峯野龍弘のアガペーブログ

心にささやかれた愛の指針

第3章 世俗の価値観➀

 第3章 ウルトラ良い子の抑圧の最大要因

 

 そこで先ずはじめに、「世俗的価値観」の定義をしておきたいと思います。これを一口で定義することは極めて難しいことですが、ひとまず以下のように定義しておきましょう。

 

 「世俗的価値観とは、人間各人の心の内に潜み、支配している欲望を基盤として、その上に構築された相対的価値観にして、他者との比較により暗黙の内に形成された、より世間的評価の高い世俗的枠組みであって、大いに人受けのする最大公約数的人生観・幸福観で、しかも、それが一般社会通念として機能し、日々の日常生活を規範し、人間関係を規制する社会生活上のルールとしての価値観を言う」

 

 そこでこの定義によってお分かりのように、お互い人間がこの世で社会生活を営んでいく場合に、良きにしろ悪しきにしろ世俗的価値観を無視して生きて行くことは全く不可能であって、それを無視すれば、直ちに非社会的行為を為したものと看做され、たちどころに世間からの批判を浴びざるを得なくなります。通常、この世俗的価値観は「一般常識」、「社会常識」更には「良識」などと呼ばれているものであって、それこそ最大公約数的に社会が容認し合っている日常生活上のルールをなしているものであって、決してやみくもに悪いものではありません。

 

 しかし、これまた上記の定義が示しているように、これは人間としての最高に美しく、聖く、尊い、完全かつ絶対的な生き方を規定しているものでは断じてありません。のみならず、それはあくまでも、人間各自の心の内を支配している欲望を基盤として構築された相対的価値観であると言う、本質的限界を内包しているものにすぎません。

 

 それゆえ、これ以下の低い悪しき生き方をする者にとっては、歯止めとなり、良き規範として役立ち機能しますが、しかしより純粋で高い人生を目指し、いと高き神の存在を認め、永遠不変の神の真理や御心を追い求めて生きていこうとする絶対的価値志向型の人々にとっては、この相対的世俗的価値観はその足を引っ張るもの、それを抑圧阻止する恐るべき悪しき社会的反勢力とならざるを得ないのです。

 

 ところが残念ながらこの「世俗的価値観」の背後に潜む重大な問題点と落とし穴に気付いている識者が、意外に世に少ないことは何と嘆かわしいことでしょう。果たして読者の皆様は、いかがなものでしょうか。

 

 しかし、実に、いわゆる典型的「ウルトラ良い子たち」は、本能的にと言ってよいほど、この重大な問題点と落とし穴に気付き、早くも小さいうちからこれに対して問題提起し、拒絶反応を示してくれていたのです。さて、ここで更に「世俗的価値観」の背後には、以下のような恐るべき悪しき諸要素が、内包され、付随していることを皆様はお気づきでしょうか。

 

 

1). 行き過ぎた現実主義、現象主義
世俗的価値観を構成する恐るべき諸要素の先ず第一は、行き過ぎた現実主義とか現象主義と言われるものです。これは更には外見主義とでも言ったらよいのかもしれません。そもそもお互い人間が日常生活、社会生活を営む場合に、現実や現象を決して無視して生きるわけにはまいりません。現実をよく踏まえ、諸現象をよく把握した上で、そこに良き判断を下し、生活して行かなければなりません。もしそうでなければ、お互いの人生は現実離れした、極めて抽象的で何一つ具体的な問題解決に繋がらないものなってしまいます。また起こり来る悪しき諸現象を解決するのに、一向に埒(らち)の明かない不毛の人生を過ごしてしまうことになるでしょう。そこで現実をよく踏まえ、現象をよく観察し、具体的実際的に物事を処理して行くことは、極めて大切です。この意味では、お互いは常に現実主義的、現象主義的でなければなりません。しかし、ここでお互いがよくよく注意しなければならないことは、一見この大切に見える現実主義、現象主義が、一人一人の人間の現実や現象の背後にある尊い思いや心、そして真実で純粋な動機や営みを無視して独り歩きする時、恐ろしいほど他者を裁いたり、侮辱したり、傷つけたり、更には否定したりする悪しき道具と化してしまうのです。ここではこの種の悪しき道具としての行き過ぎた現実主義、現象主義を世俗的価値観の背後に潜む恐るべき現実主義、現象主義と呼んでいます。いわゆる世俗的価値観というものは、押し並べてこの行き過ぎた現実主義、現象主義をその主たる構成要素の一つとしていることが多いのです。そこで、このような世俗的価値観を振り回す人々には、常に他者を評価するにあたって、人々の内面にある尊い思いや聖い心、また動機の純粋性や途上のプロセスにおける真実な努力や営みなどには、一向に目を向けず、ただ一方的に外見上の成果や結末、目に見えるところの現実的結果や現象にのみその判断基準を置く人が多いのです。つまり、彼らの人や物事の判断要素や基準が、すべからく現実や現象、すなわち目に見える外見上の成果や結果にのみ向けられてしまい、その人物の内面やそのプロセスにおける考慮されなければならない重要な事柄を評価し損なってしまうのです。それゆえ、これを外見主義とも言うのです。そして実にこの現実主義、現象主義、外見主義こそが、内面や動機、事物の本質やプロセスを重視する多くの純粋志向型の「ウルトラ良い子」たちの感性を大きく抑圧し、かつ傷つける結果になってしまうのです。

 

この点に関してよく理解して頂くために、ここに具体例を二、三紹介いたしましょう。

 

i). ウルトラ良い子A君の場合
 A君の両親は、両親ともいわゆる一流大学出で、父親は一部上場企業のエリート・サラリーマンでした。まだ40代前半でしたが、既に部長職についていました。母親はと言えば、彼女もなかなかの才女で、高級婦人服の店を経営していました。その事業も年々歳々業績を伸ばし、スタッフも増え、都内の目抜きの場所に3店舗を構えるほどになりました。A君には2歳年下の妹B子がいましたが、なかなか両親ゆずりで、なんでもテキパキとこなし、まだ中学3年生でしたが、大人顔負けの負けず嫌いの頑張り屋でした。両親は、このような彼女の成長ぶりを見て常に目を細め喜ぶと同時に、兄のA君の一向にうだつの上がらないことを深く嘆き、しばしば溜息交じりにこう言ったものでした。

 「世の中うまくいかないものだなあ。Aが妹でB子が兄だったら、どんなに良かったか知れない」と。既にこの頃、A君は不登校を引き起こし、学校に行けないばかりか、自分の部屋に引きこもり、テレビとパソコンだけにのめり込み、トイレ以外には自室から一歩も出ることなく、食事も部屋に差し入れしてもらい、家族が自室に入ることも断じて許さず、日々昼夜逆転の生活を送っていました。両親がそれを咎めて忠告したり、片付けようと立ち入ろうものなら、それこそ大声を上げて暴れ出し、殺傷事件が起こらんばかりとなりました。その体躯は、既に高校2年生ともなり、しかも人並みより大きく、さすがの父親ももはや力ずくではいかんともし難くなってしまっていました。

 こうした中から困り果てた両親は、数カ所の病院、相談所等を巡った末、ある方の紹介で小僕のところに来られたのでしたが、いろいろ詳細な経緯を伺い、相談を受けているうちにはっきりと浮かび上がってきたことは、このA君が既にお互いが学んできたような典型的ウルトラ良い子であったにもかかわらず、そのA君の素晴らしいウルトラ感性や特質を理解できなかった両親が、悲しいかな彼の内心の美しい動機や優しい心の動きを読み取ることが出来ず、彼の純粋な思いを無視して、ただ今為した行為やその結果だけを重視し、その外見上の現実と現象だけを判断基準に、幼い頃より彼を厳しく裁き続けてきたという事実でした。これが徐々に彼の自尊心を傷つけ、心にひどく抑圧を与え、更には大きなトラウマとなり、ついには今日の彼の異常心理、異常行動を引き起こさせてしまっていたのでした。それこそが、行き過ぎた現実主義とか現象主義、外見主義の弊害と言わざるを得ません。

 

ii). ウルトラ良い子B子さんの場合

 B子さんの両親は、両親とも学校の教員でした。父親は地方の資産家の息子で比較的無口で、どちらかと言えばやり手の妻の尻に敷かれるタイプの人間でした。母親はこれまた豪農の出身で、家柄を重んじ、高学歴、地位、名誉、財産にこだわる人柄でした。夫婦仲もあまりよくなく、近隣には親類縁者が住んでおり、何かと過干渉の複雑な人間関係がB子さんの周囲を取り巻いていました。兄弟は兄が一人だけいましたが、その兄もB子さんも共に小さいうちより英才教育を強いられ、優秀でなければ他人に笑われ、教員である両親とりわけ母親にとってみっとも無いと、絶えず叱咤激励されて育ちました。兄の方は、ごく普通の頑張り屋の真面目人間で、かつ要領の良い人でしたから、そんな母親の期待の許に常に母親の気持ちを損ねないよう大義名分を得て下宿生活をして過ごし、後に医科大学を卒業して医者になりました。  

 ところがそれとは逆に妹のB子さんの方は、典型的な生まれながらのウルトラ良い子で、このような両親の現実主義的、現象主義的な世俗の価値観から出てくる言動や子育ての手法には、悉く馴染まず、絶えず叱られどうしで、親にしてみれば兄や世の一般的子供たちのように何故この子は言うことを聞かず、我侭で、その上自分の好きなことばかりしていて、他人に迷惑ばかりかけているのかと、しきりと叱り飛ばし、時には分かるまで叩いて折檻することもしばしばでした。そこで泣き泣き仕方なしに、やっとの思いで頑張り、それこそ外見的には他者と遜色なく大学に進み、しかも大学院までも修め、就職しました。しかし、その彼女の人間性と心はひどく傷つき病んでしまっていました。やがて彼女は社会に出たのでしたが、もはや健常な人間関係が結べず、既に先に述べましたような「対人関係不全症候群」に悩まされるようになってしまいました。彼女は、他人の強い言動や些細な非難の言葉に遭遇すると、突然得体の知れない恐怖心が湧き起こり、急に泣き叫んだり、言葉を失い、体が硬直し倒れたり、時にはその逆に狂い叫ぶようにして物を投げたり、相手を攻撃したりするようになってしまいました。これは過去に数え難いほど母親から受けて来た仕打ちがすっかりトラウマとなっていて、他人の強い言動や些細な非難に出会った時、その瞬間にフラッシュバックして過去の恐怖が甦り、このような異常心理、異常行動を引き起こしてしまうのです。

  これまたB子さんが、生まれながらの優しく純粋なウルトラ感性を両親、特に母親から充分理解され、受容されて育ってきたならば、全く起こり得なかった世俗的価値観から来る、行き過ぎた現実主義、現象主義的子育ての恐るべき弊害だったのです。B子さんがしきりと母に求めていたのは、何よりも先ず、わが子のこのウルトラ良い子の感性をよく理解した上での、温かい愛による母親の全面受容だったのです。

 

 

 

2). 能率主義、効率主義

さて、次に取り上げる世俗的価値観を構成する恐るべき第二の要素は、いわゆる能率主義、効率主義です。

 

そもそもウルトラ良い子にとって重要なことは、その事柄が純粋か、真実か、あるいは本質的か、理想的か、更には自らの内に閃いた独創的な関心事に合致し、その求めるところを充足しているかどうかなのです。その上彼らは、その目的を達成するための真摯な姿勢や純なる動機を重視し、またその目的達成までのプロセスが如何に納得のゆくものであったかどうかを大切にします。

 

ですから、彼らはその事柄を極め目的を達成するためには、時間の長短や労苦の多寡を少しも気にしません。彼らは如何に他者から非能率的、非効率的と思われようと、そんなことは一向にお構いなく、ただひたすら当該の事柄の実現に没頭いたします。そこで途端に他者から批難を浴びる結果となります。挙句の果てには、「のろま」、「うすのろ」、「手際の悪い奴」などと、どぎつい指摘を受けるまでに至るのです。

 

悲しいかな、こうなるとますますウルトラ良い子たちの自尊心は傷つけられ、いよいよそのトラウマが増します。のみならず、この世の能率主義者や効率主義者と彼らとの間の溝は、哀れなるかな、止めどもなく深まるばかりです。その結果、ウルトラ良い子たちは遂に世を忌み嫌い、世間とますます遊離し、人間関係が極めて希薄となってしまいます。それどころか、にもかかわらずあえて彼らに干渉して能率、効率を要求する者があるならば、遂に彼らは発狂せんばかりに狂い叫んだり、物を壊したり、相手に攻撃をしかけたりなどして、異常心理・異常行動を取るようにまで至るのです。

 

こうしたことは皆、能率主義、効率主義に根っから馴染まないウルトラ良い子の感性、特性を理解せず、それを無視し、更には逆なでする人たちによって引き起こされた恐るべき弊害です。ですからお互いは、日頃からこの点によくよく注意する必要があるわけです。

 

 

 

3). 唯物主義、物質主義

さて、第三に取り上げるべき世俗的価値観を構成する恐るべき要素は、いわゆる唯物主義、物質主義と言われるものです。

 

世俗的価値観に支配されて生きる人々は、概して唯物的で、物質中心主義的人生観や価値観を持って日々生活しています。ですからあらゆる場面で、また諸々の出来事に遭遇するごとに、この人生観、価値観が顔を出してきます。

 

そこでは常に物事の判断や処理に当たって、その背後にある思いや感情、動機や精神、更には真理や本質というような、いわゆる心の問題が重視されず、目に見える物や金銭、日常生活における衣食住の充足等の問題がいつも重視され、最優先されるのです。

 

しかもこの考え方と生き方が、何よりも大切な日々交わるお互いの人間関係、とりわけ愛を基として結ばれ、築き上げられていくべき夫婦関係や親子関係の中にまで持ち込まれ、これを唯物主義的、物質中心的な関係に置き換えてしまうのです。そこではお互い人間にとって、特に夫婦や親子にとって極めて大切な心の問題や、精神的安息や、心を培う問題などが中心事とはならないばかりか、軽視されたり無視されたりするようになってしまうのです。そこではいつしか潤いや安息、慰めや憩い、まして喜びや幸せを分かち合える関係は遠のき、世知辛い殺伐とした人間関係ばかりが生み出されて行きます。

 

こうしたことは、決してあるべき真の関係ではありません。しかし、残念ながら今日の一般社会では、こうしたあるべからざる関係こそが主流を占めてしまっていて、むしろ唯物的、物質主義的人間関係の方が付き合い易く、かつ話し易い共通話題にさえなってしまっています。

 

ところがここにもウルトラ良い子たちを傷つけ、悩まし、更には彼らを人間嫌いにしてしまい、人間関係不全症候群を引き起こさせてしまう重大な原因があったのです。なぜなら、既に学んできましたように彼らはこのようなことには断じて馴染まないからです。

 

本来、この事は単にウルトラ良い子ばかりではなく、良識ある人々にとっても同様ですが、通常これらの人々はだからといって、この事によって心悩まし、傷つき、病んでしまうというようなことはありません。しかし、“ウルトラ良い子”たちにとってはそうはいかないのです。彼らは、こうしたことに強い不快感と嫌悪感を覚えるのです。そしてこうしたやり取りに繰り返し遭遇する内に、やがてそれは大きなストレスとなり、不安感、恐怖感さえ覚えるようになり、遂にはトラウマを引き起こし、対人関係不全症候群にまで発展するのです。

 

そこで是非、読者の皆さんにはよくよくこの点を理解し、彼らの良き擁護者になって頂きたいものです。残念ながら彼らのこのような特有かつ微妙な心理をよく理解し、彼らを擁護して下さる方々の何と少ないことでしょう。悲しいかな、これが今日の社会の現実です。

 

ここで唯物主義、物質主義的人生観や価値観の過ちに対する主イエス・キリストの戒めを少しばかり紹介しておきましょう。

i. 人はパンだけで生きるものではない
キリスト者であるならば、誰もがよく知っている主イエス・キリストの一つの御言葉があります。それは「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4・4)という御言葉です。これは主イエスが、荒野で四十日四十夜の断食をされ激しい空腹を覚えられた時、その期に乗じてサタンが主イエスを誘惑し、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と問いかけた際に、主イエスがすかさずお答えになった御言葉です。この御言葉こそ、まさに人間が「パン」という“有限な地上的物質”によってだけ生きるものではなく、「神の言葉」つまり“永遠、無限な天的、霊的、かつ神的な真理”によって生かされる崇高な存在であることを言ったものです。

 

しかし、ここで思い違いして頂きたくないことは、主イエスは決していたずらに「パン」つまりこの世の「物質」を軽視したのではありません。人間が肉体を有する限り、その生存のためには動物たちと同様に絶対に「パン」(食物)が必要であり、そればかりではなく衣類や住居など様々な物質的必要事があります。これを主イエスが軽視したり、否定したりするはずがありません。

 

ところが、だからといってお互い人間が、動物と同様に肉体的生命維持さえ出来ればそれで良いというものでは決してありません。人間は、他の如何なる被造物たちとも本質的に異なり、彼らよりも遥かに尊い崇高な存在として神によって創造された、別格の被造物なのです。聖書ではそれを「神はご自分にかたどって(似せて)人を創造された」(創世記2・26、27参照)と表現しています。つまり人間は、動物でも植物でもなく、ましてや鉱物でなく、何と“神に近似する”尊い存在として、神ご自身によって創造されたのです。

 

ちなみにこの神に“近似する存在”であるということは、人間の“尊厳と限界”を明示したものであって、「尊厳」とは人間は他の被造物と全く異なって、神ご自身に似る者として、まさに別格の存在として創造されたことを意味し、またその「限界」とは如何に神に似ていようとも、人間は神そのものでなく、断じて神になることもあり得ないことを意味しています。

 

そこでこの神ご自身に近似するほど尊厳ある存在として創造されたお互い人間は、あたかも動物のように食物だけを摂取して、ただ唯物的に肉体的生命維持のみを図ればこと足りるといった存在では断じてないのです。お互い人間は何としても神のように考え、神のように生きなければならないのです。そのためには先ず神ご自身の存在を認識し、そこで「神の口から出る一つ一つの言葉」、つまり“永遠、無限な天的、霊的、神的真理”(これを「神の御心」と呼ぶ)に学び、かつそれに従って生きることが必要になるわけです。これこそが人間が真に尊厳ある「神にかたどって創造された」(創世記2・27b)人間となることを意味しているのです。

ですから、このように考えてみると如何に唯物主義的人生観や物質主義的人生観が、人間の尊厳ある本質に照らして非本質的な誤った人生観であるかが、よく分かると思います。実に主イエス・キリストが「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と言われたその真意が、まさにここにあったのです。

 

 

 更にまた唯物主義、物質主義的人生観や価値観の過ちについては、次に述べる主イエス・キリストの戒めの中でも示唆されています。

  1. 宝は天に積みなさい

すなわち、主イエスは、ある時弟子たちに「あなたがたは地上に富を積んではならない。…富は、天に積みなさい。…あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」(マタイ6:19、20)と戒められました。

 

ここで「富」と訳されている言葉は、「宝」とも訳される言葉ですが、こうした「富」や「宝」は、言うまでもなく通常はお互い人間が地上で蓄える「富」や「宝」を意味しています。しかしここで主イエスは、弟子たちに「富」や「宝」を天に積めと言われているのです。これは一体何を意味しているのでしょうか。

 

その意味は、こうなのです。主イエス・キリストは、「富」とか「宝」という言葉を、お互い人間にとって最も「大切なもの」、「価値あるもの」、更には「高価なもの」という意味に用いています。

 

そこで、人間にとって最も「大切なもの」、「価値あるもの」、「高価なもの」とは何でしょうか。それはこの地上で人が手に入れたり、蓄積したりする所詮「虫が食ったり」、「さび付いたり」、時には盗人が忍び込み「盗み出したり」することのある地上の財産や宝ではありません。それらは有限かつ相対的なものに過ぎず、時代と共にその価値が変化し、風化し、遂には失われて行く定めにあるものです。しかも、これらのものは如何に尊そうに見えても、所詮死んだ後に天国まで携えて行くことの出来るものではありません。わけても「天国」や「永遠の命」は、決して金銀、財宝等で買い求めたりすることはできないのですから。

 

それでは何が人間にとって最も「大切なもの」、「価値あるもの」、そして「高価なもの」なのでしょうか。それは主イエスが言われたように、この地上の「物」や「宝」ではなく、「虫が食ったり」、「さび付いたり」、また「盗み出したり」することのない、決して変化も、風化も、朽ち果てることもない、まさに天国にまで携え行くことのできる永遠に存続可能な「絶対的価値あるもの」を意味しています。

 

そしてこのようなものこそが、実はこの地上でも最も「大切なもの」、「価値あるもの」、そして「高価のもの」であって、天国にまで通じないこの世で所有する如何なる「大切なもの」、「価値あるもの」、「高価のもの」つまり「富」や「宝」は、結局のところこの地上限りの一時的な有限かつ相対的な、人生にとって第二義的、従属的価値に過ぎないのです。

 

それゆえこのようなこの世の「富」や「財産」は、「見せかけの宝」に過ぎず、お互いの人生にとっては「偽物(イミテーション)」に過ぎません。ですから物質主義者や唯物主義者は、この地上限りの有限な「富」や「宝」を偏重し過ぎて、天国にまで流通性のある最も「大切なもの」、「価値あるもの」、「高価なもの」つまり永遠的、絶対的、第一義的、本質的「真の宝」(本物)を見落としてしまうのです。

 

彼らの「思い」や「心」は、ひたすら地上の「富」や「宝」に引き付けられているので、決して「天」や「天国」、更には「永遠の命」等の存在を知って、その永遠的、絶対的、第一義的、本質的「真の宝」を展望して、お互いの人生を建て上げて行こうとはしないのです。

 

ここにこの種の人々の重大な誤り、若しくは弱点があるわけです。そこで主イエスは、先に記しましたようにこう言われたのです。「地上に富を積んではならない。…富は、天に積みなさい。…あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」と。

 

では天に積む「富」や「宝」とは、具体的には一体何を意味しているのでしょうか。それは言うまでもなく、お互いの日常生活の中に実践される霊的、信仰的、精神的な「心と生き様」です。すなわち愛や聖さ、礼拝や献身的奉仕、神讃美や祈り、信頼や誠実、謙遜や勇気、忍耐や寛容、慈しみや憐みなどの美徳です。

 

何と「ウルトラ良い子」たちは、元来このような「真の宝」と出会い、自らもそれを身に着けたいとの潜在願望を抱いています。それにもかかわらず、彼らは幼少時より唯物主義、物質主義的両親や周囲の人々によってその尊い潜在願望を踏みにじられるような躾や教育に出会い、早くも彼らの心の内に抑圧を受け、やがてそれがトラウマとなるほどまでに、心病んでしまったのでした。まことに哀れと言う他ありません。

 

 (続く)

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第3章 世俗的価値観の2大元凶(世俗の価値観と我執)

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第3章 ウルトラ良い子の抑圧の最大要因

さて、今日の日本社会においては、「ウルトラ良い子」たちが、極度の抑圧の危機に遭遇していると前述しましたが、ではその抑圧の主たる要因が何であり、その原因がどこに潜んでいたのか記してみましょう。

 

先ずはじめに、その結論をあらかじめ明示しておきたいと思います。そこで筆者は、何のためらいもなく、今次のように申し上げたいと思います。すなわち、その抑圧の根本的原因、つまり諸悪の根源は、実にお互い人間各自の内を巣食い、且つ支配している欲望を基盤として、その上に構築されている「世俗的価値観」と「我執」とにあるのです。これを「ウルトラ良い子」を抑圧する「二大元凶」と呼んでもよいと思います。

 

そこでこの二大元凶について、以下において更に詳述してみましょう。

 

  1. 世俗的価値観

先ず、第一に「ウルトラ良い子」を抑圧する第一の元凶は、何と言っても「世俗的価値観」です。筆者自身、長い間これらの心傷つき病んでいる「ウルトラ良い子」たちの抑圧の真の原因が何であるか理解していませんでした。もちろん、心理学者や精神科の専門医が通常解説するその理由や原因については、充分に弁(わきま)えていました。しかし、約45年間に亘り、多くの心病み傷ついている青少年と交わり、彼らの心の奥底から苦悩に満ちた叫び声によくよく耳を傾け続けるうちに、ある時ハッと気付かされたのです。彼らの共通の叫びは、実に彼らを深く傷つけ悩ませ続けてきた抑圧の究極的原因が、何とお互いの日常生活の中に支配している「世俗的価値観」にあったという厳かな事実を気付かせてくれたのでした。

 

それまでは何の疑問も抱かず、いやむしろこの「世俗的価値観」こそがお互いの人間生活にとって最も重要かつ不可欠の生活の知恵であり、価値観であるかのように思い込んでしまっていました。それゆえ、各自の内にこの「世俗的価値観」を確立することこそ、より重要なことであり、かつこれなくして社会生活は成り立たないと思い込んでいました。

 

ところが、これこそが重大な間違えであって、「ウルトラ良い子」たちは生まれながらにして、まさに本能的にとさえ表現してよいほど、この誤りを認識しており、これに対して拒絶反応を示し続けてきていたのです。

 

ところがこのような彼らに対して、この世は絶えず繰り返しその「世俗的価値観」を強要し続けてきていたのでした。彼らは成長し、もの心が付けば付くほどそれに拒絶反応を示し、のみならず「世俗的価値観」よりも遥かに尊い「真の価値観」との出会いを渇求していたにもかかわらず、悲しいかな、通常人にはそれがたとえ親であっても理解できず、なおも執拗に「世俗的価値観」の強要をし続ける結果となってしまったことにより、彼らの生れながらの純粋且つ鋭敏な「ウルトラ感性」、つまり「ウルトラ良い子性」が、早くも極度の抑圧に遭遇し、それが徐々に傷つき、病むようになってしまったのでした。

 

筆者は、この深刻且つ重要な真理を、心傷つき、病んでしまった彼らを通して、厳かに開示されたのでした。そこで、この「ウルトラ良い子」たちを抑圧する諸悪の根源である「世俗的価値観」とは何かについて、更に解説いたしましょう。(続く)

 

 

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「飼い葉おけの赤ちゃん」

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飼い葉おけの赤ちゃん

それがこの世に来られたキリスト。

何ゆえにキリストは、

飼い葉おけをベビー・ベットとされたのか。

 

赤ちゃんは何も知らない。

それがどんなに貧しく惨(みじ)めでも、

選(よ)り好(ごの)みをしない。

寝かされたところ何処(どこ)でも安(やす)らかに眠る。

 

そこで眠り、そこで目覚め、

そこで戯(たわむ)れ、そこで喜び時を過ごす。

自ら場所を選ばない。

自らのおかれた場所で健(すこ)やかに育つ。

 

そこから赤ちゃんは仰ぎ見る、

優しく見守り、いつも傍(かたわ)らに寄りそう母を!

母は常にそこにいる。

むずかればあやし、望めば乳を含ませる。

 

そのように赤ちゃんになろう。

それがこの世で暮らす最良の秘策。

何ゆえこのような境遇に、

生まれ育たなければならなかったのか。

 

飼い葉おけの赤ちゃんは、

いかに貧しく、汚れた固いベットでも、

選り好みしなかった。

そのベットに身を任せ、母を仰ぎ見た。

 

母は赤ちゃんを愛し、

常に深い慈しみをもって絶えず見守り、

片時も目を離さない。

幼子は決して見捨てられず、守られる。

 

飼い葉おけの赤ちゃんは、

おお、本能的にそのことを知っていて、

自らの居場所を選ばない。

母のいるところこそ最良の居場所だから。

 

飼い葉おけの赤ちゃんには、

その赤子を見守る母マリヤがいたように、

逆境をベットとするわたしには、

常にわたしを見守る主キリストがおられる。

 

だから赤ちゃんになろう。

どんなこの世の厳しいの試練のベットでも、

共におられる主を仰ぎ見て、

選り好みせず耐え忍び、身を委ねよう!

 

        

                                                     

 

 

「有意義なクリスマスの過ごし方」 

本年もクリスマスの時節を迎えました。主イエス様の御降誕を祝い、教会はもとよりのこと、個々人においても有意義なクリスマスの時節を過ごさせていただきましょう。

まず第一に、何よりもお互いはキリスト者として、クリスマスが自らにとってどんなにか大きな掛け替えのない意義深い日であるのかを深く心に留めて、心からの感謝と喜びをもってクリスマスを迎えましょう。つまり人間となられた神の独り子イエス・キリストのお誕生がなければ、主の十字架の死も復活もなく、それゆえお互いの神の御前での罪の赦しも贖いも、そして永遠の命も、またやがての神の御国での永遠の安息もなかったことになるのですから。

 

 主イエスの御降誕は、このような驚くばかりの恵みと救いの訪れの確約であり、その成就の先駆けでした。のみならずこの世における罪との戦いや諸々の試練や苦難との戦いに対する勝利の保証でもありました。主イエスがこの世に来られて、この素晴らしい恵みをわたしたち御子を救い主と信じるすべての者のために完備して下さったのでした。何という感謝、何という喜びでしょう。この大きな恵み、驚くばかりの恵みを覚えながら、感謝と喜びをもってクリスマスを迎えようではありませんか。

 

 第二に、主イエスの御降誕の喜び訪れは、どのような人々にもたらされたでしょうか。荒野で野宿しながら羊の番をしていた貧しい羊飼いたちでした。そこには誰一人として、裕福な者、身分の高い人々などいませんでした。その時、エルサレムの都では人口調査のため各地より訪れて来た多くの人々でごった返していました。どこの宿屋も満員で主イエスの両親となったヨセフもマリヤも、泊まる宿がなかったほど人で溢れていました。しかし、このような時も彼ら羊飼いたちは無縁の存在でした。なぜなら彼らは羊飼いと言ってもおそらく雇われた羊飼いだったと思われます。彼らは人口調査の対象外の貧しく、名もなく、家もない当時の納税対象者外の浮遊者であったでしょう。つまり人並みに扱われない気の毒な境遇の人々であったに違いありません。しかし、何とこともあろうに高貴な神の御子の御誕生に当たり、彼らが世界最初のクリスマス、つまり御子の誕生祝いの礼拝に与ることが出来たのでした。

 

 のみならず更にまたこの世界最初のクリスマス礼拝には、何とユダヤ教ユダヤ人からすれば全くの門外漢であった異邦人で、はるかかなたの東方ペルシャの国から来た占星術の博士たちが招かれていたのでした。

 

 これらのことを深く思いめぐらす時、今日の教会とキリスト者はいつしかクリスマスを祝うのにキリスト者好みの内向きのクリスマスを祝ってはいないでしょうか。教会内の各会が企てる“クリスマス祝会”などと呼ばれる集いは、大方この内向きのクリスマス行事に終始し、むしろこのようであることにこそキリスト者ならではの本来のクリスマスが出来るのだと豪語する人々さえいるほどです。確かにこれと並行してキリスト者以外の人々のために伝道的なクリスマス集会や未信者向けのクリスマス行事や諸集会を、別途企画し実施しているような場合は、キリスト者だけの濃度の濃い内向きのクリスマスを祝うということにも大いに意味のあることは言うまでもありません。しかし、そうでないとするならば実に世界最初のクリスマスとはおよそかけ離れた、教会にとっては無縁の浮遊者や門外漢(もんがいかん)と思われるような未信者を全く切り捨ててしまった誤ったクリスマスの祝い方に陥(おちい)ってしまうことになるでしょう。そうです。世界最初のクリスマスを思う時、こうした人々を決して切り捨てることがあってはならないはずなのです。この点をお互いはよくよく留意しようではありませんか。

 

 また同様に各家庭や個人がクリスマスを祝う時にも、全く同じような注意と配慮が必要です。つまりキリスト者である自分たちだけが喜び楽しむクリスマス行事をしないで、日頃教会やキリスト教に無縁の人々をもその家庭の集いに招き、共に主の御降誕を喜び祝うことが出来るような、愛の配慮を試みたいものです。すべてのキリスト者やクリスチャン・ホームが、こぞって“愛のクリスマス・パーティー”を各家庭で開きし、そこに未信者の友人・知人・親類縁者を招待し、心行くまで明かるく楽しい愛の溢れたクリスマスのひと時を過ごしてほしいものです。これこそが世界最初のクリスマスの原点に立ち返った、真のクリスマスの祝い方と言っても過言ではありません。

 

さあ、有意義なクリスマスを迎えて参りましょう!

 

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第2章 ウルトラ良い子の8つの特質 

                       G.サーバント

 

 さて、ウルトラ良い子には概(おおむ)ね共通するすばらしい8つの特質が宿っています。ところが極めて悲しく残念なことは、多くの両親たちがこの彼等の特質について気づかないまま子育てをしてしまったために、その尊いウルトラよい子の性質を無視してしまい、のみならずその性質を踏み躙(にじ)り、傷つけ、遂には心病み、異常心理、異常行動をさえ取らせてしまう人生の悲劇を生み出してしまっているのです。
 本稿をお読みになられる方々のご家庭においては、是非ともその轍を踏まないように、よくよく留意していただきたいものです。そもそもよほど専門知識に富み、経験豊富な人々でない限り、生まれてから相当の年月が過ぎない内は、わが子のウルトラ良い子性に気づき難いのです。そこで、ウルトラ良い子性に通常はなかなか気づき難いため、一旦それを傷つけてしまってからでは、それを癒やし健常に復元するには、多くの時間と労苦がいるようになります。そこで、子育てに当たるご両親たちに次のようにお勧めします。
 「どうかあなたのお子様が、ウルトラ良い子かどうか分からなくても、一向にご心配なさらないで下さい。『うちの子は、きっと極めて尊いウルトラ良い子に違いない』と思って、先ず3、4歳まで大切に、良く受容して育てて下さい」と。
そう言われることは、子供一般にとっても極めて益となり、害は全くありません。しかし、その逆は重大な失敗をしかねないのです。そうこうする内にウルトラ良い子か普通の子か、良く見極めがつくようになるでしょう。その時、それぞれの性質に即した子育てを、いよいよ本格的に取り組めばよいのです。これで決して遅くなることはないのです。
  大切に受容して愛のうちに育てられた3、4歳までの子は、その個性と固有の感性が引き出され、良く育ち、何よりも自らが親から愛されている大切な価値ある存在であること、つまり自己の尊厳を確信できる豊かで、まろやかな心をもった、のびのびと更に成長していくことの出来る良き資質を持った子供となることでしょう。ともあれ概して幼児たちは誰でも皆、本来のウルトラ良い子と見極めがつかないほど、純粋無垢で麗(うるわ)しいウルトラ良い子的資質を宿している者なのですから。

 

 

 

➀純粋志向性

 さてウルトラ良い子の特質の第一は、彼らは生まれながらにして純粋な志向をする特性を有しているということです。彼らの願望し、思い図ることはいつも純粋で、その夢が大きく、理想は高いのです。そこでしばしば他者から見れば極めて現実離れしていて、単なる理想主義者である以上に空想家・妄想家のようにさえ見えます。しかし、彼らは決して異常なのではなく、健常以上に卓越したウルトラ純粋人間で、「夢見る人」であり、「メルヘン志向」の人たちなのです。彼らは幼い日はもとよりのこと、老人になってもこの特質を決して失わないのです。これは神が彼等に生まれながらにしてお与えになった、天与の感性だからなのです。
 ところが世俗的な価値観に毒(どく)されている両親や他の人々は、これを理解することが出来ず、「あんたは、いつになったら大人になるの!」、「いつまでそんな子供じみた幼稚な馬鹿げたことをしているの!」と叱りつけるのです。
 しかし、これは決して子供じみた、幼稚で、馬鹿げたことではないのです。ウルトラ純粋感性のしからしめるところなのです。これこそがその当該の人物にとっても、また社会全体にとっても有益かつ重要なことであり、このような感性・特性を持った人々の存在のゆえに、人間社会全体が純粋で、理想的な、かつ夢のある美しい社会を維持することができるのです。
 私の少年時代、当時お互い少年たちの心と思いを掻き立て、血沸き肉踊らせるほど熱狂させた少年漫画の作家にしてイラスト・レーターでもあった小松崎しげると言う人がいました。この人は空想科学漫画を描き、当時の科学では到底不可能かつ空想に過ぎない宇宙飛行船の存在や遠隔地との間での同時映像交信できる特別システムを夢みて、実にリアルにそれを描き出し、彼の作品の中に登場させていました。当時の大人たちでこれをほんとに実現可能だと思った人は、ほとんどいなかったのではないでしょうか。面白いけれども、これはあくまでも漫画の世界で、誰がこんな子供騙しの馬鹿げたことを信じられるものかと、おそらく一笑に付していたに違いありません。ところがどうでしょうか。それが今や現実となって、スペース・シャトルが宇宙に浮かび、テレビ、インターネットの映像が世界中を駆け巡っています。真に愚かであったのは嘲笑った世俗的現実主義者で、このウルトラ良い子系の純粋志向者ではなかったのです。
ところが実に恐るべくして、悲しきことには、今日の現代社会ではこのような純粋志向を持ったウルトラ良い子たちが、次々と嘲られ、退けられ、虐げられさえしているのです。しかもそれが愛され、誰からよりもよく理解され、養護されるべきはずの両親からさえ、言葉と行為をもって否定され、抑圧され、虐げられているのです!21世紀の現代社会は、過去の如何なる時代にも優って、このウルトラ良い子たちにとっては生きづらい、「受難社会」だとわたしは思っています。どうか純粋志向を持った極めて尊い子供や人々の中から「殉教者」を出さないで下さい!

 

 

② 本質志向性
 さてウルトラ良い子の第二の特質は、常に彼らが本質的なものを強く慕い求めるという言わば「本質志向性」と言うべきものを有しているという点にあります。筆者は、「生まれながらの哲学者」などと呼んでいます。彼らはなかなかの真理探究者で、思索家です。彼らは通常の子供たちにも優って小さい頃よりよく「なぜ」、「どうして」と言う質問を親に発します。そこで親が一通りその理由を話して聞かせますが、ありきたりのその場しのぎの解答では納得できず、またしてもその解答に対して更に「それはどうして」、「なぜなの」と聞き返してきます。あまりにもしつっこく何度も尋ねるので親の方は、すっかり面倒になり、「うるさいわね。もう何度も言ったでしょ。いい加減にしなさい」などと叱りつけたり、拒否したりしてしまいます。中には「あなたは頭がおかしんじゃないの。普通の子なら一、二度説明したらすぐわかるのに」と溜息交じりに罵(ののし)る母親もいます。しかし、後になって対人関係不全症候群に悩む子供たちの悲劇は、このようなやり取りの中から徐々に造成されていくのです。
 彼らをまだ小さいのでよく分からないだろうなどと、みくびったり侮ったりしてはなりません。彼らは「生まれながらの哲学者・思索家」で、物事の奥にある真理や真実、原因や理由を深く突き止めないと、自らの心がいつまでも落ち着かないというほど知りたがり屋で、かつ本物・本質探究者なのです。また彼らはいい加減なところでは途中下車できないほどの本物志向の人生探求者でもあるのです。
 ある時、二歳になったばかりの幼子がお父さんに「パパ、これナニ?」と尋ねました。父親は「これは『椅子』だよ」と答えました。するとその子はすかさず「ドウチテ?」とその理由を聞きました。そこでお父さんは「こういう形をした物は、みな『椅子』と言うの」と畳みかけるように答えました。納得できない幼子は、またしても「ドウチテ?」と尋ねました。そこで父親は「お座りするものは皆『椅子』と言うんだよ」と答えました。そうするとその幼子は傍にあった「おまる」(幼児用便器)を見てうれしそうに「いちゅ(椅子)、いちゅ」と言いました。父親はややあわてて「それは違うよ。ウンチするための『おまる』だよ」と訂正しました。しかし、幼子は納得できず泣き出しそうな顔でまたしても「おまる」を指さし「いちゅ、いちゅ」と言い張りました。
この時その父親は重要なことに気付かされました。それは自分たち大人は、案外物事をいい加減に鵜呑みして納得しているが、いかに幼子の方が事物を深く真摯に追求し、理解し、納得しようとしているのか、それにもかかわらずそれらの子供たちを見くびり、十分な説明、納得をさせないうちに、大人の考え方で一方的に押しつけ、それを受け入れない子供を物分かりの悪い、言うことを素直に聞き入れない子供と決めつけて、叱ったりしていたかに気付かされました。
 実に、子供たちは大人たちに優(まさ)って事物の本質や事柄の奥に潜(ひそ)む真理を知りたがっているものなのです。とりわけ「ウルトラ良い子」と呼ばれる素晴らしい感性を生まれながらに豊かに宿している子供たちにとっては、なお更なのです。ところが大人たちはそれと気づかず彼らを見くびり、軽くあしらい、更にはわからず屋と決めつけ、たしなめ、大人の考えや仕方に強引に引き込もうとしてしまうのです。するとその時、早くも本質志向性を持った「ウルトラ良い子」たちの心に抑圧を与え始め、更にはその尊い心と感性に重大な傷を付け始めてしまうことになるわけです。この点によくよく注意を払う必要があります。
 ところでよくこんな質問に遭遇します。既に不登校になって久しく、家にいてもほとんど部屋に引きこもり、自室に家族さえ入らせず、昼夜逆転し、その上更に何か注意しようものなら途端に逆切れし、どなり散らし、大暴れするわが子について、「先生どこがウルトラよい子なのですか。うちの子は何一つ是々非々を弁えられず、いつになっても幼稚で、まともなことは何一つできず、そのくせ他人を批判する段になると偉そうに、立派な口をきくのですが…」など、しきりに嘆かれるのです。
 こうした彼ら病める子らの言動の中には、およそ健常人から見れば支離滅裂(しりめつれつ)で、異常なほどに強烈な自己主張ばかりが目立ち、そこには何一つ卓越した本質志向性など見えてこないという場合が多いのです。しかし、それでいて彼らは依然「本質志向性」を持った人間であることに変わりはないのです。
 何故そうなるのかと言えば、現在現われている異常行動、異常心理は、すべて彼らがそれほどまでに心傷つき病んでしまっていることのゆえであって、彼らはその見かけの現象や症状とは不連続に、あくまでも依然本質志向性を持ったウルトラ良い子たちなのです。ただその極度の抑圧とトラウマのゆえに、その本性が機能できず、停止状態になってしまっているばかりか、これは真に不思議なことなのですが、ほとんど多くの場合それが全く逆転して発症してしまうのです。
 これこそが極度の抑圧とトラウマの悲劇、脅威と言えましょう。筆者は、この逆転症状の信憑性(しんぴょうせい)をこの種の多くの心病める青少年たちの事例の内に見届けてきました。これらの点に関しては、また後に詳述しましょう。

 

 

③ 霊的志向性
 次は、霊的志向性です。ウルトラ良い子たちは、生まれながらにしてこの霊的志向性に富んでいます。霊的志向性とは、霊的感性(霊感)が鋭く、目に見える可視的世界を越えて、目をもって見ることのできない不可視的世界に深い好奇心、探究心を抱き、死後の世界や永遠の世界、神の存在やその裁き、霊魂の存在やその滅び等に深い関心を持つ特別の性質(傾向性)を言います。筆者は、彼らを「生まれながらの宗教家」などと呼んでいます。彼らは、ことさらに誰かからこうした内容のことを聞かされたり、学んだわけではありませんが、幼いころより霊的関心が強いのです。
 例えば、まだ3歳の小さな女の子で、通常の子供たちであったなら決してそれほどまでに死を恐怖しないはずなのですが、ウルトラ良い子は死を異常なほど恐れ、毎晩夜になるとなかなか寝つかれず、「わたしは死んだらどこに行くの?」としきりと母親に尋ね、困らせるケースがあります。
 また中学生位の女の子で、よく占いや迷信に心ひかれ、これにのめり込んだり、騙(だま)されたりする子がいます。これらの子供たちの多くが、実は生まれながらのウルトラ良い子で、かつ霊的志向性に富んだ子供である場合が多いのです。ですからこうした子供たちをやみくもに「臆病(おくびょう)な子」、「おかしな子」などと、軽く往なしたり、あしらったりしてはなりません。それが彼らの内に宿っている極めて大切な霊的志向性から出ている場合があるからです。その場合は、その真意をしっかりと受け止め、その霊的志向性が健全な形で伸びて行くように善導してあげる必要があるのです。
 それなのに、それを放置し、のみならず嘲ったり、否定したりしていくと、後になってその充足されなかった思いや否定された悲しみの感情が屈折して、悪霊や呪詛などに引き回される異常心理や異常行動を引き起こさせる一大原因になりかねないからです。そして意外にこのような不幸なケースが、今日続出しているのです。異端やいかがわしい宗教に走る人々、また自ら神がかった言動をとる宗教的妄想に取りつかれた精神疾患者などの内に、実はこの種の人々が多く含まれているのです。

 

 

④ 絶対価値志向性

 次に彼らは、生まれつき絶対価値志向性という素晴らしい特性を持っています。つまり彼らには生まれついた時から、その内に“絶対的価値観”とでも言うべきものを追い求めて生きようとする性質が宿っています。
 それは究極“神の価値観”つまり“永遠不変の神の真理に基づいて物事の価値・是々非々を定めようとする価値観”で、これは洋の東西を問わず、いつの時代でも変わらず、まさに永遠不変の価値であって、これこそ“絶対価値”と呼ばれる所以です。
 しかし、この世では通常そうではなくお互い人間同士が、相互に比較し合って、誰が決めたものでもないある種の世俗的枠組みに従って、相対的に物事の価値判断をしていく相対的価値観が主流をなしています。これは後に述べるまさしく世俗的価値観そのものでもあるのですが、ところが不思議なことにウルトラ良い子たちは、概して生来この相対的価値観に馴染み難く、その反対に絶対的価値観に馴染み易いのです。
 この強い傾向性を「絶対価値志向性」と呼ぶのです。それなのに両親たちは、いち早く彼らがまだもの心さえつかないうちから、相対的価値観または世俗的価値観に従って彼らを教育し始めるのです。彼らは後述するように本来はやさしく、素直な他者配慮に満ちた感性があるので、両親とりわけ母親の教えることに従順に服そうとするのですが、悲しいかな彼らの心は充足しないのです。
 なぜならその親の教えるところの相対的価値感から来る教えに、彼らの内にある絶対的価値観を本能的に志向する感性が合致しないので、得体(えたい)の知れない不納得と不満足感、更には不安が蓄積されていってしまうのです。この状態がいつまでも続くと、いつしか彼らの内には親の持つ相対的価値観に従って彼らの本来持っている絶対的価値志向性が抑圧され、一種の洗脳状態が起こってしまいます。
 これは極めて恐ろしいことで自らの心の深いところでは絶対価値を求めているのですが、それを口にし求めることは親を悲しめ、それ以上に親から見捨てられるのではなかろうかと、いたずらに恐れるようにさえなっていきます。そして更に、その洗脳された後発の相対的価値観こそが、いつしか自分の本来の価値観のように悲しくも錯覚してしまい、やがて後天的な有意識下の自分の相対的価値観と、無意識下の本来の絶対的価値志向性とが拮抗(きっこう)し、互いに対立し合うようになるのです。
この後者の性質は彼の生まれながらの本性、特性なのですからこれは決して消滅せず、誰もこれを否定したり抹殺したりすることは出来ないのです。それゆえこの心中の得体の知れない彼らの戦いは、歳と共により深刻化していくのです。
 のみならず、誰かが彼らの内にある絶対価値志向性からでた純粋な考え方を決定的に否定し、強烈な言葉で非難するようなことがあると、それは彼らの心の中に決定的な傷、つまりトラウマを与えてしまうことになるのです。悲しいかな、今日のような世俗的価値観と相対主義的価値観が主流をなす現代社会の直中(ただなか)にあっては、この絶対価値志向性を持ったウルトラ良い子たちが、次々と抑圧を受け傷ついていく結果とならざるを得ないのです。何と悲しいことでしょう。

 

 

⑤ 独創的志向性
 さて、次に彼らには更に「独創的志向性」なるものが、その性質の内に宿っています。その名の示しているように、彼らは実にユニークな発想の持ち主で、通常の人々が到底思いつきもしないようなことを考え出してみたり、それに取り組んでみたりするのです。
 彼らは素晴らしいアイディアマンで、時には普通の人間から見て極めて突飛で、かつ非常識に見えるようなことを思いつき、言ったり、為したりすることがしばしばあります。彼らは閃きが良く、かつ一旦何事かが頭の中に閃くと、そのことを成し終えるまで一向に他の仕事が手につかず、その一事に深くのめり込む傾向があります。その感性はまさに天才的で、彼らの内には発明・発見などに適する真の科学者的感性や、また素晴らしい作品を生み出して行く真の文学者や音楽家、芸術家の感性が豊かに宿っています。
 ところがこれまた悲しいかな、今日の世俗的一般社会にあっては、こうした彼らの生まれつき有している素晴らしい独創的志向性を、深く理解し評価することなく、むしろそのような人間を常識外れの変人とみなしたり、そんな暇があったらもう少しましなことをして、人並みか、もしくはそれ以上の成果を上げて、良く世間に通用する人間となれなどと叱咤激励し、その尊い独創的感性をすっかり押しつぶしてしまうことが多発しているのです。まことに嘆かわしいこと、この上もありません。
 その一例を挙げれば、小僕のケアーしていた青年の一人は、小さい頃から昆虫や小動物が大好きでした。他の子供たちと遊ぶことも、時には食事をすることも忘れて、昆虫や小動物の世話をしていました。
 やがて学校に通うようになってからは、学校の宿題も忘れて生き物の世話に没頭していました。遂にたまりかねた両親は、勉学が遅れ、成績が下がることを恐れて、この子に今後一切昆虫や小動物を飼うことを禁止してしまいました。
 それまではこの子は、だからと言って決して勉強しないわけでもなく、むしろまだ子供に過ぎないのに昆虫や小動物のことに関しては大の大人も顔負けするくらい物知りで、あだ名が「博士」と呼ばれるほどで、関連書物を読みたいばっかりに幼稚園の時には既にけっこう漢字交じりの文献を読破してしまっていました。
 ところがこの超有能な天才少年が、突然の親の世俗的価値観から、学校の勉学が遅れ成績が下がることを恐れて為した“飼育禁止令”の結果、のみならず何の子供の了解もなく突然ある日、長い間愛をこめて世話してきた昆虫や小動物を処分されてしまったことのゆえに、大なるショックと悲しみを受け、その後しばらくは両親の言うことに服して勉学に励んでいましたが、徐々に無気力になり、勉強には何一つ手をつけないほど拒否反応を示すようになりました。
 遂には不登校になったばかりか、対話も途絶え、更にはいらだちが激しくなり、暴力を振るうような子供になってしまいました。かくしてこの少年は、極度の自己破壊を引き起こし、自他共に危険のため、強制措置入院しなければならない人生を余儀なくされていったのでした。
 この頃ともなると、悲しいかな彼の内にあったあの素晴らしい独創的志向性や感性の輝きは全く失われ、そこにあるのはただ心傷つき病んだ哀れな破壊的非生産的少年像だけでした。

 

 

⑥非打算的献身的志向性
 さて、以上のような素晴らしい感性・特性がこのウルトラ良い子たちの内には種々宿っているのですが、しかしそれらばかりではなく、更に素晴らしい感性・特性が彼らの内に宿っているのです。
 そこで次に述べるのは、非打算的献身的志向性です。これはまた先に述べた各種の感性・特性に優るとも劣らない卓越した志向性です。これは、その文字をもってほぼその内容を察知頂くことができると思いますが、やはり若干のコメントをしておくことが必要でしょう。
 彼らの内には先に述べた一つ一つの特質と共に、更にそれらに加えて本来非常に無欲で、自らの損得を度外視して他者に仕える極めて献身的な性質が宿っています。ですから、彼らは、何かにつけ損得勘定を重視して物事を考え、押し進めていく今日の打算的勘定高い一般的世俗社会に馴染みにくいのです。
 彼らは自分が損をしてでも相手が喜んでくれるなら、それでいいのです。それどころかそれが嬉しいのです。ですから、筆者は彼らのかかる特性を「非打算的献身的志向性」と呼んだのです。
 ところがどうでしょうか。こうした素晴らしい感性・特性を持って生れてきた彼らに対して、多くの両親たち、特に母親たちが、まだ彼らが乳児・幼児であるうちから早くもその子の将来の出世・成功を夢見て、功利打算の上に構築されている世俗的価値観に基づいて、英才教育を始めるのです。それどころではなく、まだ生まれてもいない胎児のうちから「胎教」という名の世俗教育の特訓を始めるのです。ここで誤解のないように一言しておけば、何も胎教や早期教育が悪いと言っているのではありません。あくまでも悪いのは功利打算、つまり「欲」の上に構築された世俗的価値観にあるのです。
 そもそもウルトラ良い子たちは、既に述べたように生まれついた時から純粋かつ本質的で、更に霊的、絶対的価値を志向する独創的志向性を持った特殊感性の強い子供たちであるので、何よりもまずそれらの感性・特性がまろやかに、かつ豊かに培われ、養い育てられることこそ優先されるべき最重要事のはずです。それなのに、こともあろうにあえてその性質に逆行するようなかかる世俗的価値観、若しくはそれに基づく考え方、生き方を、いち早く強要・洗脳されてしまうのですから最悪です。
 こうして、せっかく生まれる以前より母の胎内で神によって準備されている彼らの素晴らしい感性・特性、つまり豊かな個性を早くも抑制、抹殺していくのですから、これは何という恐るべきこと、いや悲劇といえないでしょうか。それはまさに霊的、精神的、人格的乳児・幼児虐待です。悲しいかな、今日多くの世俗的価値観に基づいて子育てにあたる一般家庭においては、肉体的虐待はないまでも、この種の虐待が横行していることでしょう。
 ここで典型的一例を申し上げれば、小僕のクライアントの中には多くのウルトラ良い子たちがいます。彼らの内の一人が、先日切々とこう訴えてきました。
「先生、僕の親は、僕を馬鹿だ、馬鹿だと常に侮蔑します。この間もせっかく何カ月も待って、しかも3時間以上も並んでやっと手に入れた高価な演奏会のチケットを、長い間病気をしていた友人がそれを知ってひどく羨ましがったので、全快祝いに彼にプレゼントしました。ところがそれを聞いた母親が、『お前のお人好しもいい加減にしなさい。あんたはいつまでたってもそのお人好しの悪い性質が治らない。お前が自立して親のすねをかじらない人間になり、ゆとりができてからならいざ知らず、それもろくにできないくせにいい恰好ばかりして親切ぶるのはよしなさい。そんな料簡だからいまだにお前は人に負けてうだつが上がらないのだ』と怒鳴られました。そもそも僕は人と競争するのが嫌いです。自分は後になっても他の人が先になることを望むなら、その人に先を譲ります」と。
 この息子は、まさしくウルトラ良い子の典型です。そして皮肉なことにこの母親はと言えば、まさに功利打算の上にその人生を立て上げてきた世俗的価値観旺盛な典型的な人間です。このような極端なまでに対照的な母子関係の間に問題が起こらない筈がありません。ここに悲劇の原因が潜んでいたのです。

 

 

⑦他者受容志向性
 さて、次は他者受容志向性です。ウルトラ良い子たちは、本来は皆、他者受容的感性を持った他者に優しい、温順で、かつ包容力の豊かな資質を持った子供たちなのです。彼らは他者配慮に富み、特に自分より小さな子供たちや小動物、老人や病人など助けを要する弱い立場の人々に対して、援助の手を差し出すような、いたわりの心に富んだ人々なのです。隣人愛、弱者保護など生まれながらに人間としての尊い精神を、その人間性の内に内包しています。何と言う素晴らしい彼らであることでしょう。
 ところがこれまたこのような彼らが、そのような恵まれた資質・感性を発揮する機会を与えられず、そればかりではなくかえってその資質・感性を逆なでし、それを抑圧し、否定し、無視されるような仕打ちに遭遇し続けることにより、遂にある時よりそのような良き資質・感性を全く持ち合わせてはいなかった者のように、振る舞うようになってしまうのです。何と人間とは不思議な存在でしょうか。のみならずものすごく凶暴で、一切他者の言うことは聞かず、受け入れず、全く聞く耳を持たない閉鎖的、排他的、かつ他者攻撃的な人間に変身してしまうのです。それはそれは信じ難いほどの正反対の人間性を露呈するようになってしまいます。
 これはいったい何故でしょう。その理由はただ一つ、既に先にも述べたと同様に彼らはそれほどまでに決定的に、両親や周囲の人々によって彼らの他者受容的資質と感性を受容されず、かえって徹底的に痛みつけられ、傷つけられてしまったからなのです。それはあたかもその恨み返し、復讐のように思われがちですが、断じてそうではありません。それは彼らの傷つき病んだ心が生み出す、彼ら自身においてはもはや御し難い異常心理、異常行動であって、これは彼らの苦しみの果ての制し難い、得体の知れない心中のマグマの発露なのです。もはや哀れと言う他ありません。
 しかし、それなのに悲しいかな、このような状態に陥ってしまった子供たちの深層の心理を理解できる人々が、余りにも少なすぎるのが今日の社会の現実です。とりわけ健常な人々の間では、ほとんど理解されず、むしろ不可解な出来事として忌み嫌われがちなのです。誠に残念な話です。
 よく聞く言葉なのですが、彼らの親族や友人、知人たちはこう言うのです。
「先生、わたしたちには全く理解でないのです。あの子は、昔は心優しい、兄弟の中でも誰よりも気立ての良い、他人の気持をよく察知し振る舞う、温順な子供であったのに…。どうしてこのような惨いことをする人間になってしまったのでしょうか? 悪魔でも乗り移ったのでしょうか?」と。
 しかし、断じて悪魔が乗り移ったのではありません。あくまでも長く続いた極度の非受容・抑圧・否定・無視などによる彼らの尊厳ある志向性に対する抹殺行為の弊害(へいがい)だったのです。

 

 

⑧生命畏敬志向性
 ウルトラ良い子たちには、もう一つの顕著な特質があります。それは「生命畏敬志向性」とでも言うべき特質です。この特質は前記の「他者受容志向性」より、更に一歩奥に踏み込んだ特質で、彼らの生まれながらの感性の中には、人間の生命ばかりではなく自然界の全ての命あるものに対し畏敬する、豊かな感性が宿っています。
 彼らは本来先に述べたように、他者とりわけ弱い立場に身を置く人々や他者の助けを要する幼児や老人、病者や障害を身に負っている人々などに深い思いやりを持って、よくよく彼らを受容しようとする麗しい感性を持っているのです。しかし、その深層には人間の生命や自然界の全ての生命あるものに寄せる深い畏敬の念を本能的に宿しているのです。
 この思いは、天地万物の創造主にして、全ての生命の与え主である神を畏敬する念にも通じ、それは霊的・宗教的感性と接点を持っていると言っても過言ではありません。それゆえ、彼らが良き両親たちの下で充分受容され、心傷つかず、まろやかに成長して行ったならば、早晩彼らは心優しい動物愛護や自然保護の心に富んだ、動物たちを愛し、昆虫と親しみ、美しい可憐な植物をいたわり育てるような人間になっていたことでしょう。なぜなら、彼らはそれほどまでに生来、生命を畏敬する心と感性に富んでいたからです。
 ところが、これもまたこのような極めて尊い特質・感性を一向に理解されず、気付かれもせず、幼き頃より極度の非受容に遭遇し、更には否定さえされて育つことによって、早くもこの感性が抑圧され、極度のダメージを受け、遂には一見「生命畏敬志向性」など全く持ち合わせていなかったかの如き恐るべき言動に走るようになってしまいます。「生命畏敬志向性」などどこへやら、皮肉なことに子供たちが、母親に向かって「この婆ばあ!ぶっ殺してやる!」と叫び狂い、また可愛がっていたはずの小鳥や犬猫に危害を加え、時には遂に惨い仕方で殺害してしまったりすることが起きるのです。これまた何という悲劇でしょう。
 極度の非受容や抑圧、更には否定を受け続けることによって、彼らの本来持っていた「生命畏敬志向性」がかえって仇となり、自らがこだわっていた「生命ある者」をあえて虐待、殺害することによって、自らをここまで追い込んだ人々に対して「生命否定志向性」に走り、「生命否定的言動」をもって復讐しようとするまでに、彼らの心がすっかり傷つき病んでしまうのです。

 

すごいですね!読者の皆さんは、このような厳かな彼らの現実と、彼らの悲しみと苦悩に満ちた心理を、果たしてどこまで理解していたでしょうか。次回は、小僕がかかわった臨床事例について、紹介しましょう。


 少年Aは、いわゆる世間で言う家柄の良い高学歴を持つ両親の許で育てられました。父親は代々医者の家に生まれ育ち、自らも大学病院で外科医をしており、母親は音楽家の家に生まれ、音大を出て海外に留学したことのあるピアニストでした。兄弟は、上に姉がおり、彼は三歳年下でした。小さい頃から兄弟仲は良く、とりわけ優しい性質の姉は弟のA君を愛して、いつも弟の面倒をよく見てくれました。A君も姉が大好きで、いつでも姉を慕い、快活にその後を追いかけていました。
 ところが小学校五年ぐらいから、A君は徐々に寡黙な子になり、姉の後を慕って追いかけることもなく、自分の部屋に引き籠ることが多くなり、その部屋の中でただひたすら大好きな犬のプードルと二匹のハムスター、そして二羽のインコとだけ遊ぶ日々が続くようになりました。それのみならずあれほど大好きだった学校を、時々休むようになりました。この頃、両親は彼にも将来は医者になるようにと強く奨励するようになり、そのためには良い中学校に進学し、勉学するようにと某名門校をめざして準備するように促しました。もとより小さい頃には、父親の医者であることに憧れを持っていたA君でしたから、医者をめざすこと自体は決していやではありませんでした。しかも、さほどがむしゃらに勉強しなくても常にクラスの上位をキープできるほどの学力がありました。ところが名門校をめざすよう促した両親は、その彼に更に予備校に通うように手続きし、気の進まない彼をしいて予備校通いを強要しました。
 もとより心の優しいウルトラ良い子であったA君は、反発しないではじめの内は予備校にも通っていましたが、徐々に予備校に通うのが苦痛になり、遅刻したり休みがちになっていきました。するとそのことを知った両親は、その彼をかなりどぎつい言葉をもって叱責しました。このようなことが相次ぐ内にA君は、とうとう勉強自体が嫌になり、大好きな学校までが嫌いになってしまいました。
 やがて六年生になった時、決定的な出来事が起こりました。それは予備校も行かず、学校さえ休みがちになってきたA君が、部屋に引きこもり犬やハムスター、そしてインコとばかり戯れているのに腹を立てた母親が、「学校も予備校も行かず、怠けて動物ばかり遊び呆けていないで、しっかり勉強しなさい! そんなことをしていたら将来お父様のように立派な医者になれませんよ。それどころか世間の笑い者になってしまいますよ! 今度またこんなことをしていたなら、絶対に家で動物は飼わせませんからね」と強く叱りつけました。

 ところがその翌日もその同じことをしでかしたというので、怒った母親はA君の泣いて謝る言葉にももはや耳を貸さず、ついに犬だけは残して、ハムスターとインコを即刻他者に譲り渡してしまいました。母親はこうしたならば、息子が言うことを聞いて、勉学を再開するだろうと期待したのでしたが、残念ながらそれは大きな誤算であったばかりか、大きな悲劇の始まりとなってしまいました。なぜなら、この母親のとった行為は、A少年の優しく鋭敏なウルトラ感性を決定的に傷つけ、深いトラウマを与え、大きな心的外傷後ストレス障害(PTSD)を引き起こしてしまいました。
 その日以来、A君は一切両親はもとよりのこと、大好きだった姉とも一切口を利かず、それでも無理に話しかけ口を開かせようとする母親には、恐ろしい形相で攻撃し、父親が力づくで説得しようとすると狂気して暴言暴挙に出て、物は破壊するは、刃物を振りかざすやらで手の施しようのない異常心理、異常行動を呈(てい)するようになってしまいました。何とそればかりではなく遂にはあんなにまで可愛がっていた愛犬のプードルを、裏庭でガソリンをかけて焼死させてしまいました。あれほどまでに
生命を畏敬し、動物植物に心優しいA君の為した行為とは到底思えない恐ろしい現実がそこに結果してしまったのでした。

 

 小僕のかつて関わったことのある「生命畏敬志向性」をもった「ウルトラ良い子」の心傷つき、病んでしまった極限的な異常心理・異常行動の典型的症例でした。何と言う哀れ、何と言う悲劇でしょうか。

 

 ここでどなたにもよくよく知って頂きたいことは、これらの悲劇は、決してまれに起こる出来事やあくまでも例外的に起こる特別ケースではないという厳かな事実についてです。そして今日のような世俗的精神構造の上に築かれた日本社会においては、以上に学んできたような超鋭敏な純粋感性を持った、まさに世俗社会に馴染み難い「ウルトラ良い子」たちは、ますます人々から理解されず、かつ受容され難い存在となり、その激しい落差の中でいよいよ大きさな抑圧に曝され、軒並みに異常心理・異常行動に追い込まれてしまう危機に瀕しているという厳かな事実について理解して頂きたいのです。

 

次に、「ウルトラ良い子」たちの抑圧の最大要因となっているもの、且つその根本的原因となっているものが何であるか一緒に考えてみましょう。

 

(続く)

 

 

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「ウルトラ良い子」論

                      G.サーバント

第1章 

今日、テレビやラジオ、新聞などでしばしば世間を騒がせている、いわゆる「問題児」と呼ばれる多くの青少年たちがいます。しかも、残虐にして冷酷な殺人や傷害の手口のゆえに、世間からはあたかも殺人鬼のように恐れられている青少年の存在も、悲しいかな珍しくはありません。しかし、これらの青少年たちの中には、本来はその正反対に、通常の平均人よりもはるかに卓越した人間性を生まれながらにして身に受けて誕生してきた青少年が、決して少なくはないのです。彼らは本来なら実に純粋かつ真実で、心やさしく、情感豊かで、その上他者配慮や使命感に満ち溢れた、まさに他者貢献的な良き資質を持った、更には鋭敏な直感力や霊感に富んだすばらしい人物たちであったのです。それゆえ筆者は、彼等のことを「ウルトラ良い子」と命名しました。

 

ちなみに通常、人々は「不登校」や「引きこもり」「いじめ」「家庭内暴力」「摂食障害」「リストカット」「麻薬」「非行」・・・挙句の果てには「自殺」や「他殺」にまで及ぶ彼らを問題児、落ちこぼれ、人格障害児、悪童(あくどう)、ろくでなし、遂には極道者(ごくどうもの)などと様々な言い方で身勝手に呼称しますが、これは何と彼らにとって不名誉な、残酷かつ無理解極まりない誤った言葉であることでしょう。こう呼ばれることによって彼らの自尊心はますます傷つき、癒しは更に遠のいてしまいます。


ところで、世間ではよく自分や他人の子供たちを、無意識の内に大枠で「良い子」「悪い子」「普通の子」、更に「極めて良い子」「極めて悪い子」の五つのカテゴリーに分類し、評価してしまっていますが、筆者はこの五つのカテゴリーに入らないもう一つのカテゴリーのあることについて、あえて提唱したいと思います。それが前述した「ウルトラ良い子」です。これを「超良い子」と日本語的に呼んでも良いのですが、より多くの親しみと、並でないスケールで彼等の本性、感性の内に宿っている天よりの賜物の卓越性を考慮して、あえて奇妙に思える「ウルトラ良い子」と命名させていただきました。その意味するところについては後程詳細に解説することにいたしましょう。
しかし、ここで一言しておきたいことは、この「ウルトラ良い子」と言う概念は、先の五つのカテゴリーと縦並びに配置して最上位にランクされると言うような、いわゆる人間の能力評価やグレードを意味しているのではなく、人間の良し悪しをはるかに超えた天与の感性や性質の卓越性を意味するものであって、誰もこれを誇ったり、媚(こ)びたりすべきものではないのです。ただ大切なことは、この性質と事実を認知し、受容し、育成、活用することなのです。

 

さて、このような天与の鋭敏で、かつ純正な生まれつきの卓越した感性を付与された「ウルトラ良い子」の存在とその性質については、今日までほとんど洋の東西を問わず世間で話題にされたことがなく、しかも専門家たちの間でさえこの問題に真正面から真剣に取り組んで来た者がいませんでした。

 

筆者は、過去50年の間、心傷つき病む青少年たち、また同様の多くの大人たちのケアーに当たる中で、徐々にこの「ウルトラ良い子」の存在とその性質について気づかされ、人間関係をまろやかに結び得ず、社会的不適応や様々な異常心理、異常行動を惹き起こしてしまう、いわゆる世間で境界性人格障害(きょうかいせいじんかくしょうがい)、解離性障害(かいりせいしょうがい)、行為障害、更には摂食障害、各種依存症、果ては非行などと呼ばれる様々な病める症状を呈する人々の内の大部分が、何と本来はこの「ウルトラ良い子」であったという驚くばかりの事実を発見するに至りました。この発見は、同時に筆者にとって二つの重大なチャレンジとなって、心に深く迫って来ました。


その二つの重大なチャレンジとは、他でもなく第一は、では「何ゆえかかる『ウルトラ良い子』が、心傷つき深く病む存在となってしまわなければならなかったのか」と言う重大な問いであり、第二は、言うまでもなく「如何にしたらこの心傷つき深く病んでしまい、かつ異常心理、異常行動を惹き起こしてしまっている『ウルトラ良い子』たちを癒すことが出来るのか」と言う重大な問いでした。

 

爾来(じらい)、今日に至るまで、筆者はひたすらこの二つの重大な問いに答えたいと切に念願しつつ、この「ウルトラ良い子」論を基盤に据えて、数多くのクライアントと共に、直面する多様かつ深刻な事例の解決に従事してまいりましたが、その結果そこに見出したこれまた驚くばかりのすばらしい事実がありました。それが「アガペー(真の愛)による全面受容とその全き癒やしの道」と呼ばれるものでした。これはまさに驚くばかりの真理であり、癒やしの法則(原理)です。筆者は、これを「神が人類に与えられた永遠不変の人間性への癒やしの原理」と呼んでいます。これは「天与(てんよ)の法則」であり、人間を愛し給う神からの大いなる祝福の賜物です。この点に関しても後で詳細記述することにいたしましょう。


 なおここで、一言前置きさせて頂きたい大切な一事があります。それは何とこの「アガペーによる全面受容とその全き癒やしの道」は、如何(いか)なる種類の心傷つき、病みかつ苦悩する人々にも適用可能であり、この道に従って歩む者には必ず待望の癒やしが訪れるという事実です。本稿をご一緒に最後までじっくりと学んでくださる方々には、この事実がきっと納得していただけるものと確信しています。次回は、「ウルトラ良い子」の特質について述べてみましょう。

 

 

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「共感すること」

                 G.サーバント

共感することは素晴らしい。

共感には心を癒す力がある。

共感はどんな言葉がけより、

またどんな助けにも優って、

痛みと悲しみを癒す力がある。

 

人が極度の苦悩の中にある時、

その痛みと悲しみを真に理解し、

そっと寄り添い、共に身を置き、

共感してくれる人のいることは、              

どんなにか慰められることだろう。

 

共感なき慰めの言葉は空虚で、

深く悲しむ者の心に届かない。

共感なき励ましは喧しい鐘の音。

心苦しむ者に更なる苦痛を与え、

一人にしてほしいと叫ばせる。

 

共感なき慰めの言葉や助けは、

まさに無用の長物のようなもので、

悩める人の心の場所塞ぎにすぎず、

むしろない方がずっと心が楽で、

痛み悲しむ者の幸いとなる。

 

下手な同情はない方が良い。

同情より共感してほしい。

同情や憐みは上から目線の、

強者の弱者への心の施しで、

心傷つき病んでいる人々を、

より惨(みじ)めにすることがある。

 

それよりももっと心寄せ、

心の耳を傾けて聞いてほしい。

知ってほしい心の極度の痛みを。

強く共感して泣いてくれたなら、

その時真の理解者を得るだろう。

 

共感こそ、真の理解者の証し。

真の理解者のおることこそ、

心傷つき悩める者の慰めの源。

共感は慰めを、慰めは望みを、

望みは勇気と力を与えてくれる。

 

だから共感は素晴らしい。

共感には心を癒す力がある。

共感はどんな言葉がけより、

またどんな助けにも優って、

痛みと悲しみを癒してくれる。

 

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自画像に悩む方へ(後編)

                       G.サーバント 

 

前編では、「自画像」を愛せない理由について学んできましたが、今日は、「ひとたび愛せなくなってしまった「自画像」を、如何(いか)にしたら再び愛することが出来るのか」について、学んでみることにいたしましょう。

 

 

<Ⅱ、如何にしたら「自画像」を愛せるのか>

 

1,主の御愛と御心を知る

その第一は、何よりも主御自身がお互い一人一人に寄せて下さっている深い御愛と御心を知ることです。他人がどう言おうと、また何をしようとも所詮(しょせん)それは不完全な、しかも罪深い、有限な人間の評価と判断に過ぎません。そのことによって何一つあなた自身の生き方を左右されるべき筋合いではないのです。あくまでもあなた自身が真にどうであるかが問題なのです。そこで最も大切なことは、自分自身がどうであるかを判断するための誤りのない、真実な基準をどこに設定するかという点です。果たしてその決定的基準はどこにあるのでしょう。それは他人の中にも、自分の中にも存在しません。それはただ永遠に変わり給うことのない愛と真理と恵みとをもって、慰め、励まし、助け、導いて下さることのお出来になる唯一の偉大な主、何事においても万事不可能のない全能の神の中にのみ存在するのです。しかもそのお方こそ、あなたの真実をことごとく知り尽くしておられ、あなたを誤りなく評価し、尊んでいて下さるお方なのです。ですからひたすらこの主に寄り頼み、この主の御心の中に身も心もお委ねし、日々歩んで行けば良いのです。なぜなら主がそれほどまでにあなたを深く愛していてくださるからです。そこでイザヤは、わたしたち一人一人に寄せる主の深い御愛と御心を、次のように記しています。

 

「恐れるな、わたしはあなたを贖(あがな)う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。・・・わたしの目にあなたは値高く、尊く、わたしはあなたを愛し、・・・わたしはあなたと共にいる。・・・彼らは皆、わたしの名によって呼ばれる者。わたしの栄光のため創造し、形づくり、完成したもの。」(イザヤ43:1,4,5,7)と。

 

何と驚くばかりの主の恵みでしょうか。その御愛は、測りがたいほどまでに深く、その御心は筆舌(ひつぜつ)に尽(つ)くし難(がた)いほど絶大です。かくしてこのようにまで深くお互いを愛し給う主の御心がはっきり分かるとき、お互いの霊魂は安息し、かくまで主から愛されている「自画像」を、心ゆくまで受け入れることが出来るようになるのです。ハレルヤ!

 

 

 

2.世俗の価値観からの脱皮

さて、自画像を愛するための第2番目に大切な点は何でしょうか。それは私たちお互いを縛り、支配している世俗的価値観から脱皮することです。換言(かんげん)すれば長い間、各人の心の中心で王座を占め、お互いの人生の価値基準となってきた世俗の価値観を、キリストにある真の聖い価値観をもって置き換えてしまうことです。その時、先に世俗の価値観の弊害(へいがい)について述べてきたように、それらの弊害(へいがい)から完全に解放されて、お互いの自画像をありのまま受け入れて、羞恥心(しゅうちしん)や自己卑下(じこひげ)によって抑しつぶされることもなく、それに代えて、主にあって生まれながらに付与されている掛け替えのない自己の尊厳を直視することが出来るようになり、平安と喜びと感謝を持って、自画像を愛することが出来るようになるのです。

 

では如何(いか)にしたらこの世俗の価値観から脱皮(だっぴ)し、その支配から完全に脱却(だっきゃく)することが出来るのでしょうか。その道は、明白です。

 

①如何(いか)に世俗の価値観が災いであるかを深く悟って、速やかにこの世俗の価値観から完全に脱却したいと切願すること、またその脱出を決意すること。

 

②その世俗の価値観に支配されてきた自分自身の罪と汚れをことごとく悔い改め、その全身、全霊、全生涯をキリストに献げてしまい、今から後、傷害の終わりまで真の永遠不変の絶対価値基準を持っておられるキリストに、一切をお委ねしてしまうこと。

 

③その時、聖霊はお互いの霊と心と体を完全に御掌握下さり、お互いのうちに住み、一切の世俗の価値観を追放し、それに代えてその全存在を聖別し、神の栄光とすべての人々の祝福のために生きるものに造り変えて下さる。

 

これはお互い人間の知恵や力によるものではなく、万事は主の御愛と恵みと力によるもので、まさに上記の如く主に全く聴従するすべてのもののうちに成就する主の大いなる約束です。何と幸いなことでしょう。

 

 

  

3,キリストにある新しい自画像を愛す

自画像を愛する事が出来るようになるための今一つの大切な点があります。これはより積極的な営みで、喜びと希望に満ちた輝かしいプロセスです。それはキリストの内にあって新しく形成されてゆく新しい自己発見を意味し、聖霊の恵みと力に満たされながら、ひたすら主と同じ姿に変えられて行く、約束の聖められた自画像です。ここにこそ、自らが今まさに約束されキリストにあって確実に受け継ぐことの出来る未来像が浮き彫りされています。そこで、このキリストにあって恵みの内に約束されている聖なる輝かしい自画像に憧れ、かつ魅せられ、その実現目指してひたすら前進して行くときに、お互いは見事に自画像を愛することの出来る者になるのです。すなわち、今までの我執に支配され、世俗の価値観に縛られ、世の人々の評価に怯えながら生活していた愛せない古き自画像を脱ぎ捨て、キリストにあって既に聖別されている新しい神の子としての自らと、またその自らに約束されているキリストに似せて形づくられた無限に成熟して行く聖なる自画像を見つめながら、それを慕い、追い求め、身に着けて行くこの聖なるプロセスこそ、自画像をより積極的に愛することが出来るようになる王道です。

 

使徒パウロが、エフェソの信徒に対して、「古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るように」(エフェソ4:22~24)と言い、またコロサイの信徒に向かって、「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着ける」(コロサイ3:9,10)べき事を語ったのは、まさにこの事なのでした。

 

今日世間でよくセルフ・イメージということが言われていますが、これらはまさに自画像を言ったものです。そして通常人々は、過去の自分や現在の自分、しかも自らの力で自己形成してきた自分の姿を見て誇ったり、恥じたりしているのですが、もはやお互いキリスト者はそのような考え方や見方をしないのです。なぜなら、もはや古い自分は死んで、今やキリストにあって新しい神の子として生まれ変わり、しかも無限に未来に向かって成長させられ、もったいなくもキリストに似る者として変えられ続けて行く聖なる自分を仰ぎ見るようになるからです。そして、信仰の導き手でありその完成者である主ご自身が、それを成し遂げて下さるからです(ヘブル12:2、イザヤ43:7参照)。お互いはこの驚くばかりの恵みとその約束を確信して、ただひたすらキリストを仰ぎ見てお従いし続けて行けばよいわけです。このキリストにある新しい自分こそ、神にある真のお互いの自画像であり、セルフ・イメージなのです。この自画像をどうして愛せないはずがありましょうか。ハレルヤ!

 

 

 

4,新しい自画像を愛せよ

さて、今なお自らの自画像を愛せず、それを憎みさえしている人がいるでしょうか。その様な悩める人が1人でもおられるなら、その方に是非以下に述べることをそのまま受け入れて、信じ、今日からキリストにあって新しく歩み出していただきたいのです。そうすればあなたはきっと今日から自画像を愛せるようになることでしょう。

 

そこで第1に、神はあなたを生まれる前から知っておられ、あなたはその神によって、かけがえのない1人として創造されたのだという素晴らしい事実を確信して下さい。

 

第2に、それゆえあなたは神から愛され、キリストから愛され、しかも固有の賜物と尊い使命を与えられて生まれてきたのです。それがあなたの本来の個性というものです。そしてそれは何人も奪い去ることの出来ないものなのです。そうです、あなた自身によってさえ。

 

第3に、そのような尊いあなた自身を損なう一切のものからあなたを救うため、主イエス・キリストはこの世に来られ、十字架に架かり、死んで甦られたのです。あなた自身の犯した罪も、また罪を犯す性質さえも、赦(ゆる)し、聖(きよ)め、新たにキリストにあって造り変え、神の子となすためにです。のみならずあなたを損なうすべての外的力からもあなたを解放し、勝利させるためにです。

 

第4に、それを実現するために聖霊があなたの内に注がれて、あなたが聖霊に満たされることにより、愛と聖きと力を受けて、あなたは敵をも愛し、いかなる逆境の中にあっても力強く生き抜き、聖き人生を全う出来るようにして下さったのです。

 

そして第5に、あなたは遂にキリストのように考え、キリストのように歩み、キリストに似た人生、つまり神には栄光、人には祝福をもたらすアガペーの生涯を生き抜くことが出来るように、すでに決定済みなのです。

 

以上のように、これこそがあなたの人生の意味するものであり、存在の目的であり、人生の使命でもあるのです。それゆえここにキリストにあって聖別され、かつ全く新しく創造されたあなたの尊い自画像があるのです。今やあなたは古き自分ではないのです。新しい自分になったのです。(Ⅱコリ5:17参照)。ですからこのキリストにある尊い自画像を愛そうではありませんか。あなたの自画像は、かくして今や全く新しくされ、かけがえのない尊いものとされているのですから・・・。

 

 

 

かくしてお互いは自画像を愛することが出来るようになるのです。ハレルヤ!

 

 

 

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