峯野龍弘のアガペーブログ

心にささやかれた愛の指針

祈りによる共同体の復興と聖霊による新紀元②

連載になっていますので、①もお読みください。

 

祈りの重要性、聖霊の力について共に学んで行きましょう。

 

                  G.サーバント  峯野龍弘

 

 

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Ⅱ、とりなしの祈りを捧げたダニエル 

主は、ダニエルが選民イスラエルの復興のためにダニエル書9:17で切願したように、私たちにもその使命と聖なるミッションを達成するために、真剣に主に祈り求めるように促しておられるのです。

 

「それゆえ、われわれの神よ、しもべの祈と願いを聞いてください。主よ、あなたご自身のために、あの荒れたあなたの聖所に、あなたのみ顔を輝かせてください。」(ダニエル書9:17)

 

 

そもそもこの御言葉は、預言者ダニエルが同胞である選民イスラエルのために、罪の赦しと回復のためのとりなしの祈りです。「選民イスラエル」は、自分たちの主から託された「尊い使命」も「聖なるミッション」も忘れて、いたずらに「異邦の民(異邦人)」に向かって己を誇り、特権意識にのみ立てこもり、主の御心を踏みにじり、「背信行為」に明け暮れしていたために、遂にその犯した大罪のゆえに祖国を失い、神殿を廃墟と化し、自らを異邦権力下に支配される者としてしまったのでした。

 

そこで、ある預言者たちは彼らを断罪し、彼らを裁くばかりであったり、その反対に別の預言者たちは、自らの「保身」と「安寧(あんねい)」を願い民の罪を野放しにして、ただいたずらに甘言(かんげん)をもって民の機嫌を伺いながら「偽りの平安」を祈るようなありさまでした。

 

しかし、このような状況の中でダニエルは、そのいずれでもなく、あえて自らが大罪を犯したかのように、「選民イスラエルの罪を肩代わりして、主の御前に深い嘆きをもって、とりなしの祈りを捧げた」のでした。

 

お互いは、キリスト者生活の原点でもあり、信仰生活の基本線・生命線でもある「祈り」にしっかり立ち返り、絶えず祈り、祈り合いながら、その尊い使命と聖なるミッション達成のために勤(いそ)しんで行きたいものです。

 

 

 

Ⅲ、荒れた聖所(荒廃した聖所)とは?

そこには二重写しの映像の様に、二つの意味があります。

第一は、文字通りの「神殿聖所」の崩壊です。選民イスラエルにとっては、彼らが神の御心に背き罪を犯してしまったがゆえに、遂に敵に踏み込まれ「崩壊してしまったエルサレム神殿」とそこでの「神殿礼拝の崩壊」を意味していました。しかし、これはまさしく今日的にはお互いキリスト者の不信仰と不従順によって崩壊寸前に追い込まれてしまっている「現代教会とその礼拝」を意味しています。日本の現代教会は、活力を失い、無力化していると指摘されています。宣教能力は低下し、救霊は衰え、若者は教会離れし、高齢化が加速しています。礼拝出席者や聖日厳守者は激減し、日本の毎週の平均礼拝出席者数は、40名前後とも言われています。まさにリバイバルが必要です。この「荒れた(荒廃した)聖所」を、いつ誰が回復・復興させて下さるのでしょうか。それはお互いが、真に霊的に覚醒されて主の御心に立ち返り、不信仰と不従順、罪や穢れをかなぐり捨てて、主と共に歩みだすほかにありません。

 

また、第二に、「崩壊した神殿」とは、「内なる神殿」若しくは「霊的神殿」の崩壊です。つまり信仰者個々人の「霊性の崩壊」です。使徒パウロは、コリント信徒への手紙Ⅰの6章19、20節において、次のように言っています。

「あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。」と。旧約聖書においても、新約聖書においても信仰者は皆、「生ける霊的神殿」であるべきなのです。真の信仰者は、誰でも、いつでも、どこにおいても神の御心を各自の心の中に迎え、その神の御心に従って神と共に歩み、主と共に生きて行くのです。使徒パウロは、それどころではなく更に「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。」(ガラテヤ2:20)とまで言っています。ですからお互い信仰者は、その自らの体(全存在)の内に主を迎えた「生ける霊的神殿」なのです。それゆえお互いは己の欲と罪をことごとく主に献げて、常に主のみ心に従って神中心・キリスト中心の生活を、喜んで真心から歩んで行かなければならないのです。そこで使徒パウロは、こうも言っているのです。

「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。」(ローマ12:1)と。

 実にこのような霊的生活が崩壊してしまっているところから、そこに「霊性の崩壊」若しくは「霊的神殿の崩壊」が起こり、遂に「礼拝聖所の崩壊」や「教会や礼拝の崩壊」が結果するわけなのです。

 

選民イスラエルにおいては、このような霊性の低下や欠如から「信仰の形骸化」や「律法主義」、更には「選民的特権意識」や「排他主義」等の諸々の過ちが引き起こされ、遂には「背信の民」、「亡国の民」と化し、神殿の崩壊を来したのでした。同様に今日の教会とその礼拝の衰退・疲弊・無力化は、個々の信仰者の霊性の低下と霊的神殿の崩壊が原因であると言っても過言ではありません。

 

 ではどうしたらこのような状態から立ち上がることが出来るのでしょうか。その打開の道は、どこにあるのでしょうか。それが「祈りと嘆願」であり、神の憐みによる「聖名のゆえの回復のみ業」です。これこそがリバイバルなのです。

 

 

※次回に続く

※聖書は、口語訳を引用しております。