峯野龍弘のアガペーブログ

心にささやかれた愛の指針

第5章 心傷つき病む子供たちの癒しへの道

 第5章 心傷つき病む子供たちの癒しへの道

Ⅳ.アガペーによる全面受容とその軌跡(自立への7ステップ・法則)

 さて、以上において述べ来ったように心傷つき病んでしまったウルトラ良い子たちを癒すための最良の道として“アガペーによる全面受容”の道を説いてきましたが、いよいよこのあたりでまとめに入りたいと思います。そこでこの癒しへの道の総括として、“アガペーによる全面受容”がこれらの病める子どもたちを癒して行く素晴らしいプロセスを明記しておきましょう。

 

 小僕はこれを「癒しへの軌跡」とか「自立への7ステップ」と呼んでいます。なぜなら、彼らを全面受容し続けて行くとき、そこには必ずと言ってよいほどの“癒しへの足跡”を見出すことができるからです。これは同時に彼らが癒されて自らを健常に回復し、待望の自立にまで達して行く、まさに“自立へのステップ”をそこに見届けることができるのです。ちなみに、この“軌跡”若しくは“ステップ”には、例外がありません。必ずこの“軌跡”を辿るのです。ですからこれは以前にも申しましたように決して“奇蹟”ではなく、“法則”であると言うことができましょう。そしてそこには以下のような明確な7段階のステップ、つまり法則があります。では次にその7つのステップ(法則)について記しておくことに致しましょう。

 

 

アガペーによる全面受容の軌跡と癒しへの7ステップ(法則)

<第1ステップ> アガペーによる徹底的全面受容との出会い

当然のことながら、まず初めに“アガペーによる全面受容”との出会いがなければなりません。しかも、徹底的全面受容との“出会い”です。中途半端な受容ではいけません。“全面受容”です。のみならず真実・真心こめての徹底した全面受容です。すでにくどいほど学んで来たように、これを「アガペー」と言うのです。人は誰でも例外なく、この“アガペーによる全面受容”に出会ったところから癒しに与って行くことができるのです。“アガペーなくして癒しなし”“アガペーによる全面受容に出会う時、癒しが始まる”これはまさしく永遠不変の真理なのです。ですから、この永遠不変の真理の土台の上に、第一のステップを築きましょう!ちなみに、ここでいま一度「アガペー」の定義を繰り返し、記しておきましょう。そして、常にこの定義を思い起して口ずさんでください。この「アガペー」を日々思い起こし、「アガペー」をイメージし心の内に反芻(はんすう)しながら、心傷つき病んでしまっている、あなたの子ども若しくは病める者を全面受容し続けてあげてください。そこに確実に癒しが促進されて行きます。そこで、「アガペーとは、相手のために、しかも自らに敵対し、不利益を与える相手のためにさえ、あえて自己犠牲を甘受して、その相手の祝福のために、自らを献げ、仕えて行く、何一つ見返りを期待しない、心と生活(生き様)である」 

 

 

<第2ステップ> 充足感の到来

さて、第2のステップは“充足感の到来”です。徹底した“アガペーの全面受容”を与え続けると、そこには必ず“充足感”が与えられます。この充足感が与えるということは、彼らの癒しにとって極めて大切なプロセスです。彼らが傷つき病んでしまっているということは、そこには何一つ“充足感”を感じられなくなってしまっているということをも意味しているのです。哀れな彼らは長い間の極度の抑圧のゆえに、何をしてみても、またその反対に何もしなくても満足はなく、また何を見ても見なくても、更には何を手に入れても入れなくても心満ち足りず、満足感・充足感を得ることが出来ないのです。彼らは常に空虚で無気力に陥てしまっているのです。この得体のしれない空虚感と無気力感のゆえに、彼らはしばしば大きな不安や恐怖、更には強い焦りや苛立ちを覚え、それが彼らを異常心理・異常行動に駆り立てるのです。

 

 ところがこのような状態に陥ってしまっている彼らに“アガペーによる全面受容”との出会いが与えられるとき、彼らの心に満足感が訪れ、その満足感が彼らに引き続き持続して与えられ続けると、それが“充足感”となって彼らの心を満たすのです。その瞬間、彼らは彼らを駆り立て悩ませていた空虚感、無気力感から、更には不安や恐怖、焦りや苛立ち、そして劇悪な異常心理や異常行動から一時的に開放されるのです。勿論、この状態はいま記したように一時的なものであって、持続的恒常的安息に入るためには、なお継続的に注がれ続ける“アガペーによる全面受容”が必要なのです。

 

 大分前にも記しましたように、彼らの要求するところは、彼らが今ではすっかり心病んでしまっているため、家族や周囲の人々にとって極めて受け入れ難い、いわゆる一般的には悪い要求と思われることが多いのです。ですから、彼らの要求や願望は、ほとんど受け入れられず退けられてしまいます。とりわけ世俗的価値観に強く支配されている両親や周囲の人々からすれば、その拒絶はむしろ当然のことであって、それを受容することなど断じてあり得ないことでもあるのです。ですから、その悪しき要求を受け入れることは、その心病んでいる子どもに迎合することで、極度の甘やかしとなり、時としては“共依存”になりかねないこととして拒絶されてしまうのです。ですから、その両者の関係はますます相対峙する関係となり、両者の関係は悪化するばかりです。その結果、悪しき要求をした心病む子どもは、以前にも増して不満足となり、充足することは決してあり得ないのです。そこには対話も絶え、憎しみと争いが激化するばかりです。ですが“アガペーによる全面受容”は、そうではないのです。そこに活路を拓き、荒野に道を切り開いて行くことが出来るのです。

 

 正論は充分理解し認識しています。何も『“悪”を受け入れよ。闇雲に“悪を成す”ことを肯定せよ』と、言っているのではありません。また他者や第三者の人々に害を及ぼすことを肯定しているのでもありません。それは断じて避けるべきです。しかし、「自分一身」が受け入れ、耐え忍び、甘受しさえすれば良いことであったとしたなら、どうでしょう。「アガペー」はそれを受容するのです。我慢するのではありません。愛のゆえに積極的に耐え忍び、受け止めるのです。その動機と目的は極めて明確でなければなりません。それは唯一「相手の祝福」、つまり癒しのためにです。真の「アガぺーによる全面受容者」は、「アガペーによる全面受容」を与える時に、そこには必ず相手の心にある種の満足感と更には充足感が宿り、その瞬間、彼らの心の内に和らぎが芽吹くことを確信しているからです。そして、この和らいだ心に更に「アガペーの全面受容」を注ぎ込んで行く時、その心にゆとりが生じ、緊張がほぐれ、対話が回復されるのです。断絶していたコミュニケーションの復帰です。では、このことを可能にしたのは何によってだったのでしょうか。言うまでもなく一般常識や、ましておや利害関係を基盤にした世俗の価値観からすれば、一見不合理で、非常識にさえ思われるかもしれない行為なのですが、実にこれこそがキリスト教で言う、十字架のキリストの内から湧きあがった、自己犠牲を敢えて甘受したうえで注ぎ出された「アガペー」の愛の威力なのです。この「アガペー」が“奇蹟”とさえ思える対話の活路を生み出すのです。しかし、これは決して“奇蹟”ではなく、先にも一言しましたように実に“法則”そのものなのです。ですから「アガペーによる全面受容」は、傷つき病んでいた対話不能の人々の心に、一瞬の満足感と充足感を生み出し、その満足感と充足感が彼の心の緊張を緩め、静め、そして相手との間の心の通いの扉をわずかづつ開かせるのです。これまた心傷つき病んでいる極度の“人間関係不全症候群”に陥っている子らや人々の癒しのためのステップとして、極めて重要なことなのです。

 

 ちなみに筆者は、今日に至るまでに全国各地のAFCCのセミナー受講者たちの間で、どれほど多くの人々のうちにこの素晴らしい体験者を目撃させて頂いてきたことでしょう。その度ごとに「人間とは何と素晴らしい存在か!」と感嘆せざるを得ませんでした。

 

 ここで更にもう一言、これまた極めて重要なことを記しておきたいと思います。彼らは決して彼らの要求が満たされ、要求したものが思い通りに手に入ったから満足し、充足したのではありません。この敵対し、不利益を与える異常心理・異常行動に出る自分のためにさえ、あえて自己犠牲をも甘受して、その自分の癒しのために、何一つ見返りを期待しないで献げ、仕えてくれる真実で、美しい献身的な「アガペー」に出会ったから、彼の心の深みに満足感と充足感が宿ったのでした。 

 

 

 <ステップ3> 深みの安息の実現

 さてここでさらに次のステップに進みましょう。次は、「深みの安息の実現」と言うステップです。この「深みの安息の実現」は、心傷つき病んでいたウルトラ良い子たちの癒しの上で極めて重要なプロセスです。これは彼らが確実に癒されつつあることの顕著な証明であり、目印でもあります。前項で述べた「充足感の到来」を経験した彼らが、更に継続してこの充足感を味わい続けると、次にはそれが遂に彼らの心の深みに安息状態を生み出します。この心の安息状態は、長い間彼らをいらだたせ悩ませて来た、極度の不安感や焦燥感、イラ切れ症状やパニック症状から彼らを守り、心穏やかに人間関係を結び易くしてくれます。このことによって彼ら本人はもとより、周囲の家族や人々にも安息を齎(もたら)すことが出来るのです。それゆえ「アガペーによる全面受容」により、「心の満足感と充足感」を継続して与え続けることによって、遂に彼らの心に「深みの安息」を実現させて行くことが、如何に重要であり、素晴らしいことかがお分かり頂けると思います。

 

 しかし、ここまでに至るためには、しっかりと積み上げられ持続した「アガペーによる全面受容」の長き日々が不可欠です。そこには当然ながら愛の忍耐と自己犠牲の甘受が必要です。決して一朝一夕でなるものだと安易に考えてはなりません。勿論、時としては以前にも申し上げましたように、「アガペーの全面受容」を始めてから、日ならずしてまさに奇蹟が起きたと思えるような速やかな癒しが齎されることもあります。これこそ「アガペーによる全面受容」効果の顕著な典型的事例と言えましょう。しかし、多くの場合はそうではありません。そこにはそれぞれのケースに応じた、それ相応の時間を要します。それは概して言うならば、その心傷つき病んでいる子どもたちの心傷つき病んで来た時間経過に比例し、心傷ついた症状の軽重に比例します。

 

 さて、ここで一つの大きな障壁のようなものが癒しに携る両親やケアにあたる人々の前に立ちはだかり、大きな重荷が圧し掛かってきます。それは愛の忍耐と自己犠牲を甘受すると言うこの重要な一事を、如何に持続して実行し続けることが出来るか、と言う難題です。これは人間の並な我慢や努力では、到底乗り越えることが出来る問題ではありません。ではこの難問をどのようにして克服することが出来るのでしょうか。出来るのです。事実わたしの関わってきた多くの両親たちやケアにあたられる方々が、見事にそれに成功してこられたのです。果たしてどのようにしてそれを成し遂げられたのでしょうか。そこでここにその秘訣を、その方法をお教えしましょう。

 

①まず第一は、「“アガペーによる全面受容”を継続して行けば、必ず癒しに到達する」と言うことへの揺るがぬ「確信」です。この「確信」は、心に「希望」を齎(もたら)します。そしてその「希望」は、希望を抱くお互いの内に不思議な「平安」を与えてくれます。「きっと何とかなる。必ず報われる時が来る。決して失望に終わることはない」と言う思いが、湧き上がり「忍耐」する力を約束してくれるのです。そうです、この「確信」は、「希望」を、その希望は「平安」を、そしてこの「平安」が、持続する「忍耐」を可能にしてくれるのです。ですから「“アガペー”の向かうところ敵なし!」と確信して進んでください。

 

②第二は、「愛と祈りです。どうか心傷つき病んでいる子どもを愛し続けて下さい。愛は決して見放さず、見捨てません。そこに愛が働く時、その愛はきっとこう祈るでしょう。「世界中のすべての人が見捨てても、わたしは決して見捨てません。どうか神様、病める子を癒して下さい」と。自分の知恵も力も、そして他者の知恵も力も一切が無力に思える時であっても、愛はあきらめず、遂に日頃無縁に思われていた、目に見えない偉大な御存在、つまり「神」の救いの御手にすがりつく思いで祈るのです。ここで小僕が、何か宗教の奨めをしていると思わないでください。祈りは、人間が単なる動物でないことの証明です。人間だけが万事が窮した時に祈ることが出来る崇高な存在なのです。これは「苦しい時の神頼み」などと軽蔑すべき何ものでもなく、これこそ人間の尊厳であり、真の人間証明(アイデンティティ)なのではないでしょうか。とりわけ「愛は祈る」のです。無神論者であろうと何であろうと関係がありません。そこに「愛」があるなら、愛する者が困難に直面し、生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされているのを見て、思わず今まで信じたこともなく、見たこともない全能なる神に向かって祈るのです。何と尊く、美しいことでしょう。かくして愛が祈りとなる時、更に不思議と「アガペーによる全面受容」が持続しやすくなり、耐え忍ぶことが出来るのです。

 

 この「深みの安息の実現」は、心傷つき病んでいたウルトラ良い子たちの癒しの上で極めて重要なプロセスです。これは彼らが確実に癒されつつあることの顕著な証明であり、目印でもあります。前項で述べた「充足感の到来」を経験した彼らが、更に継続してこの充足感を味わい続けると、次にはそれが遂に彼らの心の深みに安息状態を生み出します。この心の安息状態は、長い間彼らをいらだたせ悩ませて来た、極度の不安感や焦燥感、イラ切れ症状やパニック症状から彼らを守り、心穏やかに人間関係を結び易くしてくれます。このことによって彼ら本人はもとより、周囲の家族や人々にも安息を齎(もたら)すことが出来るのです。それゆえ「アガペーによる全面受容」により、「心の満足感と充足感」を継続して与え続けることによって、遂に彼らの心に「深みの安息」を実現させて行くことが、如何に重要であり、素晴らしいことかがお分かり頂けると思います。

 

 しかし、ここまでに至るためには、しっかりと積み上げられ持続した「アガペーによる全面受容」の長き日々が不可欠です。そこには当然ながら愛の忍耐と自己犠牲の甘受が必要です。決して一朝一夕でなるものだと安易に考えてはなりません。勿論、時としては以前にも申し上げましたように、「アガペーの全面受容」を始めてから、日ならずしてまさに奇蹟が起きたと思えるような速やかな癒しが齎されることもあります。これこそ「アガペーによる全面受容」効果の顕著な典型的事例と言えましょう。しかし、多くの場合はそうではありません。そこにはそれぞれのケースに応じた、それ相応の時間を要します。それは概して言うならば、その心傷つき病んでいる子どもたちの心傷つき病んで来た時間経過に比例し、心傷ついた症状の軽重に比例します。

 

 

③第三は、「同志による励まし」です。

 この「同志の励まし」くらいケアーに当たる両親や従事者にとって、慰めと励ましになることは他にありません。長く受容を続けなければならないケアーに当たる者にとっては、しばしば極度の孤独に陥ることがあるでしょう。所詮、他者に肩代わりしてもらうことも出来ず、どこまでも一人でその重荷を担い続けなければならないのかを思うと、途方に暮れてしまうこともあるでしょう。折角心傷つき病んでしまっていた我が子のために耐え忍び、やっとのことでここまで僅かずつでも信頼関係を回復して来たのだが、この先いつまでこの状態が続くかと思う時、孤独どころではなく絶望的にさえなってしまうこともあると思います。

 

 しかし、このような時に自らと同じような境遇にある仲間や、既にそのような体験をしてそれを克服して来た先輩たちが身近にいて、相互にその体験を分かち合い、励まし合うことが出来たとしたら、どんなにか慰められ励まされ、助けになるかしれません。小僕はこれを「同志による励まし」と呼んでいます。このような「同志」が与えられる時、自分が今一人だけでこのような試練・苦しみの中を辿っているのではなく、彼らも同様な試練と苦しみに遭遇しているのだ、のみならず既にそれを越えて試練と苦しみに打ち勝ち、今や勝利の安息と喜びの中に憩っている仲間たちが共にいて自分を見守り、このように自らのために親身になってスクラムを組んでいてくれるのだと思うと、孤独感が吹き飛び、希望と勇気が湧いてきます。

 

 そこで一人で悩み苦しみ、孤独感や絶望感に苛まれている方々がおられるなら、ぜひ「同志による励まし」に出会ってください。ちなみに小僕は、今日までに各地で「アガペー・ファミリー・ケアー・センター」(通称AFCC)主催のセミナーを開催してきましたが、ここはまさにそのような「同志」と出会い、「仲間」を見出す絶好の場です。のみならずいつしか彼らは「同志」、「仲間」を越えて「アガペー・ファミリー」と呼び合うまでになっています。

 

 かくしてこのような深くて強い交わりと結束の中で、心傷つき病んでいる子供たちを全面受容して行くことが可能となるのです。実にAFCCの月例の会合を通して、またここで結ばれた「同志」・「仲間」・「ファミリー」たちが日毎夜ごと常に相互に連絡を取りながら慰め合い、励まし合い、祈り合いつつ、支え合い、助け合って共に立ち上って行く様子は、何と麗しく頼もしいことでしょう。このような営みや関係が今日如何に必要なことでしょう。もっともっと全国各地でこうした「同志による励まし」のネットワーク作りが促進されたなら、今日における日本社会の悲劇が食い止められるに違いありません。

 

 

<ステップ4> 心のゆとりの造成

豊かなアガペーによる全面受容によって心の深みに安息を経験し始めたウルトラ良い子にとって、更に必要なのがこの「心のゆとりの造成」です。

 

既に先に述べたように「アガペーによる全面受容」によって充足を与えられ、一旦「充足感」を味わった彼らが、更に引き続き繰り返して「充足感」を味わい続けることによって、今度は充足に優る「安息」を体験するようになって行きます。この更に心の深みで体験した「安息感」こそ、彼らの心の癒しにとって必須の辿り着かなければならない境地です。この「安息感」は彼らが確実癒されつつあることの明白なバロメーターです。 しかし、ここで気を良くして安心し過ぎたり、手抜きをしてはなりません。むしろこれを喜び、感謝しつつ、より一層の「アガペーによる全面受容」に励むことが必要です。なぜならば、とてつもなく長い間悩み苦しみ傷ついて来た彼らの心の旅路からすれば、やっとやって来たこの喜ばしい「充足感」や「安息感」の体験と味わいは、ほんの短い期間に過ぎません。この体験と味わいが彼らの内にしっかりと定着し、彼らの心が安定し、逆戻りすることがないまでになるには、なお引き続きの「アガペーによる全面受容」の継続が不可欠です。ここで必要なスッテプが「心のゆとりの造成」と言うことです。すなわち、彼らの心に更に「安息感」を贈り届け続けることによって、「心のゆとり」を生み出し、造りだして行くことが必要なのです。「ゆとり」のない所には、わずかな悪しき刺激がやってくると、たちどころに動揺が起こり、緊張し、不安が呼び起こされて、パニック状態を起こし易いのです。ですから「充足感」から「安息感」にまで辿り着いた心傷つき長い間病んで来たウルトラ良い子のために、更に重ねて油断することなく「アガペーによる全面受容」を続けることによって、「ゆとりの造成」が必要なわけなのです。この状態をコンクリート敷設に例えてみるならば、ある時、所定の場所にコンクリートを流し込んだと致します。流し込まれたコンクリートは、徐々に乾き始めて固くなって行きますが、完全に乾き切り固まるまではその上を歩くことは出来ません。表面は外見上ではすっかり乾き切り固まったと思えても、しばしばまだ内部が固まっていない場合があるのです。そこでなお時間をかけ、水を撒いたりしながら「ゆとり」をもって時をかけるのです。しかし、それを待たずに性急にそのコンクリートに上り、歩こうものなら折角固まりつつあったコンクリートを損なってしまいます。ですから完全に乾き切るまでの「ゆとり」の時間が不可欠なのです。

 

 そのように心傷つき病んでいたウルトラ良い子の癒しのためにも、「充足」から「安息」へ、しかも「深みの安息」の上になお安息状態が固まるための「ゆとりの造成」が必要なわけです。多くの両親やケアーに当たる人々が、しばしばこの時点で失敗してしまうことが多いようです。よくよくこの点に注意してほしいものです。あたかも飛行機が滑走路で充分な加速をつけて、遂に離陸し大空に飛び立って行くように、長い間心傷つき病んでいた彼らは「深みの安息」と言う燃料を充分積み込んで、いよいよ「ゆとりの造成」によって整備された長い滑走路を、徐々に加速しつつ「癒しの大空」へ飛び立って行くことが出来るのです。何という楽しみでしょう! 

 

 

 <ステップ5>冷静で客観的な自己の正しい位置付けの始動―謙虚な自己認識と自己受容の胎動―

さて第五のステップは、「冷静で客観的な自己への正しい位置づけ」が始動し始めることです。これは別の表現をすれば「謙虚な自己認識と自己受容の胎動」ということになります。そもそも心傷つき病んでしまっているウルトラ良い子たちは、冷静に自らを見つめたり、客観的に言動を発したり、自分自身を制したりすることが出来ません。彼らは多くの場合、極端な両極の自己認識を持っています。一つは、自己の考えを絶対視し、自分こそ正しい人間であって、正しい主張をしていると誇示し、他者を批判し、他人の意見や言葉に耳を傾けようとしません。そうかと思うと、他面においては極端に自己を卑下し、他者に対して強いコンプレックスを抱き、自分などはどうせろくでもない人間であって、生きている意味がない。自分を正当に評価し、理解してくれる人はどこにもいない。いっそのこと死んだ方がましだなどと自己否定的な考えに落ち込んでしまいます。概して彼らの内にはこの相入れないはずの極端な考えが同居し、混在しています。彼らがその時置かれている状況次第によって、このいずれかの考え方が顔を出すのです。実は彼らのこのようないずれの考え方も、先に何度も繰り返し申し上げて来た世俗的価値観による極度の抑圧の結果であると言っても過言ではありません。世俗的価値観に抑圧され心傷つき病んでしまった彼らは、悲しいかな強いコンプレックスが心の深層に存在し、自己が相手によって支配されないようにと異常なほど相手や周りの者に対して虚勢を張り、自己を高揚させて他者を制することによって、自分自身の傷つくことと落ち込むことを防御しているのです。その反対にそのような防御態勢を取ることが出来ない場合は、後者のような極度の自己卑下や自己否定をするのです。しかし、この場合も実は、これまた悲しいかな彼らの心の深層には、他者の批判やさげずみから自己を守るため、あえて他者に先駆けて自らを引き落とすことに、他者からの非難をかわし、また他者によって自らが惨めな思いにさせられないように自衛しているのです。何という辛く悲しい彼らの心情でしょう。しかも、彼らは自らこのように自覚し、意識してやっているのではありません。その場合、彼らはそんな冷静さを持ち合わせてはいないのです。無意識のうちに条件反射的に、いわば自衛本能が作動したかのようにこのような反応を示すのです。このような悲しい彼らの心理を、果たしてどれだけの人々が理解していたでしょうか? ところが何と幸いにして素晴らしいことには、このような彼らが豊かな「アガペーによる全面受容」の内に迎えられ、ケアーされることにより癒され始めると、その癒しに正比例して「冷静で客観的な自己への正しい位置づけ」が出来るようになり、極度の自己誇示も、その反対に極度の自己卑下もしないようになり、冷静にして、かつ客観的に自己を見つめ、自分が何を言い、何をなすべきであるのかを正しく判断し、他者の如何にかかわらず自らの正しい位置づけが出来るようになるのです。つまり自己と真直ぐに向き合い、謙虚に自己を見つめ、ありのままの自分を受容することが出来るようになるのです。これが「謙虚な自己認識と自己受容の胎動」と言うことです。何と幸いにして、素晴らしいことではありませんか。「アガペーによる全面受容」は、彼らをしてここで辿り着かせてくれるのです。ですからどこまでも「アガペー」し続けようではありませんか。

 

 とりわけ前述した「ゆとりの造成」が充分になされる時、次にはこのような「冷静で客観的な自己の正しい位置付け」を彼らがなし、謙虚な自己認識と自己受容が胎動するまでになるのです。ですからこのような日の到来を楽しみに待ちわびながら、しっかりと各スッテプを踏み外さず、“ステップby ステップ”登りつめて行こうではありませんか。決して焦ってはなりません。疑いを起こしてはなりません。これらのステップは、あたかも法則のようなものです。ですから必ず辿り着くことが出来るのです。遅くなることもありません。聖書の中にこんな良い言葉があります。

 

「それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ遅くても、待っておれ。それは必ず来る。遅れることはない。」(ハバクク2:3)

 

 

 

<ステップ6> 自己変革への勇気ある挑戦の開始

 さあ、長い間心傷つき病んで来たウルトラ良い子たちの生涯に、解放と癒しの山頂が見えてきました。「アガペーによる全面受容」と言う屈強にして超ベテランのシェルパ―が、常に密着して共にあり支えてくれるので、決して中途で滑落することなく、確実に山頂に辿り着けるのです。「冷静で客観的な自己の正しい位置付けの始動」がなされ、「謙虚な自己認識と自己受容の胎動」が始まった彼らは、ここで最後の力を振り絞るようにして、今までの彼らには決してあり得なかった「自己変革への勇気ある挑戦」を、自らの主体的な意思決断を持って試みるようになるのです。これは彼らの生涯にとって驚くばかりの出来事なのです。通常人、健常人にとっては、これは当たり前のことであり、取り立てて言う必要の全くない、ごく当然の行為に過ぎませんが、彼らにとっては、これはまさに奇蹟が起こったかの如く大きな出来事なのです。

 

 とりわけ前述した「ゆとりの造成」が充分になされる時、次にはこのような「冷静で客観的な自己の正しい位置付け」を彼らがなし、謙虚な自己認識と自己受容が胎動するまでになるのです。ですからこのような日の到来を楽しみに待ちわびながら、しっかりと各スッテプを踏み外さず、“ステップby ステップ”登りつめて行こうではありませんか。決して焦ってはなりません。疑いを起こしてはなりません。これらのステップは、あたかも法則のようなものです。ですから必ず辿り着くことが出来るのです。遅くなることもありません。聖書の中にこんな良い言葉があります。

 

 そもそも彼らが極度に病んでいた時には、こと更に何かを選択決断しなければならない事柄に直面すると、俄然その選択決断が出来なかったのです。のみならずその選択決断しなければならいことが直近に迫ってくると不安が高まり、緊張が増し、遂には激しいパニック状態に陥ってしまうのです。そのような場合、彼らはすっかり落ち着かなくなり、苛立ち、周囲の者に攻撃を加えるようになってしまいます。その際、不思議なことにこれまた健常人には全く理解しがたいほどの不当な要求を、自分を最も受容してくれる相手に対して発するのです。その要求はしばしば強烈なほどの自己主張となって相手を苦しめ、追い込んで行きます。これだけのエネルギーがあり、自己貫徹を図ろうとして相手に強烈な要求を突き付けて行く意思表示が出来るなら、その何分の一にも当たらないわずかな努力で、他者や物事に対する意思表示や選択決断が出来そうなものなのですが、悲しいかな彼らにはそれが出来ないのです。そこで彼らの内に生じた大きな不安や苛立ちを解消しようとして、全く訳のわからない不当な要求を、他人に対してではなく、多くの場合自らを愛し全面受容してくれるであろう母親や受容者に対して突き付けるのです。何故そのようにするのでしょうか?

 

 第一は、彼らは本来他人からの評価や批判を極度に恐れているのです。とりわけ他人によって自己が低く評価されたり、否定されたりすることを極端にまで嫌うのです。ですから自分の選択したり決断したことが、本当に他者からみて高評価を受け、自己が賞賛されるかどうかを思う時、果たしてどう評価されるか皆目見当がつかず、自信や確信が持てないため、ひたすら思い悩むのです。

 

 第二に、そこでこのような状態の中から自らの内に起こって来た大きな不安や焦りや緊張を解消するために、最も自らを理解し受容してくれるであろう最良の身内、つまり多くの場合母親やそれに次ぐ受容者に向かって、極端な八つ当たり行動をとるのです。この場合彼らの要求するところは、理屈に合わない不当な要求ばかりです。それもその筈です。もとより自ら答えを見出せず、そうかといって他者からその答えを引き出せず、どうすることも出来ない不安や苛立ち、そして極度のパニックを引き起こしてしまっている彼らなのですから、ただその時自らの心の内を駆け抜ける衝動と欲求を闇雲に相手にぶつける以外ではないのです。ですから当然のこと不当な要求とならざるを得ないのです。

 

 第三に、少々うがった表現を許して頂けるのなら、このような彼らの行為は小さな子どもが親に駄々をこねるような最も安心かつ信頼している者への屈折した愛情表現であり、甘えであるのです。こうすることによって彼らはその自らに押し寄せてきている大きな不安や苛立ち、更には恐怖やパニック症状を懸命に癒そうと叫び求めている、いわば「緊急避難行為」なのです。

 

いかがでしょう。このような彼らの心を理解していただけるでしょうか。

 

 

<ステップ7> 自己変革への勇気ある挑戦の開始

さて、このような悲しい憐れな状態の中に長い間幽閉されてきた彼らが、既に学んで来たように、「アガペーによる全面受容」の積み重ねの中で、徐々に癒され、もとより生まれながらにして彼らの内に存在していた美しい純粋感性を復元すべく、癒しへのスッテップを一段一段登り来ることによって、何と驚くばかりの生涯上の一大飛躍を経験するようになるのです。それがこの「自己変革への勇気ある挑戦」です。前述したように彼らにはこのような自己変革など全く望めない傷つき病める症状が支配していたのです。彼らは他人によって自己が変革されることなど絶対に望みませんでした。のみならず自分自身で自分を変革して行くことなど、全く不可能でした。ところが何と「充足」から「安息」へ、更には「深みの安息」から「ゆとりの造成」にまで進んで来た彼らには「冷静で客観的な自己への正しい位置づけ」が可能となり、「謙虚な自己認識と自己受容」さえ出来るようになって来たのです。そして遂にまったく自他ともに不可能だと思い、諦めていた「自己変革」へ向かっての勇気ある挑戦が始まるのです。これは周囲の人々の目にはまさに「奇蹟」のようにさえ思われる出来事なのです。しかし、これは「奇蹟」でも何でもありません。すでに本書において学んで来たように、これこそ「アガペーによる全面受容の法則」と言うべきものであって、「アガペー」に「アガペー」を積み上げ続けるところでは、いつの時代でも、どこにおいても、そして誰においても必ずこの「奇蹟」と思える素晴らしい出来事が結果するのです。なぜならば、これは「奇蹟」ではなく「法則」だからなのです。

 

こうして途方に暮れるほど長い間、どうすることも出来なかった心傷つき病んでいたウルトラ良い子とその家族の上に、闇夜は去って日が昇り、喜びと感謝と勝利に満ち溢れた完全な「癒しの朝」が巡ってくるのです。あれほど恐れ、忌み嫌い、何も取り込むことの出来なかった彼らが、何と自ら望んで、しかも勇気をもって「自己変革」することを喜び期待し、立ち上がり始めるのです。これこそ何と喜ばしいことでしょう。皆さん、この素晴らしい出来事の到来を信じられますか。ぜひ信じて下さい。それが今皆さんのご家庭でも起ころうとしているのです。ですから「アガペーによる全面受容」を、しっかり継続して下さい。何よりも「アガペー」し続けて下さい。そうです、「アガペー」の定義を思い起こして下さい。そして口ずさみ、心に深く刻み込み、「アガペー」をイメージしながら「アガペー」に向かって歩み続けて下さい。

 

 

 

アガペーとは、相手のために、しかも自らに敵対し、不利益を与える相手のためにさえ、あえて自らの自己犠牲を甘受して、その相手の祝福のために、献げ仕えて行く、何一つ見返りを期待しない、心と生活である。」   G.サーバント

  

何と幸いなことに、筆者の周りにはこのようにして癒され立ち上がった方々が、大勢おられます。それらの方々は、全国各地でこの大いなる喜びの体験を自分たちだけのものとしないため、互いに分かち合い、証しし励まし合っています。何よりも癒されたウルトラ良い子たちのその輝いた生き様は、どれほど同じような悩みと苦しみを辿っておられる方々への大きな希望となっていることでしょう。

 

 

 

<第8ステップ> 受容の愛の環境下における成功、不成功の反復学習と感覚

 

育成による自立の実現 ―他者受容・環境受容・健全な人間関係の始動と真の社会性の発芽―

さてここでいま一つの登るべき最終のステップについて述べておきましょう。これこそ彼らが自立し、他者や彼らがこれから飛び込んで行かなければならないあらゆる環境に対して適合して行かなければならないための最終準備なのです。その最終準備とは、彼らが「自己改革への勇気ある挑戦」を始め、自らの自由意志によって、はじめて物事を選択決定しそれに取り組み始めた時、並でない不安とストレスを受けるのですが、このことに対する適切な対応の仕方と、またその挑戦に失敗した時や成功した場合への最善なフォローの手だてを過たないことです

 

すなわち彼らは、今やかつてにおいては全くあり得なかった健気な勇気をもって、その新しい課題・目的に向かって取り組み始めたのです。この時アガペーによる全面受容者たちは、彼らとぴったり呼吸を合わせ寄り添い、その彼らにエールを贈り続ける必要があります。しかし、このエールを贈ると言うことは、単なる激励を送ると言うことではありません。単なる激励は、かえって彼らにプレッシャーを与えてしまいます。ここで言う全面受容者のエールとは、彼らの不安な気持ちに寄り添い、それでもなお挫けずに目的に向かって突き進もうとしている彼らの姿に、心からの感動と畏敬の念をもって褒め言葉を贈るのです。そして万が一失敗しても気を挫かないように、愛のフォローに努めるのです。もし成功したなら心から共にその成功を喜び、その労苦を労うのです。「やれば出来るではないか」と言うような言葉がけは、絶対禁物です。

 

なぜならこのような言葉がけの背後には、「今までやらなかったから出来なかったのだ」と、またしても彼らを責めているような言葉を連想させてしまうからです。そうではなくあくまでも彼らの成し遂げたその勇気と努力に感動し、それを心から讃えるのです。そしてその労苦を労うのです。

 

そしてその反対に彼らが失敗してしまった時には、如何なる場合でも彼らを絶対に咎めず、慰め労わり、その痛みと悲しみに優しく寄り添うべきです。

 

多くの場合彼らがこのように新しい、しかも今まで一度も取り組んだことのない課題に挑戦するのですから、失敗したとしても不思議ではありません。むしろ失敗して当然とも言えましょう。それにも関わらず彼らが失敗するかもしれない難題に、今や勇気をもって挑戦し、取り組んだことにこそ大きな意味があります。そこでアガペーによる全面受容者たちは、単なる慰め言葉ではなく、あたかも成功したかの如くその勇気ある挑戦に対して感動し、よくぞこの新しい課題と目的に向かって取り組んだことを高く評価し、心からの褒め言葉をもって労い、当面の事柄に成功しなかったにしろ、その挑戦自体にしっかりと取り組み、それを果たし終えたことにこそ大きな意義と価値があったことを心底から喜んであげるべきです。こうすることによって「失敗」それ自体が失敗ではなく、失敗を恐れてそれに取り組もうとしなかったことこそ、人生における大なる失敗であったことを学ぶことが出来たら幸いです。ここで何よりも大切なことは、失敗によって挫折してしまうことがないように、更なる次の挑戦が出来るように繋がせてあげることです。ここでこそ重要なことは、「アガペーによる全面受容」をもって彼らの心をしっかりと受け止めて、変わらぬ愛の受容の環境下に彼らを迎えてあげることです。

 

そこでかくすることによって失敗しても、成功しても繰り返しその体験を積み上げて行くことによって、彼らの中に自立への大切な感覚を掴ませてあげられるのです。この失敗と成功の反復学習による自立への感覚の育成は、彼らの社会的適応を可能にし、自らこのような場合にはこう対応し、またあのような場面ではこのように対処すれば、成功もし失敗もするのだと言う感触をつかませてくれるのです。このような感覚を摘み取ることに比例して、彼らは自信を持ち始め、他者への恐れが薄れ行き、他者や他者の意見を、また周囲の人間や環境を受容することが出来るようになるのです。その時健全な人間関係を結び、社会性を身に着けて行くことが出来るわけです。ですからこの失敗と成功の反復を通しての感覚育成と学習は、彼らが自立し健全な人間関係を結び、社会性を身に着けて行くために、極めて大切な最終プロセスであり、またステップなのです。このことを良く心に留めてケアーに当たる受容者の皆さんが、しっかりとフォローしていただけたら幸いです。