峯野龍弘のアガペーブログ

心にささやかれた愛の指針

第6章 アガペーによるフォローアップ

第6章 アガペーによるフォローアップ 
 ―神の嘉(よみ)される8原則―

 

 さて、以上で「アガペーによる全面受容とその軌跡」を辿り、心傷つき病んでしまっていた“ウルトラ良い子”たちの「自立への7ステップ」について記してきましたが、次に「アガペーによるフォローアップ」ということを記してみたいと思います。これは心傷つき病んでしまっている子供たちへのフォローアップではありません。そうではなく、ケアーに当たる両親や受容者に対するフォローアップです。なぜなら心傷つき病んでしまっていた“ウルトラ良い子たち”を癒すにあたって、気の遠くなるほどの長い年月や苦労を重ねてきた両親や受容者たちは、一向にはかばかしくは進まない彼らの癒されない現実に直面し、果たしてこれで良かったのか、もしかしたら間違っていたのではなかろうか、さもなければ神が自分たちを見捨てたのではなかろうかなどと疑いを抱き、あわや挫折しそうになったりすることがあるからです。そこでこうした危機に直面した両親や受容者の皆さんに、是非とも必要な慰めと励ましが、この「アガぺーによるフォローアップ」と言う項目なのです。より正確に表現するならば、「アガペーによる受容者のためのフォローアップ」と言うべきでしょう。この場合に小僕は、皆さんに「神に嘉される8原則」と言うことを提唱したいのです。いきなり宗教的な神懸ったことを言い出したと思わないでください。「神から見捨てられた」とさえ思う方々がおられるので、小僕はあえてそこに踏み込んで、いや決して「神から見捨てられてなどいない」、むしろここまで労苦し、自己犠牲をもあえて甘受しアガペーし続けてきた両親やすべての受容者たちこそ、「神に嘉された人々」で、神のみ心に適った最善の道を進んでこられた方々だということを申し上げたいのです。ですから決して挫けてはならないのです。アガペーによる全面受容の道を、なおも走り続けて欲しいのです。その道は正しく、必ず勝利することになるのです。そこで皆さんに更に申し上げたいことがあります。それは「神に嘉される8原則」とでも申し上げるべきで事柄です。この8原則に従ってかかる場合になおも忍耐強く受容し続けるならば、まさにそれは「神に嘉される」ことで、見事に神は報いて下さるに違いありません。それは法則なようなもので、以下に記す8つの原則を守ることをお奨めいたします。

 

 

第一原則

第一原則は、アガペーの源泉である神の存在とその全能の力を確信し、日々祈れということです。

こう申し上げるとあたかもキリスト者やいずれかの信仰者でなければならないかのよう思われるかもしれませんが、いや決してそうではありません。もちろんキリスト者やいずれかの信仰者であられれば、それに越したことはありません。なぜならこれらの方々は、すでにその信仰のゆえに人間の知恵や力を遥かに超えた全能なる神の存在を信じ、確信しておられるのですから、その信じている神に信頼し、自ら徒に疑いを抱いたり、また不安を覚えたりして、右往左往してはならないのです。信仰はまさにこのよう時のための信仰でもあるのですから。心傷つき病める人々のための癒しの業に携る受容者たちは、常に彼らに安心・安息を齎す存在でなければなりません。それなのに受容者自身が疑いや不安を抱き動揺しており、そのような不安げな暗い顔をしていると、癒しを必要としている彼らが折角ここまで回復しつつあったのに、彼らまでが心落ち着かず、再び不安の中に取り込まれてしまいます。受容者の安息こそ、癒される者の安息の堡塁です。そしてこの受容者の安息を保証する堅固な堡塁こそ、全能者の存在を信じ、全面的に神に信頼する信仰です。更にまたこのお方に寄り頼み祈り求める「祈り」こそ、その信頼と安息を深める最良の王道です。ですから日々祈る必要があるのです。

 

では特定の宗教を信奉していない方々にとっては、この第一の原則は無効もしくは不要なのでしょうか。いや断じてそうではありません。そもそも人間は本来、霊的・宗教的存在です。それが証拠に古来より如何なる民族・種族にも、たとえ他の部族・種族と触れ合うことがなかったどんな奥地に住む未開の原住民であっても、そこには固有の宗教があり、葬送の儀式が存在します。しかし、人間以外の如何に人間に近いとさえ言われてきた動物たちの間にも、宗教や葬儀は存在しませんでした。なぜなら彼らは断じてそのような霊的・宗教的存在としては創造されてはいなかったからです。ところが人間は違います。まさに人間の人間たる尊厳として、唯一人間だけは、霊的・宗教的な存在として創造されていたのです。ですから人間は生まれながらにして祈り心を有し、特定の神信仰を持たずとも、何か重要な場面で心改まって、慇懃に「心から~をお祈り申し上げております」などと挨拶することになるのです。その時、不思議と挨拶する側も、また挨拶を受ける側も心温まる思いを分かち合うことが出来るのです。わけても愛する者が亡くなった時、深い悲しみを覚えつつ、葬儀を営むのは、人間の本能的営みと呼びたいほど必然的な営みで、ここにこそ人間の人間たる所以があり、まさにそれは人間の固有の尊厳でもあります。

 

そこで愛するウルトラ良い子たちが、心傷つき深く病み苦悩している時、またその子供を受容し癒そうとして自ら労苦している時、もはやどうすることも出来ないほどの窮地に落ち込んだ時、そこで受容を断念したり放棄したりすることなく、目に見えざる大いなる御存在を覚えて、天を仰いで祈ると良いのです。その時にその大いなる御存在を意識すればするほど、不思議とその心の安息度は増し、不安が解消されます。のみならずその心ばかりではなく肉体も霊魂までもが、安らぐことを体験なさることでしょう。これこそが人間本来の霊的宗教体験とも言えましょう。すでに本書の冒頭の方で記しましたように、「アガペー」と言う愛の真理とその生命は、実にこの大いなる方(聖書でこのお方を「神」と呼んでいる)に淵源しています。

 

ともあれ宗教とか信仰とかを論じるまでもなく、人間であるがゆえにか かる場面で、思わず人間の知恵や力の限界を遥かに超えた大いなる存在を 仰ぎ見て祈る時、不思議と心と霊魂と肉体にまで平安と安息を受け継ぐこ とが出来るのです。この場合、その大いなる存在に対して信頼し、依存す る信頼度・依存度が大きければ大きいほど、平安と安息の度合いも大きく なります。そこでかくすることによって受容者の安息度を高めることによ って、心傷つき病んでしまった人々の心の平安を維持し続け、その癒しを 促進することが出来るのです。ですから、この第一原則が極めて重要であることがお分かりいただけたと思います。是非ともこの第一の原則を踏み 外さないよう、よくよくご注意くださいますように!

 

 

 

 第二の原則は、「心傷つき病んでいる子供の内に本来宿っている尊い性質と尊厳を確信かつ信頼して、その癒しと回復に専念し、待望すること」です。すでにこの点については大分前に詳述しましたが、ウルトラ良い子の内には、平均的通常人に遥かに優って「尊い性質と固有の尊厳ある特性」が豊かに宿っているのです。それだけにこのような優れて尊い性質や特性を十分に理解し、受容し、それを引き出すように育てたならば、決して心傷つけ病んでしまうまでに彼らを追い込まずに済んだのですが、悲しいかな、極く幼いうちはそれに気づかず、むしろその感性を逆なでし、敢えて逆行するような世俗的価値観をもって子育てに当たってしまったがために、身体が成長するに従って、それに反して心には大きな抑圧を受け始め、徐々に心は傷ついていってしまったのです。皮肉なことにその心の純度が高ければ高いほど、ストレスを受け易く傷つき易かったのでした。

 

 しかし、たとえその心がどんなに傷つき病んでしまったとしても、決して彼らの内に宿っていた良き資質や感性は失われてはいないのです。つまり、その「尊い性質や固有の尊厳ある特性」は、なお彼らの人格の内に温存されているのです。これは彼らが生まれた時に命の与え主である人間の創造者が、彼らに付与して下さった何ものによっても奪われることのない個性だからです。それが極度の抑圧の累積によって傷つき、心中の奥深い隅っこに幽閉され、機能停止状態に陥ってしまっているのです。ですから、この状態からの癒しと回復が必要になるわけです。その癒しと回復の最良の業が、本書における「アガペーによる全面受容」なのです。

 

 そこで、この癒しと回復の業に従事する受容者にとって、極めて大切な気づきは、今なお彼らの内に存在する「尊い性質と固有の尊厳ある特性」を確信し、如何に現在の彼らの状態が、それと似つかわしくなく、全く正反対の様相を呈していようとも、この彼らの内に今なお留まっている心中の奥底に眠っている良き性質と特性を確信し、またそれを信頼し、今こそ本格的にウルトラ良い子形成に専念していくことです。その時、彼らの眠っていた感性が目覚め、甦り、癒され、回復していくのです。この場合、極めて重要なことはこの「確信と信頼」です。この「確信と信頼」こそが、揺るがずに彼らのケアーに当たる者に勇気と希望を与え、更には長く受容を継続していくための忍耐と努力の原動力ともなるのです。のみならず、ケアーを受ける彼らにストレスや緊張を起こさせず、より安息を与え、癒していくための豊かな包容力を生み出すのです。ですから、何とこの「確信と信頼」が彼らの癒しと回復のために大切なことであるかが、お分かりいただけたことと思います。どうぞ存分と彼らの今なお心の奥深くに有している「尊い性質と固有の尊厳ある特性」を確信し、それを信頼し、アガペーをもって全面受容し続けてみて下さい。ちなみに、ここで今一度彼らが内に宿している生まれながらの「良き性質と固有の尊厳ある特性」について、思い起こしてみましょう。

 

彼らの内には、以下のような優れて尊い特性と志向性が豊かに宿っているのです。

 

純粋志向性 夢見る人、理想主義者、メルヘン志向、空想家

 

本質志向性 「なぜ」を問う、生まれながらの哲学者、思索家

 

霊的志向性 霊的感性が強い、可視的でない世界への探究心が旺盛、永遠、死後の世界、霊の存在への関心、生まれながらの宗教家

 

絶対価値志向性 相対的な他者と比較する価値観に馴染まない

 

独創的志向性 閃きとのめり込み、科学者、文学者、芸術家

 

非打算的献身志向性 損得勘定に馴染まない、他者奉仕的人間、使命感が強い

 

他者受容志向性 温順な他者配慮、弱者保護の心に富む、隣人愛

 

生命畏敬志向性 自然や動物愛護

 

 何と尊い素晴らしい鋭敏な感性でしょう。このような卓越した感性が強い だけに、世俗社会に馴染みにくく、理解されず、受容されにくいわけです。この落差の大きさがより抑圧を受け易い原因となり、幼い内から早くも抑圧が起こってしまうのです。ですから、こうした彼らの特性を良く知って、深い理解をもって、更には彼らのこの尊い感性・特性を今なおその内に秘めていることを確信し、信頼してケアーしていくことが重要となるわけです。これまたよくお分かりいただけたでしょうか。

 

 

第三の原則は、「心傷つき病んでいる子供の自尊心を高めよ」と言う点にあります。

 これまたすでに記したことですが、心傷つき病んでしまった子供たちは、例外なくと言ってもよいほど彼らの自尊心が傷ついてしまっています。そもそも「自尊心」とは、本来「自らを尊しとする心」を意味し、自分の存在を掛け替えもなく尊く、かつ大切なものであると認識する心の状態を言うのです。これは決して自らを誇り、高ぶらせ、他者より自分の方が上等な人間であると自負することとは全く違います。他者を重んじ尊ぶと同様に、自分自身をも同様に大切にし、自己の尊厳を認め知って、自らその尊厳を滅失させるようなふるまいを慎み、常にあるべき自らを養い育てることに励む心を意味しているのです。ある辞書には「自分の人格を大切にする気持ち」などとコメントされていましたが、今日の社会ではややもすると他者の人格をさえ踏みにじるようなことが横行していますが、よく考えてみますとこうした考え方や生き方は案外、自らを真に大切にし、自らの品位や人格を重んじ、自己の尊厳を失うことのないように謙虚に自らを見つめ自己管理する「自尊心」を喪失してしまっている人々の生き様なのかもしれません。だとするならば現代社会は「心傷つき病んでしまっているウルトラ良い子」たちばかりではなく、一般健常人と思われる多くの人々の中にも、真の「自尊心」の回復が必要ではないでしょうか。

 

 さてそこで「心傷つき病んでしまってるウルトラ良い子」たちは、今も申し上げましたように例外なくこの「自尊心」が傷つけられ、「自尊心」を喪失もしくは滅失してしまっています。喪失・滅失していないまでも、極めて自尊心が引き下げられ、弱められてしまっています。彼らは長い間の世俗的価値観から来る極度の抑圧のゆえに、「自分はダメな者」、「他者より見劣りする者」、「生きて行く資格のない者」、「他者より受け入れられない者」、「人から理解されない者」等々と、気の毒なほど自らを卑下してしまっているのです。時にはこの思いが屈折して、真逆に作用してやたらに他者攻撃に出る場合もあります。それはこのように他者攻撃をすることによって、自己を他者より優位・上位の者と自他ともに思わせようとする悲しい一種の偽装行為であって、これは何よりも自分自身の惨めさ、辛さを回避するための必死の自衛行為なのです。勿論、こうしてみたところで一向に「自尊心」が回復されるわけでもなく、かえってこのことによってますます「自尊心」から遠ざかってしまい、自暴自棄に落ちて行くこと以外ではないのです。

 

 そこでこうした彼らにとって必要不可欠なことは、彼らの「自尊心」を高めて上げることなのです。そしてこの彼らの「自尊心を高める」ための最良の手立てこそが、「アガペーによる全面受容」の道なのです。先にすでに学んで来たようにこの「アガペーによる全面受容」の中に、しっかりと彼らを抱き続けて上げることによって、彼らは「自分は愛されている」、「大切な人間として受け入れられている」、「理解され、重んじられている」、「生きて行く資格がある者」、「決して見劣りなどしていない」等々の新たな良き自己認識を抱くに至るのです。これこそが真の「自尊心」の回復です。

 

 そして更にこの「自尊心」の回復をより促進するために、彼らの自尊心を傷つける「禁止」、「命令」、「奨励」の言葉を一切発せず、その反対に彼らの自尊心を高めることに役立つ「感謝」、「謝罪」、「賞賛」の言葉がけを豊富に与え、暗く、重く、堅く、冷たい表情と対応を払拭し、明るく、さわやかな、優しい、温かみのあるほのぼのとした、ユーモラスな言葉がけと態度をもって、彼らに接し、仕えて行くとき、彼らの自尊心が確実に高められて行くことでしょう。この彼らの「自尊心の高揚なくして、癒しなし」と言っても過言ではありません。このような対応は必ず神に嘉され、功を奏するに至るでしょう。

 

 

 

第四は、「ひたすら共に身を置き、同心・同歩・同行に努める」ことです。

 心傷つき病んでしまっているウルトラ良い子たちの内には、かなりの多くの子供たちが、自尊心を喪失しているばかりか、自分は見捨てられていると言ういわゆる「見捨てられ感」を強く抱いています。これは彼らの長い間に亘る過去の苦悩の旅路を通じて抱くに至った極度のコンプレックスによるものです。このコンプレックスから生じた「見捨てられ感」は、彼らの心の苛立ちと不安感を更に一段と増幅させてしまっています。

 

 そこでこの「見捨てられ感」や「コンプレックス」を取り除くためにも、のみならず何よりも彼らの「傷つき病んでしまった心」を癒すためにも、第四の原則を順守することが重要となります。それが「ひたすら共に身を置き、同心・同歩・同行する」ことに努めることなのです。

 

 そもそも今までに学んで来た「アガペーによる全面受容」の継続的実行により、彼らの傷つき病んでいた心が徐々に回復し、何よりも受容者である両親等に対する信頼関係も螺旋階段を上るように段々と増し加わって来ています。こうした段階でより重要な心がけが、「ひたすら共に身を置き、同心・同歩・同行する」ことにより彼らの心にしっかりと寄り添い、また彼らの生活に密着して日々を分かち合うことなのです。こうすることによって彼らは、自らが深く愛され、受け入れられ、決して見捨てられることも、見放されることもないことを実感・体感して行くことが出来るからです。この「見捨てられることはない」、「見放されることはない」と言うことを実感し、体感させると言うことほど、彼らの癒しにとって有効・有益なことは他にありません。彼らの長い間の苦悩の旅路を通して、彼らの心と体に浸み込んでしまった「不安感」や「見捨てられ感」は、決して宥(なだ)めすかすような説得や説明では取り除くことも、癒すことも出来ません。しかし、この段階での「ひたすら共に身を置き、同心・同歩・同行する」ことによって、彼らは見事にこの「不安感」と「見捨てられ感」から解放されて行くことが出来るのです。

 

 ちなみにここで「ひたすら共に身を置く」と記しましたが、勿論これは必ず日々24時間彼らと密着して共に過ごすと言うことを、意味しているわけではありません。そんなことは現実問題として不可能です。しかし、「ひたすら共に身を置く」思いをもって、「同心・同歩・同行」に努め、与うる限り共に過ごし、大切なことは「同じ心を持って」寄り添い、彼らの「ペースに合わせて」歩み、彼らの「行おうとするところに従って」共に進んで行くことに努める時、彼らはそこに以前には全く味わい得なかった自分の傷ついた心の痛みや苦しみが理解され、共感して貰えたと言う実感を味わうことが出来るようになるのです。その時、彼らの内に長く支配していた「不安感」や「見捨てられ感」が払拭され、癒しがなお一層促進されるのです。

 

 ところが多くの受容者は、この段階までにさしかかると、彼らが以前とは随分異なって穏やかさを取り戻して来たので、つい油断してしまい、「同心」・「同歩」・「同行」することを怠り、手抜きし、のみならず親である自分の思いを優先し、一歩先走ったり、出遅れたりして心の歩調を乱したり、彼らの行動に異論を唱えたりし易いのです。こうしたことは絶対に避けたいものです。なぜならいうまでもなく折角ここまで穏やかになり、癒しが促進されてきたことを、この段階で突き崩してしまうことになるからです。そこでこの段階でこそ第四の「ひたすら共に身を置き、同心・同歩・同行に努める」ことの必要性が大となるわけです。この点をよくよく留意して、悲しい失敗をしないで頂きたい心から念願するものです。

 

 

第五番目は、「謙遜と真実をもって謝罪し、時としては深い悔い改めを表白して仕えよ」と言うことです。

 

お互いは、アガぺーをもって全面受容し続けようと心がけます。しかし、悲しいかな心ならずも失敗してしまうこともあります。その時、このことによって心傷つき病んでいたウルトラ良い子たちが、せっかくある程度まで癒され、健常さを取り戻しつつあったのに、この失敗によって再びプレッシャーを与えてしまったり、心傷つけてしまったりすることが起こり得るのです。これは彼らにとっては、折角信頼関係が生まれ、心に安息を取り戻しつつあったことを裏切られ、踏みにじられたかのような大きなショックを受けることになります。そればかりではなく受容者である親たちにとっても、そんなつもりでは全くなかっただけに、これまた大きなショックであり、地団駄を踏みたいほどの口惜しさと悲しみとを禁じ得ない出来事となってしまいます。

 

ではこのような場合には、果たしてどのように対処したらよいのでしょうか。このような場合いには、何よりも即座に相手に対して謙虚に、真摯な思いをもって心から深く謝罪することです。決して何か言い訳したり、自己弁護したりしてはなりません。そうすることはかえって火に油を注ぐような結果を招来します。なぜなら思いがけないお互いの失敗のゆえに、いままで受容されてきた彼らがやっとのことでここまで安息を取り戻して来たにもかかわらず、突然その信頼を裏切られて、またしても再びプレッシャーを受け、ショックを覚え、その心は動揺し、かつ不安を感じ、その瞬間その心に苛立ちをさえ覚えているのです。ですからこのような場合には、即座にこれらの動揺や不安、ショックと苛立ちを解消してあげなければならないのです。それなのにここで如何にそのつもりはなかったにしろ、何か言い訳をたり、正論をもって弁解してみても彼らの心は一向に安息しないばかりか、むしろ相手を傷つけておきながら、それをよそに自分の不利にならないために、しきりと自己弁護し身を守ろうとしているお互いに、苛立ちを感じさせてしまうのです。

 

ですからこの場に必要なことは、即座に謙虚な心で真実を込めて、先ず何よりも謝罪することなのです。事柄によっては時としては心からの深い悔い改めをさえ言い表して謝罪してあげることです。その極めて謙遜にして真摯な悔い改めと謝罪の言葉は、相手のために大きな癒し効果を齎します。このことは以前にも述べたことがありましたが、彼らは長い間自尊心を傷つけられてきたコンプレックスを強く抱いている人々です。その彼らがこの場面で相手であるお互い受容者から、このような謙虚にして真実のこもった悔い改めや謝罪の言葉を聞く、その瞬間自分たちがこの場面では相手より優位な立場、つまり許す側に身を置くことになるので、彼らの失っていた自尊心が回復し、コンプレックスを一瞬解消することが出来るのです。だからお互い受容者の失敗が、この謙遜にして真実な謝罪や悔い改めを通して、相手の益となり、彼らの癒しと回復のために役立つ結果となるのです。これこそまさに「失敗は成功の基」と言えましょう。

 

それゆえ決して徒に失敗を恐れる必要はありません。しかし、大切なのはその時の即座の「謙遜にして真実な謝罪と、時としては真摯な悔い改めの表白」です。ここで極めて大切なことを一言しておきましょう。それは心傷つき病んで来たウルトラ良い子には、悲しいかな一切の弁解は通じないと言うことです。親の方がどれほど辛い悲しい思いをしてでも受容し続けてきてあげたにもかかわらず、しかもその失敗が如何に不可抗力な事柄であっても、残念ながら一切の弁解は禁物なのです。何故でしょうか。それは言うまでもなく彼らはまだ病んでいて癒されていないからです。彼らにはなお引き続き“アガペーによる全面受容”が不不可欠なのです。ですからこのような場面では、まだ正論は通ぜず、なおアガペーすることによって、癒し続けることが不可欠なのです。そしてこのような場面でのアガペーの仕方こそ、「謙遜と真実をもって、時としては深い悔い改めを表白して仕えること」なのです。これぐらい効果のある関係修復と彼らの心の苛立ちと不安を解決する道は他にありません。ですからどうぞ時を逃さないようによくよくご注意なさり、これを実践してみて下さい!

 

 

 さて更にこの「アガペーによる全面受容」を続けることによって、心傷つき病んでいたウルトラ良い子の癒しを成し遂げて行くために、不可欠なフォローアップの第6番目の原則は、それは受容者がどこまでも「常に本質に根ざし、純粋に、決して差別せず、使い分けをしない」と言うことです。

 この「本質に根ざすこと」、「純粋であること」、「差別しないこと」、そして「使い分けをしないこと」と言う諸点は、すでに本書の最初のころに「ウルトラ良い子の八つの特質」について記しました時に、これらが皆彼らの特質の最たる要件をなしていたことを学びました。またそもそも彼らの心の中に引き起こされた抑圧の始まりは、彼らの内に生まれながらにして宿っていた鋭敏にして卓越した八つのウルトラ感性に対する非受容と、その無理解から来た不充足に端を発していたことについても記しました。それゆえ彼らの癒しと回復のためには何と言っても彼らのウルトラ感性を受容し、充足して行くことが極めて大切であり、不可欠なのです。その中でも世間の常識や世俗の価値観に流されず、常に物事の本質をしっかり把握・認識し、かつアガペーに深く根差した他者配慮豊かな純粋動機をもって、当該の心傷つき病んでいる我が子は勿論のこと、のみならず関わりのあるすべての人間関係においても何一つ「差別することなく」、また相手の如何によって「使い分けすることなく」対応し続けて行くことが肝要です。なぜなら癒しを必要としている彼らにとっては、受容者が自分に対しても、また自分以外の誰に対しても常に変わらず、万事に付け物事の本質を踏まえ、常に純粋動機をもってことに当たり、しかも誰をも差別することなく、また如何なる場合にも使い分けすることなく対応しているのを知って、心から安息することが出来るからなのです。もし自分だけを受容して、他者を受容していないとすると、自分に対する受容が本当に真実な受容なのか、自分だけに対する場当たりの虚偽の受容であるのかわからず、心底から安息することが出来なくなってしまうのです。それほどまでに彼らのウルトラ感性は鋭敏で、その確認ができるまで彼らの心は充足されないのです。ですからどこまでも「常に本質に根ざし、純粋に、決して差別せず、使い分けをしない」ことが重要なのです。そしてこのような真実な受容こそ、まさに彼らの癒しに直結します。

 

 彼らは長い間、両親たちのこのような受容と対応を渇望していたのでした。そしてこのような受容と対応が、一時的な「対症療法」としてではなく、これが両親たちの本心となり、平常心となって彼らを受容し続ける時、彼らはそれを感知し一気に癒され始めるのです。それはそれは素晴らしいものです。小僕は今日までの長い経験の中で、彼らの癒しの過程において如何にこの「常に本質に根ざし、純粋に、決して差別せず、使い分けをしない」と言うことが大切であるかを、痛感させられて来ました。ですから是非とも彼らの癒しを損なうことなく、いよいよ癒され続けて行くことが出来るために、この第六の原則「常に本質に根ざし、かつ純粋に、決して差別せず、使い分けをしないこと」を守り続けてほしいものです。彼らは両親たちのその真受容の心と姿を見届けたいのです。見て、知って、確かめたいのです。そして安息したいのです。ですから癒され始めて彼らを引き続きどこまでも「常に本質に根ざし、かつ純粋に、決して差別せず、使い分けをしない」でフォローし続けて上げて下さい。その労苦は必ず報われ、彼らは癒されます。そしてこのような受容者である両親たちの愛と忍耐と労苦は、必ず心病み、傷ついていたウルトラ良い子たちの心と魂を揺り動かし、更なる癒しの完成に向かって彼らを進み行かせることでしょう。それは人間の創造者である神の御心に適ったフォローの仕方であって、それゆえ必ず神の嘉されることだと確信させられています。どうぞ挫けずフォローアップして下さい。

 

 

 

さて、第七番目のフォローアップの原則は何でしょう。それは「決して見返りを期待せず、また決して恩に着せてはならない」と言うことです。このことは「アガペー」の定義の最後にある締めくくりの主要件の一つにもなっています。

 

心傷つき病んでしまったウルトラ良い子たちを癒す確実な道としての「アガぺーによる全面受容の癒し」のもう一つの要件は、まさにこの「決して見返りを期待しない」ことにありました。

 

そもそもウルトラ良い子たちは、見返りを期待されたり、恩に着せられたりすることが大嫌いです。健常な人でさえ見返りを期待されたり、恩に着せられたりすることは、決して快くは思わないことでしょう。そこには自分に親切をしてくれたり、愛を注いでくれていると思わせながら、その実その心の奥に本人自身の利益や喜びを計算しての下心があったからです。それのみならずその上に恩まで着せられたりするとしたなら、どんなにか不愉快なことでしょう。ましておやウルトラ良い子たちは、純粋で真実な愛の中に受容され、憩いたいと何よりも切願していた者たちなのですから、しかも彼らは鋭敏に人の心の動きを察知したり、人の真の思いを知りたがったりする存在なので、そこに見返りを期待したり、恩に着せる思いが抱かれたりしていようものなら、たちどころに見破られ、折角愛による全面受容によって、かなりの癒しが促進されて来ていたところなのに、またしても再び彼らを傷つけ逆向させてしまう結果となります。これは何とも残念なことで、是非とも避けたい不幸な出来事なのです。

 

ちなみにウルトラ良い子たちは、自らが癒され健常になった暁には、何一つ見返りを期待しなかったにもかかわらず、見返り以上に遥かに優った素晴らしい感謝と喜びを込めた親孝行をなし、他者貢献をしてくれるものです。恩など全く着せはしなかったにも関わらず、その恩を深くその心に受け止めて、恩返しの生涯を歩んでくれるに至ります。これこそ「無欲の勝利」と言うものではないでしょうか。それなのに「見返りを期待したり、恩を着せたりする」ことによって、これらの大きな祝福をすっかり喪失してしまうことになるとは、何ともったいない話でしょう。それゆえ断じてこの轍を踏んではいけません。しかし、悲しいかな多くの人々がこの過ちを犯し、この点で失敗しているのです。はなはだ残念でなりません。ですからこの点においてもよくよく注意しようではありませんか。

 

アガペー」の定義の主要件の最後の一つがこの「見返りを期待しないこと」であることについて、この項の冒頭で一言しましたが、それはこの最後の一要件を欠如する時、それ以外の諸要件をすべて満たしてきっとしても、この一点の欠如によってそれまでやっとのことで積み上げて来た愛の石積みが、一挙に崩れ去り「アガペー」が崩壊してしまうことを意味しています。それ以上に今まで多くの愛と忍耐を持って、しかも自己犠牲をさえ甘受して献身的に仕えて来た「アガペー」の営みが、結局は皆見返りを期待する恩着せがましい偽りの愛に過ぎなかったことを自己暴露するような結果に陥ってしまいます。それは何と空しく、悲しい結末でしょうか。こんな残念なことはありません。 ですからくどいようではありますが、決して最後まで見返りを期待したり、ましておや恩に着せるようなことをしたりしてはならないのです。そのようにしてどこまでも「アガペー」一筋にフォローし続けて行くところに、心傷つき病んでしまったウルトラ良い子たちの癒しが完成するのです。その時、お互いの受容者の長い間の祈りが成就し、それまでの一切の愛の労苦が天地万物の創造者である神の御心に適い、必ず報われるのです。これこそ見返りに優る見返りであり、何一つ恩返しなどは全く期待しなかったにもかかわらず、神がその無欲な献げきった美しい混じりけのない心と献身的な労苦を嘉されて、必ず報いて下さる恩返しに遥かに優る神の祝福(恵み)と言うものです。

 

 

さて、いよいよ「アガペーによるフォローアップ」に関する「神に嘉(よみ)される8原則」の最後の一つになりました。それは何かと言えば、「失敗を恐れず、現象に惑わされず、常に原則を繰り返し、神により頼め」と言うことです。

 

そもそも本書の冒頭から終始一貫して高調して来たことは、この「アガペーによる全面受容の癒しの道」は、お互い人間の考えによって作り上げられた単なるセオリー(理論)や施策の所産ではないと言うことです。これは人間と天地万物を創造された創造主である神の奥義であり、また真理だからです。先にも一言したようにここで筆者は、何か宗教の奨めを敢えてするつもりは毛頭ありません。しかし、それを宗教と言うか言わないかは各人のご意思にお任せして、筆者自身はもしも天地万物の創造者がおられるとしたなら、そのお方はご自身がそのご意思と目的を持って創造された人間並びに万物に対して、今もなおその内に働かれて、その創造主の聖く正しい御心に従って生きかつ歩む者のために、最善な方法をもって報いて下さると言うことを信じる者の一人です。そこで更に以下において述べることを寛大な御心でお聞きいただければ幸いです。

 

これは筆者が長い間、心傷つき病んでしまった「ウルトラ良い子」の癒しのミニストリーに携わりながら、今日に至るまで数々の臨床的体験を重ねてきた過去の事実に基づいて申し上げていることなのですが、どうか途上において如何にケアーに失敗したり、思うようにことが捗らないと言った現象に直面しようとも、決して失敗を恐れず、現象に振り回されたり、惑わされたりせずに、ひたすら原則に立ち返り「アガペー」し続けることです。「アガペーの行くところに、向かう敵なし」と確信し、「頑(かたく)なに」と思われても、「ただひたすら一筋に、最後の一息まで」、アガペーの基本原理・根本原則に従って歩み続けて頂きたいものです。決して挫(くじけ)けたり、諦(あきら)めたりしないでください。「アガペーによる受容の癒し」は、創造主が定められた癒しの原則、いや「法則」なのですから、それにどこまでも沿って生き、歩む者があれば、必ずその良き報いに与(あずか)ることが出来るのは必然であると言えましょう。またこうも言うことが出来ましょう。これがもし「法則」であるとするならば、これに則(のっと)って歩んだ者には必ずその「法則」通りの良き結果がもたらされることでしょう。そこでこの「法則」通りの良き結果は、その「法則」の信憑性(しんぴょうせい)をまさに裏付けることとなり、更にまたこの「法則」の信憑性は、その「法則」の創始者であり制定者である天地万物の創造者の存在を、まさに実証する「神の存在証明」であるともいえるでしょう。だから失敗を恐れず、現象に惑わされず、常に原則にしっかり立ち返り、それを反復・継続して実践してまいりましょう。まさに創造主なる神により頼み、「ひたすらに、一筋に、最後の一息まで」これを貫き通すところに、神に嘉(よみ)された勝利と喜びに満ち溢れた、心傷つき病んでいた「ウルトラ良い子」の癒しの日が到来することでしょう。必ずその日が到来します。それは「法則」なのですから!