齢が最も適切な目安となると言うことになるからです。

 

とは言え、当然のことながら子供たちの固有の性質や特性などによっては、ある子供にはこの時期より早めに、次のステップに進んでもよろしいし、その反対に、ある子供には更に十分に全面受容の体験とその喜びを味わわせてあげる必要があったりするわけです。

 

ここで更に二、三の注意事項を申し上げますと、

 

ⅰ、先ず第一は、油断して、甘く見積もって、三歳までは長過ぎると判断して、余りにも早めに「全面受容」を切り上げてしまわないで下さい。充分に、かつ徹底的に愛され受容されなかった子供は、心のどこかに生涯通じてと言ってもいいほど、その「受容されなかった」という「非受容の空白」経験から来る「甘えの潜在願望」が持ち越しされて、事あるごとに「受容されたい」、「受容してほしい」と心の内で叫ぶ者になってしまうのです。

 

しかし、それは今更両親にも、ましておや他人にみっとも無くて言えません。のみならず、そんなことを言おうものならたちどころに「甘えるな!」とか「もう幾つだと思っているのか!」等々、非難を浴びせられることは自明の理です。そこでいつしか鬱々、悶々とし始め、抑圧が増し、遂には異常心理、異常行動まで呈するようになって行ってしまうのです。

 

ですから、所定の期間は充分「全面受容」して頂きたいのです。これを決して侮ってはなりません。残念ながら今日非常に多くの方々が、この点において失敗しておられます。特に子供のしつけや教育に熱心なご家庭で、この失敗が続出しています。

 

ちなみに、ここでよく一般には、そんなにいつまでも「全面受容」していたら、何も自分では出来ない「甘える」人間になってしまうのではないかと質問されますが、不思議なことに全く心配はありません。むしろその逆です。

 

この満三歳頃まで充分徹底して全面受容された子供は、その心と体の内に、自らが如何に両親から愛され、尊ばれ、価値ある存在として受容されたかを、体感を伴って深く認識され、その心と霊魂と肉体は、「全人的に充足」するのです。それゆえ自ら「甘えから自立」に向かって歩み出すことが出来るのです。

 

しかしその逆に、この重要な時期に充分「全面受容」されなかった子供たちは、どこかで「非受容の空洞」を満たされたいと切願し、前述したように「甘えの潜在願望」に駆り立てられて、遂に「甘える人間」になってしまうのです。

 

ところがここで重要な理解は、彼らはいわゆる自分が甘えたくて甘えているのではなく、彼らの心の奥にあるゼロ歳から三歳頃までの両親からの、特に母親からの充分な受容を受けられなかったために心の内に出来上ってしまった「非受容の空白」が、「甘えの潜在願望」となって、今や叫び出しているのです。

 

そこでこの彼らの真相、現実をよく理解・認識するところから、彼らを愛をもって「再受容」し直して行く、彼らのための「癒やしと回復のミニストリー」が立ち上がるのです。

 

 

 

  1. 両親からの抑圧と諸問題

1、父の役割と母の役割の欠如による抑圧の素地

(2) 満三歳からの本質的善悪に対する識別力・分別の育成の欠如

さて、極めて大切な次の問題は、満3歳頃を目安として遅れずに取り組まなければならない、物事の善悪や是々非々を識別・分別して行く感性・資質の育成という重要事です。

 

これはこの時期にしっかりと養い育てておかなければならない決定的に重要な“能力”ではなく、むしろ“感性”であり、“資質”です。いわゆる“能力”は年齢と共に無限に成長可能な力量でありますから、わずか3歳程度では能力としては、所詮大きなものを期待することはできません。しかし、“感性”、“資質”はこの段階で決定的にといってもよいほど完備されます。

 

それゆえにこの時期に物事の善悪や是々非々を見極める感性、資質つまり“識別力”、“分別力”の基礎となるべき良き感覚を、しっかりと養い育てておく必要があるのです。この時期に養われた“感性”、“資質”は、生涯変わらず持ち越して行くことができます。ですから昔の人々は、「三つ子の魂、百までも」などという格言を生み出したのでした。

 

ではどのようにしたらこの時期を失せず、善悪や物事の是々非々を識別、分別する感性を培うことができるのでしょうか。そこで以下に両親が心得ておかなければならないその幾つかの重要なポイントを伝授しておくことにいたしましょう。

 

ⅰ.まず第一に最も重要なこととして心に留めて頂きたいことは、両親が揃って、是々非々を教えることです。

 

父親と母親が違った意見を持ち、相互に是々非々の判断が異なっていては、子供はいずれの意見、判断に従ってよいのか分からなくなってしまいます。そこで子供は戸惑いの内に、けな気にも自分にとって有利な、楽な方に従います。

 

その場合、子供は、概して母親の意見に従います。子供にとって母親は本能的に父親より重要な位置づけにあり、その母親から叱られたり、見捨てられたり、嫌われたりしないために、母親の意見に従います。何としてもその子供は、母親の胎内で10カ月間もへその緒の繋がった命を分かち合う間柄として、まさに“生命共同体、運命共同体”として共に生きて来たのですから、到底父親の比ではありません。

 

そこで子供はそれが真実であるのか否かの判別がつきませんので、母親の判断を自分の判断として取り込み、それを脳裏に刻み込み、また自己の感覚の中に収めることになるのです。困ったことには、もしそれが客観的に間違っていたとしても、子供はそれを“善”として自分の感覚の中に取り込んでしまうのです。

 

且つそれが正しかったとしても、父親に対する信頼と尊敬の感覚が滅失し始め、不信と軽蔑の感情と感覚を芽生えさせてしまいます。のみならず、その子供が両親をいずれも同じように慕っているとするならば、その両親の間での是々非々の違いは、子供に相反する二重の判断基準を差し出すことになり、子供は当惑するばかりで、何ら良き是々非々の感覚・資質を養い育てる結果に繋がらないばかりか、かえって害あって益なしという結果に終わってしまいます。

 

ですから、この是々非々の感覚・資質をしっかりと養い育てる3歳期には、是非とも夫婦そろって同じ価値基準で、心を合わせて、愛の内に子供に善悪の識別感覚と資質、そして是々非々を見極める良き感性を育成してほしいものです。

 

 

そこでこの場合極めて重要なことは、かく物事の「是々非々」を識別・分別する良き資質や感性を養い育てるということは、いわゆる「何から何まで事細かに教え示したり、口やかましくしつけたりすることによって養い育てることだ」と勘違いしないことです。

 

識別力や分別眼は、その物事の本質をよく理解していることから生まれて来る善悪に対する瞬時の判別力であり、それは単に物事の表面上の外面的様式の違い性を識別することとは本質的に異なっています。それは物事それ自体の識別ではなく、その物事の背後や奥にある意味や価値を正しく理解した上で、その是々非々を判断していく直観的資質や感性を養い育てることなのです。

 

それ故両親は、小さな子供たちに優しく分かり易い言葉で、且つ楽しく、その一つ一つの事物の意味と意義、そしてそのものが果たしている、且つ担っている尊い役割や働きなどを、ゆっくり時間を懸けて丁寧に話してあげなければなりません。こうしたことの積み重ねが、その子供の心の内に物事の背後にある本質や価値、つまり物事の善悪や是々非々を、自ら正しく見抜く良き資質や感性を育成し、遂に正しい識別力や分別ある人間と成らせるのです。

 

このようにして育てられた子供は、やがて大人になって社会に出た時に、常に物事の本質を見抜き、善悪を本質的に識別しながら、物事を的確に処理していくことの出来る、いわゆる「メリハリのある人間」となります。

 

ところが、今日多くの両親たちが、世俗的価値観の支配する現代社会の只中にあって、子供に勉強させることで明け暮れし、社会全般もただ知識や技術、知的情報や物事の速効的処理能力の卓越した者を優遇する風潮の中で、両親たちは社会に媚びるかのごとく、英才教育的志向の子育てにのめり込んでしまっています。

 

何とまだ子供が生まれてきていない母親の胎内に居る頃から、英才教育への胎教が始まり、生れてくるなり今度は待ち構えていたかの如く、英才教育プログラムに従っての育児教育が始まるのです。そして三才位までには、もうかなりの知的学習が進み、両親や他者から質問情報を投げかけられると、見事な解答が戻ってくるのです。その都度、質問者からの拍手喝采を浴びて成長していくのです。

 

しかし、極めて残念なことに、両親は忙しく、ゆっくりと子供と共に時を過ごし、優しく楽しく且つ分かり易く、その知識や情報の背後にある深い意味や、その尊い意義や役割、働きや価値などについて教え、分かち合うゆとりがないのです。その結果、やがて小学校、中学校、更には高等学校、大学に進む過程で、知的能力は高く、知的情報処理ゲームにおいては卓越した点がありながら、日常生活においては自己管理が適正に出来ず、対人関係や社会的適応面においてはまろやかな対応が出来ず、やがて遂には心病み、引きこもりや発作的切れ症状、そして精神的うつ症状、摂食障害、自虐(自傷)的若しくは他虐(暴力)的行為などの異常心理、異常行動を引き起こすようになるのです。

 

のみならず、この頃ともなると急速に知的能力も減退し、学習意欲も生活行動意欲もすっかり喪失してしまうのです。そして憐れなことに、彼らは生きる喜びも人生の意義も目的も皆目見失い、生を厭い、死を欲するようになり、すべてが呪わしく見えてくるのです。ですから、物事の是々非々が分からなくなり、一切のものが無意味、無価値に思え、遂には自己破壊が進み、それが他者破壊となり、非行や犯罪の泥沼に落ち込んでいくことすら起こるのです。

 

果たして、これらの原因はどこにあったのでしょうか。何とそれは3歳までの間の両親からの愛の全面受容の欠如と、3歳頃からの本質的善悪の識別力や分別の資質の育成、そして是々非々のメリハリある感性の育成に、両親が前述したような子育を怠ったばっかりに、すっかり失敗してしまっていたからです。(続く)