第9章 「ウルトラ良い子」の癒しのための愛の共同体としてのアガペー・ファミリー
G.サーバント
さて、最後に「ウルトラ良い子」の癒しのために極めて重要な役割を果たしてきた共同体があります。それは「ウルトラ良い子」の癒しのために日夜労苦する「愛の学習塾」に身を置く人々、すなわちそれは主に母親たちですが、この彼女たちが「愛の学習塾」やそこでのセミナーを越えて、日々の日常生活の只中に在って常に連携し、連絡を取り合い、交流し、そこで生まれた強い愛によって結ばれた「愛の共同体」であって、これを小僕は「アガペー・ファミリー」と呼んでいます。この「アガペー・ファミリー」の存在は、今や肉親の家族に優る強い愛の絆で結ばれている共同体で、彼女たちは同じ苦悩体験を共通の基盤としてその上に築かれ結ばれた心と人生の同伴者たちでもあって、まさにこの点に関しては“家族以上の家族”であり、実によく心を通わせ、また共に苦悩を分かち合う、それゆえその結果として子供の癒しの大きな喜びをも共に分かち合うことのできる最良の仲間たちなのです。
そこで以下においてこの「アガペー・ファミリー」の素晴らしい存在意義について簡潔に述べておきましょう。
1、孤独感・孤立感から解放してくれる「愛のスクラム」
心傷つき病んでしまった「ウルトラ良い子」を持つ母親たちは、誰しもが強い孤独感・孤立感にさいなまれることがあります。他者と交わることもままならず、時には病める子供が、片時も離れず側で付き添うように要求するため、母親たちはあたかも助けを求める如何なる人々からも引き離され、幽閉された者のように孤立させられてしまうのです。のみならず仮に他者に相談してみても深い同情をかうことは出来たとしても、所詮一向に解決にはつながらないことがほとんどで、結局はまたしても孤立する以外にないのです。その時の悲しさ寂しさ、孤独感は以前にも増さるものがあります。
しかし、このような母親たちにとって「アガペー・ファミリー」は決してそうではありません。このような日々厳しい境遇にあるお互い同士がAFCCを通じて固く結ばれ、結束し、しっかりと「愛のスクラム」を組んで共闘する時、たとえ互いに空間的には離れていても、その空間を超越して互いに祈り合い支え合う時、「決して自分はひとりぼっちではない、自分には強い味方、いつも共に歩むファミリーがいる」と言う思いを強く抱くことが出来るのです。ましておや、今やITの時代を迎えて携帯電話やメール、ラインその他の豊富なSNSを用いて、しかも映像入りで交信することが出来るので、以前にはるかに優って心強いわけです。ですからこのように「愛のスクラム」を組むことによって「アガペー・ファミリー」の存在は、見事に孤独感や孤立感からお互いを解放し、生き抜く力を与えてくれるわけです。
2、体験の共有と癒しの進捗状況を知る「愛のバロメーター」
次に「アガペー・ファミリー」は、お互いの辿ってきた過去の体験をはじめとする日々の体験、極論するならば時々刻々の経験を互いに分かち合うことのできる共同体です。ですから他者が体験した過去の体験や今の体験は、自分が今体験している事柄がどのような意味を持っているのかを知ることの出来るバロメーターになり、その逆に自分が経験したことはまだその経験をしたことのない人々のために、これまた良きバロメーターともなるわけです。ここではこうした体験を相互に分かち合うことにより、子供の癒しのための指針を見いだすことが出来ると共に、その癒しの進捗状況をつかむことが出来ます。つまり自分が今経験している状況が、果たしてどのような状態であるのか皆目わからず不安を覚えているようなときに、「アガペー・ファミリー」の先輩に相談するなら、直ちにその先輩が以前全く同じような状況にあったことがあり、その時どのように対処しその状態を克服したかを話してくれることにより、我が子の癒しのための具体的な指針をつかみ取ることが出来ます。のみならずその癒しの進捗状況も確認することが出来ます。これはただ一人でいたずらに悩んでいた母親にとって、どんなにか慰めとなり、励ましとなることでしょう。ですから「アガペー・ファミリー」の存在は癒しの状況やその進捗状態を確認するための「愛のバロメーター」の役割をも果たしてくれていると共に、大きな慰めと励ましの存在でもあるのです。何とありがたい存在でしょうか!
3、先を読む
心傷つき病んでいる「ウルトラ良い子」のケアーに当たる両親やワーカーにとって、「アガペー・ファミリー」の存在は、何とありがたい存在でしょう。その最たる幸いの一つは、何と言っても“先を読む”ことが出来ることではないでしょうか。とかくケアーに当たるお互いがまだ未経験であり、かつ、また、たった一人で孤軍奮闘している場合には、今まさに直面している問題を如何に解決して行ったら良いのか、またその先はどうなってしまうのか皆目先を読むことが出来ず、それゆえなお一層不安が増し、苦悩が深まってしまいます。しかし、同じ問題と悩みを抱え、既にそれを越えて解決してきた先輩たちや仲間が多数いる「アガペー・ファミリー」においては、互いのそれらの経験を親しく分かち合うことによって、「先を読む」ことが出来ます。今こう対処したら次にはこのような道を講ずれば良いとか、もしもその道が不発に終わっても、その場合はこう対処すれば乗り切ることが出来るとか、その行く先が見え易くなり、心にいたずらに不安や迷いを持つことがなく、心安らかにケアーに当たることが出来ます。行く先が読めるか読めないかでは、同じ問題や悩みに遭遇していても、俄然(がぜん)そのための解決への速度が違ってきます。前者では早く、後者では当然遅くなります。のみならずその間に費やすエネルギーは、前者では軽微で、後者では甚大です、そしてその間に受けるストレスも前者は少なく、後者は大なるものがあります。ですから「先を読めるか、読めないか」は、ケアーするにあたって極めて重要な事柄なのです。ですから愛の共同体である「アガペー・ファミリー」の存在とその交わりの輪の中に身を置くことが、如何に幸いであるかが、よくよくお分かりいただけると思います。
4、とりなしの祈りと支え合い
~共に泣き、共に笑う「アガペー・ファミリー」の恵み~
そして更に幸いなことは、互いに“とりなし合い”、“支え合う”ことが出来ると言うことです。とくにクリスチャンである場合には、互いに相手のために“祈り合う”ことが出来ます。これを「とりなしの祈り」と言います。これは大きな慰めとなり、励ましとなり、助けとなります。そして心に不思議な大きな安息をもたらしてくれます。しかし、クリスチャンでない方々でも、今ファミリーの内の誰かが大きな困難や苦しみに直面していることを知ったとするなら、思わずその相手のために見えざる大いなる存在である神に向かって慰めや癒し、折に適った助けがあるように、心から念ずるものがあるのではないでしょうか。このような相手を思いやる温かい思い、熱い心は必ず相手に通じ、また天にも通じるものです。こうした関係を、“とりなしの祈り”の関係と呼んでいます。「アガペー・ファミリー」の中に身を置くことによって、お互いはこの「とりなしの祈り」によって互いに強く「支え合う」ことが出来るのです。もしお互いの力や知恵に限界を感じることがあってもこの「とりなし合い、支え合う」ことによって不思議と守られ、その限界と思えたことでさえ乗り越えることができるのです。人生にはこのような素晴らしい出来事がどれほど多くあることでしょう。これこそ個々人の持つ個人的な力や知恵を遥かに超えた“関係の生み出す不思議な力”、「ファミリーの威力」とでも言ったなら良いのでしょう。そこでこうすることによってケアーにあたるお互いが、“喜びも悲しみも”、そして人生の如何なる難局も、すべて共に分かち合うことの出来るこうした仲間、まさに“愛のファミリー”の存在のゆえに、“共に泣き、共に笑う癒しへの旅路”を、その途上での一切の困難・苦悩・悲しみ・痛みをも越えて、遂にゴールまで歩み続けることが出来るのです。これを“共に泣き、共に笑う「アガペー・ファミリー」の恵み”と呼びたいと思います。
(続く)