峯野龍弘のアガペーブログ

心にささやかれた愛の指針

第3章 両親からの抑圧と諸問題③

                            G.サーバント

第3章 ウルトラ良い子の抑圧の最大要因

 2、 父の役割と母の役割の欠如による抑圧の素地

  (4) 夫婦愛を通じての人間愛の伝授の欠如

 

さて、父親と母親の役割の欠如の第4番目は、夫婦愛を通して我が子に伝授しなければならない人間愛の学習の欠如である。そもそも父、母は、子供たちにとってこの地上で最初に出会った人間で、しかも同じ血を分け合った掛け替えのない尊い身近な存在である。

 

それゆえ子供たちは他人からでなく、誰よりもこの両親たちから、「人間とは如何なる者であるべきか」、また「真の人間関係とは如何なるものか」を学習することになるのである。そうだとすれば、いわば両親は、すべての子供たちにとって、この世で最初に出会った「“理想の人間”及び“理想の人間関係”のモデル」としての存在でなければならないはずである。

 

そこで両親は、生れてきた我が子に、常に夫婦相和し、互いに相手を尊び、相互に麗しく仕え合い、仲睦ましい夫婦愛を披歴しなければならないのである。なぜなら、人間の人間である本分は、言うまでもなく“互いに愛し合って生きる”ことにこそあるからである。のみならず、真の美しい人間関係は、“真実な愛によって結ばれた人と人との関係”の中にのみ存在するからである。つまり“真の人間関係”とは、“愛による人間関係”以外では断じてないのである。

 

ちなみに、子供のことを“夫婦の愛の営みを通して生まれた愛の結晶”などと表現することがあるが、これはまことに真実であり、かつ意味深い言葉である。ところが今日、夫婦でもない男女の間から、真実な愛の営みではなく、醜い欲望の営みの果て、世に生み出されて来てしまう哀れな子供たちが、如何に多いことよ。このようにして生まれ出て来た子供たちを何と形容したら良いのか。“愛の結晶”とは程遠く、“罪の結晶”と呼ぶにはあまりにも心痛い子供たち。ああ、何と言う哀れ、何と言う悲劇か!

 

世に生まれて来る子供たちは、皆一人残らず夫婦仲睦しい愛し合っている両親の“愛の結晶”として誕生して来るべきである。そして母親の胎内にいる時も、互いに愛し合い、仕え合う良き両親の声を聴き、また生れ出た時には自らの誕生を夫婦して喜び祝う両親の喜びの顔を仰ぎ、更には日々両親が相互に愛し合い麗しく過ごす姿に触れながら生い育つ子供は、何と幸いなことか。

 

このような子供たちは、そこに一早く理想の人間関係のモデルとしての両親をこの地上で体験し、また理想の人間のモデルとしての父母に出会うことができるのである。そして最初に出会った人間である両親の夫婦愛を通して、理想の人間とは「如何なる者であるべきなのか」、また真の人間関係とは「如何なるものなのか」を鮮明かつ強烈に脳裏にインプットされるのである。

 

実に我が子の脳裏に、他の何者によっても毒されない前に、この理想の人間像と人間関係を印刻することこそ、両親が我が子に対して成すべき初仕事であり、最初の大役であるべきなのである。それにもかかわらず、ほとんどの世の両親たちが、この大役を怠り、この初仕事に失敗してしまっているのである。

 

かくして子供たちは何よりも先ず、夫婦が互いに愛し合う“夫婦愛”を通して“人間愛”の基本を体験学習していくべきなのである。そうだとするなら、“愛し合わない夫婦”こそ、子供に対する人生最初の阻害者であり、加害者なのである。

 

 

 

(5) 尊厳ある父像と敬虔なる母像の欠如

さて、父母の役割の欠如のゆえの抑圧の素地づくりという点について縷々述べてきたが、この点に関していま一つの点を指摘しておきたい。それは我が子に対する父親の尊厳性と母親の敬虔性についてである。子供たちが成長するに従って、その子供たちの人格形成にとって必要不可欠な父親像と母親像は、“尊厳ある父親像”と“敬虔な母親像”なのである。

 

そこでまず“尊厳ある父親像”とは何か。それは単に父親の威厳や権威を意味しているのではない。とかく世間では「昨今の父親は、権威がなく、父権が失墜している」などと言われているが、何も父親が権威的である必要などまったくない。しかし、尊厳ある父である必要がある。

 

“尊厳ある父”とは、その存在は物静かで頼もしく、口数も少なく、慈しみに富み、常に母と子が安心して日々を過ごせるように、どんな社会的、経済的な不安も寄せ付けず、いざという場面では常に勇敢に前面に躍り出て身を呈し、雄々しく問題を処理してくれる極めて尊い存在であることを意味する。そして小さな事柄には口出しせず、常に大所高所から大局を見て物事を的確に判断し、正しい道に家族を導いてくれる、そのような父親を“尊厳ある父”と言う。

 

ところがそうではなく、常に口やかましく小言を言い、何かにつけ父親の権威をかざし怒鳴りつけ、時には機嫌を損ねれば殴られる、そのくせいざここ一番という大切な場面で責任を回避し、何もかも母親に問題処理をさせる父、それでいて普段はほとんど仕事のため家におらず、家におる時にはだらだらとテレビを見て何もせず過ごす父、このような父親像は、まさに最悪である。

 

ちなみに、子供たちは本来“尊厳ある父親像”から、いつしか人間としての真の社会性というべきものを身につけて行くべきはずなのである。ところが残念ながら今日多くの世の父親たちは、この点において大なる失格者となってしまっているのである。

 

さて次に“敬虔な母親像”とは何か。それは常に我が子と共に身を置き、我が子に寄り添い、いつでもその“心の声”に耳傾け、それを読み取り、絶えず受容し、満たしていく母親であって、特に我が子が病み、傷ついた時など、その苦しみ痛みを自ら吸い取り、身をもって肩代わりしてあげようと思うほど我が子を慈しみ、愛する母親にして、更に我が子の無事と健やかな成長を願って、常に神の加護を祈るような心がけを持つ母親を、“敬虔な母”と呼ぶ。「子に教える前に、子から聞き、子に学べ」とか、「子をしつける前に、子の心を満たせ」という昔からの知恵者の名言があるが、これはまさに真実である。

 

しかし、今日の多くの母親たちは学識も才能も豊かであるが、これがむしろ災いして、我が子の“心の声”に耳傾けることができず、自らが学び、習得した知識や情報に従って、一早く育児という美名の下で、躾(しつけ)や英才教育に踏み込んでしまう。そこにはすでに“敬虔な母”はおらず、“熱心な教育ママ”がいる。

 

前者は我が子の“心の声”に耳傾け、我が子の個性や固有の感性を引き出すが、後者は“母親の声”に耳傾けさせ、我が子の個性や固有の感性を無視して、母親の意図する理想の我が子像に向かって、子供を洗脳し始める。これぞ最悪な母である。彼女たちはできるだけ早く乳離れし、母の手を離れる子供こそ、よく自立した良い子と錯覚するが、大切な心まろやかな人間性や豊かな愛に生きる人間としての資質を養い損ねてしまう。

 

なぜならこの大切な幼児期に自らの内に母親からの豊かな愛による受容と満たしによる“敬虔な母親”体験をすることができなかったからである。とりわけ自己犠牲を甘受してでも我が子のために献げ、仕え、更にはそれでもなお足りなければ神にすがり祈るような子を愛するがゆえの真摯な母親像を体験していなかったからである。

 

このような“敬虔な母親像”こそ、世界中どこに行っても見出し得ない、自らにとって世界で唯一の実母の内にだけ見出すことのできる“真の母親らしさ”であって、これは如何なる父親にすら肩代わりできない母親ならではの神が与えられた“母の特質”なのである。これこそ母が我が子に与えることのできる唯一にして、世界最大の贈り物である。

 

 

以上、見てきたように、父の役割と母の役割の欠如による抑圧の素地として次の5つがあげられる。

■満3歳頃までの愛による十全な全面受容の欠如

■満3歳からの本質的善悪に対する識別力・分別の育成の欠如

■真善美、神愛聖、命霊祈、天永滅などの見えざる尊いものへの畏敬心の啓発の欠如

■夫婦愛を通じての人間愛の伝授の欠如

■尊厳ある父親像と敬虔なる母親像の欠如

 

このような五つの側面からの両親の役割の欠如が、いつしか子供たちの心の内に、世俗的価値観やその他の様々な言動からやってくる抑圧を、より受け易くしてしまっているという、悪い素地作りについてよくよく学んできた。そこでどうか両親方よ、これらの諸点をしっかりと心に踏まえて、この過ちを決して犯さないように留意して欲しい。

 

しかし、極めて残念なことではあるが、今日の教養ある両親たちのほとんどが、これらの諸点を見過ごしにしたまま、大切な我が子に対する教育や躾に無我夢中になっている。誠に本末転倒である。

 

そこで今ここで、とりわけ生まれながらにして鋭敏な良き感性を持ち合わすウルトラ良い子の両親たちに、心からお願いしたい。どうかあなたのお子さんの特性とその心を大切にし、是非とも何よりも優先すべき幼少時代に施すべき前述したような両親の尊い役割を欠如することなく、存分子供を受容し、愛の内に養育し、抑圧の素地を造ってしまわないようにして欲しい。

 

そこで更に次の項目について学ぶことにしよう。これまた謙虚な教えられ易い心を持って、しっかりと心に留めて頂きたい。