峯野龍弘のアガペーブログ

心にささやかれた愛の指針

愛の文化を生み出す教会の宣教とキリスト者(2)

前回の続きです。

―美しい人間関係の新創造とキリスト者の使命―   

                G.サーバント(峯野龍弘)

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Ⅲ、21世紀という終末的時代における教会とキリスト者の宣教の使命

 さて、私たちは今や21世紀という終末的様相の色濃い恐るべき時代を迎えています。時代はますます悪化・俗化の度合いを増しています。主は弟子たちの質問に応えて、終末時代の最も顕著な兆候の一つについてこう指摘されました。それは「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える」(マタイ24:12)でした。つまり愛を基とした美しい人間性や美しい人間関係、そして美しい共同体としての社会が崩壊して行くとの指摘でした。何故そうなるのでしょうか。その理由は、明白です。

  • 「欲の文化」つまり欲望充足型の文化が、はびこるからです。
  • 「エゴの文化」つまり我執や自己中心の文化が、主流となるからです。
  • 能力主義の文化」つまり相互に優劣を競い合う競争文化が支配的になるからです。
  • 「富の文化」つまり物質的、経済的豊かさをもって人間の幸福を推し量る価値観が独り歩きするからです。
  • 「裁きの文化」つまり相対的、世俗的価値観により相互に相手を批判、非難し、抑圧し合うことが日常茶飯事となるからです。

 そこには多様性や個性、個々の人間の尊厳や真価などが否定され、最大公約数的な世俗の価値観に従って良かれとされたある種の枠組みだけが絶対化され、それに従って相互に裁き合う文化が大道をまかり通るのです。最も重要な愛は失われ、愛による相互受容や赦し、更には献身的な他者奉仕、他者のために喜んで担う自己犠牲と言う極めて尊い生き方は卑しめられ、美しい聖い精神や生き様は失われて行くのです。今日の日本はまさにその破局を迎えつつあります。


 そこで今こそかかる日本社会の中に置かれている私たち教会とキリスト者の使命と責任は甚大です。このような終末的現代社会の中に誰が美しく聖い真実な「愛の文化」の花を咲かせ、この殺伐とした慰めも安息もない、裁き競い合う現代砂漠に、喜びと幸せを齎すことができるのでしょうか。それこそ主イエス・キリストの十字架のアガペー(愛)とその恵みに与った教会とキリスト者でなくてどういたしましょう。


 ところがそれにもかかわらず、もしお互いがその尊い使命と責任を果たさないなら、お互い教会とキリスト者はまさに「塩気を失った塩」(マタイ5:13)、「枡の下に置かれた燭台」(同15)のごとき存在であって、何をもってこの世に愛の塩味を取り戻し、この世に愛の光を輝かすことができましょうか。使徒パウロが言ったようにまさしく

  • もし「愛がなければ」異言やしるしの賜物も所詮、「騒がしいどら、やかましいシンバル」(コリⅠ13:1)に過ぎず、
  • またもし「愛がなければ」山を移すほどの福音主義信仰も神学も、「無に等しい」(同2)ものとなり、
  • そして更にもし「愛がなければ」全財産を貧しい人々に施し、命懸けで社会改革を叫んでみても、それは「何の益もない」(同3)のです。


使徒パウロは、ですから尊いのは「愛によって働く信仰だけ」(ガラ5:6口語訳)であり、「愛の実践を伴う信仰こそ」(同新共同訳)大切であると断言しました。


 実に終末の世界が真に必要としているのは「愛の文化」、しかもそれは十字架のキリストのアガペーの愛から流れ出てくる実践的かつ贖罪的「愛の文化」以外ではないのです。そこには

  • 「赦し」と「とりなし」、
  • 「愛の自己犠牲」と「献身」
  • 「癒し」と「回復」
  • 「和解」と「共生」
  • そして「美しい人間性」と「人間関係」更には「愛の共同体」としての新世界の形成

などがまさに生み出されて行くからです。そしてその時、世の人々は現代社会を終末化させてきた我執や自己中心主義、裁きや競争心、更にはそれらを煽りたててきた世俗的価値観から解放され、「愛による共生の文化」を開花させることができるのです。そしてそこに多様性と固有性が融合し合う豊かな調和の文化が実を結ぶことでしょう。

 
 とりわけ、かくして遂に「主の祈り」にあるような神の御心にかなう美しい社会が誕生し、個々人の内には愛に満ち溢れた美しい人間性が修復され、また美しい人間関係も再構築され、そこに美しいキリストにある交わりと共同体が形成され始め、更には使徒言行録2章おいて実現されたような、聖霊に満たされたキリストの愛による共存・共生・共有し合う聖くて美しい、しかも唯一の世界大、いや宇宙大のスケールの大きな愛の文化圏、つまり「新世界」が実現するのです。(使徒2:42~47)

 

 これこそが21世紀の苦悩する愛なき現代社会が切願している新世界です。そしてまたこれこそが愛を喪失し、美しい人間関係も崩壊し、愛の破局を迎え生き地獄化して行く終末的現代社会に対して、お互い教会とキリスト者を派遣なし給うた主の大いなる御心なのです。それゆえお互いはこの大いなる御心と御國の成就するために、今ここに「キリストにあってひとつ」されて立ち上がり、愛に満たされた美しい人間性回復と美しい人間関係再生のために、更には美しい愛の共同体としての社会形成のために、共に献身しようではありませんか。そして主イエスの証し人としてこの年の教会標語のように、「社会に祝福を齎す愛の共同体」となって、共に祈り、霊と心と体を合わせて、21世紀の終末的現代社会に遣わされて行こうではありませんか!そこで今、心と声を合わせこう祈ろうではありませんか!

 

「天にましますわれらの父よ、聖名を崇めさせ給え。

 御國を来らせ給え。御心の天になる如く、地にも成らせ給え!アーメン」と。

 

            

愛の文化を生み出す教会の宣教とキリスト者(1)

―美しい人間関係の新創造とキリスト者の使命―   

                G.サーバント(峯野龍弘)

 

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Ⅰ、苦悩する21世紀の社会に対する教会とキリスト者の使命

 それはこの醜いまでに人間関係が崩壊しつつある21世紀社会に向かって、キリストの愛の奥義を明白に宣証することによって、そこに真に美しい人間関係と社会を回復して行くこと、いや新創造して行くことに他なりません。それは人間関係が限りなく崩壊してゆく終末的様相の色濃い現代社会のただ中にあって、心傷つき病み苦悩しているすべての人々と社会に対して、キリストの愛に基づく新しい文化・新しい社会を新創造して行くことでもあります。これは強烈な表現を許して頂くならば、キリストの愛による一大社会変革を齎すまさに「愛による一大文化革命」を目指すものです。ここにこそ究極の教会とキリスト者の使命と責任があると確信するものです。

 ちなみに、教会とキリスト者の果たすべき真の宣教の究極的目的は、決してキリスト教という宗教の繁栄や、単に信徒数の増大を意図するものではなく、また、ただ世の人々とは決定的に異なった聖書的・福音的集団を生み出すと言うことでもありません。それらはあくまでも当然そうあるべき教会とキリスト者の経過点であり、中間目標に過ぎません。その真の宣教の目的は、この恐ろしいほどに愛の冷え切った終末的現代社会、そして世界に向かって主イエスが命じている通りに、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝える」(マルコ16:15)ことによって、「地の果てに至るまで」(使徒1:8)、いわゆる「全地」「全人類」が、遂にキリストの愛の内にあって皆ひとつに帰一し、そこに愛と平和と義の実に満ち溢れた一大「愛の共同体」としての「地球大の愛の新世界」を実現することにあります。ここにこそ主の宣教派遣命令の究極的目的があるのです。それはまさしく使徒パウロが、かの日エフェソ信徒への手紙において展開した彼の教会論とキリスト者論において目指したもの、つまり愛の一大共同体としてのキリストにある新世界の実現に他なりません。(エフェソ1:10,2:13~22、4:1~17等参照)

 またそれと同時に何よりもお互いは、ここで今一つの重要な真理に気付かなければなりません。それは「主の祈り」の基盤となっている前半部の祈りの真意についてです。つまり、

「天にましますわれらの父よ、聖名を崇めさせたまえ。
  御国を来らせたまえ。御心の天になる如く、地にもならせたまえ。」

と言う祈りには、まさに神の愛に満ち溢れた天上の神の御国が、天におけると同様にこの地上にも到来し、この地上の万民がキリストの全き愛の御心の支配の下に服し、全くひとつとされ、遂にそこに究極の美しい愛の共同体としての「神の国」を実現するよう祈り求めよとの、主ご自身の深い御心が込められているからです。それゆえ教会とキリスト者の究極的使命とその使命達成のための宣教は、まぎれもなくこの「主の祈り」の成就を目指すものでなければなりません。

 そこでお互いはこの「主の祈り」の成就のために、如何なる教理や神学的立場、また教会の伝統や歴史的違い性を超えて、「キリストにあってひとつ」にされ、共に宣教し、共に祈り、働くものとならなければなりされません。ちなみに、この使命と目的達成のために労することのできる有資格者は、まさにキリストの尊い血潮の贖いにあずかって御國の民とされた者たちの共同体であるお互いの教会と個々のキリスト者以外の何者でもないのです。

 

Ⅱ、キリストにある愛の文化の発信

 さて、そこでお互いが主より要請されているこの尊い究極の使命・目的の達成のためには、如何なるアプローチ・手立てが具体的に必要なのでしょうか。それは「愛の文化」の発信を通してです。そのためには教会は常に「愛の文化の殿堂」とならなければなりません。そしてお互い個々のキリスト者たちは常にキリストの「愛の文化の担い手」となるべきなのです。

 ここで言う「愛の文化」とは、「キリストの愛を基としてその上に築かれて行く、美しい人間性と人間関係、そして更に愛の共同体を生み出して行くために必要な、日常生活の中に生きて働く心と生活上の祝福に満ちた諸要素」を言うのです。

 このキリストにある「愛の文化」には概ね以下のような素晴らしい「改変力」があります。

  • 慰めと安息を与える(平安)
  • 癒し新しい生きる力を与える(治癒)
  • 聖く生きる力を与える(聖化)

a, あらゆる試練・困難を克服する力(忍耐)

b, 無から有を生み出す力(創造)

c, 犠牲を甘受し他者に仕える力(献身)

  • 愛と受容の力を与えられる(隣人愛)
  • かくして神には栄光、人には祝福を齎すことができる。(神の栄光)

 そこでお互い教会とキリスト者は、この心病み傷ついている人々の多い現代社会の中にあって、かかる豊かな改変力のあるキリストの「愛の文化」を強力に発信・提供し続けなければならないのです。今日の日常生活のあらゆる現場で人々が必要としている最も重要事な一事は「愛の文化」に出会うことです。   

今日のすべての家庭に先ず「愛の文化」を!そして学校教育の現場にも「愛の文化」を!また職場の中にも、地域社会にも、更には政界や経済界にも、そして医学界にも、のみならず福祉・芸術等すべての分野に「愛の文化」を必要としています。

 その時、人々は大きな慰めと安息、癒しと新しい生きる力を受け、そこに愛に満たされた美しい人間性と人間関係を修復し、更には美しい愛による共同体としての共生社会を実現して行くことができるからです。

 

次回へ続く

 

 

 

 

 

 

 

甦(よみがえ)った愛

アメリカ同時多発テロ9・11を目前にし、世界平和を求めて祈りをささげるいる時、ふと3・11東日本大震災の東京での体験が鮮明によみがえってきた。

平和を願いつつ・・・峯野龍弘(G.サーバント)の詞。 

 

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大都会東京には人が溢れ、

日々目まぐるしく

往来(おうらい)している。

人、人、人、どこに行っても人。

 

 

しかし、これほどまでに人々が

ひしめき合っていると言うのに、

人々の心には、

孤独感(こどくかん)が漂(ただよ)う。

 

 

のみならず、そこでの人間関係は

極めて希薄(きはく)で、

かつ殺伐(さつばつ)としている。

それは真の人間関係とは程遠く、

利害関係で繋(つな)がれた

因縁(いんねん)ばかり。

 

 

解消したくても解消できず、

ただストレスのみ、溜(た)まるばかり。

 

 

大都会の中の孤独、大衆の中での孤立。

何とこれほど人がいるのに

心は繋(つな)がらず、

されど逃げ出したくてもそれも出来ない。

 

 

果たして心温まる交わりはいずこにある?

 

 

今日、隣家(りんか)で人が死んでも誰も知らない。

おお、真の愛の交わりは何処にあるのか?

 

 

しかし、突如(とつじょ)、

大東京を地震が襲い、

交通網が遮断(しゃだん)され、

帰宅の足が奪われた。

主要道路では、

礼儀正しく家路(いえじ)を辿(たど)る

長蛇(ちょうだ)の人列が何処までも続いていた。

彼らは皆、既に数時間も歩き続けていた。

夜も更け、寒さは増し、トイレもない。

 

 

ところが、おお何と親切なことよ!

これを見ていた沿道の家人たちが、

次々と彼らを自分の家に招き入れ、

「寒いでしょう、休んで下さい!」

「温かいスープがありますよ!」

「トイレもどうぞ、遠慮なく!」

と見知らぬ人たちに声をかける・・・。

 

 

いつしか沿道の家々が皆これに倣い

愛の輪がこの沿道の町に広がった。

 

 

強い余震は続き、家路はなお遠く、

孤独で心細いはずの彼らなのに、

そこには不安も悲しみもなく、

ただ感謝と喜びが心に溢れた。

 

 

突如襲た大地震の恐怖も衝撃も、

今や彼らの心を脅かすことなく、

何とそこに愛の美しい花を咲かせ、

豊かな温かい交わりを齎(もたら)してくれた。

 

 

大都会の中の孤独よ、さらば!

ここにもなお愛が息づいている・・・。

 

                                             G・サーバント(峯野龍弘)

 

 

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※ 

 

人の必要に共感し、

他者のためにお仕えする愛・・・

 

まさにアガペーである。

 

 

アガペーとは、

相手のために、

しかも自らに敵対し、

不利益を与える者のためにさえ、

あえて、

自己犠牲を甘受し、

その相手の祝福のために

ささげ、

仕えていく

何一つ見返りを期待しない

心と生活ですある。

 

 

一人ひとりがアガペーの道を歩むとき、

平和が訪れることでしょう。

 

お一人お一人の心の中に平和があるように!

天からの豊かな愛で満ち満たされ、

その愛が溢れ流れて行きますように!

                

                        

 

ちなみに、次の日地曜日、9月11日16時~18時に

東日本大震災&熊本地震復興支援超教派一致祈祷会」

を淀橋教会を会場にもたれます。

2011年3月11日より、毎月11日を覚えて、

毎月もたれているお祈り会です。

毎回、現地レポートの時間が30分もたれ、

具体的な祈りの課題を分かち合って頂き

共に祈ります。

どなた様も、ご参加できますので、

是非どうぞ!

今回は、岩手県からの現地レポートです。

 

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戦火の中の変わらない母の愛

終戦記念日を迎えた今日、いつも以上に「個々人の心の平安の祈り」「世界平和の祈り」「家庭の平和の祈り」が湧き上がってきました。


今もなお、世界中で多くの方が、テロ、内戦、紛争、飢餓、災害、不和・・・に苦しんでおられます。平安がありますように!平和がありますように!

 

昨日は、聖フランシス作と言われている「平和の祈り」を聖歌隊の皆さんと会衆の皆様と一緒に讃美することができました。本当に、自己中心ではなく、真心からお互いを愛し合い、いたわり合い、分かち合い、許し合い、受け入れ合うならば、一人ひとりが平安な心を保つことができ、平和な家族、社会、世界をつくって行けると思います。身近な所から愛の実践をさせて頂きましょう。真っ暗闇に神様の光を運ぶ器とさせて頂きましょう。


さて、小僕(しょうぼく)が、ソマリアの内戦の時に、体験した出来事を詩に書いてみました。悲惨な戦火の中で見た実話です。

  

戦争や争いなどに、巻き込まれてしまったとき

反応の仕方は様々。

地獄のような現実の中で垣間見た母と子の絆のストーリーです。

 

 

ソマリアで天国を見た」

           G.サーバント(峯野龍弘)の詩

1990年代、
ソマリアでは、内戦(ないせん)が激化(げきか)し、
かつ、干(かん)ばつも襲(おそっ)てきた。



共に長引く二つの禍(わざわい)に遭遇(そうぐう)した
善良な民たちは、
難民となって荒野を彷徨(さまよ)い、
飢えと病に苦しんだ。



ただでさえ貧しい
ソマリアのどの町も村も、
激(はげ)しい砲弾(ほうだん)と銃弾(じゅだん)の
飛(と)び交(か)う戦火(せんか)によって崩壊(ほうかい)した。



民は住む家もなく、
何よりも食物(しょくもつ)がなく彷徨(さまよ)った。



ある者は、廃墟(はいきょ)に身を潜(ひそ)め、
ある者は、原野(げんや)に逃(のが)れた。



しかし、自国は
既(すで)に崩壊(ほうかい)し、
国連の支援は届かず、
無数の難民たちは、日に日にやせ衰(おとろ)え、
苦悩(くのう)は 増(ま)していった。



にもかかわらず内戦(ないせん)は続き、
干(かん)ばつは、激化した。



砲弾(ほうだん)、銃弾(じゅうだん)による
戦死者(せんししゃ)よりも
餓死者(がししゃ)の数が上回った。



国連軍が、難民のために
空から投下した物資も、哀(あわ)れ、
即座に、反乱軍に強奪(ごうざつ)され、
民衆の口には届かず、
陸路で運ばれた救援物資も、
しばしば彼らに襲(おそ)われ、
次々と、餓死(がし)して行く
難民の許(もと)には、届かなかった。



広域に点在する
無数の難民たちへの支援は、
どうすれば彼らに届くのか?



ああ、過激派反乱軍の
巧妙(こうみょう)な攻撃に阻(はば)まれ、
国連軍の侵攻(しんこう)、鎮圧は
一向(いっこう)にはかどらず
苦戦が続いた。



国連軍が、やっとバイドアに上陸したのは、
だいぶ後(あと)になってからのことだった。



丁度この時、小僕(しょうぼく)は、
激戦地(げきせんち)モガディシオにいた。



この時、すでに難民の数は、
100万人を超えていた。



この惨状(さんじょう)を
NGO本部より聞かせれた
小僕(しょうぼく)たちは、
いち早く現地に急行し、
その窮状(きゅうじょう)を祖国に知らせた。



ちなみにそこに入るのは
極(きわ)めて至難(しなん)の業(わざ)だった。



戦時下のソマリアは危険に満ち、
入国不能だった。



既に空港は爆破(ばくは)され、
陸路はゲリラが出没し、
当然のことながら
民間人は、
渡航(とこう)を禁じられていた。



しかしわずか報道陣と
NGOには入国が許された。



祈りはかなえられ、
ケニアのナイロビから
小型セスナ機をチャーターし、
反乱軍に
襲(おそ)われるかもしれない
危険を冒(おか)して飛び立った。



現地にはNGOの事務所があり、
そこと無線交信をしつつ、
地上の安全を確認して
所定の原野に強硬(きょうこう)着陸を試みた。



事前打ち合わせを済ませておいた
味方の武装車に迎えられ、
ただちに帰還(きかん)するセスナ機に別れを告げ
無事目的地に着いた。



初めて視察した瓦礫の中の難民居住地は
悲惨(ひさん)であった。



折からの日照りの中で、
天蓋(てんがい)を広げ、身を寄せ合う難民たち。
痩(や)せ衰(おとろ)え、
骨と皮ばかりになった哀れな老若男女。



まさに餓死寸前の状態で、
あてどもなく死を待つ人々。



母親の薄っぺらで
皺(しわ)だらけになった
乳房を銜(くわ)える乳児。



いくら吸えども
母乳は涸(か)れ果て、
出ることのない乳房でも、
母親の心に湧き上がる愛が溢れてわが子を満たす。
かくして母の胸に抱かれながら幼い命は天に帰った。



小僕(しょうぼく)は、
この生き地獄のような
当時の悲惨なソマリアで、
同時に、
美しく、聖く、尊い人間の世界を見た。

 

この極限的(きょくげんてき)な 
死を待つ母子の間には、
恐怖も飢(う)えもなく、
ただ神々(こうごう)しいばかりの
愛の聖域、天国(てんごく)が見えた!

 

母の愛は強し!
母の愛は深し!

 

 

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人間は素晴らしい!(サマー・ホーリー・フェスタの感謝と共に)

サマー・ホーリー・フェスタ2016、素晴らしかったですね!天候にも恵まれ、本当に感謝でした!

 

来て下さった皆様、置かれた場所でお祈り下さった皆様、共に労苦して下さった皆様・・・心より感謝申し上げます。後日、ビデオで様子をアップされると思いますが、まずは写真でご報告。

  

 

初日8月5日の「MANNA&IRIE AMIGO」は、ラテン音楽や、お馴染みの曲のアレンジで会場をアッと良い意味で驚かせて下さいました。自然に踊りだす人たちもチラホラ。

 

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2日目の「イーワイーエス(EYS)」の3兄弟は、聖霊のあつい火を受けているのに、非常にさわやかで、笑顔も素敵でしたね!ファンの子たちから、お手紙を沢山もらっている様子に驚きました。

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3日目の「ジョネッタ・ブッシュ&ウィンストン・ネルソン&クワイア―」の皆様の熱気に良い意味で圧倒された人たちも多かったようです。会衆が一同となって「Jesus!」「Jesus!」「Jesus!」の大合唱はすごかったですね。

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それにしても、準備や片づけ、隠れた尊い奉仕をしてくだったお一人お一人にも主の豊かな祝福がありますように!

 

全ての人が大切。一人がかけても今回のライブはできなったと思います。

 

感謝!

 

 

 

さて、14日(日)は、「平和聖日」です。

「真の平和」について考え、祈りましょう。

 

そんなことを、思いつつ・・・詩を書いてみました。

 

 

<人間は素晴らしい!>

            峯野龍弘(G.サーバント)の詩      

人間は、すばらしい!

 乳飲(ちの)み子を見つめていると、

 深い感動が胸に込み上げてくる。

 無心に母の乳房を吸う乳飲み子に、

 早や何一つ遜色(そんしょく)なき人間性が宿(やど)っている。

 しかもその純粋さは、大人に優(まさ)る。

  

 

人間は素晴らしい。

世の人はハンディキャップという。

果たしてどこがハンディキャップなのか。

 懸命(けんめい)に、全力投球(ぜんりょくとうきゅう)で、生死(せいし)さえかけて、

 真剣に生き抜いている彼らの内にこそ、

 真に美しい人間らしさを見る。

 

 

 

人間は素晴らしい。

年老いて、今や認知症の人と呼ばれるが

しかしその人には長い人生の旅路(たびじ)があった。

人生の旅路は、決して容易(ようい)には辿(たど)れない。

その人は早や、人生のゴール間近だ。

そうだ、畏敬(いけい)の念(ねん)をもってエールを送ろう!

 

 

 

人間は素晴らしい!

天地万物(てんちばんぶつ)を創造(そうぞう)された創造主なる神は、

人間を神の似姿(にすがた)につくられた。

創世記1章27節(口語訳)「神は自分のかたちに人を創造された」

 

 

 

人間は素晴らしい。

人は誰でも神の御旨(みむね)に従って命を得、

すべて神のご目的に従って、生かされている。

誰一人神から愛されていない人間はない。

人は皆、主の御目(おんめ)に尊(とうと)く、重んぜられている。

だから人間は素晴らしい。決して卑(いや)しむべからず。

 

  

本来、素晴らしくつくられた人間が、

なぜ、人を傷つける者に変貌(へんぼう)してしまうのか。

互いに自己中心を捨て、互いを尊重(そんちょう)し合おう。

その決心をし、実践(じっせん)する時、

平和をつくるものへと変えられる。

 

 

 

家庭の平和、社会の平和、世界平和は、

一人ひとりの心から始まる・・・

  

              G.サーバント

 

 

 

サマー・ホーリ・フェスタまもなく開幕!入場無料ゴスペルライブ!

今週の金曜日からは、いよいよ待望のサマー・ホーリー・フェスタが開幕です。すでにご家族・ご友人をお誘いのことと思いますが、皆様で楽しみにお出かけください。特に3日間の天候が守られますように、何よりも音楽ゲスト・バイブルトークをはじめとする多くのスタッフ達が、それぞれ恵みの内に充分に良きご奉仕が出来ますよう、格別お祈りください。毎年、素晴らしい感動のドラマが繰り広げられています。今回も楽しみです!




【2016 サマー・ホーリー・フェスタ】

~永遠に変わらないもの・・・揺るぎない安らぎをあなたに~

 

ホーリー・フェスタ1>

8/5(金)19:00-20:30  野外特設ステージ
バイブル・トーク:「永遠に変わらない言葉」峯野龍弘主管牧師
スペシャルゲスト:MANNA&IRIE AMIGOS

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ウェルカム&ドキュメンタリー:淀橋教会壮年チーム

ラテン音楽に心も踊りだされることでしょう。


ホーリー・フェスタ2>

8/6(土)16:00-18:00     野外特設ステージ
バイブルトーク:「永遠に変わらない愛」峯野龍弘主管牧師
スペシャルゲスト:EYS (イーワイエス

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ウェルカム&ドキュメンタリー:淀橋教会青年チーム

さわやかな笑顔、JOYをお届けします。



ホーリー・サンデー・サービス>

8/7(日)10:30-12:00  インマヌエル礼拝堂

バイブルトーク:「永遠に変わらない友」峯野龍弘主管牧師

スペシャルゲスト:ジョネッタ・ブッシュ、ウィンストン・ネルソン

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特別讃美:インマヌエル聖歌隊、アンサンブル・アガぺ

本場のゴスペルをお楽しみください。



ホーリー・フェスタ3>

8/7(日)14:00-15:40
バイブルトーク:「永遠に変わらない約束」 峯野龍弘主管牧師
スペシャルゲスト:ジョネッタ・ブッシュ
キーボード/ ウィンストン・ネルソン
ウェルカム&ドキュメンタリー:淀橋教会女性チーム
「Oh Happy Day」などをお楽しみいただけます。



【ゲスト紹介】

MANNA
本名、入江真奈、東京都出身。ボーカリスト、ゴスペルディレクター。明治大学卒業後、教会、ライブハウス、イベント等にてジャズ、ボサノバ、ゴスペルを歌い、ゴスペルシンガーのアレックス・イーズリー、ラニー・ラッカー、レイ・シドニーらと共演、一方ではゴスペルコーラスのディレクターとして活動し始め、都内、埼玉、湘南等、全10 箇所にて、ゴスペルディレクター、ボイストレーナーとして活動、キッズコーラスワークショップも定期的に開催。
’01 年、徳間ジャパンよりリリース「香音ミュージックシリーズ」にボーカルとして3枚のCDに参加。’12 年 3rdCD「AGUARACHAR」(入江新一郎プロデュース)をリリース。ライブは聞くと誰でも元気になる歌、ステージングには子供から大人までかなりの定評がある。
’04 年より毎年地元、所沢ミューズにて自己率いるゴスペルグループでコンサートを9回実施、大入り満員の大盛況のうちに終了。東日本大震災復興支援コンサートも精力的に実施している。一昨年春にはチェコプラハスメタナホールにて入江ファミリーでライブを実施、こちらも大盛況だった。今後も夫の新一郎と夫婦で神様を讃美していきたい。家族で所沢ホープチャペルの礼拝に出席。

 

 

<入江新一郎>
ピアニスト、作編曲家として活躍中。打楽器のようなインパクトあるピアノ奏法、叙情的でハートフルなメロディーラインがファンの心を魅了する。
演奏ジャンルも幅広く、おもにラテン、ジャズが中心でクラシックもこなす。全国にて演奏活動を実施、数々のプレーヤーと共演、海外ではメキシコ、キューバ、香港、シンガポールで演奏を実施、熱狂的な歓迎を受けた。中でもメキシコの世界遺産都市「プエブラ」にて市長より表彰される。
また、NHK、TBSの番組で自作の曲がオンエアされる。第2 作目のソロアルバム「SAMBI」をリリース、また数多くのアーティストのCD、企業サイト動画のBGM等も手掛ける。所沢ホープチャペルに家族で出席。東日本大震災復興支援コンサートも精力的に実施している。

 

 

<EYS(イーワイエス)>  「良いわ! Yes ! 三人十色」
2014 年結成。関 栄理哉、関 義哉、関 真哉 によるソングライター3人からなる兄弟ユニット。ポップセンス光る、またどこまでもストレートで素直に響く楽曲は、詞・曲のみならず緻密なアレンジにまで及ぶ。2015 年 1st アルバム「YES I do!!!」をリリース、初のツアー、東京・京都にて300 人動員レコ発ライブを成功させた。

Johnetta Bush (ジョネッタ・ブッシュ)
フロリダ出身。ニュージャージー在住。
ミュージックディレクター、ミュージシャン。6 歳から教会音楽家として活動を始め、16 歳の時にはオルガニストとしてレコーディング、国内ツアーに参加。
ニュージャージーを拠点に、ゴスペルクワイヤの指導をすると共に、ミュージックミニスターとして、多くの教会で音楽指導に尽力する。日本でニューヨーク・ハレルヤ・カンパニーのリードヴォーカリストとして5 度来日。現在も年に1 度は来日し、ゴスペル音楽の指導を行っている。

 

 

<Winston Nelson( ウィンストン・ネルソン)>
ニュージャージー生まれ。キーボード奏者。
ドラマーとしても活躍。教会音楽家でもあり、プロデューサー、スタジオミュージシャン、レコードエンジニアとして多方面で活躍している。また、ジャズピアニストとしても認められている存在である。

 

 

 

入場無料

 

 


どなた様もお気軽にいらしてください。  

 会場は淀橋教会です。

 

新宿区百人町1-17-8  

JR総武線「大久保駅」北口より徒歩2分

JR山手線「新大久保駅」より徒歩3分

03-3368-9165

 

 

 

 

 

峯野龍弘と母の回想録(人には歴史ありき)

人には歴史ありき。

様々な信じられないようなことが起こる時代に

何ができるかを思い巡らしている時、

ふと母のことを思い出した・・・

 

 

G.サーバント 峯野龍弘の詩

 以下、実話です。

 

 

私は生みの親を知らずに育った。

育ててくれた女性こそ、

紛れもなく私の母だと思い、

その母の愛に育まれて大きくなった。

 

四国の山奥の貧農(ひんのう)の娘であった母は、

小学校にさえ、ろくに通えず、

小さい頃から弟たちの子守や、

家事の手伝い、畑仕事で明け暮れした。

 

それゆえ母は文字書きも出来ず、

算数も満足に出来なかったが、

しかし、心や優しく、忍耐強く、

骨身惜しまず人に尽くす人だった。

 

そんな母がある日都会に出て、

道楽三昧(どうらくざんまい)の父と出会って、

あたかも騙(だま)されたも同然の

奇妙な結婚生活を余儀なくさせられた。

 

父にはすでに他の女性がいた。

その女性のお腹の中には、

今や出産直前の父の子が宿り、

しかも二人の仲は破局寸前だった。

 

出産後、女性はわが子を見捨て、

産院から忽然(こつぜん)と姿を消した。

哀(あわ)れ、この見捨てられた子供こそ、

父の道楽の果て生まれた私だった。

 

ところがこの産院に私の母がいた。

産院の下働きをしていた母は、

生みの親に捨てられた不憫な私を

見るに忍びず父に乞われて妻となった

 

これこそ母と私の絆の始まり。

私にとっては大なる幸せ。

しかし母にとっては苦悩の始まり。

この日から母の苦渋の人生が始まった。

 

 

母は私の養育のため入籍こそしてもらったが、

妻らしい扱いや愛は夫から受けなかった。

のみならず受けたのは血を吐くような苦しみと、

辱(はずかし)めと連夜の暴力ばかりであった。

 

父は毎晩大酒を飲み、深夜になって帰宅した。

時には他の女性を連れ込んで打ち興(きょう)じた。

その女の前で母は酒つぎを命じられ蔑(さげす)まれ、

のみならず遂には必ず酒乱の父の暴力を受けた。

 

しばしば家財は破壊され、家計は逼迫(ひっぱく)した。

父は上級官吏(かんり)であり、高給取りだった。

道楽三昧(どうらくざんまい)に暮していても、なおゆとりがあった。

それなのに母には生活費をほとんど渡さなかった。

 

そこで読み書きさえ出来ない母は行商(ぎょうしょう)に出た。

しばしば騙(だま)されたり、脅(おど)されたりしたが、

母は懸命に働いて日銭(ひぜに)を稼(かせ)ぎ、私を育ってくれた。

その姿はまさに下女か奴隷、虐待される囚人の如し。

 

母は余りにも厳しい辛さと悲しみのゆえに、

遂に三度までも悲惨(ひさん)な自殺を試みた。

最初は列車に飛び込み、二度目は舌を噛み切り、

三度目は服毒したが、その都度、九死に一生を得た。

 

おお、その度に少年であった私は地獄を見た。

私は母の悲惨な姿を目の当たりにし、

今にも死にそうな母の体に縋りつきこう叫んだ。

「誰か来て!お母ちゃんが死んじゃう。助けて!」

 

憐み深い全能の主はかく泣き叫ぶ声を聞かれた。

その時既に主は母と私と共におられた。

私はそう確信している。もしそうでなければ、

あの時、母は死に私も生きて来れなかっただろう。

 

 

かかる不幸と悲しみの内にわたしは育った。

気性は繊細にして陰湿。しかしそれなのに

外見はおおらかで快活そうに振る舞っていた。

遂に父親への憎しみはつのり、殺意となった。

 

日々心の内に燻(くす)ぶる憎しみと恨(うら)みは耐え難く、

母を苦しめ苛(さいな)む悪鬼(あっき)の如き父を深く恨(うら)んだ。

まだ少年に過ぎなかった私は殺害を思い立ち、

いつの日か必ずそれを遂げようと機会を窺(うかが)った。

 

 

 

やがて中学、高校、大学へと進んだ私は、

もはや他人との通常の交わりさえ儘(まま)ならず、

ただ一人、人を避け、悶々(もんもん)として日を過ごす。

殺意と怨念(おんねん)は抑え難く、憎しみは増すばかり。

 

もしもその時、教会に導く者がなかったなら、

私はおそらく大罪を犯し、世間を騒がせ、

獄(ごく)に繋(つな)がれ、自らそこで自害していただろう。

おお、主をほめよ!その時私は教会へ誘われた

 

昔から「溺(おぼ)れる者は藁(わら)をも掴(つか)む」と言われて来たが、

まさにその日の私は恐るべき罪の嵐の只中(ただなか)で、

溺(おぼ)れかかっていた憐れな一人の遭難者であった。

実に私には掴むべき藁(わら)以上の助け手が必要だった。

 

おお、主の聖名はほむべきかな!主は来られた。

その日、一人のキリスト者が私の許に遣わされ、

私の手を取りキリストの御許に導いてくれた。

私は眼前にキリストを拝し、見事に救われた。

 

私が何の躊躇(ちゅうちょ)もなく、主を信じ、受け入れた。

その瞬間から私の人生は変革し、憎しみは消え、

あの殺意や怨念(おんねん)さえ徐々に遠く彼方に消え去った。

のみならず平安が、喜びが、希望が心に注がれた。

 

この私の生涯に生じた驚くばかりの劇的変革は、

やがて間もなく私ばかりか母の身にも訪れ、

遂には諸悪の根源であった父親の上にも訪れた。

それはまさしく奇跡的主の御業と言う他はない。

 

 

かくして我が家の地獄のような日々は終わり、

キリストにある天国のような日々が始まった。

母の多くの涙と労苦、痛みと悲しみは報いられ、

我が家は主の恵みを証しする者と変えれれた。

 全家が救われた。

 

大学時代の応援歌の一節にこんな詞があった。

「電信柱に花が咲き、死んだ魚が泳ぎ出す」

こんな馬鹿げたことはあるはずもなかろうが、

しかし、我が家の奇跡は、まさにこれだった。

 

 おお主よ、全てはあなたの恵み。

心から感謝します。

 

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G.サーバント(峯野龍弘)