峯野龍弘のアガペーブログ

心にささやかれた愛の指針

第7章 アガペー育児法

第7章 「ウルトラ良い子」を健全に育てるための「アガペー育児法」

さて、以上において心傷つき病める「ウルトラ良い子」の癒しの道を、詳細に学んできましたが、この一連の学びを結ぶにあたって、このような「ウルトラ良い子」たちを傷つけたり、病んだりさせずに健全に育て上げるためには、果たしてどうしたら良いのかと言う、言うなれば「ウルトラ良い子のための積極的育児法」について最後に言及して、本書を結びたいと思います。

 

ここで是非くれぐれも勘違いや混同したりして頂きたくない大切なことがあります。それは本書において今まで述べてきたことは、あくまでもすでに心傷つき病んでしまっていた「ウルトラ良い子の癒し」についてであって、決して生まれたばかりの「ウルトラ良い子」や、またはいまだ心傷つきも病んでもしていない健康状態の「ウルトラ良い子」についての「育児法」についてではなかったと言うことです。この両者を勘違いしたり混同したりすると大変なことになってしまいます。この点についてわかりやすく一言すれば、今まで述べて来たような心傷つき病んでしまった「ウルトラ良い子」のための癒しの手法を、生まれたばかりやまだ傷つきも病みもしていない「ウルトラ良い子」に「100%同じように」適用するとしたら、逆に「ウルトラ良い子」を過保護と甘やかしによる未成熟な人間に育て上げてしまうと言う過ちを侵すことになってしまうからです。ここで敢えて「100%同じように」と表現したことには、極めて重要な意味が込められています。その意味は、子育ての基本となる「アガペーによる全面受容」と言う根本原理は変わりませんが、その適用においては明白(めいはく)に異なった適用方法を導入しなければならないからです。その違いを充分に弁(わきま)えてその育児に当たることこそ極めて重要なこととなるのです。それは決して単なる「使い分け」や、ましておや「矛盾」なのではないのです。本質においては常に「アガペー」を基盤に据えた堅固な育児法なのですが、その成長途上で成長過程に即応した健全にしてかつ適正な積極的人格教育を加味しながら、その成長を促進して行かなければならないのです。そこで以下においてその育児法について若干詳細に解説することに致しましょう。

 

 

Ⅰ、母の胎内にいる時の育児法

母の胎内に宿っている時の子供は、果たして「ウルトラ良い子」なのかどうか、当然ながら判別できません。しかし、このことで何一つ困ることはありません。人間は誰一人として例外なく母の胎内に宿っている時も、生まれ出た時も純粋無垢な存在であって、すべて全面受容され愛されるべき存在として人間の創造主によって尊い生命を与えられ、呱呱(ここ)の声を上げ、それぞれ固有の尊い使命を付与(ふよ)され誕生してきているのです。これらの一人一人の子供たちは誰も等しく、両親やその他の人々の愛の全面受容をもって育まれなければなりません。しかもその中のある子供たちは紛れもなく「ウルトラ良い子」であり得るので、その判別がつかなくても生まれ出るすべての子供に対して、愛の全面受容を施しておけば、絶対に過つことはないわけです。つまり両者にとって“益あって害なし”と言えましょう。しかし、もしそうしておかなかったとしたら、まさしく大変なことになってしまいます。「ウルトラ良い子」たちの多くが徐々に傷つけられて行ってしまうことになるかもしれないからです。ですから「愛の全面受容」の手法をもって育児にあたっておけば極めて安全なのです。

 

そこで母の胎内に宿っている胎児に対する育児法と言うことになるわけですが、先ず初めに母親は、自らの胎児に対してその子が肉体的に健康で、かつ何よりも精神的に心安らかな子供として誕生してきてくれるように、愛と祈り、大きな喜びと期待をもって子育てに当たらなければなりません。勿論、母の体内に宿った小さな胎児は、当初は脳の発達も精神的な営みも何一つ進んではいないのですが、あたかもそのすべてが完備しているかのようにその子に優しく語り掛け、「あなたはわたしの大切な赤ちゃん、神様からお預かりした尊い子供、お母さんはあなたを命がけで愛して育てます」と言ってあげて下さい。そしてこの言葉がけを誕生して来るまでに何度も何度も語りかけてあげてほしいのです。こうすることによって生まれて来る胎児は、徐々に徐々に母親の胎内にいる時から「自分は愛されている者、尊い存在」であることを、脳の発達と共に体感をもって学習し、記憶して行くのです。これが「アガペーによる全面受容」の源となるのです。胎内の赤ちゃんは何も知らないだろうなどと勘違いしないでください。ちゃんと「胎内の赤ちゃんは知っている」のです。

 

子育ては生まれてから始まるものでは断じてありません。よく世間で「胎教」と言う言葉が使われますが、これこそ「胎教中の胎教」と言って過言ではありません。そこで子供に対する健全な発育と育成のために不可欠な「アガペーによる全面受容」も、この胎教の時期から始めなければならないのです。決して手遅れしてはなりません。お分かりいただけるでしょうか。

 

 

 

 

Ⅱ、第1期 0歳から満3歳までの育児教育

さて、いよいよ子供が誕生してからの育児法について述べてみましょう。

 

①では、これはいつから始めたらよいのでしょうか。それはもの心がつき始め、意思的行為が芽生え始めた頃より始めて下さい。この時を逃してはなりません。もう少し大きくなってからと考えがちですが、その必要はありません。いやそれでは大切な時を逃してしまうことにもなり兼ねません。この時直(ただ)ちに始めて下さい。そして満三歳を目安に、それまではしっかりとこれを積み上げて下さい。なぜならば、この頃までに子供たちは人間として自らが身に付けなければならない極めて大切な基本的生き方を、ほぼ学習してしまうことが出来るからです。これを少し別な表現でコメントするならば、彼らが一人の人間として生きて行くために不可欠な、何をどのようにしたらよいのかと言うことに気付く基本的感覚、もしくはそれを見極めるために必要な最小限の基本的感性を、この時期に培うことが出来るのです。ですからこの大切な時期を親たちはよくよく留意して、しっかりと子育てに当たらなければならないのです。決して手遅れしてはならないのです。まさしく「三つ子の魂、百まで」と言われるように、この三歳までの培いがその子の一生を左右することになるからです。何と大切な時期なのでしょう。

 

②そこでまず初めに満三歳を目安として、どうか満三歳位までは、徹底的に「アガペーによる全面受容」に勤めて下さい。それは既に学んだように「ウルトラ良い子」の生来の感性に即した受容、すなわちその感性に即した優しく寄り添う育児を心掛けて頂きたいと言うことです。そうすることによってこの子たちが充分自らが愛され尊ばれている存在であることを、心の深みとその体感をもって存分に認識し得るからです。その時、彼らは生涯自己の尊厳を喪失することのない一人格として成長して行くことが出来るのです。よしんばその後にどんな困難な人生を歩むことがあったとしても、「三つ子の魂100までも」との諺(ことわざ)の通り、三歳までの極めて大切な人格形成の初時期に、その子の心と魂、そして体の芯にまで届くような「アガペーの全面受容」をもって愛され大切にされたその原体験は、必ず如何なる試練・逆境に遭遇しようとも、その子の自尊心(自らを『尊し』と思う心)を守り、支えてくれるのです。つまりこの貴重な原体験が、かかる場面でその子の心の深い所に自らが如何に大切な存在であって、このような試練や逆境のゆえに自暴自棄(じぼうじき)になって自己の尊い人生を台無しにしてはならないと、自ら自覚し忍耐する復元力を約束してくれるからです。ですから、胎児のときの「アガぺーによる全面受容」と共に、誕生してからのこの最初の時期に、徹底してこの原体験を与えて上げることが大切なのです。

 

③さて、次に申し上げたいことは、この場合「ウルトラ良い子の生来の感性に優しく寄り添いながら」と先に申し上げましたが、その意味をもう少し具体的に説明しておきましょう。言えば、彼らの特質である「八つの志向性」をよくよく受容し、それを引き出し、充足させる育児を心掛けると言うことです。その「八つの志向性」とは,「純粋志向性」、「本質志向性」、「霊的志向性」、「絶対価値志向性」、「独創的志向性」、「非打算的献身志向性」、「他者受容志向性」、「生命畏敬志向性」と言う八つの志向性のことでした。思い出して頂けましたか。これらについては既に本書の初め頃に詳述しましたので、そこを参照してみて下さい。ですから要するにこれらの志向性を良く理解し、それを満たして行くのです。決してそれに反したり、それらを否定したりして抑圧してはならないのです。そうすることなくそれらの特性をいよいよ引き出し、伸ばし、育て養い、彼らがその特性の持ち主であることを大いにエンジョイさせてあげるのです。そしてその特性のゆえに彼らの存在することの意義と尊さを存分謳歌(おうか)させてあげるのです。このことのゆえに彼らが自慢したり、自らを誇ったり、傲慢になることを心配したり、恐れたりする必要は全くありません。このような過ちや失敗に陥るのは全く別の事情、異なった配慮と訓練の欠如によるのです。この点についてはこのすぐ後で申し上げることに致しましょう。そこでまず何よりも大事なことは、彼らがこの時期に充分「アガペーによる全面受容」によって徹底的に愛され、受容されることによって自己の尊厳と自らの存在することの意義と価値を、彼らの意識と感覚の中に埋め込んでもらうことが重要なのです。このことにさえ成功するならば、すでに前項でも記したようにその先に如何なる試練や逆境が待ち受けていても、彼らはそれを克服できる潜在能力を有することが出来るのだと言っても、過言ではありません。この点についてよくよく心に留めておいて頂きたいものです。

 

⑤しかし、ここでくどいようですが更に良く理解し、過(あやま)つことなくしてほしいことは、誕生から満1歳を迎えるまでの乳児期を過ぎ、満1歳から3歳頃までのいわゆる幼児期前半を迎えた子供たちに対して、「如何に自制心もしくは自己抑制力を身に付けさすか」と言う重要な課題についてです。この時期における彼らのための「自制心」や「自己抑制力」の育成と言う課題は、ウルトラ良い子の育児教育の第1期の半ば頃より、手遅れすることなくしっかりと彼らに身に付けされるよう、いや心に植えつかせるように心がけなければならない重要事です。これはいわゆるもの心つき始めた頃より、徐々に子供たちの心と体の発育状態に即して意識的に、計画的に、取り組み始め、実践し、積み上げて行かなければならない決定的に重要な課題であり、また極めて大切な育児期間なのです。この点によくよく留意してこの時期の子育てに当たって頂きたいのです。

 

⑥では、この時期に如何にしてこの子たちに自制心・自己抑制力を育成したらよいのでしょうか。それは概ね以下のような諸点に留意し、子育てに当たれば良いのです。若干、既に述べたことと重複する点がありますが、いまここで纏めて列記してみることに致しましょう。

 

ⅰ、あくまでもウルトラ良い子の特質と感性をよく理解し、それを踏まえて子育てに当たりましょう。決してそれに反したり、それを逆なでするように育ててはなりません。ウルトラ良い子には、8つの特質のあったことを思い起して下さい。

 

ⅱ、子供に何かを教えたり、させたりする場合、必ずなぜそのようにするのか、しなければならないのか、その意味について彼らが理解できるような言葉と行為をもって説明し、何度も何度も愛をもって教え諭して下さい。その場合「~した方が良いから」とか「~してはいけないから」と言うのは意味の説明にはなりません。ここでそれがなぜ良いのか、なぜ悪いのかということの理由を彼らに理解させることが大切です。大人は「そうすることが正しいから」と言うことをもって充分な理由づけと思いがちですが、幼い子供たちにとってはそれでは「なぜ正しいのか」と言う意味と理由が皆目わからないのです。一般的に大多数の子供たちは「こうすることが正しいからこうしなさい」と言う親の言葉だけで、それ以外の説明なしにそれに従いますが、しかしウルトラ良い子たちは、しばしばそうはいきません。それは頑なで、不従順だからでは断じてありません。ウルトラ良い子は物事の本質、つまりその事柄の奥にある意味や理由を知りたがる素晴らしい特質があるからです。ですから親は、めんどくさがらずその都度その意味するところを丁寧に、説明してあげることが大切なのです。これをスキップして、親の正しい教えに従ってこそ当然と考えて従わせることばかりしていると、早くもウルトラ良い子の中に抑圧が蓄積しはじめるのです。よくよくご注意ください。

 

ⅲ、そこでその子がそれを理解し従うことが出来た場合には、必ず忘れずに「よくわかったわね、すばらしい!」とか「よくできたね、えらい!」などとほめてあげて下さい。そうすることにより子供の学習意欲を、ますます高めることが出来ます。またそう出来なかった場合には、決して叱ってはなりません。

 

「まだ難しかったかしら、ではまたにしましょうね」と言った具合に、微笑みながらさらっと流し、次のチャンスを待てばよいのです。そして決してあきらめず、時をかけて何度も何度も反復するのです。焦ったり、苛立つことは絶対禁物です。良い子育てには、愛と忍耐が不可欠です。

 

 

 

 

Ⅲ、第2期 3歳から6歳までの幼児期後半の幼児教育

さて、ここで「アガペー育児法」の次の段階に進んでみましょう。これは満3歳を過ぎた頃から満6歳頃までの時期で、これを称して第2期と呼ぶことにしましょう。言うまでもなく子供にも個人差があり、これはあくまでも目安であって、大体この頃と理解して育児教育に当たっていただければよいのです。

 

それでは如何なる点に留意しながら、この時期の子育てをしたらよいのでしょうか。それは概ね以下の通りです。

 

 

A、 人間関係における調和の精神と感性の育成

そこでこの時期に先ず心に留め、しっかりと育成しなければならないことは対人関係、人間関係における調和の精神と感性の育成です。これはごく優しい表現をすれば「他人と仲良く過ごす道」を教えるということです。人間が人間としてふさわしく人生を過ごして行くためには、「人間関係が円満である」ということほど、重要な資質と事柄は他にありません。そもそも「人間」という文字が「人の間」と書くように、お互い「人と人との間」の関係を麗しく調和のとれたものとしておくことは、社会生活を営むためには必須な事柄です。

 

しかしながら、既に皆様がよくよくご存知のように、今日の社会には対人関係がまろやかには結べず、いわゆるウルトラ良い子たちに限らず、多くの一般人の中にも対人関係不全症候を呈している人々が、少なくありません。これは人間関係のトラブルに巻き込まれ、長い間悩み、苦しみ、傷ついてきた結果として、そのような症状を呈するに至った人々もおれば、また幼い頃の精神的発育成長期に、十分な育成を受けることができなかったことが原因である場合もあるのです。そこでこの後者の場合のケースが、今ここで取り上げようとしている「ウルトラ良い子の育児教育」第2期の「3歳から6歳までの幼児後半の育児教育」の主要テーマでもあるのです。

 

では、如何にしてこの時期に子供たちの「人間関係における調和の精神と感性の育成」を図ることができるのでしょうか。

 

 

1 愛することの大切さを教える

「人間関係における調和の精神と感性の育成」とは、これをズバリ表現すれば「愛することの大切さを教える」ことに他なりません。ある古の聖徒が「愛することの大切さを教えないことは、両親の子供に対する最大の罪である。」と言いました。またある教育者が「子供に愛することの重要性を教えないことは、知識ある動物を飼育することである。」とも言いました。いずれもまことに至言です。

 

幼な子に如何なる知識・教育を施し、また良い躾・行儀作法を教えても、もし愛することの大切さを教え、他者との調和を図り、また仲良く過ごすことの出来る心と感性を養い育てることに失敗するなら、やがてその子供は自己中心で自己主張の強い、他者を受容することの出来ない人間に育つでしょう。まさにそれは“動物のような人間”を育ててしまうことになります。

 

そこで何よりも重要なことは「愛することの大切さ教える」ことなのです。そしてこの「愛することの大切さ」を教え、「他者と和合する心と感性」は、まさにこの時期からしっかりと養い育て、培うことが肝要です。この時期を失してはなりません。なぜならこの時期には、彼らの脳はこのことの大切さを理解し、自らの意志でこの大切なことを実践するのに必要な思考能力を最小限ではあっても、充分完備しているからです。そしてまたこの大切な時期を失すると、彼らの内に自我や我執が徐々に強く形成され、今度は素直に学習し難くなってしまうからです。ですからこの好機を逃してはなりません。

 

ここで更に一言大事なことを付記しておくとするなら、もちろんこれよりも早い時期に「愛することの大切さ」を教えてはならないというのではありません。教えてもその意味を自ら十分理解するには、まだ不十分なのです。それよりもこのより幼い時期には、両親が大きな豊かな愛を注ぐことによって、我が子に「愛されることの喜び」を十分体験させてあげることが大切です。そうすることによって、後に「愛することの大切さ」を教えられる時、より早く理解し、学習することができるのです。概して「多く愛された者こそ、多く愛することが出来る」からです。またこの第2期を過ぎた後には、もう「愛することの大切さ」を教える必要がなくなるというわけでもありません。それは更に第3期を迎えても、継続して教え続けるべきですが、それは第2期のフォローのためであって、この時期から始めたのではもはや手遅れとなってしまいます。ですから第2期にしっかり育成しなければならないのです。

 

では、具体的にはどのような点に留意して「愛することの大切さ」を教えたらよいのでしょうか。 

 

 

2 如何にして愛することの大切さを教えたらよいのか。

ⅰ.先ず何よりも第一に大切なことは、「両親が愛し合っていること」です。つまり子供にとって、両親が愛し合いながら日々生活していることを見ることに優る愛の大切さの学習は、他にないのです。両親は子供にとっての愛の大切さを教える教師である以上に、自らがそのモデルであり、模範であり、お手本でなければなりません。子供はその両親が愛し合って生きているその姿を見て、愛し合うことの素晴らしさ、大切さを学習していくのです。ですから夫婦円満でいつも愛し合っている両親の間で育つ子供は幸いです。

 

しかし、今日は何と悲しい不幸な時代でしょう。子供たちが夫婦愛し合っている両親を見出すことが、極めて困難になってしまっているからです。両親がいてもその夫婦仲が悪かったり、父親が単身赴任していてほとんど両親が一緒にいる姿を見ることが出来なかったり、最も悲しむべきことは愛し合うことによって「愛の大切さ」を教えるべき立場におかれている両親が、離婚してしまっていたりするからです。

 

先般ある会合で出会ったご夫婦が、「自分たちは最初の子供が生まれた時以来、今日に至るまで子供のいるところでは決して喧嘩をしない事にしてきたのです。そのおかげでお互いは喧嘩せずに済みました。子供は夫婦円満の守り神ですね・・・」と。何と幸いなことでしょう。このような両親の許で、子供たちは「愛し合うこと大切さ」を学び、また生まれて来る子供に対してこのような責任感をもって謙虚で真摯に子育てに当たる両親にとっては、子供こそが夫婦の愛の絆となり、夫婦円満の保証者ともなるのであるということを、改めて教えられました。

 

ともあれ、夫婦仲良く愛し合っている両親の下で育つ子供は幸いです。彼らは「愛し合うことの大切さ」を、かくして学ぶことが出来るのですから。

 

ⅱ.第二は、言うまでもなく親が子供を深く愛することによってです。先にも「愛されたことのない子供は、愛することが難しい。しかし、愛されて育った子供は、概して愛する子供となる。」と記しましたが、例外はあるにしても、多くの場合この言葉は真実です。愛されて育った子供の心は穏やかで、彼らは愛されることの喜びと幸いを十分満喫しているので、自らもまた他者に対して愛することが出来るのです。 「豊かに愛の種を蒔いた子供という名の畑からは、愛という名の実り を豊かに刈り取ることができる。」この言葉もまた至言と言えましょう。

 

 

 ところで、先般、一人の方と面談しました。その人は「私は子育てに失敗してしまいました。私は子供をどう愛したら良いのか分からないのです。私は一生懸命我が子を愛して育ててきたつもりでした。しかし、子供は私に反抗し、私を激しく罵りこう言ったのです。『お母さんは、わたしを愛しているとよく口癖のように恩着せがましく言うが、わたしはお母さんから愛されていると感じたことは、ただの一度もないわ。愛しているならどうしてもっとわたしの気持ちを理解し、わたしに自由をくれないの!』と。私はこの子供の言葉を聞いて大きなショックを覚えました。そして、今更のように痛感することがありました。それは、実は私が子供をどう愛せばよいのかわからなかったのです。なぜなら、私自身が親から一度も愛されたという経験がなかったからでした」と。

 

 そうです。この婦人は夫婦仲の悪い両親の許で育ち、始終夫婦喧嘩を見せつけられる中で過ごし、のみならず、絶えず気性の激しい母親の苛立つ言葉を浴びせられながら育ってきた女性でした。極めてお気の毒な境遇であったと言う他ありません。

 

 ですから、夫婦仲睦まじく、愛の内に子育てをすることがどんなにか大切かお分かりいただけると思います。両親から、とりわけ母親から多く愛された子供は何と幸いなことでしょう。そうされることによって、子供たちは確実に「愛すること」、「愛されること」の大切さを理解し、何よりもその喜びと幸せを自ら体験し、それを他者との間で生かして、麗しい人間関係を結ぶことが出来るようになるのです。

 

 

ⅲ.ではどのように愛したら良いのでしょうか。

 つまり如何にしたら子供に愛が伝わり、子供が愛されたことを知るようになれるのでしょうか。言うまでもなくそれは「アガペー」することなのですが、それを実践するにはどのような点に留意し、どのように具体的に現わしていくことが出来るのでしょうか。それは以下のような諸点に留意し、実践して行けばよいのです。

 

(1)何よりも先ず第一に留意すべきことは、「子供を大事にする」ことです。分かり切ったことのようですが、この分かり切ったことこそ極めて重要で忘れてはならない常時不断の心がけなのです。「子供を大事にする」ことは、大切な子供として自分が親に受け入れられ、尊ばれ、価値づけられていることを子供が体感し、そこに両親の愛を実感していくことが出来るからです。

 

(2)第二は「常に寄り添い、共にいる」ことです。この時、子供の心は安息し、不安を覚えることなく安心できるのです。特に母親の胎内で10か月間過ごして来た子供たちは、本能的にと言っても過言でないほど母親の存在を体感し、その声の響きを実感しているのです。ですから、その母親が傍にいてその声が聞こえる時、不思議とその心が安息するのです。そうでない時には、「見捨てられ感」、「見放され感」が彼らを襲います。ですから、親が「寄り添い、共にいる」時、彼らは「見捨てられていない」、「見放されていない」、つまり「愛されている」と感じ取ることが出来るのです。

 

ところが、現代においては多くの母親が、「早く乳離れ、親離れすことが出来るように育てることこそ、良い子育ての道である」と勘違いして、多くの子供たちが「潜在的見捨てられ症候群」に陥れられているのです。特に繊細な感性を持つウルトラ良い子たちにおいては、なおさらのことです。子供が徐々に社会性を取り込み、自立するまではよくよくこの点に留意しなければなりません。

 

(3)第三は「子供の話をよく聞く」ことです。つまり子供の言うことによく耳を傾け、それ以上に子供の心の声によくよく耳を傾け、聞き分けることです。今日最も多い失敗は、両親特に母親が、愛しているつもりで闇雲に我が子に多くの忠告を与えたり、教え諭そうとすることです。「愛は、先ず聞くことに始まる」と言われますが、これまた至言です。愛はそもそも相手の心、相手の事情、相手の計画等を良く知って、そこに仕えていくことでもあるのですから、子供の言い分、子供の叫び、子供の願い、その他何よりも子供の処理したいとひそかに願っている心の悩みを含めて、その声に耳傾け、それに愛の手を差し伸べるところから愛のコミュニケーションが始まることを忘れてはなりません。

 

  

(4)第四には「祈ること」です。

「愛は祈る」と言う古来からの西洋の格言があります。日本人の文化や歴史の文脈の中からは、なかなかこうした考え方は理解し難いものがあるかと思いますが、実はこれほど大切なことはないとさえ言っても過言ではないと申し上げたいのです。つまり如何にしたら子供に愛が伝わり、子供が愛されたことを知るようになれるのでしょうか。

 

例えば日本においても昔から両親とくに母親は、自分の子供が重い病を患い、生きるか死ぬかの生死の境を彷徨うような事態が発生した場合に、しかも医者ももはやどうすることも出来ないような危機に直面した時、思わず超自然の神仏の助けを求めて、ひたすら「お助け下さい。お救い下さい」と祈るではありませんか。日頃は神信心の薄い無宗教の母親でさえ、我が子の癒しや救いを求めて、思わず神頼みするではありませんか。これを「困った時の神頼み」と嘲ったり、軽視したりしてはいけません。これこそ人間が単なる動物ではなく、神の被造物としての霊魂体を有する人間の霊性の発動としての、人間固有の卓越した能力であり、尊厳ある特質です。しかも、このような万事が休してしまった時こそ、それに甘んじられず愛する子供の癒しや救いのために神仏により頼み祈ることは、「愛のゆえの必然的結果」であり、「母の愛の存在証明」でさえあります。もしかかる場合に祈れないか、祈らないとするならば、それは我が子に対する「愛の不存在」を意味すると言っても過言ではありません。そうです。まさに「愛は祈る」ものなのです。そうではないでしょうか。

 

思えば愛の主であるイエス・キリストが、自らを十字架に釘づけた人間に対してすら「父よ、彼らをお許しください」と神に祈られ、彼らのために執り成しの祈りを捧げられたのは、まさしく「愛」のゆえでした。

 

かの有名なマザー・テレサも、ブラザー・ロジェも「愛と祈り」の関係について、次のように言っています。

 

祈りです。祈りこそ、愛の源です。心を燃やし続ける愛の源。」

 

さて、ウルトラ良い子たちは、既に何度も申し上げてきましたように、その心の内に霊的感性を通常の子供たちに優って豊かに宿しています。

ですから彼らは祈られる時、その霊的感性が潤され、安息するのです。

のみならず自らが並みでなく深く「愛されている」と感じるのです。何という不思議な、素晴らしい感性でしょう。彼らの感性は、生まれながらにして霊的、神秘的、宗教的であると言っても過言ではありません。それはいずれかの既成宗教の枠組みを超えて、本質的に宗教的なのです。このような彼らの感性に深く届き、それを充足させ、安息させる最良の道が「祈り」なのです。そして何よりも彼らの耳元で優しく捧げる母親の、いや父親においても、祈る「祈り」の中に、彼らは深い愛、大きな愛を感じ取ることが出来るのです。ですから、是非、祈れる両親でありたいものです。

 

 

 

ⅳ.他者と良く交わり、仲良く過ごすことが出来る人に育てよ。

  ウルトラ良い子系の子供たちで、今日かなり多くの子供たちが他の子供たちと良く交われなくなり、一人孤立したり、不登園・不登校になったりすることがあります。それは既に何度も申し上げて来たように、その子たちの生まれながらの純粋感性と世俗的価値観にとっぷり浸りながら育ってきた普通の子供たちとの物事に対する考え方や価値観の大きな相違から来る感性 の違いや違和感によるものであるのですが、だからこそ親はこの相違や違和感を越えて他者と良く交わったり、仲良くすることによくよく留意しながら子育てをして行かなければならないのです。そうでないとますます孤立化が加速し、社会性が身につかず、対人関係不全症候群を引き起こし、心病む子供になってしまう危険があります。

 

ではどうしたら他者と良く交わり、仲良く過ごせるようになるのでしょうか。以下にその方法について一つのヒントを差し上げましょう。

 

それはわが家にお友達を迎え、そこに親自らいつも共にいて見守るのです。ウルトラ良い子たちはそこに親が共にいることのゆえに安心感を抱き、よく交わり、よく遊ぶことが出来ます。のみならず、そこで感性の違いから違和感やトラブルが生じたら、直ちに子供たちに手を差し伸べて純粋感性を持った我が子の意見と他の子供たちとの意見の違いを汲み取って、両方の考え方の調和を「真理に従って」調整してあげるのです。ここで重要なことは「真理に従って」と言うことです。こうする時、ウルトラ良い子である我が子は納得し、世俗的価値観の下で育てられてきた子供たちも「真理に従った」より優った考え方を学習し、彼らの人生に大きく貢献することが出来るのです。小僕は、これを「仲良し家庭塾」と呼んでいます。

 

かくすることによってウルトラ良い子は、知らずして自らの考えていることに自信を持つようになり、他の子供たちもこの子を受け入れるばかりか、より良い考え方を身に付けることとなり、更に楽しく交わり、仲良しになって、その延長線上で学校生活を送ることが出来るようになります。その結果、日々の学校生活がより楽しいものとなり、そこにはもはや不登園・不登校が起こりません。

 

ここで以前にも若干紹介しましたが、一つの典型的な成功例を紹介しておきましょう。

 

ある時、学校でウルトラ良い子であるA君が、クラスの中で複数の同級生たちから陰湿ないじめに遭うようになりました。学校の先生たちも非常に心配し、いじめる子供たちを呼んでよくよく話をし、再びいじめないように注意しました。その後しばらくはいじめが治まりましたが、しかし残念なことには再びいじめが始まりました。ところがA君の家庭は、敬虔なクリスチャン家庭でした。そこで両親は心を合わせて主に祈り、その良き解決の道を祈り求めました。その結果、両親の思いの内に一つの道が示されました。それはいじめる子供たちを毎日学校の帰りにA君の家庭に招き、美味しいおやつを用意し、二人の男女の大学生にもボランティア協力をしてもらい、楽しく交わり遊ぶことにしたのでした。初めは相互に緊張していましたが、叱られると思っていたのに優遇され、またボランティアのお兄さん、お姉さんの巧みなリードの下で、楽しいひと時を過ごすことができるようになりました。その内に更にそこには彼ら以外の子供たちまでが数名参加するようになり、一ヶ月もしない内に彼らは非常に仲良しになり、クラス全体がまとまりのある優良クラスに変わりました。勿論のことA君も不登校にならずに済みました。こうすることによって見事に不登校に陥りそうになっていたA君を救済することが出来たばかりか、何よりもいじめる子供たちを善導することに成功し、双方に仲良くすることの幸いと喜びを学習させることが出来たのでした。何という幸いなことでしょう。解決の道は、意外なところにあるものですね。

 

かくしてこの時期の子供たちに、是非とも他者と良く交わり、仲良く過ごすことが出来るよう、様々な機会を捉えてよくよく教え示して行こうではありませんか。

 

 

他者と仲良く分かち合い、譲り合う喜びを教えよ。

 前述の他人と良く交わり、仲良く過ごすことが出来るように育てるということとほぼ同様ではありますが、事柄をより明白にし、かつ具体的に捉えやすくするために、あえて重複したように見えるこの点について、項目を改めて以下のように述べてみたいと思います。

 

つまり自らが他の仲間たちも望んでいるような何か良い物や良い出来事に与った時、その喜びを一人占めせず、それを望んでいた他の仲間たちにもお裾分けし、喜びを分かち合う優しい心遣いや、また何か利害関係が競合するような場合には、相互に譲り合える温かい心遣いこの時期に育むことが必要です。そしてそれが如何に人間にとって大切であり、また人生をより美しく実り豊かなものとして行くことが出来るのかを、この時期に、何よりも彼らの心の内に欲心や邪念が混入し、自己中心な思いや我執が立ち上がり、その心を毒しきらない内に、よくよく体験させてあげることが重要です。そうなのです。自分一人が喜びを独占したままでいるよりも、その喜びを分かち合うことにより相手が共に喜び感謝するのを見、また自分が相手に譲歩して相手にその喜びを譲り渡したときに相手が喜び、自分に感謝するようになることを見届ける方が、どんなにか大きな喜びを自分の人生に齎すものであるかを体験させてあげるのです。これこそが聖書が教えている「受けるよりは与える方が幸いである」(使徒20:35)と主イエス・キリストご自身が語られたという人生における幸福の根本真理です。

 

実にこのような考え方、生き方を誰よりも喜び受け容れやすい性質に富んだ人間こそ、ウルトラ良い子たちです。彼らは既に何度も学んで来たように生まれながらにして他者受容性や他者貢献的性質を豊かに内に秘めている素晴らしい存在です。ですからこの時期に彼らにこそこのような自らの喜びや幸せを他者と分かち合い、またそのような喜びや幸せを他者と競い合うのではなく、喜んで他者に譲り渡すことによる“愛の喜び”を体験させてあげるなら、彼らはごく自然にと言ってもよいほど、このような美しい人間性と考え方を身に着け易いのです。そして彼らはこの時期にしっかりと「受けるよりも与える方が幸いである」と言う極めて尊い人生観、価値観、つまり人生における幸福の根本真理を彼らの内に確立させることが出来るのです。そうするならば世俗社会のただ中に放置されても決してそれに靡かず、独り占めせず他者と分かち合うことを損とは思わず、また他者に良きものを譲り渡すことを不利益と思わず、むしろそれを喜びとし誇りとさえ思うことが出来るようになるのです。すごいことだと思いませんか。何と神々しい生き方ではありませんか。このような神々しい人生観、価値観、人間性を身に着けるには、この幼少期を失っては極めて困難になるのです。ですからよくよくこのことを親たちがよく熟知して、この時期に良き子育てをしなければなりません。

 

そしてこのような子育ては、如何にウルトラ良い子と言えども、ただ生まれながらにして潜在的にかかる感性や性質を有していようとも、それをこの時期に引き出し、その事のすばらしさを具体的に日常生活の中で繰り返し体験させ、味合わせて上げない限り、それは育成されず、地に埋められた宝のように生涯葬り去れたものとなり、のみならず錆付き朽ち果ててしまうのです。そしてあたかも初めからそのような尊い資質は存在しなかったもののように、日の目を見ることなく一生を終えてしまうことになるわけです。こんなもったいないことを断じてさせるべきではありません。それは個人的ばかりでなく、社会的にも大なる損失と言えましょう!ですからこの時期の育成、訓練、鍛錬を怠っては断じてなりません。

 

しかし、今日どれだけ多くの家庭においてこの大なる損失を引き起こしてしまっていることでしょう。まことに悲しむべきこと、無念なことではありませんか!この点において皆様はいかがお思いでしょうか?

 

 

 

Ⅲ、第2期 3歳から6歳までの幼児期後半の幼児教育

B、自己抑制が出来、困難事に耐えることの出来る人間資質の育成

この時期にしっかりと育成しておかなければならない人間性の資質として、次に自己抑制のよく出来る子供に育てることと、諸々の困難事に直面した場合に、その困難事を耐え忍ぶことの出来るように子供を育てることが必要です。この自己抑制力と耐久力もしくは忍耐力は、前項で述べた人間関係の調和を実現して行くためにも、子供の頃からしっかりと身に着けて行かなければならない極めて大切な人間資質です。世間でよくあるように大人になっても他者と良く調和出来ない人がいますが、そのような人々の多くは幼少時代に自己抑制と自己克己つまり困難事を耐え忍ぶための自己訓練の出来ていなかった、いわゆる耐久力や忍耐力を欠如した人々なのです。

 

ちなみに「ウルトラ良い子」に対して「アガペーによる全面受容」をもって子育てをすることは、先にも述べたように決して子供を単に「甘やかす」ことではないのです。物事の本質を良く見極めて、常に真理に従ってウルトラ良い子の純粋感性に寄り添いながら、しっかりと養育に当たるのです。この場合、いたずらに怒鳴ったり、叩いたりはしませんが、とはいえ決して子供の言いなりになってはならず、子供がわがままを言ったり、悪いことをしたり、嘘をついたりしたような時には、しっかりと叱って戒めたり、謝らせることを怠ったりしてはなりません。このような時こそ彼らに物事の良し悪しや、是々非々をより深く学習させる絶好の好機なのですから。のみならず、このようなことを通してわがままにしたい放題のことをするのではなく、物事をよく考えて自己抑制、つまり我慢したり、自己節制したりすることを身に着けさせることが出来るからです。

 

そこで自己抑制力と耐久力もしくは忍耐力を育成するために、次のような諸点に留意することをお勧めします。

 

1 .肉体的にも、精神的にも努力し、克己しなければならないプログラムを日常生活の中に適度に取り込むこと。

それはスポーツでも、音楽でも、その他どんな習い事でもいいのですが、基本的に重要なことは、そのプログラムの中に努力・克己し、かつ持続して自己に負荷がかかる要素が組み込まれていることが大切です。そうすることによって自然と忍耐力、耐久力が備わり、自己抑制力が付いて来るからです。肉体的訓練は、必ず精神的鍛練となり、精神的鍛練を望むならば、肉体的訓練を伴う稽古事を日常生活の中に取り込むことは、非常に良いことです。是非やってみて下さい。

 

2.また「叱るべき時」には、しっかりと叱り、決して優柔不断であったり、悪しき事柄を見過ごしにしたり、あいまいにしてはなりません。

たとえ如何に「ウルトラ良い子」であっても、所詮人間は「生まれながらの罪人」ですから、時として悪い願望に引き込まれたり、邪悪な欲求に振り回されたり致します。そのような場合にすかさず両親がそれに気づき、その子をしっかりと説諭し、それでも言うことを聞かず従わないような時には、厳然とその過ちを指摘し、しっかりと叱ってあげるべきです。この場合よくよく注意しなければならないことは、単なる感情の爆発としての対応ではなく、愛と真実そして深い理解と配慮をもってなす“愛のお仕置き”、“愛の鞭”としての行為でなければなりません。その場合は決してウルトラ良い子への抑圧となることはなく、彼らはこのことにより通常時にも優って、自分をどこまでも愛してくれている親の愛を深く感じ取ることが出来るのです。

 

この言葉は決してその青年の都合の良い方便ではなかったのです。父親の自分に対する真実な愛を、そうすることによって示してほしかったのです。ですから、叱るべき時には、しっかりと叱ってやるべきなのです。これまた「アガペーによる全面受容」の範疇に属する“愛の特別表現”であるのです。

 

 

 

3. 好き嫌いの感情をコントロールし、克服することを教えること

自己抑制ができ、困難事を耐え忍び、人生を力強く生き抜いて行くことの出来る人間資質の育成に役立つこの時期からの訓練で、極めて有効な日常的・実践的手立ての一つは、「好き嫌い」を極力させないようにすることです。およそ人間で「好き嫌い」のない人など、誰一人としていないでしょう。食べ物の好き嫌い、趣味や娯楽の好き嫌い、仕事の好き嫌い、その他さまざまな種類の好き嫌いがありますが、とりわけ人間に対する好き嫌いは、人間が社会生活を営んで行く場合に、様々なトラブルを引き起こすことがあります。

 

しかし、例えば食べ物における「好き嫌い」には、いわゆる我が儘で好き嫌いをしているというのではなく、生理学的・医学的見地からその人の生まれつきの固有の体質から、体自体がその食物を受け付けないという場合があります。また動物や植物、スポーツや職業などの好き好みも、これまた我が儘から発しているものではなく、個々人の生まれながらにして身に受けている固有の性質や特性から必然的に発した極めて大切な個性的選択による場合があるのです。ですからこうした類のものは、単なる「好き嫌い」と言う枠組みの中に取り組む必要は、全くないでしょう。

 

しかしながら、いわゆる「我が儘」と呼ばれる類の「好き嫌い」は、大いに克服されなければならない人生における大切な学課です。これを克服するか否かで、その人の人格,いや更には人生が左右されると言っても過言ではありません。

 

そもそも「我が儘」から出た「好き嫌い」と言うものは、直観的・感覚的な一つの「誤った感情」の表現であって、そこにはその「好き嫌い」の対象物に対して充分な考察も理解もないままで、即座に自分にとっての良し悪しを選択・決断してしまうことを意味しています。こうすることで自分にとっても相手にとっても有益なことを排除し、またその反対に自分にとっても相手にとっても不利益なことを取り込んでしまう結果を生み出します。その結果、人生に大きな損失を被ることになるのです。

 

そこでこのような人生に思いがけない大きな損失を自ら背負い込ませせないためには、この幼児期にしっかりと我が子が「好き嫌い」を克服できるように訓練することが大切なのです。しかもこの「好き嫌い」の克服の訓練の最も重要な点は、我が子をこの我が儘な「誤った感情」から救い出し、我が子にこの「悪い願望」から自ら脱出することのできるための、「誤った感情」や「悪い願望」に対する強い「自己抑制力」並びに「忍耐力」を育成してあげることができるからです。ですからこの好き嫌いの感情をコントロールし、克服することを教えるということは、人生にとって極めて大切な自己抑制及び困難事に耐えることの出来る人間資質を育成するのに、決して欠かすことの出来ない、見過ごしてはならない大切な育児の知恵と言うことができます。

 

 

 

4 .忍耐心を培い、忍耐力を育てること

前述の「好き嫌い」を克服させる項目の中でも若干触れましたが、自己抑制ができ、困難事を耐え忍び、人生を力強く生き抜いて行くことの出来る人間資質の育成のために、「忍耐心・忍耐力」の育成と言うことが非常に大切です。この点についてはもう少し詳しく記すことに致しましょう。

 

新約聖書の言葉に「そればかりでなく、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むと言うことを、希望はわたしたちを欺くことはありません(失望に終わることはありません:口語訳)」(ローマ信徒への手紙5:3~5)と言う言葉がありますが、この言葉の明示しているように、お互い人間が人生での様々な苦難に遭遇した場合に、そこでその苦難を耐え忍び、「忍耐」する時、忍耐は決してそのままで終わることなく、その人に「練達」生み出し、更にその練達の中から「希望」が生み出され、遂にその「希望」はその人の心の内に「慰めと励まし」を与え、遂には大きな「喜びと平安」を齎してくれます。何と言う「忍耐の恵み」でしょう。ですから「忍耐心・忍耐力」を小さいうちから養い育てておくことは何と幸いなことでしょうか。

 

しかし、この素晴らしい「忍耐心・忍耐力」は、決して誰にでもほっておけば身に着くと言うものではありません。勿論、自然と身について行く「忍耐心・忍耐力」と言うものがないわけではありませんが、その程度の「忍耐心・忍耐力」では、高潔な人間性や人格を身に着けるまでには至りません。とくに今日の日本社会では、この身に着けるべき大切な人間性・人格を形成して行くために必要な主要素の一つである「忍耐心・忍耐力」を欠如した軟弱な人々が、激増しているとさえ言われています。それは何故でしょう。

 

第一に、生活が豊かになり、何事も労さずに手に入り、物事を為すのに便利な時代を迎えているために、昔ほど何かにつけ労苦したり、我慢したり、励んだりする必要がなくなってしまったからです。そして大人たちがそのような便利な生活の中で、お金さえあれば子供たちのためにも、また自分たちのためにも手間暇をかけることなく安楽に暮らせるように、電化製品や機械道具、玩具や生活備品などを手軽に手に入れ、およそ何事についても安直に対処して行けるようになってしまっている今日の状況下では、もはや「忍耐心・忍耐力」を錬成する機会が大幅に奪い去られてしまっているようなものです。

 

そして第二に、何よりも両親たちが日々の忙しさに追われ、それもさることながら、それ以上に大切な自らの子供たちに対して、その幼少時代にしっかりと「忍耐心・忍耐力」を育成し、やがてどんな困難に直面しようとも、それを耐え忍び、克服して行くことが出来るように、充分にその精神力を鍛錬し、子供たちの未来に備えることが、自分たち両親にとっての極めて重要な天与の責任であり、役割であると受け止める強い認識が欠如してしまっているからです。

 

そこで何としてもこの時期にしっかりと子供たちに「忍耐心・忍耐力」を付けさせてあげたいものです。ではその「忍耐心・忍耐力」をどう身に着けさすかと言うことが次に重要になってくるわけですが、その方法はいくらでもあります。およそ子供に未経験な新しいことを取り組ませようとする時、そこには必ず興味・関心と共に、不安やためらい、時には強い嫌悪感や拒絶感を、のみならず更に恐怖感さえ抱く子供がいます。こうした時にこそ、そのような不安や恐れ、更にはいやがる気持ちや拒否したい心を愛と祈りアガペーによる受容の精神をもって、子供の心に優しく寄り添いながら、怖がらず、嫌がらず、心穏やかに取り組むことが出来るよう導いてあげることが極めて大切です。その場合、子供一人だけをその課題の中に決して置き去りしてしまうことなく、親も一緒に同心・同行・同歩しながら、あたかも楽しいゲームや遊びに取り組むような思いをもって、共に歩んであげることです。しかも、決して無理をせず取り組み易い所から、一歩一歩取り組んで行くのです。そしてよく出来た時には大いに喜び褒めてあげるのです。また出来なかった場合でも決してそれを悲しんだり、責めたりしてはならないのです。むしろそこまで取り組んだことを大いに喜び、褒めてあげてほしいのです。そして次にはきっとできるようになるに違いないことを楽しみにするよう誘導してあげていただきたいのです。こうしたことを地味に着実に積み上げて行くところから、実に「忍耐心・忍耐力」、のみならず未知なるものや未経験な事柄に対して「精神的免疫体」のようなものが心の内に培われ、困難事や恐れていた事柄を勇気をもって取り組むことが出来る子供に育って行くものです。子供の内にはどの子にもそうした素晴らしい可能性と潜在能力が宿っているものです。それを上手に引き出してあげるのが親の責任であって、良い親となるための大切なステップでもあります。「親は子供と共に育つ」と言う昔ながらの言葉はまさに至言です。

 

 かくしてこれらの諸点においても、大いに失敗しないように心がけたいものです。

 

                     (続く)