峯野龍弘のアガペーブログ

心にささやかれた愛の指針

第2章 ウルトラ良い子の8つの特質 

                       G.サーバント

 

 さて、ウルトラ良い子には概(おおむ)ね共通するすばらしい8つの特質が宿っています。ところが極めて悲しく残念なことは、多くの両親たちがこの彼等の特質について気づかないまま子育てをしてしまったために、その尊いウルトラよい子の性質を無視してしまい、のみならずその性質を踏み躙(にじ)り、傷つけ、遂には心病み、異常心理、異常行動をさえ取らせてしまう人生の悲劇を生み出してしまっているのです。
 本稿をお読みになられる方々のご家庭においては、是非ともその轍を踏まないように、よくよく留意していただきたいものです。そもそもよほど専門知識に富み、経験豊富な人々でない限り、生まれてから相当の年月が過ぎない内は、わが子のウルトラ良い子性に気づき難いのです。そこで、ウルトラ良い子性に通常はなかなか気づき難いため、一旦それを傷つけてしまってからでは、それを癒やし健常に復元するには、多くの時間と労苦がいるようになります。そこで、子育てに当たるご両親たちに次のようにお勧めします。
 「どうかあなたのお子様が、ウルトラ良い子かどうか分からなくても、一向にご心配なさらないで下さい。『うちの子は、きっと極めて尊いウルトラ良い子に違いない』と思って、先ず3、4歳まで大切に、良く受容して育てて下さい」と。
そう言われることは、子供一般にとっても極めて益となり、害は全くありません。しかし、その逆は重大な失敗をしかねないのです。そうこうする内にウルトラ良い子か普通の子か、良く見極めがつくようになるでしょう。その時、それぞれの性質に即した子育てを、いよいよ本格的に取り組めばよいのです。これで決して遅くなることはないのです。
  大切に受容して愛のうちに育てられた3、4歳までの子は、その個性と固有の感性が引き出され、良く育ち、何よりも自らが親から愛されている大切な価値ある存在であること、つまり自己の尊厳を確信できる豊かで、まろやかな心をもった、のびのびと更に成長していくことの出来る良き資質を持った子供となることでしょう。ともあれ概して幼児たちは誰でも皆、本来のウルトラ良い子と見極めがつかないほど、純粋無垢で麗(うるわ)しいウルトラ良い子的資質を宿している者なのですから。

 

 

 

➀純粋志向性

 さてウルトラ良い子の特質の第一は、彼らは生まれながらにして純粋な志向をする特性を有しているということです。彼らの願望し、思い図ることはいつも純粋で、その夢が大きく、理想は高いのです。そこでしばしば他者から見れば極めて現実離れしていて、単なる理想主義者である以上に空想家・妄想家のようにさえ見えます。しかし、彼らは決して異常なのではなく、健常以上に卓越したウルトラ純粋人間で、「夢見る人」であり、「メルヘン志向」の人たちなのです。彼らは幼い日はもとよりのこと、老人になってもこの特質を決して失わないのです。これは神が彼等に生まれながらにしてお与えになった、天与の感性だからなのです。
 ところが世俗的な価値観に毒(どく)されている両親や他の人々は、これを理解することが出来ず、「あんたは、いつになったら大人になるの!」、「いつまでそんな子供じみた幼稚な馬鹿げたことをしているの!」と叱りつけるのです。
 しかし、これは決して子供じみた、幼稚で、馬鹿げたことではないのです。ウルトラ純粋感性のしからしめるところなのです。これこそがその当該の人物にとっても、また社会全体にとっても有益かつ重要なことであり、このような感性・特性を持った人々の存在のゆえに、人間社会全体が純粋で、理想的な、かつ夢のある美しい社会を維持することができるのです。
 私の少年時代、当時お互い少年たちの心と思いを掻き立て、血沸き肉踊らせるほど熱狂させた少年漫画の作家にしてイラスト・レーターでもあった小松崎しげると言う人がいました。この人は空想科学漫画を描き、当時の科学では到底不可能かつ空想に過ぎない宇宙飛行船の存在や遠隔地との間での同時映像交信できる特別システムを夢みて、実にリアルにそれを描き出し、彼の作品の中に登場させていました。当時の大人たちでこれをほんとに実現可能だと思った人は、ほとんどいなかったのではないでしょうか。面白いけれども、これはあくまでも漫画の世界で、誰がこんな子供騙しの馬鹿げたことを信じられるものかと、おそらく一笑に付していたに違いありません。ところがどうでしょうか。それが今や現実となって、スペース・シャトルが宇宙に浮かび、テレビ、インターネットの映像が世界中を駆け巡っています。真に愚かであったのは嘲笑った世俗的現実主義者で、このウルトラ良い子系の純粋志向者ではなかったのです。
ところが実に恐るべくして、悲しきことには、今日の現代社会ではこのような純粋志向を持ったウルトラ良い子たちが、次々と嘲られ、退けられ、虐げられさえしているのです。しかもそれが愛され、誰からよりもよく理解され、養護されるべきはずの両親からさえ、言葉と行為をもって否定され、抑圧され、虐げられているのです!21世紀の現代社会は、過去の如何なる時代にも優って、このウルトラ良い子たちにとっては生きづらい、「受難社会」だとわたしは思っています。どうか純粋志向を持った極めて尊い子供や人々の中から「殉教者」を出さないで下さい!

 

 

② 本質志向性
 さてウルトラ良い子の第二の特質は、常に彼らが本質的なものを強く慕い求めるという言わば「本質志向性」と言うべきものを有しているという点にあります。筆者は、「生まれながらの哲学者」などと呼んでいます。彼らはなかなかの真理探究者で、思索家です。彼らは通常の子供たちにも優って小さい頃よりよく「なぜ」、「どうして」と言う質問を親に発します。そこで親が一通りその理由を話して聞かせますが、ありきたりのその場しのぎの解答では納得できず、またしてもその解答に対して更に「それはどうして」、「なぜなの」と聞き返してきます。あまりにもしつっこく何度も尋ねるので親の方は、すっかり面倒になり、「うるさいわね。もう何度も言ったでしょ。いい加減にしなさい」などと叱りつけたり、拒否したりしてしまいます。中には「あなたは頭がおかしんじゃないの。普通の子なら一、二度説明したらすぐわかるのに」と溜息交じりに罵(ののし)る母親もいます。しかし、後になって対人関係不全症候群に悩む子供たちの悲劇は、このようなやり取りの中から徐々に造成されていくのです。
 彼らをまだ小さいのでよく分からないだろうなどと、みくびったり侮ったりしてはなりません。彼らは「生まれながらの哲学者・思索家」で、物事の奥にある真理や真実、原因や理由を深く突き止めないと、自らの心がいつまでも落ち着かないというほど知りたがり屋で、かつ本物・本質探究者なのです。また彼らはいい加減なところでは途中下車できないほどの本物志向の人生探求者でもあるのです。
 ある時、二歳になったばかりの幼子がお父さんに「パパ、これナニ?」と尋ねました。父親は「これは『椅子』だよ」と答えました。するとその子はすかさず「ドウチテ?」とその理由を聞きました。そこでお父さんは「こういう形をした物は、みな『椅子』と言うの」と畳みかけるように答えました。納得できない幼子は、またしても「ドウチテ?」と尋ねました。そこで父親は「お座りするものは皆『椅子』と言うんだよ」と答えました。そうするとその幼子は傍にあった「おまる」(幼児用便器)を見てうれしそうに「いちゅ(椅子)、いちゅ」と言いました。父親はややあわてて「それは違うよ。ウンチするための『おまる』だよ」と訂正しました。しかし、幼子は納得できず泣き出しそうな顔でまたしても「おまる」を指さし「いちゅ、いちゅ」と言い張りました。
この時その父親は重要なことに気付かされました。それは自分たち大人は、案外物事をいい加減に鵜呑みして納得しているが、いかに幼子の方が事物を深く真摯に追求し、理解し、納得しようとしているのか、それにもかかわらずそれらの子供たちを見くびり、十分な説明、納得をさせないうちに、大人の考え方で一方的に押しつけ、それを受け入れない子供を物分かりの悪い、言うことを素直に聞き入れない子供と決めつけて、叱ったりしていたかに気付かされました。
 実に、子供たちは大人たちに優(まさ)って事物の本質や事柄の奥に潜(ひそ)む真理を知りたがっているものなのです。とりわけ「ウルトラ良い子」と呼ばれる素晴らしい感性を生まれながらに豊かに宿している子供たちにとっては、なお更なのです。ところが大人たちはそれと気づかず彼らを見くびり、軽くあしらい、更にはわからず屋と決めつけ、たしなめ、大人の考えや仕方に強引に引き込もうとしてしまうのです。するとその時、早くも本質志向性を持った「ウルトラ良い子」たちの心に抑圧を与え始め、更にはその尊い心と感性に重大な傷を付け始めてしまうことになるわけです。この点によくよく注意を払う必要があります。
 ところでよくこんな質問に遭遇します。既に不登校になって久しく、家にいてもほとんど部屋に引きこもり、自室に家族さえ入らせず、昼夜逆転し、その上更に何か注意しようものなら途端に逆切れし、どなり散らし、大暴れするわが子について、「先生どこがウルトラよい子なのですか。うちの子は何一つ是々非々を弁えられず、いつになっても幼稚で、まともなことは何一つできず、そのくせ他人を批判する段になると偉そうに、立派な口をきくのですが…」など、しきりに嘆かれるのです。
 こうした彼ら病める子らの言動の中には、およそ健常人から見れば支離滅裂(しりめつれつ)で、異常なほどに強烈な自己主張ばかりが目立ち、そこには何一つ卓越した本質志向性など見えてこないという場合が多いのです。しかし、それでいて彼らは依然「本質志向性」を持った人間であることに変わりはないのです。
 何故そうなるのかと言えば、現在現われている異常行動、異常心理は、すべて彼らがそれほどまでに心傷つき病んでしまっていることのゆえであって、彼らはその見かけの現象や症状とは不連続に、あくまでも依然本質志向性を持ったウルトラ良い子たちなのです。ただその極度の抑圧とトラウマのゆえに、その本性が機能できず、停止状態になってしまっているばかりか、これは真に不思議なことなのですが、ほとんど多くの場合それが全く逆転して発症してしまうのです。
 これこそが極度の抑圧とトラウマの悲劇、脅威と言えましょう。筆者は、この逆転症状の信憑性(しんぴょうせい)をこの種の多くの心病める青少年たちの事例の内に見届けてきました。これらの点に関しては、また後に詳述しましょう。

 

 

③ 霊的志向性
 次は、霊的志向性です。ウルトラ良い子たちは、生まれながらにしてこの霊的志向性に富んでいます。霊的志向性とは、霊的感性(霊感)が鋭く、目に見える可視的世界を越えて、目をもって見ることのできない不可視的世界に深い好奇心、探究心を抱き、死後の世界や永遠の世界、神の存在やその裁き、霊魂の存在やその滅び等に深い関心を持つ特別の性質(傾向性)を言います。筆者は、彼らを「生まれながらの宗教家」などと呼んでいます。彼らは、ことさらに誰かからこうした内容のことを聞かされたり、学んだわけではありませんが、幼いころより霊的関心が強いのです。
 例えば、まだ3歳の小さな女の子で、通常の子供たちであったなら決してそれほどまでに死を恐怖しないはずなのですが、ウルトラ良い子は死を異常なほど恐れ、毎晩夜になるとなかなか寝つかれず、「わたしは死んだらどこに行くの?」としきりと母親に尋ね、困らせるケースがあります。
 また中学生位の女の子で、よく占いや迷信に心ひかれ、これにのめり込んだり、騙(だま)されたりする子がいます。これらの子供たちの多くが、実は生まれながらのウルトラ良い子で、かつ霊的志向性に富んだ子供である場合が多いのです。ですからこうした子供たちをやみくもに「臆病(おくびょう)な子」、「おかしな子」などと、軽く往なしたり、あしらったりしてはなりません。それが彼らの内に宿っている極めて大切な霊的志向性から出ている場合があるからです。その場合は、その真意をしっかりと受け止め、その霊的志向性が健全な形で伸びて行くように善導してあげる必要があるのです。
 それなのに、それを放置し、のみならず嘲ったり、否定したりしていくと、後になってその充足されなかった思いや否定された悲しみの感情が屈折して、悪霊や呪詛などに引き回される異常心理や異常行動を引き起こさせる一大原因になりかねないからです。そして意外にこのような不幸なケースが、今日続出しているのです。異端やいかがわしい宗教に走る人々、また自ら神がかった言動をとる宗教的妄想に取りつかれた精神疾患者などの内に、実はこの種の人々が多く含まれているのです。

 

 

④ 絶対価値志向性

 次に彼らは、生まれつき絶対価値志向性という素晴らしい特性を持っています。つまり彼らには生まれついた時から、その内に“絶対的価値観”とでも言うべきものを追い求めて生きようとする性質が宿っています。
 それは究極“神の価値観”つまり“永遠不変の神の真理に基づいて物事の価値・是々非々を定めようとする価値観”で、これは洋の東西を問わず、いつの時代でも変わらず、まさに永遠不変の価値であって、これこそ“絶対価値”と呼ばれる所以です。
 しかし、この世では通常そうではなくお互い人間同士が、相互に比較し合って、誰が決めたものでもないある種の世俗的枠組みに従って、相対的に物事の価値判断をしていく相対的価値観が主流をなしています。これは後に述べるまさしく世俗的価値観そのものでもあるのですが、ところが不思議なことにウルトラ良い子たちは、概して生来この相対的価値観に馴染み難く、その反対に絶対的価値観に馴染み易いのです。
 この強い傾向性を「絶対価値志向性」と呼ぶのです。それなのに両親たちは、いち早く彼らがまだもの心さえつかないうちから、相対的価値観または世俗的価値観に従って彼らを教育し始めるのです。彼らは後述するように本来はやさしく、素直な他者配慮に満ちた感性があるので、両親とりわけ母親の教えることに従順に服そうとするのですが、悲しいかな彼らの心は充足しないのです。
 なぜならその親の教えるところの相対的価値感から来る教えに、彼らの内にある絶対的価値観を本能的に志向する感性が合致しないので、得体(えたい)の知れない不納得と不満足感、更には不安が蓄積されていってしまうのです。この状態がいつまでも続くと、いつしか彼らの内には親の持つ相対的価値観に従って彼らの本来持っている絶対的価値志向性が抑圧され、一種の洗脳状態が起こってしまいます。
 これは極めて恐ろしいことで自らの心の深いところでは絶対価値を求めているのですが、それを口にし求めることは親を悲しめ、それ以上に親から見捨てられるのではなかろうかと、いたずらに恐れるようにさえなっていきます。そして更に、その洗脳された後発の相対的価値観こそが、いつしか自分の本来の価値観のように悲しくも錯覚してしまい、やがて後天的な有意識下の自分の相対的価値観と、無意識下の本来の絶対的価値志向性とが拮抗(きっこう)し、互いに対立し合うようになるのです。
この後者の性質は彼の生まれながらの本性、特性なのですからこれは決して消滅せず、誰もこれを否定したり抹殺したりすることは出来ないのです。それゆえこの心中の得体の知れない彼らの戦いは、歳と共により深刻化していくのです。
 のみならず、誰かが彼らの内にある絶対価値志向性からでた純粋な考え方を決定的に否定し、強烈な言葉で非難するようなことがあると、それは彼らの心の中に決定的な傷、つまりトラウマを与えてしまうことになるのです。悲しいかな、今日のような世俗的価値観と相対主義的価値観が主流をなす現代社会の直中(ただなか)にあっては、この絶対価値志向性を持ったウルトラ良い子たちが、次々と抑圧を受け傷ついていく結果とならざるを得ないのです。何と悲しいことでしょう。

 

 

⑤ 独創的志向性
 さて、次に彼らには更に「独創的志向性」なるものが、その性質の内に宿っています。その名の示しているように、彼らは実にユニークな発想の持ち主で、通常の人々が到底思いつきもしないようなことを考え出してみたり、それに取り組んでみたりするのです。
 彼らは素晴らしいアイディアマンで、時には普通の人間から見て極めて突飛で、かつ非常識に見えるようなことを思いつき、言ったり、為したりすることがしばしばあります。彼らは閃きが良く、かつ一旦何事かが頭の中に閃くと、そのことを成し終えるまで一向に他の仕事が手につかず、その一事に深くのめり込む傾向があります。その感性はまさに天才的で、彼らの内には発明・発見などに適する真の科学者的感性や、また素晴らしい作品を生み出して行く真の文学者や音楽家、芸術家の感性が豊かに宿っています。
 ところがこれまた悲しいかな、今日の世俗的一般社会にあっては、こうした彼らの生まれつき有している素晴らしい独創的志向性を、深く理解し評価することなく、むしろそのような人間を常識外れの変人とみなしたり、そんな暇があったらもう少しましなことをして、人並みか、もしくはそれ以上の成果を上げて、良く世間に通用する人間となれなどと叱咤激励し、その尊い独創的感性をすっかり押しつぶしてしまうことが多発しているのです。まことに嘆かわしいこと、この上もありません。
 その一例を挙げれば、小僕のケアーしていた青年の一人は、小さい頃から昆虫や小動物が大好きでした。他の子供たちと遊ぶことも、時には食事をすることも忘れて、昆虫や小動物の世話をしていました。
 やがて学校に通うようになってからは、学校の宿題も忘れて生き物の世話に没頭していました。遂にたまりかねた両親は、勉学が遅れ、成績が下がることを恐れて、この子に今後一切昆虫や小動物を飼うことを禁止してしまいました。
 それまではこの子は、だからと言って決して勉強しないわけでもなく、むしろまだ子供に過ぎないのに昆虫や小動物のことに関しては大の大人も顔負けするくらい物知りで、あだ名が「博士」と呼ばれるほどで、関連書物を読みたいばっかりに幼稚園の時には既にけっこう漢字交じりの文献を読破してしまっていました。
 ところがこの超有能な天才少年が、突然の親の世俗的価値観から、学校の勉学が遅れ成績が下がることを恐れて為した“飼育禁止令”の結果、のみならず何の子供の了解もなく突然ある日、長い間愛をこめて世話してきた昆虫や小動物を処分されてしまったことのゆえに、大なるショックと悲しみを受け、その後しばらくは両親の言うことに服して勉学に励んでいましたが、徐々に無気力になり、勉強には何一つ手をつけないほど拒否反応を示すようになりました。
 遂には不登校になったばかりか、対話も途絶え、更にはいらだちが激しくなり、暴力を振るうような子供になってしまいました。かくしてこの少年は、極度の自己破壊を引き起こし、自他共に危険のため、強制措置入院しなければならない人生を余儀なくされていったのでした。
 この頃ともなると、悲しいかな彼の内にあったあの素晴らしい独創的志向性や感性の輝きは全く失われ、そこにあるのはただ心傷つき病んだ哀れな破壊的非生産的少年像だけでした。

 

 

⑥非打算的献身的志向性
 さて、以上のような素晴らしい感性・特性がこのウルトラ良い子たちの内には種々宿っているのですが、しかしそれらばかりではなく、更に素晴らしい感性・特性が彼らの内に宿っているのです。
 そこで次に述べるのは、非打算的献身的志向性です。これはまた先に述べた各種の感性・特性に優るとも劣らない卓越した志向性です。これは、その文字をもってほぼその内容を察知頂くことができると思いますが、やはり若干のコメントをしておくことが必要でしょう。
 彼らの内には先に述べた一つ一つの特質と共に、更にそれらに加えて本来非常に無欲で、自らの損得を度外視して他者に仕える極めて献身的な性質が宿っています。ですから、彼らは、何かにつけ損得勘定を重視して物事を考え、押し進めていく今日の打算的勘定高い一般的世俗社会に馴染みにくいのです。
 彼らは自分が損をしてでも相手が喜んでくれるなら、それでいいのです。それどころかそれが嬉しいのです。ですから、筆者は彼らのかかる特性を「非打算的献身的志向性」と呼んだのです。
 ところがどうでしょうか。こうした素晴らしい感性・特性を持って生れてきた彼らに対して、多くの両親たち、特に母親たちが、まだ彼らが乳児・幼児であるうちから早くもその子の将来の出世・成功を夢見て、功利打算の上に構築されている世俗的価値観に基づいて、英才教育を始めるのです。それどころではなく、まだ生まれてもいない胎児のうちから「胎教」という名の世俗教育の特訓を始めるのです。ここで誤解のないように一言しておけば、何も胎教や早期教育が悪いと言っているのではありません。あくまでも悪いのは功利打算、つまり「欲」の上に構築された世俗的価値観にあるのです。
 そもそもウルトラ良い子たちは、既に述べたように生まれついた時から純粋かつ本質的で、更に霊的、絶対的価値を志向する独創的志向性を持った特殊感性の強い子供たちであるので、何よりもまずそれらの感性・特性がまろやかに、かつ豊かに培われ、養い育てられることこそ優先されるべき最重要事のはずです。それなのに、こともあろうにあえてその性質に逆行するようなかかる世俗的価値観、若しくはそれに基づく考え方、生き方を、いち早く強要・洗脳されてしまうのですから最悪です。
 こうして、せっかく生まれる以前より母の胎内で神によって準備されている彼らの素晴らしい感性・特性、つまり豊かな個性を早くも抑制、抹殺していくのですから、これは何という恐るべきこと、いや悲劇といえないでしょうか。それはまさに霊的、精神的、人格的乳児・幼児虐待です。悲しいかな、今日多くの世俗的価値観に基づいて子育てにあたる一般家庭においては、肉体的虐待はないまでも、この種の虐待が横行していることでしょう。
 ここで典型的一例を申し上げれば、小僕のクライアントの中には多くのウルトラ良い子たちがいます。彼らの内の一人が、先日切々とこう訴えてきました。
「先生、僕の親は、僕を馬鹿だ、馬鹿だと常に侮蔑します。この間もせっかく何カ月も待って、しかも3時間以上も並んでやっと手に入れた高価な演奏会のチケットを、長い間病気をしていた友人がそれを知ってひどく羨ましがったので、全快祝いに彼にプレゼントしました。ところがそれを聞いた母親が、『お前のお人好しもいい加減にしなさい。あんたはいつまでたってもそのお人好しの悪い性質が治らない。お前が自立して親のすねをかじらない人間になり、ゆとりができてからならいざ知らず、それもろくにできないくせにいい恰好ばかりして親切ぶるのはよしなさい。そんな料簡だからいまだにお前は人に負けてうだつが上がらないのだ』と怒鳴られました。そもそも僕は人と競争するのが嫌いです。自分は後になっても他の人が先になることを望むなら、その人に先を譲ります」と。
 この息子は、まさしくウルトラ良い子の典型です。そして皮肉なことにこの母親はと言えば、まさに功利打算の上にその人生を立て上げてきた世俗的価値観旺盛な典型的な人間です。このような極端なまでに対照的な母子関係の間に問題が起こらない筈がありません。ここに悲劇の原因が潜んでいたのです。

 

 

⑦他者受容志向性
 さて、次は他者受容志向性です。ウルトラ良い子たちは、本来は皆、他者受容的感性を持った他者に優しい、温順で、かつ包容力の豊かな資質を持った子供たちなのです。彼らは他者配慮に富み、特に自分より小さな子供たちや小動物、老人や病人など助けを要する弱い立場の人々に対して、援助の手を差し出すような、いたわりの心に富んだ人々なのです。隣人愛、弱者保護など生まれながらに人間としての尊い精神を、その人間性の内に内包しています。何と言う素晴らしい彼らであることでしょう。
 ところがこれまたこのような彼らが、そのような恵まれた資質・感性を発揮する機会を与えられず、そればかりではなくかえってその資質・感性を逆なでし、それを抑圧し、否定し、無視されるような仕打ちに遭遇し続けることにより、遂にある時よりそのような良き資質・感性を全く持ち合わせてはいなかった者のように、振る舞うようになってしまうのです。何と人間とは不思議な存在でしょうか。のみならずものすごく凶暴で、一切他者の言うことは聞かず、受け入れず、全く聞く耳を持たない閉鎖的、排他的、かつ他者攻撃的な人間に変身してしまうのです。それはそれは信じ難いほどの正反対の人間性を露呈するようになってしまいます。
 これはいったい何故でしょう。その理由はただ一つ、既に先にも述べたと同様に彼らはそれほどまでに決定的に、両親や周囲の人々によって彼らの他者受容的資質と感性を受容されず、かえって徹底的に痛みつけられ、傷つけられてしまったからなのです。それはあたかもその恨み返し、復讐のように思われがちですが、断じてそうではありません。それは彼らの傷つき病んだ心が生み出す、彼ら自身においてはもはや御し難い異常心理、異常行動であって、これは彼らの苦しみの果ての制し難い、得体の知れない心中のマグマの発露なのです。もはや哀れと言う他ありません。
 しかし、それなのに悲しいかな、このような状態に陥ってしまった子供たちの深層の心理を理解できる人々が、余りにも少なすぎるのが今日の社会の現実です。とりわけ健常な人々の間では、ほとんど理解されず、むしろ不可解な出来事として忌み嫌われがちなのです。誠に残念な話です。
 よく聞く言葉なのですが、彼らの親族や友人、知人たちはこう言うのです。
「先生、わたしたちには全く理解でないのです。あの子は、昔は心優しい、兄弟の中でも誰よりも気立ての良い、他人の気持をよく察知し振る舞う、温順な子供であったのに…。どうしてこのような惨いことをする人間になってしまったのでしょうか? 悪魔でも乗り移ったのでしょうか?」と。
 しかし、断じて悪魔が乗り移ったのではありません。あくまでも長く続いた極度の非受容・抑圧・否定・無視などによる彼らの尊厳ある志向性に対する抹殺行為の弊害(へいがい)だったのです。

 

 

⑧生命畏敬志向性
 ウルトラ良い子たちには、もう一つの顕著な特質があります。それは「生命畏敬志向性」とでも言うべき特質です。この特質は前記の「他者受容志向性」より、更に一歩奥に踏み込んだ特質で、彼らの生まれながらの感性の中には、人間の生命ばかりではなく自然界の全ての命あるものに対し畏敬する、豊かな感性が宿っています。
 彼らは本来先に述べたように、他者とりわけ弱い立場に身を置く人々や他者の助けを要する幼児や老人、病者や障害を身に負っている人々などに深い思いやりを持って、よくよく彼らを受容しようとする麗しい感性を持っているのです。しかし、その深層には人間の生命や自然界の全ての生命あるものに寄せる深い畏敬の念を本能的に宿しているのです。
 この思いは、天地万物の創造主にして、全ての生命の与え主である神を畏敬する念にも通じ、それは霊的・宗教的感性と接点を持っていると言っても過言ではありません。それゆえ、彼らが良き両親たちの下で充分受容され、心傷つかず、まろやかに成長して行ったならば、早晩彼らは心優しい動物愛護や自然保護の心に富んだ、動物たちを愛し、昆虫と親しみ、美しい可憐な植物をいたわり育てるような人間になっていたことでしょう。なぜなら、彼らはそれほどまでに生来、生命を畏敬する心と感性に富んでいたからです。
 ところが、これもまたこのような極めて尊い特質・感性を一向に理解されず、気付かれもせず、幼き頃より極度の非受容に遭遇し、更には否定さえされて育つことによって、早くもこの感性が抑圧され、極度のダメージを受け、遂には一見「生命畏敬志向性」など全く持ち合わせていなかったかの如き恐るべき言動に走るようになってしまいます。「生命畏敬志向性」などどこへやら、皮肉なことに子供たちが、母親に向かって「この婆ばあ!ぶっ殺してやる!」と叫び狂い、また可愛がっていたはずの小鳥や犬猫に危害を加え、時には遂に惨い仕方で殺害してしまったりすることが起きるのです。これまた何という悲劇でしょう。
 極度の非受容や抑圧、更には否定を受け続けることによって、彼らの本来持っていた「生命畏敬志向性」がかえって仇となり、自らがこだわっていた「生命ある者」をあえて虐待、殺害することによって、自らをここまで追い込んだ人々に対して「生命否定志向性」に走り、「生命否定的言動」をもって復讐しようとするまでに、彼らの心がすっかり傷つき病んでしまうのです。

 

すごいですね!読者の皆さんは、このような厳かな彼らの現実と、彼らの悲しみと苦悩に満ちた心理を、果たしてどこまで理解していたでしょうか。次回は、小僕がかかわった臨床事例について、紹介しましょう。


 少年Aは、いわゆる世間で言う家柄の良い高学歴を持つ両親の許で育てられました。父親は代々医者の家に生まれ育ち、自らも大学病院で外科医をしており、母親は音楽家の家に生まれ、音大を出て海外に留学したことのあるピアニストでした。兄弟は、上に姉がおり、彼は三歳年下でした。小さい頃から兄弟仲は良く、とりわけ優しい性質の姉は弟のA君を愛して、いつも弟の面倒をよく見てくれました。A君も姉が大好きで、いつでも姉を慕い、快活にその後を追いかけていました。
 ところが小学校五年ぐらいから、A君は徐々に寡黙な子になり、姉の後を慕って追いかけることもなく、自分の部屋に引き籠ることが多くなり、その部屋の中でただひたすら大好きな犬のプードルと二匹のハムスター、そして二羽のインコとだけ遊ぶ日々が続くようになりました。それのみならずあれほど大好きだった学校を、時々休むようになりました。この頃、両親は彼にも将来は医者になるようにと強く奨励するようになり、そのためには良い中学校に進学し、勉学するようにと某名門校をめざして準備するように促しました。もとより小さい頃には、父親の医者であることに憧れを持っていたA君でしたから、医者をめざすこと自体は決していやではありませんでした。しかも、さほどがむしゃらに勉強しなくても常にクラスの上位をキープできるほどの学力がありました。ところが名門校をめざすよう促した両親は、その彼に更に予備校に通うように手続きし、気の進まない彼をしいて予備校通いを強要しました。
 もとより心の優しいウルトラ良い子であったA君は、反発しないではじめの内は予備校にも通っていましたが、徐々に予備校に通うのが苦痛になり、遅刻したり休みがちになっていきました。するとそのことを知った両親は、その彼をかなりどぎつい言葉をもって叱責しました。このようなことが相次ぐ内にA君は、とうとう勉強自体が嫌になり、大好きな学校までが嫌いになってしまいました。
 やがて六年生になった時、決定的な出来事が起こりました。それは予備校も行かず、学校さえ休みがちになってきたA君が、部屋に引きこもり犬やハムスター、そしてインコとばかり戯れているのに腹を立てた母親が、「学校も予備校も行かず、怠けて動物ばかり遊び呆けていないで、しっかり勉強しなさい! そんなことをしていたら将来お父様のように立派な医者になれませんよ。それどころか世間の笑い者になってしまいますよ! 今度またこんなことをしていたなら、絶対に家で動物は飼わせませんからね」と強く叱りつけました。

 ところがその翌日もその同じことをしでかしたというので、怒った母親はA君の泣いて謝る言葉にももはや耳を貸さず、ついに犬だけは残して、ハムスターとインコを即刻他者に譲り渡してしまいました。母親はこうしたならば、息子が言うことを聞いて、勉学を再開するだろうと期待したのでしたが、残念ながらそれは大きな誤算であったばかりか、大きな悲劇の始まりとなってしまいました。なぜなら、この母親のとった行為は、A少年の優しく鋭敏なウルトラ感性を決定的に傷つけ、深いトラウマを与え、大きな心的外傷後ストレス障害(PTSD)を引き起こしてしまいました。
 その日以来、A君は一切両親はもとよりのこと、大好きだった姉とも一切口を利かず、それでも無理に話しかけ口を開かせようとする母親には、恐ろしい形相で攻撃し、父親が力づくで説得しようとすると狂気して暴言暴挙に出て、物は破壊するは、刃物を振りかざすやらで手の施しようのない異常心理、異常行動を呈(てい)するようになってしまいました。何とそればかりではなく遂にはあんなにまで可愛がっていた愛犬のプードルを、裏庭でガソリンをかけて焼死させてしまいました。あれほどまでに
生命を畏敬し、動物植物に心優しいA君の為した行為とは到底思えない恐ろしい現実がそこに結果してしまったのでした。

 

 小僕のかつて関わったことのある「生命畏敬志向性」をもった「ウルトラ良い子」の心傷つき、病んでしまった極限的な異常心理・異常行動の典型的症例でした。何と言う哀れ、何と言う悲劇でしょうか。

 

 ここでどなたにもよくよく知って頂きたいことは、これらの悲劇は、決してまれに起こる出来事やあくまでも例外的に起こる特別ケースではないという厳かな事実についてです。そして今日のような世俗的精神構造の上に築かれた日本社会においては、以上に学んできたような超鋭敏な純粋感性を持った、まさに世俗社会に馴染み難い「ウルトラ良い子」たちは、ますます人々から理解されず、かつ受容され難い存在となり、その激しい落差の中でいよいよ大きさな抑圧に曝され、軒並みに異常心理・異常行動に追い込まれてしまう危機に瀕しているという厳かな事実について理解して頂きたいのです。

 

次に、「ウルトラ良い子」たちの抑圧の最大要因となっているもの、且つその根本的原因となっているものが何であるか一緒に考えてみましょう。

 

(続く)

 

 

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