峯野龍弘のアガペーブログ

心にささやかれた愛の指針

第3章 両親からの抑圧と諸問題④

第3章 ウルトラ良い子の抑圧の最大要因 

3.子供の自立心や自尊心を損なう両親の言動が惹き起す諸問題

次に子供の自立心や自尊心を損なう両親の言動が惹き起す諸問題について言及してみよう。その典型的な幾つかのケースについて紹介しよう。

 

(1)甘やかせ

世間には子供に優しい物分かりの良い親がいる。真に結構なことである。しかし、それも度が過ぎると、その優しさや物分かりの良さが仇となり、子供の自立の妨げとなり、その自立心をすっかり損なってしまうことになる。

 

余りにも親が配慮し過ぎ、行き届くため、子供はすっかり親に甘えてしまい、子供自らが幼少時代に大いに取り組み、労苦することによって身につけて行かなければならない重要な感性や資質を養い損ねてしまうのである。優しく物分かりが良いということが、子供自らが努力し、労苦し身につけて行かねばならないことまで親が肩代わりしてしまう時、これを“甘やかせ”と呼ぶのである。

 

そしてこの“甘やかせ”こそ、子供の自立と自立心を奪う恐るべき親の大罪であって、やがては我が子が何一つ自分自身では物事の是々非々を正しく判断し、行動することのできない、優柔不断な人間としてしまうか、さもなければ我儘で自己中心的な独善的人間を育成してしまうことになる。

 

彼らは依存心が強く、よろず他者依存し易く、恥じず憶せず勇気をもって矢面に立てず、他人を恐れ、引きこもり易く、対人関係不全に陥り易い。かつ自らの意図せず、気に沿わない出来事や他者の言行に触れる時、もはや自制することができず、恐怖したり、泣き叫んだり、時には狂気して暴力をふるったりすることさえある。

 

この状態を時に異常心理、異常行動と呼ぶこともある。ともあれこれらはすべて自立心、自立力を“甘やかせ”によって損なってしまった結果に他ならないのである。

 

 

(2)放任主義

また他方、この“甘やかせ”と本質的に同様な問題を惹き起すものが、“放任主義”である。両親が子供に対する子育ての責任を放棄若しくは回避して、無責任にも子供の自立心や自立力を養い育てるべく、健全にして適正な子育てをせず、子供を野放しにしておく場合、結果として子供は自らの好きかってな生き方、考え方を身につけてしまい、真の自立力、自立心を身につけ損ねてしまうのである。

 

その結果、“甘やかせ”と本質的にほぼ変わらない自己中心で、他者の感情や気持ちを充分察することのできない自制の効かない子供になってしまうのである。しかし、時としてはこの放任が幸いにも良い人々との出会いにより、また他者との辛いやり取りなどを通して、他者配慮やけじめ、努力や忍耐、義務や約束の履行の重要性などをいつしか身につけるようになったり、更にまた、彼らはそもそも放任されていることから、いやが上にも自由奔放に生きることによって、勇気や大胆な発想力を身につけたり、いわゆるガッツある生き方を習得する結果になることもある。

 

これはあくまでも例外的であって、大部分の子供たちは放任されることによって前者のような弊害を被ってしまうことになるので、よくよく両親たちは子供を放任しないようにしなければならない。

 

 また、親から放任され、かまって欲しい時にもかまってもらえず、話しかけ、聴いて欲しい時にも話してもらえず、聴いても貰えないで、ただ放任され続けていると、やがて子供たちの中に“見捨てられ症候群”とも呼ばれる不安と寂しさ、更には自分は大切にされてはおらず、要らない人間なのだろうかとの真に不憫(ふびん)な思いが培われてしまう。

 

これまたいわゆる典型的な“抑圧”とは異なった意味でのコンプレックス、若しくは劣等感を引き起こしてしまう結果となり易い。そこで人恋しく極端にはしゃいでみたり、過度なジョークを飛ばしてみたりして、他人の関心を引き寄せようと道化師のようにふるまってしまうのである。ある者はそこで遂に非行に走ることもあり、引きこもる者もいる。いずれにしても、哀れ彼らの多くが心傷つき病んでしまうのである。これまた両親が惹き起こす重大問題の一つである。

 

ちなみに更に一言するならば、両親は、常に子供たちの人生、つまり彼らの心と生活の同伴者、更には彼らの成長・発達という人生レースの伴走者でなければならない。それ以上に、両親が彼らの成長過程で常に彼らに密着し、“同心同歩”を怠らず、しつけたり、教育・訓練するのではなく、豊かな愛の受容を持って共同歩行することによって、彼らに様々な良き体験をする機会を豊かに提供することにより、自己啓発と正しき生活感覚を育成する者でなければならない。

 

これこそが彼らの真の自立促進に益する道であり、両親は常に彼らの人生の良きアドバイサーでなければならない。それなのに、放任主義は両親が責任を全く放棄してしまうことに他ならず、放任主義は子供の人生に対する親が犯す大罪である。これらのことを両親はよくよくわきまえていなければならない。

 

 

(3) 父親の権威主義とエリート志向、及び母親の虚栄心と羞恥心の狭間に喘ぐ子供たちの抑圧

両親たちの言動が惹き起こす子供の抑圧に関して、今一つ大問題について指摘しておこう。それは、父親の権威主義とエリート志向、そして母親の虚栄心と羞恥心の狭間に喘ぐ子供たちの抑圧という問題である。ここには以下のような問題要素が絡み合っている。

 

権威主義

先ず第一は、父親の権威主義とエリート志向である。とかく世の父親たちは、父親の“権威”という虚像に幻惑されて、これに自ら酔いしれているかのごとく(これを“自己陶酔”と言う)、闇雲に自分の子供たちに向かって君臨しようとする。これが権威主義的父親像である。

 

しかし、前述したように父親は“権威”ではなく“尊厳”を持って子供を養育すべきである。“尊厳”ある父親は、決して権威を振りかざし、力づくで子供を服従させることをしない。彼は自ら真理に従って穏やかに、かつ子供の尊敬と信頼を勝ち取ることができるよう、怒りや苛立ちを寄せ付けず、物事の意味する是々非々を諄々と解き明かし、子供を説得することができる父親である。

 

しかし、自らにその内実を欠如した無能な父親に限って、本来ありもしない“父親の権威”という虚像を振りかざし、力づくで子供を黙らせ、服従させようとする。その結果、子供の心を傷つけ、大なる抑圧を与えてしまう轍を踏む。やがてこれは、子供の心に抑圧の結果として反感情や恨み、憎しみ、更には軽蔑の念を造成してしまう。権威主義には害あって決して益はない。

 

 

②父親のエリート志向

第二の問題は、父親のエリート志向である。既に何度も述べてきたように“ウルトラ良い子”たちや“心の優しい純度の高い性質を持った子供たち”を極めて抑圧し易い重要事が“世俗的価値観”というものであったが、この「エリート志向」というのは、その世俗的価値観の典型的落とし子であって、他者より優秀であり、出世街道を突き進む卓越した人間となることを志向することを意味している。

 

これはおのずと純真な子供たちに、自らを他者と比べ常に優位な位置づけに自分を置いておかなければならないことを強要する結果となり、これが彼らの大なる抑圧の原因となるのである。それは「エリート」でなければ、あたかもその人間は“価値なき人間”、“ダメ人間”、“脱落者”でもあるかの如く思わせてしまうのである。それは一種の恐るべき洗脳でもあり、純真な“ウルトラ良い子”たちに誤った人間観、歪んだ人生観、価値観を植え付けてしまうことになるのである。

 

にもかかわらず、世俗的エリート志向の父親は、我が子可愛さのあまり、ひたすら「エリート」であることを強要するのである。しかも父親の権威を振りかざし、我が子にそうなることを強要する時、子供たちはその心の内に徐々に抑圧を蓄積し、やがて傷つき病んでいくことになるのである。このプロセスでは、かなりの長い時間の経過を要するため、ほとんどの親たちが、まさかそのようになるほどまでに我が子が抑圧を受け、病み且つ傷つき始めていることに気が付かない場合が圧倒的に多いのである。

 

それ故、しばしばこのような事態に遭遇した父親たちは、我が子の病める症状に直面した時、「何故突然この子は、このようになったのだろう。全くその原因がわからない」とひたすら嘆くのである。しかし、何とそれほどまでに気づかない世俗主義的「エリート志向」の自分自身が原因であったのである。

 

ちなみにとかく我が子に「エリート志向」を強要しがちな父親には、以下のようなタイプの父親がいる。

 

a.自らが「エリート」コースを走って来た父親

  ある不登校の子供の父親が、その子に常に口癖のように言い聞かせていた言葉は次のようであった。

  「お父さんはそのようにすることによって、今日の地位と身分を勝ち取って来たのだ。だからお前もそうすべきである。お父さんができたことであるから、お前も努力すれば必ずできるはずだ。およそ人間はエリート・コースを走らなければ、決して出世できず、その行く先には祝福された未来はない」と。

  これが「エリート志向」の父親たちの典型的人生観であり、第一のタイプである。 

 

 

b.自らが両親若しくはそのいずれかにより、またはエリート家系の同居の親族たちなどから強い抑圧を被った父親

   第二のエリート志向の父親のタイプは、父親自身がその両親若しくはそのいずれか一方により、また更にはエリート家系の身近な親族などから幼い頃より「エリート志向」を強要されて来た父親である。このような父親は、自らが「エリート」であるなしに関わらず、常に「エリート志向」の亡霊に脅かされて育って来たため、若しくはその反対に「エリート」であることに誤った憧れを抱かされ続けてきたために、「エリート」でなければ自らの心が安息できないほどまでにその心が傷ついてしまっているのである。それ故、寝ても覚めても「エリート志向」の悪夢に追い立てられて、遂に愛する我が子に「エリート志向」を強要してしまう結果となるのである。まことに気の毒な父親であり、また子供である。まさに「哀れ」と言わざるを得ない。しかし、今日の世間にはこうした類の哀れな父親たちが如何に多いことか。それ故、この抑圧の故に心傷つき、病んで行く子供たちが如何にも多く、かつその後を絶たないのである。

 

 

c. 自らが「エリート」でなかったためひどく他者より嫌しめられたり、辱められたりし、その心に大きな傷を受け、心病んでしまっている父親

  そこで第三のタイプは、上記の如く自らが「エリート」でなかったために、過去において何度も他者より嫌しめられ、辱められたという不幸な体験を持った人で、かつこれによりその心に大きな痛手を受けそれがトラウマとなってしまっていた父親である。このような不幸な体験を持つ父親は、自らが被った屈辱や痛手を自らの愛する子供たちが被ることのないようにとの親心から、必死になり、躍起になって「エリート志向」を我が子に吹き込もうと努めるのである。ところがこの世俗主義的価値観に基づく父親の卑屈な「エリート志向」や人生観は、純粋な子供たちには極めて不快であり、受けとめ難い生き方である。とりわけ生まれながらのウルトラ良い子には、全くその本性に馴染まず、むしろ拒絶感と嫌悪感を煽り立てる以外の何ものでもない。

 

 

  それにも関わらず、それを父親の権威を発動して強要するならば、ウルトラ良い子たちの純粋な心は徐々に抑圧を受け始め、その上更に「エリート」でないことをあからさまに悪と断罪され、かつ強くなじられでもしようものなら、それがトラウマとなり、心傷つき、遂に病める症状を呈するに至ってしまうのである。何とも早や気の毒な話である。しかし、悲しいかな、こうした哀れな父親の存在や出来事が、今日の世俗社会では至るところに氾濫しているのである。それ故、お互いはこうした世俗社会の汚濁の激流の中から、一刻も早く愛する我が子たちを救出しなければならない。しかもその最たる加害者が、父親である自分自身であるかも知れないのだから……。

 

 

 

③母親の虚栄心と羞恥心

 さて、ウルトラ良い子たちの心を傷つけ、悩まし、遂には病める症状を呈させてしまうもう一つの抑圧の原因には、母親の虚栄心と羞恥心という大問題がある。一般的にこの世の人々は、この種の事がむしろ当たり前で、少しも大問題とは思わないで日々生活している。しかし、小僕をして言わしめれば、これこそが大問題である。

   さて、そもそも父親の権威主義やエリート志向がウルトラ良い子たちの純粋な心を強く抑圧したり、大きく傷つけ、歪めてしまっていると同様に、母親の虚栄心や羞恥心がウルトラ良い子たちの人生を大きく抑圧し、傷つけ、損なってしまっていることについて、多くの人々が余り良く気づいてはいない。この点についての気付きの薄さや遅さが、ウルトラ良い子たちの大切な人生を奪い去ってしまう大きな原因となっているのである。

  極めて悲しい事ではあるが、今日の多くの世の母親たちが、この虚栄心の虜となってしまっている。父親たちが権威主義やエリート主義に毒されてしまっている以上に、多くの、いやほとんどの母親たちがこの虚栄心の奴隷となってしまっている。

  このような母親たちは、常に自分の子供と他者の子供たちとを比較し、自分の子供がいつも他者より優秀な子供、立派な子供であって欲しいと願っている。少なくても平均的な普通の子供より少しでも高い評価を受ける子供であって欲しいのである。

  それはあたかも自分が少しでも美しくあるためにより優れた化粧品を使用したり、より美しく見せるために高価な衣服を着飾ったりするのと同様に、自分の子が他者から見てより見栄えのある子供であって欲しいと願望するのである。こうした母親にとっての子育ての原理や方策は、深い人間哲学や教育理論に基づくものではなく、実は極めて浅薄な虚栄心、名誉心、欲心に根ざしたものに過ぎないのである。

 このような母親たちは、その子の個性や賜物を引き出し、その子がやがて社会において、その子はその子として喜びに満ち溢れた、充実した生涯を生き抜く事ができるように、また「あくまでもその子にふさわしい固有の人生を、その子なりの尊い使命感を持って生き抜いて行くことができるように、その子の尊い人格形成のために養育者として献身的に仕える」といったような、厳かな子育ての本質を全く理解してはいないのである。

  こうした母親たちは、よく次のような言葉をしばしば連発し、口にする。「そんなことをしていたら、みっともない」とか、「そんなあなたを見たら人々が何と言うかしら。お母さんが恥ずかしいじゃないの」というような言葉である。

  これらの言葉はまさしく母親の虚栄心を象徴する言葉であり、いや羞恥心を丸出しにした言葉である。

  これらの言葉はかの父親の権威主義やエリート志向の根底に支配しているウルトラ良い子たちを抑圧し、また傷つけ、悩ませ、あの恐るべき諸悪の根源である「世俗的価値観」なのである。それゆえ母親の虚栄心と羞恥心こそ、これまた子供たちを抑圧し、傷つけ、心病ませて行く最大要因なのである。