峯野龍弘のアガペーブログ

心にささやかれた愛の指針

「飼い葉おけの赤ちゃん」

                  G.サーバント

飼い葉おけの赤ちゃん

それがこの世に来られたキリスト。

何ゆえにキリストは、

飼い葉おけをベビー・ベットとされたのか。

 

赤ちゃんは何も知らない。

それがどんなに貧しく惨(みじ)めでも、

選(よ)り好(ごの)みをしない。

寝かされたところ何処(どこ)でも安(やす)らかに眠る。

 

そこで眠り、そこで目覚め、

そこで戯(たわむ)れ、そこで喜び時を過ごす。

自ら場所を選ばない。

自らのおかれた場所で健(すこ)やかに育つ。

 

そこから赤ちゃんは仰ぎ見る、

優しく見守り、いつも傍(かたわ)らに寄りそう母を!

母は常にそこにいる。

むずかればあやし、望めば乳を含ませる。

 

そのように赤ちゃんになろう。

それがこの世で暮らす最良の秘策。

何ゆえこのような境遇に、

生まれ育たなければならなかったのか。

 

飼い葉おけの赤ちゃんは、

いかに貧しく、汚れた固いベットでも、

選り好みしなかった。

そのベットに身を任せ、母を仰ぎ見た。

 

母は赤ちゃんを愛し、

常に深い慈しみをもって絶えず見守り、

片時も目を離さない。

幼子は決して見捨てられず、守られる。

 

飼い葉おけの赤ちゃんは、

おお、本能的にそのことを知っていて、

自らの居場所を選ばない。

母のいるところこそ最良の居場所だから。

 

飼い葉おけの赤ちゃんには、

その赤子を見守る母マリヤがいたように、

逆境をベットとするわたしには、

常にわたしを見守る主キリストがおられる。

 

だから赤ちゃんになろう。

どんなこの世の厳しいの試練のベットでも、

共におられる主を仰ぎ見て、

選り好みせず耐え忍び、身を委ねよう!

 

        

                                                     

 

 

「有意義なクリスマスの過ごし方」 

本年もクリスマスの時節を迎えました。主イエス様の御降誕を祝い、教会はもとよりのこと、個々人においても有意義なクリスマスの時節を過ごさせていただきましょう。

まず第一に、何よりもお互いはキリスト者として、クリスマスが自らにとってどんなにか大きな掛け替えのない意義深い日であるのかを深く心に留めて、心からの感謝と喜びをもってクリスマスを迎えましょう。つまり人間となられた神の独り子イエス・キリストのお誕生がなければ、主の十字架の死も復活もなく、それゆえお互いの神の御前での罪の赦しも贖いも、そして永遠の命も、またやがての神の御国での永遠の安息もなかったことになるのですから。

 

 主イエスの御降誕は、このような驚くばかりの恵みと救いの訪れの確約であり、その成就の先駆けでした。のみならずこの世における罪との戦いや諸々の試練や苦難との戦いに対する勝利の保証でもありました。主イエスがこの世に来られて、この素晴らしい恵みをわたしたち御子を救い主と信じるすべての者のために完備して下さったのでした。何という感謝、何という喜びでしょう。この大きな恵み、驚くばかりの恵みを覚えながら、感謝と喜びをもってクリスマスを迎えようではありませんか。

 

 第二に、主イエスの御降誕の喜び訪れは、どのような人々にもたらされたでしょうか。荒野で野宿しながら羊の番をしていた貧しい羊飼いたちでした。そこには誰一人として、裕福な者、身分の高い人々などいませんでした。その時、エルサレムの都では人口調査のため各地より訪れて来た多くの人々でごった返していました。どこの宿屋も満員で主イエスの両親となったヨセフもマリヤも、泊まる宿がなかったほど人で溢れていました。しかし、このような時も彼ら羊飼いたちは無縁の存在でした。なぜなら彼らは羊飼いと言ってもおそらく雇われた羊飼いだったと思われます。彼らは人口調査の対象外の貧しく、名もなく、家もない当時の納税対象者外の浮遊者であったでしょう。つまり人並みに扱われない気の毒な境遇の人々であったに違いありません。しかし、何とこともあろうに高貴な神の御子の御誕生に当たり、彼らが世界最初のクリスマス、つまり御子の誕生祝いの礼拝に与ることが出来たのでした。

 

 のみならず更にまたこの世界最初のクリスマス礼拝には、何とユダヤ教ユダヤ人からすれば全くの門外漢であった異邦人で、はるかかなたの東方ペルシャの国から来た占星術の博士たちが招かれていたのでした。

 

 これらのことを深く思いめぐらす時、今日の教会とキリスト者はいつしかクリスマスを祝うのにキリスト者好みの内向きのクリスマスを祝ってはいないでしょうか。教会内の各会が企てる“クリスマス祝会”などと呼ばれる集いは、大方この内向きのクリスマス行事に終始し、むしろこのようであることにこそキリスト者ならではの本来のクリスマスが出来るのだと豪語する人々さえいるほどです。確かにこれと並行してキリスト者以外の人々のために伝道的なクリスマス集会や未信者向けのクリスマス行事や諸集会を、別途企画し実施しているような場合は、キリスト者だけの濃度の濃い内向きのクリスマスを祝うということにも大いに意味のあることは言うまでもありません。しかし、そうでないとするならば実に世界最初のクリスマスとはおよそかけ離れた、教会にとっては無縁の浮遊者や門外漢(もんがいかん)と思われるような未信者を全く切り捨ててしまった誤ったクリスマスの祝い方に陥(おちい)ってしまうことになるでしょう。そうです。世界最初のクリスマスを思う時、こうした人々を決して切り捨てることがあってはならないはずなのです。この点をお互いはよくよく留意しようではありませんか。

 

 また同様に各家庭や個人がクリスマスを祝う時にも、全く同じような注意と配慮が必要です。つまりキリスト者である自分たちだけが喜び楽しむクリスマス行事をしないで、日頃教会やキリスト教に無縁の人々をもその家庭の集いに招き、共に主の御降誕を喜び祝うことが出来るような、愛の配慮を試みたいものです。すべてのキリスト者やクリスチャン・ホームが、こぞって“愛のクリスマス・パーティー”を各家庭で開きし、そこに未信者の友人・知人・親類縁者を招待し、心行くまで明かるく楽しい愛の溢れたクリスマスのひと時を過ごしてほしいものです。これこそが世界最初のクリスマスの原点に立ち返った、真のクリスマスの祝い方と言っても過言ではありません。

 

さあ、有意義なクリスマスを迎えて参りましょう!

 

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