峯野龍弘のアガペーブログ

心にささやかれた愛の指針

第3章 世俗の価値観➀

 第3章 ウルトラ良い子の抑圧の最大要因

 

 そこで先ずはじめに、「世俗的価値観」の定義をしておきたいと思います。これを一口で定義することは極めて難しいことですが、ひとまず以下のように定義しておきましょう。

 

 「世俗的価値観とは、人間各人の心の内に潜み、支配している欲望を基盤として、その上に構築された相対的価値観にして、他者との比較により暗黙の内に形成された、より世間的評価の高い世俗的枠組みであって、大いに人受けのする最大公約数的人生観・幸福観で、しかも、それが一般社会通念として機能し、日々の日常生活を規範し、人間関係を規制する社会生活上のルールとしての価値観を言う」

 

 そこでこの定義によってお分かりのように、お互い人間がこの世で社会生活を営んでいく場合に、良きにしろ悪しきにしろ世俗的価値観を無視して生きて行くことは全く不可能であって、それを無視すれば、直ちに非社会的行為を為したものと看做され、たちどころに世間からの批判を浴びざるを得なくなります。通常、この世俗的価値観は「一般常識」、「社会常識」更には「良識」などと呼ばれているものであって、それこそ最大公約数的に社会が容認し合っている日常生活上のルールをなしているものであって、決してやみくもに悪いものではありません。

 

 しかし、これまた上記の定義が示しているように、これは人間としての最高に美しく、聖く、尊い、完全かつ絶対的な生き方を規定しているものでは断じてありません。のみならず、それはあくまでも、人間各自の心の内を支配している欲望を基盤として構築された相対的価値観であると言う、本質的限界を内包しているものにすぎません。

 

 それゆえ、これ以下の低い悪しき生き方をする者にとっては、歯止めとなり、良き規範として役立ち機能しますが、しかしより純粋で高い人生を目指し、いと高き神の存在を認め、永遠不変の神の真理や御心を追い求めて生きていこうとする絶対的価値志向型の人々にとっては、この相対的世俗的価値観はその足を引っ張るもの、それを抑圧阻止する恐るべき悪しき社会的反勢力とならざるを得ないのです。

 

 ところが残念ながらこの「世俗的価値観」の背後に潜む重大な問題点と落とし穴に気付いている識者が、意外に世に少ないことは何と嘆かわしいことでしょう。果たして読者の皆様は、いかがなものでしょうか。

 

 しかし、実に、いわゆる典型的「ウルトラ良い子たち」は、本能的にと言ってよいほど、この重大な問題点と落とし穴に気付き、早くも小さいうちからこれに対して問題提起し、拒絶反応を示してくれていたのです。さて、ここで更に「世俗的価値観」の背後には、以下のような恐るべき悪しき諸要素が、内包され、付随していることを皆様はお気づきでしょうか。

 

 

1). 行き過ぎた現実主義、現象主義
世俗的価値観を構成する恐るべき諸要素の先ず第一は、行き過ぎた現実主義とか現象主義と言われるものです。これは更には外見主義とでも言ったらよいのかもしれません。そもそもお互い人間が日常生活、社会生活を営む場合に、現実や現象を決して無視して生きるわけにはまいりません。現実をよく踏まえ、諸現象をよく把握した上で、そこに良き判断を下し、生活して行かなければなりません。もしそうでなければ、お互いの人生は現実離れした、極めて抽象的で何一つ具体的な問題解決に繋がらないものなってしまいます。また起こり来る悪しき諸現象を解決するのに、一向に埒(らち)の明かない不毛の人生を過ごしてしまうことになるでしょう。そこで現実をよく踏まえ、現象をよく観察し、具体的実際的に物事を処理して行くことは、極めて大切です。この意味では、お互いは常に現実主義的、現象主義的でなければなりません。しかし、ここでお互いがよくよく注意しなければならないことは、一見この大切に見える現実主義、現象主義が、一人一人の人間の現実や現象の背後にある尊い思いや心、そして真実で純粋な動機や営みを無視して独り歩きする時、恐ろしいほど他者を裁いたり、侮辱したり、傷つけたり、更には否定したりする悪しき道具と化してしまうのです。ここではこの種の悪しき道具としての行き過ぎた現実主義、現象主義を世俗的価値観の背後に潜む恐るべき現実主義、現象主義と呼んでいます。いわゆる世俗的価値観というものは、押し並べてこの行き過ぎた現実主義、現象主義をその主たる構成要素の一つとしていることが多いのです。そこで、このような世俗的価値観を振り回す人々には、常に他者を評価するにあたって、人々の内面にある尊い思いや聖い心、また動機の純粋性や途上のプロセスにおける真実な努力や営みなどには、一向に目を向けず、ただ一方的に外見上の成果や結末、目に見えるところの現実的結果や現象にのみその判断基準を置く人が多いのです。つまり、彼らの人や物事の判断要素や基準が、すべからく現実や現象、すなわち目に見える外見上の成果や結果にのみ向けられてしまい、その人物の内面やそのプロセスにおける考慮されなければならない重要な事柄を評価し損なってしまうのです。それゆえ、これを外見主義とも言うのです。そして実にこの現実主義、現象主義、外見主義こそが、内面や動機、事物の本質やプロセスを重視する多くの純粋志向型の「ウルトラ良い子」たちの感性を大きく抑圧し、かつ傷つける結果になってしまうのです。

 

この点に関してよく理解して頂くために、ここに具体例を二、三紹介いたしましょう。

 

i). ウルトラ良い子A君の場合
 A君の両親は、両親ともいわゆる一流大学出で、父親は一部上場企業のエリート・サラリーマンでした。まだ40代前半でしたが、既に部長職についていました。母親はと言えば、彼女もなかなかの才女で、高級婦人服の店を経営していました。その事業も年々歳々業績を伸ばし、スタッフも増え、都内の目抜きの場所に3店舗を構えるほどになりました。A君には2歳年下の妹B子がいましたが、なかなか両親ゆずりで、なんでもテキパキとこなし、まだ中学3年生でしたが、大人顔負けの負けず嫌いの頑張り屋でした。両親は、このような彼女の成長ぶりを見て常に目を細め喜ぶと同時に、兄のA君の一向にうだつの上がらないことを深く嘆き、しばしば溜息交じりにこう言ったものでした。

 「世の中うまくいかないものだなあ。Aが妹でB子が兄だったら、どんなに良かったか知れない」と。既にこの頃、A君は不登校を引き起こし、学校に行けないばかりか、自分の部屋に引きこもり、テレビとパソコンだけにのめり込み、トイレ以外には自室から一歩も出ることなく、食事も部屋に差し入れしてもらい、家族が自室に入ることも断じて許さず、日々昼夜逆転の生活を送っていました。両親がそれを咎めて忠告したり、片付けようと立ち入ろうものなら、それこそ大声を上げて暴れ出し、殺傷事件が起こらんばかりとなりました。その体躯は、既に高校2年生ともなり、しかも人並みより大きく、さすがの父親ももはや力ずくではいかんともし難くなってしまっていました。

 こうした中から困り果てた両親は、数カ所の病院、相談所等を巡った末、ある方の紹介で小僕のところに来られたのでしたが、いろいろ詳細な経緯を伺い、相談を受けているうちにはっきりと浮かび上がってきたことは、このA君が既にお互いが学んできたような典型的ウルトラ良い子であったにもかかわらず、そのA君の素晴らしいウルトラ感性や特質を理解できなかった両親が、悲しいかな彼の内心の美しい動機や優しい心の動きを読み取ることが出来ず、彼の純粋な思いを無視して、ただ今為した行為やその結果だけを重視し、その外見上の現実と現象だけを判断基準に、幼い頃より彼を厳しく裁き続けてきたという事実でした。これが徐々に彼の自尊心を傷つけ、心にひどく抑圧を与え、更には大きなトラウマとなり、ついには今日の彼の異常心理、異常行動を引き起こさせてしまっていたのでした。それこそが、行き過ぎた現実主義とか現象主義、外見主義の弊害と言わざるを得ません。

 

ii). ウルトラ良い子B子さんの場合

 B子さんの両親は、両親とも学校の教員でした。父親は地方の資産家の息子で比較的無口で、どちらかと言えばやり手の妻の尻に敷かれるタイプの人間でした。母親はこれまた豪農の出身で、家柄を重んじ、高学歴、地位、名誉、財産にこだわる人柄でした。夫婦仲もあまりよくなく、近隣には親類縁者が住んでおり、何かと過干渉の複雑な人間関係がB子さんの周囲を取り巻いていました。兄弟は兄が一人だけいましたが、その兄もB子さんも共に小さいうちより英才教育を強いられ、優秀でなければ他人に笑われ、教員である両親とりわけ母親にとってみっとも無いと、絶えず叱咤激励されて育ちました。兄の方は、ごく普通の頑張り屋の真面目人間で、かつ要領の良い人でしたから、そんな母親の期待の許に常に母親の気持ちを損ねないよう大義名分を得て下宿生活をして過ごし、後に医科大学を卒業して医者になりました。  

 ところがそれとは逆に妹のB子さんの方は、典型的な生まれながらのウルトラ良い子で、このような両親の現実主義的、現象主義的な世俗の価値観から出てくる言動や子育ての手法には、悉く馴染まず、絶えず叱られどうしで、親にしてみれば兄や世の一般的子供たちのように何故この子は言うことを聞かず、我侭で、その上自分の好きなことばかりしていて、他人に迷惑ばかりかけているのかと、しきりと叱り飛ばし、時には分かるまで叩いて折檻することもしばしばでした。そこで泣き泣き仕方なしに、やっとの思いで頑張り、それこそ外見的には他者と遜色なく大学に進み、しかも大学院までも修め、就職しました。しかし、その彼女の人間性と心はひどく傷つき病んでしまっていました。やがて彼女は社会に出たのでしたが、もはや健常な人間関係が結べず、既に先に述べましたような「対人関係不全症候群」に悩まされるようになってしまいました。彼女は、他人の強い言動や些細な非難の言葉に遭遇すると、突然得体の知れない恐怖心が湧き起こり、急に泣き叫んだり、言葉を失い、体が硬直し倒れたり、時にはその逆に狂い叫ぶようにして物を投げたり、相手を攻撃したりするようになってしまいました。これは過去に数え難いほど母親から受けて来た仕打ちがすっかりトラウマとなっていて、他人の強い言動や些細な非難に出会った時、その瞬間にフラッシュバックして過去の恐怖が甦り、このような異常心理、異常行動を引き起こしてしまうのです。

  これまたB子さんが、生まれながらの優しく純粋なウルトラ感性を両親、特に母親から充分理解され、受容されて育ってきたならば、全く起こり得なかった世俗的価値観から来る、行き過ぎた現実主義、現象主義的子育ての恐るべき弊害だったのです。B子さんがしきりと母に求めていたのは、何よりも先ず、わが子のこのウルトラ良い子の感性をよく理解した上での、温かい愛による母親の全面受容だったのです。

 

 

 

2). 能率主義、効率主義

さて、次に取り上げる世俗的価値観を構成する恐るべき第二の要素は、いわゆる能率主義、効率主義です。

 

そもそもウルトラ良い子にとって重要なことは、その事柄が純粋か、真実か、あるいは本質的か、理想的か、更には自らの内に閃いた独創的な関心事に合致し、その求めるところを充足しているかどうかなのです。その上彼らは、その目的を達成するための真摯な姿勢や純なる動機を重視し、またその目的達成までのプロセスが如何に納得のゆくものであったかどうかを大切にします。

 

ですから、彼らはその事柄を極め目的を達成するためには、時間の長短や労苦の多寡を少しも気にしません。彼らは如何に他者から非能率的、非効率的と思われようと、そんなことは一向にお構いなく、ただひたすら当該の事柄の実現に没頭いたします。そこで途端に他者から批難を浴びる結果となります。挙句の果てには、「のろま」、「うすのろ」、「手際の悪い奴」などと、どぎつい指摘を受けるまでに至るのです。

 

悲しいかな、こうなるとますますウルトラ良い子たちの自尊心は傷つけられ、いよいよそのトラウマが増します。のみならず、この世の能率主義者や効率主義者と彼らとの間の溝は、哀れなるかな、止めどもなく深まるばかりです。その結果、ウルトラ良い子たちは遂に世を忌み嫌い、世間とますます遊離し、人間関係が極めて希薄となってしまいます。それどころか、にもかかわらずあえて彼らに干渉して能率、効率を要求する者があるならば、遂に彼らは発狂せんばかりに狂い叫んだり、物を壊したり、相手に攻撃をしかけたりなどして、異常心理・異常行動を取るようにまで至るのです。

 

こうしたことは皆、能率主義、効率主義に根っから馴染まないウルトラ良い子の感性、特性を理解せず、それを無視し、更には逆なでする人たちによって引き起こされた恐るべき弊害です。ですからお互いは、日頃からこの点によくよく注意する必要があるわけです。

 

 

 

3). 唯物主義、物質主義

さて、第三に取り上げるべき世俗的価値観を構成する恐るべき要素は、いわゆる唯物主義、物質主義と言われるものです。

 

世俗的価値観に支配されて生きる人々は、概して唯物的で、物質中心主義的人生観や価値観を持って日々生活しています。ですからあらゆる場面で、また諸々の出来事に遭遇するごとに、この人生観、価値観が顔を出してきます。

 

そこでは常に物事の判断や処理に当たって、その背後にある思いや感情、動機や精神、更には真理や本質というような、いわゆる心の問題が重視されず、目に見える物や金銭、日常生活における衣食住の充足等の問題がいつも重視され、最優先されるのです。

 

しかもこの考え方と生き方が、何よりも大切な日々交わるお互いの人間関係、とりわけ愛を基として結ばれ、築き上げられていくべき夫婦関係や親子関係の中にまで持ち込まれ、これを唯物主義的、物質中心的な関係に置き換えてしまうのです。そこではお互い人間にとって、特に夫婦や親子にとって極めて大切な心の問題や、精神的安息や、心を培う問題などが中心事とはならないばかりか、軽視されたり無視されたりするようになってしまうのです。そこではいつしか潤いや安息、慰めや憩い、まして喜びや幸せを分かち合える関係は遠のき、世知辛い殺伐とした人間関係ばかりが生み出されて行きます。

 

こうしたことは、決してあるべき真の関係ではありません。しかし、残念ながら今日の一般社会では、こうしたあるべからざる関係こそが主流を占めてしまっていて、むしろ唯物的、物質主義的人間関係の方が付き合い易く、かつ話し易い共通話題にさえなってしまっています。

 

ところがここにもウルトラ良い子たちを傷つけ、悩まし、更には彼らを人間嫌いにしてしまい、人間関係不全症候群を引き起こさせてしまう重大な原因があったのです。なぜなら、既に学んできましたように彼らはこのようなことには断じて馴染まないからです。

 

本来、この事は単にウルトラ良い子ばかりではなく、良識ある人々にとっても同様ですが、通常これらの人々はだからといって、この事によって心悩まし、傷つき、病んでしまうというようなことはありません。しかし、“ウルトラ良い子”たちにとってはそうはいかないのです。彼らは、こうしたことに強い不快感と嫌悪感を覚えるのです。そしてこうしたやり取りに繰り返し遭遇する内に、やがてそれは大きなストレスとなり、不安感、恐怖感さえ覚えるようになり、遂にはトラウマを引き起こし、対人関係不全症候群にまで発展するのです。

 

そこで是非、読者の皆さんにはよくよくこの点を理解し、彼らの良き擁護者になって頂きたいものです。残念ながら彼らのこのような特有かつ微妙な心理をよく理解し、彼らを擁護して下さる方々の何と少ないことでしょう。悲しいかな、これが今日の社会の現実です。

 

ここで唯物主義、物質主義的人生観や価値観の過ちに対する主イエス・キリストの戒めを少しばかり紹介しておきましょう。

i. 人はパンだけで生きるものではない
キリスト者であるならば、誰もがよく知っている主イエス・キリストの一つの御言葉があります。それは「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4・4)という御言葉です。これは主イエスが、荒野で四十日四十夜の断食をされ激しい空腹を覚えられた時、その期に乗じてサタンが主イエスを誘惑し、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と問いかけた際に、主イエスがすかさずお答えになった御言葉です。この御言葉こそ、まさに人間が「パン」という“有限な地上的物質”によってだけ生きるものではなく、「神の言葉」つまり“永遠、無限な天的、霊的、かつ神的な真理”によって生かされる崇高な存在であることを言ったものです。

 

しかし、ここで思い違いして頂きたくないことは、主イエスは決していたずらに「パン」つまりこの世の「物質」を軽視したのではありません。人間が肉体を有する限り、その生存のためには動物たちと同様に絶対に「パン」(食物)が必要であり、そればかりではなく衣類や住居など様々な物質的必要事があります。これを主イエスが軽視したり、否定したりするはずがありません。

 

ところが、だからといってお互い人間が、動物と同様に肉体的生命維持さえ出来ればそれで良いというものでは決してありません。人間は、他の如何なる被造物たちとも本質的に異なり、彼らよりも遥かに尊い崇高な存在として神によって創造された、別格の被造物なのです。聖書ではそれを「神はご自分にかたどって(似せて)人を創造された」(創世記2・26、27参照)と表現しています。つまり人間は、動物でも植物でもなく、ましてや鉱物でなく、何と“神に近似する”尊い存在として、神ご自身によって創造されたのです。

 

ちなみにこの神に“近似する存在”であるということは、人間の“尊厳と限界”を明示したものであって、「尊厳」とは人間は他の被造物と全く異なって、神ご自身に似る者として、まさに別格の存在として創造されたことを意味し、またその「限界」とは如何に神に似ていようとも、人間は神そのものでなく、断じて神になることもあり得ないことを意味しています。

 

そこでこの神ご自身に近似するほど尊厳ある存在として創造されたお互い人間は、あたかも動物のように食物だけを摂取して、ただ唯物的に肉体的生命維持のみを図ればこと足りるといった存在では断じてないのです。お互い人間は何としても神のように考え、神のように生きなければならないのです。そのためには先ず神ご自身の存在を認識し、そこで「神の口から出る一つ一つの言葉」、つまり“永遠、無限な天的、霊的、神的真理”(これを「神の御心」と呼ぶ)に学び、かつそれに従って生きることが必要になるわけです。これこそが人間が真に尊厳ある「神にかたどって創造された」(創世記2・27b)人間となることを意味しているのです。

ですから、このように考えてみると如何に唯物主義的人生観や物質主義的人生観が、人間の尊厳ある本質に照らして非本質的な誤った人生観であるかが、よく分かると思います。実に主イエス・キリストが「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と言われたその真意が、まさにここにあったのです。

 

 

 更にまた唯物主義、物質主義的人生観や価値観の過ちについては、次に述べる主イエス・キリストの戒めの中でも示唆されています。

  1. 宝は天に積みなさい

すなわち、主イエスは、ある時弟子たちに「あなたがたは地上に富を積んではならない。…富は、天に積みなさい。…あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」(マタイ6:19、20)と戒められました。

 

ここで「富」と訳されている言葉は、「宝」とも訳される言葉ですが、こうした「富」や「宝」は、言うまでもなく通常はお互い人間が地上で蓄える「富」や「宝」を意味しています。しかしここで主イエスは、弟子たちに「富」や「宝」を天に積めと言われているのです。これは一体何を意味しているのでしょうか。

 

その意味は、こうなのです。主イエス・キリストは、「富」とか「宝」という言葉を、お互い人間にとって最も「大切なもの」、「価値あるもの」、更には「高価なもの」という意味に用いています。

 

そこで、人間にとって最も「大切なもの」、「価値あるもの」、「高価なもの」とは何でしょうか。それはこの地上で人が手に入れたり、蓄積したりする所詮「虫が食ったり」、「さび付いたり」、時には盗人が忍び込み「盗み出したり」することのある地上の財産や宝ではありません。それらは有限かつ相対的なものに過ぎず、時代と共にその価値が変化し、風化し、遂には失われて行く定めにあるものです。しかも、これらのものは如何に尊そうに見えても、所詮死んだ後に天国まで携えて行くことの出来るものではありません。わけても「天国」や「永遠の命」は、決して金銀、財宝等で買い求めたりすることはできないのですから。

 

それでは何が人間にとって最も「大切なもの」、「価値あるもの」、そして「高価なもの」なのでしょうか。それは主イエスが言われたように、この地上の「物」や「宝」ではなく、「虫が食ったり」、「さび付いたり」、また「盗み出したり」することのない、決して変化も、風化も、朽ち果てることもない、まさに天国にまで携え行くことのできる永遠に存続可能な「絶対的価値あるもの」を意味しています。

 

そしてこのようなものこそが、実はこの地上でも最も「大切なもの」、「価値あるもの」、そして「高価のもの」であって、天国にまで通じないこの世で所有する如何なる「大切なもの」、「価値あるもの」、「高価のもの」つまり「富」や「宝」は、結局のところこの地上限りの一時的な有限かつ相対的な、人生にとって第二義的、従属的価値に過ぎないのです。

 

それゆえこのようなこの世の「富」や「財産」は、「見せかけの宝」に過ぎず、お互いの人生にとっては「偽物(イミテーション)」に過ぎません。ですから物質主義者や唯物主義者は、この地上限りの有限な「富」や「宝」を偏重し過ぎて、天国にまで流通性のある最も「大切なもの」、「価値あるもの」、「高価なもの」つまり永遠的、絶対的、第一義的、本質的「真の宝」(本物)を見落としてしまうのです。

 

彼らの「思い」や「心」は、ひたすら地上の「富」や「宝」に引き付けられているので、決して「天」や「天国」、更には「永遠の命」等の存在を知って、その永遠的、絶対的、第一義的、本質的「真の宝」を展望して、お互いの人生を建て上げて行こうとはしないのです。

 

ここにこの種の人々の重大な誤り、若しくは弱点があるわけです。そこで主イエスは、先に記しましたようにこう言われたのです。「地上に富を積んではならない。…富は、天に積みなさい。…あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」と。

 

では天に積む「富」や「宝」とは、具体的には一体何を意味しているのでしょうか。それは言うまでもなく、お互いの日常生活の中に実践される霊的、信仰的、精神的な「心と生き様」です。すなわち愛や聖さ、礼拝や献身的奉仕、神讃美や祈り、信頼や誠実、謙遜や勇気、忍耐や寛容、慈しみや憐みなどの美徳です。

 

何と「ウルトラ良い子」たちは、元来このような「真の宝」と出会い、自らもそれを身に着けたいとの潜在願望を抱いています。それにもかかわらず、彼らは幼少時より唯物主義、物質主義的両親や周囲の人々によってその尊い潜在願望を踏みにじられるような躾や教育に出会い、早くも彼らの心の内に抑圧を受け、やがてそれがトラウマとなるほどまでに、心病んでしまったのでした。まことに哀れと言う他ありません。

 

 (続く)

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