峯野龍弘のアガペーブログ

心にささやかれた愛の指針

第4章 心の傷つくプロセスと諸症状➀

                             G.サーバント

第4章 心病む子供たちの心の傷付くプロセスと諸症状

さて、以上においてウルトラ良い子たちの抑圧の最大要因について詳細に亘り解説してきたが、ここではその具体的な心傷ついて行くプロセスとその諸症状について述べてみたい。

 

 

  1. 世俗の価値観に支配されている両親や同居の親族からの非受容と抑圧

 先ず何と言っても、ウルトラ良い子たちが心傷つき病んで行く第一のプロセスは、悲しいかな、皮肉なことに誰よりも最も我が子を愛している両親、そして同居の親族たちから始まる。この場合、既に繰り返し学んできて御存じのように、両親や親族と言っても、それはすべての両親、親族を意味しない。特に世俗的価値観に強く支配されている、言わば“世俗的価値観信奉者”とも呼ぶべき両親や親族によってである。

  彼らは自らがいつしか世俗の価値観に支配され、その奴隷になってしまっている自分自身に気付いていない。彼らはむしろ世俗の価値観に従って自らを自己評価し、それが他者よりも優っていると思える時、彼らはそれを自負し、ひそかに誇りにさえ思っている。

  そのような両親や親族の深層心理には、常に世俗の価値観への「媚(こ)び」と「怯(おび)え」が支配している。それ故このような人々が子育てにあたる場合、常に世俗的評価を気にし、他の子供たちと我が子を比較し、より世俗的評価の高い道に従って子育てにあたる。

  彼らにとって愛する我が子や孫が世俗的評価の低いものとなることは耐え難く、それは我が身の恥であり、我が子、我が孫の不幸であると考える。それ故その子供の感性・資質・性質、つまり本性(天性)がどうであれ、それを無視し、見過ごして闇雲に世俗的価値観に従って、子供を躾け、教育しようとする。

  その結果、その子の固有の感性や資質、性質や本性が受容されず、その子の心が訴えている声なき叫びや本性から発する個性的要請は無視されて、いつしかその否定・抹殺の上にその子の人格形成がなされていく。それもいわゆる世で言う「良い子育て」、「躾(しつけ)」という美名のもとで成され、かくしてウルトラ良い子たちは早くもかかる両親たちにより抑圧されていく結果となるのである。

  ちなみにこの連載のかなり始めのころに既に前述したので、今更繰り返し記すのはまさに蛇足となると思うが、あえてもう一度記せば、ウルトラ良い子の超鋭敏にして純粋な感性は、通常の平均的子供たちに優って抑圧を受け易い。しかも彼らは合わせて本来心優しく、他者貢献的な感性の持ち主であるため、両親たちの意思や願いに背く事は悪いことであると考えて、どこまでも自分の思いを表明しないで、あたかも自分が両親たちの思いに心から同意しているかに思われる対応をしてしまうため、遂には自分の本意に沿わない人間形成を加速させてしまい、その結果その心は充足も安息もなく、不満足と不安を抱え込み、徐々に抑圧が重なり、物事に新鮮な感動や喜びを感じ難くなり、何事にも無気力、無感動となり、更に徐々に対人間関係が子供ながらにも煩わしくなり、引きこもりがちになってしまう。

  しかもこうした状況が長く続くようなら、更には精神的にも肉体的にも異常心理、異常行動を惹き起すようになってしまう。これらはいずれも明らかにかかる抑圧の結果、そこにもたらされる心傷つき病んでしまっていく子供たちの哀れな諸症状に他ならないのである。

 

  そこで復習ながら、ウルトラ良い子たちが合わせ持っている八つの特質についてもう一度参考までに列挙しておこう。

 

純粋志向性 夢見る人、理想主義者、メルヘン志向、空想家

 

本質志向性 「なぜ」を問う、生まれながらの哲学者、思索家

 

霊的志向性 霊的感性が強い、可視的でない世界への探究心が旺盛、永遠、死後の世

界、霊の存在への関心、生まれながらの宗教家

 

絶対価値志向性 相対的に他者と比較する価値観に馴染まない

 

独創的志向性 閃きとのめり込み、科学者、文学者、芸術家

 

非打算的献身志向性 損得勘定に馴染まない、他者奉仕的人間、使命感が強い

 

他者受容志向性 温順な他者配慮、弱者保護の心に富む、隣人愛

 

生命畏敬志向性 自然や動物愛護

 

 

 世俗の価値観に支配されている両親や同居の親族からの非受容と抑圧は、しつこいように思われるかもしれないが、あえて強調して言うならば、これまたすでに述べてきたように、親の「我執(がしゅう)」から来るエリート主義に淵源(えんげん)する教育の弊害(へいがい)であって、「より良い子育て」とか「卓越した躾け」とかという美名の下で、親自身が世俗的価値観に駆り立てられてなす、我が子への人格操作に過ぎず、その子どもの本来の個性や本質を無視した一種の洗脳教育に他ならない。

  それは、我が子に対する真の個性的人格形成への阻害行為であり、時には破壊行為となる。それこそ人格破壊と人格破綻の大なる要因となる。しかし、意外にこの種の多くの両親たちは、この重大な問題に気付いていない。いや気付き難いのである。

  

 では、その理由は何か。それは皮肉にも、我が子を誰よりも愛していると思っている親の自負心に原因がある。通常世間一般の親たちは、他人の子どもより我が子が見劣りしている事を喜ばない。せめて人並みであるか、できればそれ以上であってほしいと願っている。

  愛していればこそ自分の子どもが可愛く、決して人から軽蔑されたり阻害されたりしないために、我が子が立派に育ってほしいと切願する。子どもを愛している親で、誰が我が子はどうなっても構わないと思う親があるだろうか。

  それゆえ愛していると思う度合いが大きければ大きいほど、我が子の成長と動向が気に掛る。それどころか一挙手一投足が気になってしまう。しかもそれが親の愛の証拠だとも思っている。

  

 そして、更にそこに親の世俗的価値観や我執(エゴイズム)が混入し始め、親の欲目から何としても子どもを立派に育てよう、それが子どもの将来の幸せにつながるのだと確信する時、我が子を愛すれば愛するほど過干渉となり、親の望むこと、あるいは親の良しと思う方法に従って、子どもの躾や教育を始めてしまう。そこで叱ったり、なだめすかしたりして飴(あめ)と鞭(むち)を使い分けながら「子育て」をするのである。

  その際の親の大義名分は、常に「愛しているから」である。そして先にも記したように、愛すれば愛するほど「よい子育て」、「良い躾」という名の下で、我が子の本来の個性や本質を度外視した人格操作、つまり洗脳教育することになるのである。

  これはもはや真の人格教育ではなく、「動物的飼育」もしくは「調教」である。のみならず、今日では動物たちの飼育や調教においてすら、それぞれの動物の個性や好みを重んじて、飼育や調教が行われるというのに、それにもかかわらず我が子の個性や本質、好みや心の求めを無視して、やみくもに世俗的価値観や親の我執に基づいて、一方的に押しつけ教育をする世の親たちの何と愚かなことよ!

  ここまで来ると「我が子を愛している」と言う親の自負心こそ、何と恐るべき罪悪と言う他ない。これはまさしく「履き違えられた愛」以外でなく、真実の親の愛ではない。もしもお互いが真実な愛の何たるかを知ったならば、それまでの世俗の親の愛はすべて「偽りの愛」に過ぎず、せめて一歩譲歩したとしても「もどきの愛」(愛もどき)、「つもりの愛」(愛したつもり)に過ぎない。これでは真の良い子は育たない。

 

そこで次には「真実な愛の本質」について学んでみよう。非受容、抑圧を与えてしまう理由は何か

 

(2)真の愛の本質に対する無理解

子供の心を傷付ける原因が、非受容と抑圧にあると記しました。更にはその非受容や抑圧が親が我が子を愛していると思っている自負心にあるとも申しました。では更にもう一歩踏み込んで問えば、何故そのように愛していると思う自負心を抱くようになってしまうのでしょうか。その原因は、実に真の「愛の本質」について正しい理解を有していなかったからでした。

 

ちなみにお互い人間は、「愛」と言う言葉を用いて自らと相手との間の特別に親しいホットな人間関係を言い表しますが、この場合実はお互いが抱いている「愛の概念」や「愛の性質」には、各人の間でかなりの開きや相違が存在するのです。それゆえ「愛のすれ違い」が起こるのです。

 

ある人の求めている愛は、かなり情緒的感情的愛であり、またある人の愛はそれに比してかなり理性的哲学的愛であったりいたします。中には甚だしく肉欲的な愛であったり、その反対に実に美しい献身的愛であったりするのです。のみならず人の抱く「愛の概念」、「愛の性質」は、その人の内に持つ人生観、世界観、価値観、更には知識や人生体験そして性格などの総和の上に生み出される所産であるので、その所産は厳密に言えばそれこそ各人各様であって、人の数ほどあって千差万別です。

 

それでは「真実な愛」つまり「愛の本質」とは何でしょうか。

 

■「真実な愛」と「愛の本質」

 

ここで世界の最高のベストセラーの位置を確保し続けている「聖書」に出て来る言葉を引用させて頂きましょう。その言葉とは次の言葉です。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(ヨハネ13章34、35節)

 

ここで極めて重要な言葉は、「わたしがあなたがたを愛したように」という言葉です。これはキリストが弟子たちを愛された愛を基準として、弟子たち相互も愛し合うようにという主の戒めです。これはキリストの愛の性質(本質)並びに愛の方法(愛し方)の基準を規定したものと理解することができます。

 

ちなみにこの聖書の書かれた当時の古典ギリシャ語には、いわゆる愛を表現する用語として四つの言葉が存在しました。もしもお互いが真実な愛の何たるかを知ったならば、それまでの世俗の親の愛はすべて「偽りの愛」に過ぎず、せめて一歩譲歩したとしても「もどきの愛」(愛もどき)、「つもりの愛」(愛したつもり)に過ぎない。これでは真の良い子は育たない。

 

そこで次には「真実な愛の本質」について学んでみよう。(続く)

 

 

 非受容、抑圧を与えてしまう理由は何か

(2)真の愛の本質に対する無理解

 さて、以上述べて来たように真の愛の本質が何であるかを明白に把握するようになると、お互いは如何に自分がこの世俗社会の中にあって、真の愛とその本質から遥かにかけ離れた低いところに自らの愛の概念を設定してしまっていたかに気付かされます。

  そこで従来お互いが描いて来た愛の概念は、以前にも申し上げましたように所詮それは「履き違えられた愛」に過ぎず、また「もどきの愛」(愛に似てはいるが、実は本当の愛ではないこと)、「つもりの愛」(愛しているつもりだが、少しも真の愛ではないこと)でしかないのです。

  本物志向の純粋感性を持ったウルトラ良い子たちは、このような虚偽の愛を忌み嫌い、彼らの感性は決してこれらと馴染まず、真実な本物の純度の高いアガペーの愛に触れ、そのアガペーをもって受容されたいと心の深みから切願しているのです。彼らは決して親や他者の虚偽の愛で騙されることはありません。のみならず彼ら自身、真実な愛に出会わない限り、彼ら自身の心を決して安息させることができないからなのです。何と素晴らしいウルトラ感性なのでしょう!

 

  1. 世俗的価値観に支配されている社会からの非受容と抑圧

―親類縁者、幼稚園、学校、職場、地域社会における世俗的価値観の強要と個性の否定―

 

 さて次は、世俗的価値観によって支配されている社会からの非受容と抑圧です。子供は両親や家庭からの感化と共に、徐々に成長するに従って社会との接点を持ち始め、その中で様々な感化を受けながら成長して行くようになります。

 

 ところがウルトラ良い子たちにとって困ったことには、両親や同居の親族の下においてすら彼らの有している強烈な世俗的価値観の支配と非受容によって、大きな抑圧やトラウマを心と身に受けるようになるのですから、ましておやほとんどすべての日常の営みが、まさに世俗的価値観によって支配されているこの世は、彼らウルトラ良い子たちにとっては、決して居心地の良いところではありません。

 

 親類縁者との付き合いの中でも、近所の人々や子供たちとの日々のやり取りにしてみても、また幼稚園や学校に行ってみても、更には成長して職場や一般社会に出て行っても、この世はいずこも世俗的価値観が氾濫しています。

 

 このような社会に対して何の免疫性も持ち合わせていない純粋かつ種々の鋭敏な感性をもつウルトラ良い子たちが、いきなりこの世俗的価値観という荒波にさらされる時、そこに大きな違和感と戸惑い、そして居心地の悪さと抑圧を感じないはずがありません。彼らは一早く、いわゆる世俗の荒波に呑み込まれ、翻弄され、溺れ始めてしまうのです。ウルトラ良い子たちは極めて世俗的価値観の荒波を乗り越えたり、世俗の価値観の海の中を泳ぎ回ることが不得手なのです。

 

 ただ唯一彼らがこれらの荒波を越える事ができる道があるとしたなら、それは良き両親の下で生まれた時から成人する時まで、せめて高校時代位までは両親の「全き愛による全面受容」―これについては後で詳細に亘り説明するが―を受けて、免疫力いや波乗り術を習得しておく以外ではないのです。

 

 しかし、悲しいかなその両親が「全き愛による全面受容」ができなかったばかりか、両親自体が強烈な世俗的価値観の持ち主であったりしようものなら、その下で育ったウルトラ良い子たちは、ほぼ全員「対人関係不全症候群」に陥るでしょう。彼らは既に家庭において極度の抑圧に遭遇し病み始めてしまっていたのに、更にこの世俗社会において決定的な抑圧に遭遇するからです。ここに彼らの人生の不幸にして悲しき旅路が始まるのです。 

  

 さて、こうしたプロセスを辿りながらウルトラ良い子たちが徐々に心病み、傷ついて行くのですが、この場合決定的に病める症状が顕著に外的に露呈するのは、いつ頃どのようにしてでしょうか。

 

 それは多くの場合、既に両親の愛の不受容若しくは非受容によって多くの抑圧を溜め込んで来た彼らが、遂に家庭以外の社会から彼らの個性や感性、またその尊厳性や自尊心を決定的に批判されたり、更には否定されるような出来事に遭遇した時、彼らはこの時から一気に病める症状を呈するようになり、異常心理、異常行動を顕著に顕すように至るのです。

 

 しかし、このような同一症状が早くも社会に出る以前に家庭内で起こってしまうケースも、決して少なくはないのです。それは言うまでもなくお分かり頂けると思いますが、この社会から受けるはずの彼らの個性や感性、その尊厳性や自尊心に対する決定的な攻撃、つまり批判や否定を、何と社会に出る前に前倒しにして、強烈なまでに家庭内で両親や同居の親族から浴び掛けられてしまった時、彼らは早くも病んでしまうのです。

 

 何という哀れなことでしょう。しかもそれがウルトラ良い子の感性に馴染まない世俗的価値観の情け容赦なき断罪によって批判されたり、否定されることによってなのですから、誠に悲しいことではありませんか。

 

 しかし、今日このような子供たちが激増しています。あるいは親や社会からの世俗的価値観の強要によって、またその尊い個性や尊厳性を否定されることによって、本来ならば他の子供たちより遥かに献身的に社会貢献できる可能性を豊かに内に宿しているはずの、これらのウルトラ良い子たちを、その両親も家族も、そして社会も国家も、更には世界までが、この宝のような尊い特性や個性を持ったこの子たちを失ってしまっているのです。誠に残念でなりません。

 

 しかし、ここで一つの模範的事例を御紹介しましょう。

 

 今は立派に社会に出て社会貢献しておられる一流企業のA社長さんですが、勿論素敵な奥さんと子供さんたちもおられ、とても家族を大事にしておられます。この社長さんは、実はウルトラ良い子の典型でした。岐阜県の旧家に生まれ、御先祖は徳川幕府時代に功のあった名門で、その家系からは多くの医者や学者や政治家を生み出した家柄でした。それだけに常に世間体を気にし、他人から誹(そし)られるような汚点を残さないことこそ、この家の誉れであって、それゆえよくよく子弟の躾や教育には格別留意し、何と養育係まで配して礼儀作法を教え、勉学に精進させました。

 

  ところがこのA社長さんには五人の兄弟がいて、A氏はその内の真ん中でした。一番上はお姉さんで、あとは皆男の子でしたから彼は次男坊でした。この次男坊のAさんこそウルトラ良い子そのもので、小さい内からしばしば突飛なことをしでかし、周囲の人々を困らせました。何度言って聞かせても、時には厳しく折檻(せっかん)してみても埒(らち)が明きませんでした。頭は極めて聡明で記憶も抜群なのですが、他人から規制されるのが嫌(いや)で、学校に行くのが大嫌いでした。家柄や世間体を気にする周囲の親類縁者からは将来を案じて、やれアスペルガーだとか、どこかに異常があるのではないかとか言って、何かと問題視されました。何とか小学校と中学校は、最低出席日数だけはかろうじて確保し卒業しましたが、とうとう高校には行かず、自分の好きなコンピューターばかりをいじくりまわしていました。

 

 こんな彼を小さい内からじっと見守り続けて来た彼の両親は、一時は非常に悩み誰よりも彼の行く末を心配しましたが、自分の家には厳格な子女教育の家風と伝統があり、人間には個性と特性があり、人間の知恵や力では到底如何(いかん)ともし難い特有の天性があるのだから、この子をいじけさせたり辱めたりしないで、できるだけ他者の干渉からこの子を守り、この子がやりたいことを何でものびのびとやれるように、愛と忍耐をもって見守って行こうと決心したのでした。これをAFCCでは「アガペー(愛)による全面受容」と言いますが、これこそが遂に功を奏し、A氏は独学で英語や数学、物理をマスターし、自力でコンピューターを開発するまでになりました。その内に米国のコンピューター会社から声がかかり研究者となり、遂には今日の一流企業の社長に就任することとなったのです。

 

 これは典型的な「ウルトラ良い子」が、世俗的価値観の抑圧から両親の「アガペーによる全面受容」によって完全に守られ、その卓越した天性を存分発揮することができた最良のモデルの一つでした。