峯野龍弘のアガペーブログ

心にささやかれた愛の指針

祈りによる共同体の復興と聖霊による新紀元③

連載になっていますので、①②もお読みください。

 

祈りの重要性、聖霊の力について共に学んで行きましょう。

 

                  G.サーバント  峯野龍弘

 

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Ⅳ、祈りと嘆願

 預言者ダニエルは、神の御前に出で御顔を仰いで、粗布を纏い、灰をかぶり、ひたすら断食をもって祈り、嘆願したのでした(ダニエル9:3)。それは背信の民となり果てた選民イスラエルのための執り成しの祈りでした。それは強く胸を打つような哀願・切願の祈りでした。その祈りは先にも一言しましたように、大罪を犯したイスラエルの民の罪を裁く祈りではなく、またその反対に不信仰な民の心の迎合し、安易な気休めの赦しや平安を祈る祈りでもありませんでした。それは自らと民を一つにつなぎ留め、彼らの犯した大罪を、まさに自らの犯した罪として深く心に受け止め、悲痛な叫びをもって主の憐みに縋り、神の赦しをひたすら乞う切々たる執り成しの祈りでした(ダニエル9:4~19)。そこには何度も繰り返して、今まで長きにわたって神の御心に背き続けて来たイスラエルの民の罪を何一つ言い逃れすることなく赤裸々に認め知って、その罪を嘆き告白している真摯な嘆願の祈りが捧げられています(ダニエル9:5,9,11,15等)。この一連の切実な執り成しの祈りの中には、しばしば「わたしたち」と言う第一人称複数形と、「わたし」と言う単数形の言葉が入り混じって出てきますが、ここにこそ預言者ダニエルが自らと罪を犯した民とを一体のものと考え、同化連帯させた執り成しの祈り手としての預言者ダニエルの真骨頂が窺(うかが)われます。

 

 かくしてダニエルは、ひたすら選民イスラエルの罪の赦しと回復、とりわけ荒廃した聖所の回復と祖国への復帰を祈り、神に嘆願しました。

 

「それゆえ、われわれの神よ、しもべの祈と願いを聞いてください。主よ、あなたご自身のために、あの荒れたあなたの聖所に、あなたのみ顔を輝かせてください。」
ダニエル9:17 

 

 

 

 

Ⅴ、聖名のゆえの回復と神の栄光 

 さて、ここでお互いはこのダニエルの嘆願の祈りの中に表わされている極めて重要な一事に気付かされます。それは「憐れみ」(ダニエル9:9,18)と言う言葉と「主御自身のために」(17,19)とか「聖名をもって呼ばれる」(18b,19d)が意味するところに関してです。これは、実にその赦しや回復の根拠が選民イスラエルや預言者ダニエルの中に、更には今日のお互い人間の中には、一切存在していないことを意味しています。その赦しや回復の根拠は、ただ主の「憐れみ」と「主ご自身の聖名」の栄光のみにかかっているのです。

 

 ダニエルは、もはや選民イスラエルや自分自身、つまり人間サイドのいかなる理由によっても、その罪の赦しと選民の回復を神に祈り求め、その願いを叶えて戴く根拠・理由付けを見出すことは出来ませんでした。ただあるとすれば次の二つの内のいずれでしかないことを、はっきりと彼は認識したのでした。その二つとは、一つは「神の憐み」であり、もう一つは「主御自身の聖なる聖名のゆえに」でした。ですからダニエルは、「主よ、正義はあなたのものですが、恥はわれわれに加えられて、今日のような有様です。すなわちユダの人々、エルサレムの住民および全イスラエルの者は、近き者も、遠き者もみな、あなたが追いやられたすべての国々で恥をこうむりました。これは彼らがあなたにそむいて犯した罪によるのです。」(ダニエル9:7)。「あわれみと、ゆるしはわれわれの神、主のものです。これはわれわれが彼にそむいたからです。」(9:9)と犯した罪を切に悔い改め、自らの側からの一切の回復の根拠となるべきことは、もはや何一つないことを知っていました。それゆえダニエルは神の深い憐れみに、ひたすらよりすがり、「それゆえ、われわれの神よ、しもべの祈と願いを聞いてください。主よ、あなたご自身のために、あの荒れたあなたの聖所に、あなたのみ顔を輝かせてください。」と祈ったのでした。そして「われわれがあなたの前に祈をささげるのは、われわれの義によるのではなく、ただあなたの大いなるあわれみによるのです。」(同9:18c)と祈りました。

 

 更に、ダニエルは、究極の根拠とすべき一事に縋(すが)りつき祈りました。それは「主御自身の聖名」でした。なぜなら荒廃した聖所は、神の「み名をもってとなえられる町」に建てられていました(同9:18)。何よりも選民イスラエルの民は、畏れ多くも「御名をもって呼ばれる」民でした(同9:19)。選び主である神が、もし彼らを裁き、見捨て、回復なさらなかったとしたら、それこそ神の名が侮(あなど)られ、汚されることをダニエルは恐れました。これは丁度、預言者エゼキエルが「それゆえ、あなたはイスラエルの家に言え。主なる神はこう言われる、イスラエルの家よ、わたしがすることはあなたがたのためではない。それはあなたがたが行った諸国民の中で汚した、わが聖なる名のためである。」(エゼキエル36:22)と神が言われたことを耳元に聞いたように、ダニエルもまた今この同じ御声を聞いていたに違いありません。そこでダニエルは、今や「主御自身のために」、またその「聖なる聖名のゆえに」ひたすら荒廃した聖所の回復を祈り求めたのでした。そうすることによって何としても「み顔を輝かせて」(ダニエル9:17)頂きたかったのでした。つまり神の栄光を現して頂きたかったのでした。

 

 おお、なんと素晴らしいダニエルの祈りと嘆願であったことでしょう!お互いも何としてもダニエルのような執り成しの祈り手となりたいものです!

 

 

 

 

Ⅵ、「祈りによる共同体の復興と聖霊による新紀元」

 お互い個々人が真に目覚めて、切に主に祈る者となり、とりわけダニエルの如き良き執り成しの祈り手とならなければなりません。祈り執り成すところに聖霊が注がれ、お互いは覚醒され、そこに霊的変革を体験し、個々人としても共同体としても霊的新紀元を画することが出来るのです。

 

 お互いは以下の事柄を深く心に留めて、各自励み、また各宣教会、各方面会、各グループ、各委員会等で互いに励まし合って、祈ってまいりましょう!

 

  • 何事を始めるにも祈りをもって初め、何事を終えるにもまた祈りをもって結びましょう。そしてその間終始、祈りをもって主と共に歩み、絶えず目覚めて祈り続けましょう!
  • 各集会前には必ず祈り、集会中は祈り心を持って聞き、集会後にはしばらく祈って、感謝の内に立ち上ってまいりましょう!
  • 日々、個人祈祷(デボーション・静思の時等)を怠らず、毎週いずれかの公同の祈祷会に励みましょう!
  • 各自祈りの友をつくり、祷告グループを編成しましょう!
  • 日々、聖書を読み、霊的書物を読む習慣を身に着けましょう!
    日毎のデボーション誌の活用。

 

 ※聖書は、口語訳を引用しております。