峯野龍弘のアガペーブログ

心にささやかれた愛の指針

自画像に悩む方へ(前編)

                                              G.サーバン

 

<序>

ゴッホの有名な絵の一枚に、「自画像」と言うのがあります。筆者は中学生の頃、美術部に席を置いたことがありました。あの麦藁帽子をかぶり、パイプをくわえたゴッホの「自画像」なるものを見て、思わず笑ってしまいました。なんとも素朴な親しみやすい顔でした。

 

ところでゴッホは、果たしてあの自画像を見て、何と思ったことでしょう。少なからず後世にその絵が残されたのですから、ゴッホはその自画像を受容できたのでしょう。もし受容できなかったのとしたなら、彼はそのままその絵を塗りつぶしていたことでしょう。幼稚園の子が、自分の顔の絵を書いて、出来栄えが気に入らず、せっかく書いた絵の上にバッ点を付けた上、ついにはぐじゃぐじゃに塗りつぶしてしまうように。

 

しかし、ゴッホの絵ではありませんが、お互いは人生という名の大キャンバスの上に、各々が自画像を描いているようなものです。なかなか思うようには立派に描けず、いかにも立派に写実的に描き上げたかと思えば、その自分の顔が、喜べない愛せない。のみならずしきりと他人の顔と見比べては恥ずかしがり、他者を羨(うらや)み、妬(ねた)み、ついには『こんな自分に誰がした』と親を恨(うら)むようにさえなるのです。何と今日多くの世の人々が、この「自画像」に悩んでいることでしょう。

 

果たして如何(いか)にしたらこの「自画像」を愛せるようになるのでしょう。その秘訣(ひけつ)は、いかに。

 

 

 

<Ⅰ.人は何ゆえ「自画像」を愛せないのか>

前回申し上げたいわゆる「自画像」を、多くの人は何ゆえ愛せないのでしょうか。その理由についてまずお話しましょう。それには概(おおむ)ね以下のような理由(原因)があります。

 

1,自分と他者を見比べること

自画像を愛せない第一の理由は、自分と他者を見比べることにあります。もう少し厳密に言えば、見比べること自体は決して罪でも、過ちでもないのですが、そこにひとつの価値観を持ち込み評価し、その結果他者を非難し、己を誇ったり、その反対に他者を羨(うらや)み、自ら卑屈(ひくつ)になったりするところに、大きな誤りが潜(ひそ)んでいるのです。

 

この人間の過(あやま)ちは、いつから始まったのでしょう。それはアダムとエバが創造主の御心に背き、罪を犯し、堕落した時から始まりました。旧約聖書の創世記を見ますと、そもそも人間はお互いの違い性をこよなく愛し、互いに受け容れ合い、むしろその違い性のゆえに相互に相手を自らにとって最も必要な大切な存在として認め、尊び合う事が出来たのです。すなわちアダムとエバ、つまり男と女、助けられる必要のある夫と助けるべき立場にある妻といういかにも対照的な違い性を持った二人の存在が、神の創造の御旨に従って見事に調和し、愛し合うことが出来たのでした。

 

しかし、そのアダムとエバが神の御心に背き、罪を犯してしまった堕落以後は、果たしてどうなったと思いますか。悲しいかな何と彼らの息子であるカインとアベルは、相互の違い性を見比べ合い、兄カインは弟アベルを妬(ねた)み、羨(うらや)み、遂にアベルを殺害してしまったのです。兄カインは、弟と自分の違い性を見比べ、自分の「自画像」を卑屈にも愛することが出来ず、遂に弟を受容できず抹殺(まっさつ)してしまったのです。ここに見比べ合う人生の悲劇がおこってしまったわけです。

 

おお、愛兄姉方よ、自分と茶者を見比べ合う人生を送っていませんか。


 


2,他人の批判と世俗の価値評価

お互いが自分の「自画像」を愛せない理由の第二は、他人からの批判と世俗の価値評価を恐れるところにあります。

 

人間は、本来皆神のご計画に従って、生まれる以前より神によって知られ、とき満ちるに及んで、神は各人に尊い固有の使命をお与えになり、一人一人は最高にすばらしい掛け替えのない存在として、愛のうちに生まれさせて頂いたのです(エフェソ書1章4節~5節参照)。ですからこの地上にある人間で誰一人として、見劣りする人間は存在しないのです。神の想像されたもので何一つ悪いものはなく、不完全なものはありません。ちなみに天地の創造の初め神は、ご自身の想像されたものをご覧になり、すべて「良し」とされたと記されています(創世記1章参照)。とりわけ人間の創造に関しては、「極めて良かった」と記されています。それと同様に、本来人間は誰しも神の御前にあっては、一人残らずすばらしい存在なのです。つまり各人は良い業をなすために髪によって創造された神の傑作品(けっさくひん)なのです(エフェソ書2章10節参照)。

 

それなのに罪深いこの世では互いに他者を批判し合い、いつしかお互いの作り出した虚構(きょこう)にすぎない世俗的価値基準に従って相互に品定め(人物評価)し、遂にお互いはこの誤った他人の批判や人物評価を恐れるものにしてしまったのです。その結果、他者の批判や評価を恐れて自分のありのままで尊い「自画像」を愛せなくなってしまったわけです。ああ、これまた何と悲しむべきことでしょう。

 

果たしてあなたは、自分の「自画像」を愛していますか?

 

 


3,虚栄心(きょえいしん)と嫉妬心(しっとしん)

自画像を愛せない第三の理由は、お互いの心のうちに潜む虚栄心(きょえいしん)と嫉妬心(しっとしん)です。そもそもこれらはいずれも前述したアダムとエバの原罪と世俗的価値観による他者の悪評を恐れるところから起因するのですが、その結果お互いの心のうちに支配し、巣食うようになった虚栄心と嫉妬心は、世俗的価値基準にもとづいて自らより優(まさ)ると判断される相手に対して、たちまち羨(うらや)みと、妬(ねた)みを引き起こし、それに比較して見劣りのする自分自身を『惨(みじ)めな者』『哀(あわ)れな者』と見做(みな)して激しい自己憐憫に陥(おちい)るのです。そのとき、途端(とたん)に相手と自分自身を受容できなくなり、その相手に対しては激しい妬(ねた)みと憎(にく)しみを覚えるようになり、遂にはその相手に対して受容どころの話ではなく、何と殺意まで抱くようになるのです。それと共に自分に対しては、もはや自己受容できなくなり、そんな自分が嫌になり、そこまで自分を追い込んだ相手ばかりでなく、そのように自分を産み育てた両親まで恨み出し、遂には自分の命を絶ってしまいたくなるほどになります。これが恐るべき嫉妬心(しっとしん)の果てにやってくる人間性破局です。

 

ところがこのような恐るべき嫉妬心(しっとしん)の更に奥深くには、虚栄心(きょえいしん)が潜(ひそ)んでいるのです。この虚栄心は言うまで無く先に述べたこの世に生きる大部分の人々の心を支配し、毒している世俗的価値観の弊害(へいがい)であって、特に幼少期にこの価値観を、両親を始めとする周囲の人々によって強く打ち込まれ、あたかも一種の洗脳にも似た躾のプロセスにおいて、枠組みされた人々においては、通常一生涯、回避(かいひ)不可能なまでに、この虚栄心がその人の思想と行動を縛るのです。元来生まれつき純粋思考型の優しく、かつ繊細な感性を持った子どもほど、強く感化されやすく、かつ毒され、傷つくのです。そして大人になった時、一般人に優(まさ)って、地位や名誉や財産、容姿や能力などにこだわるのです。とりわけ他者より自分が際立(きわだ)って優位に立つことを欲し、良ければ高ぶり、誇(ほこ)り、悪ければ恥(は)じ、恐れ、悲しむのです。これが虚栄心(きょえいしん)と言うものの極致(きょくち)です。彼らはかくして羞恥心(しゅうちしん)の虜(とりこ)となり、嫉妬心(しっとしん)の塊(かたまり)となってしまうのです。ですからかかる自画像を受容できなくなるのです。今日の社会では、かかる自画像に悩む人々が如何に多いことでしょう。そこで決定的に重要な事は、この世俗の価値観からの解放ということになるのです。

 

 

次号で

「Ⅱ,如何(いか)にしたら「自画像」を愛せるのか」を共に学んで行きましょう!

 

 

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