峯野龍弘のアガペーブログ

心にささやかれた愛の指針

第3章 両親からの抑圧と諸問題③

                            G.サーバント

第3章 ウルトラ良い子の抑圧の最大要因

 2、 父の役割と母の役割の欠如による抑圧の素地

  (4) 夫婦愛を通じての人間愛の伝授の欠如

 

さて、父親と母親の役割の欠如の第4番目は、夫婦愛を通して我が子に伝授しなければならない人間愛の学習の欠如である。そもそも父、母は、子供たちにとってこの地上で最初に出会った人間で、しかも同じ血を分け合った掛け替えのない尊い身近な存在である。

 

それゆえ子供たちは他人からでなく、誰よりもこの両親たちから、「人間とは如何なる者であるべきか」、また「真の人間関係とは如何なるものか」を学習することになるのである。そうだとすれば、いわば両親は、すべての子供たちにとって、この世で最初に出会った「“理想の人間”及び“理想の人間関係”のモデル」としての存在でなければならないはずである。

 

そこで両親は、生れてきた我が子に、常に夫婦相和し、互いに相手を尊び、相互に麗しく仕え合い、仲睦ましい夫婦愛を披歴しなければならないのである。なぜなら、人間の人間である本分は、言うまでもなく“互いに愛し合って生きる”ことにこそあるからである。のみならず、真の美しい人間関係は、“真実な愛によって結ばれた人と人との関係”の中にのみ存在するからである。つまり“真の人間関係”とは、“愛による人間関係”以外では断じてないのである。

 

ちなみに、子供のことを“夫婦の愛の営みを通して生まれた愛の結晶”などと表現することがあるが、これはまことに真実であり、かつ意味深い言葉である。ところが今日、夫婦でもない男女の間から、真実な愛の営みではなく、醜い欲望の営みの果て、世に生み出されて来てしまう哀れな子供たちが、如何に多いことよ。このようにして生まれ出て来た子供たちを何と形容したら良いのか。“愛の結晶”とは程遠く、“罪の結晶”と呼ぶにはあまりにも心痛い子供たち。ああ、何と言う哀れ、何と言う悲劇か!

 

世に生まれて来る子供たちは、皆一人残らず夫婦仲睦しい愛し合っている両親の“愛の結晶”として誕生して来るべきである。そして母親の胎内にいる時も、互いに愛し合い、仕え合う良き両親の声を聴き、また生れ出た時には自らの誕生を夫婦して喜び祝う両親の喜びの顔を仰ぎ、更には日々両親が相互に愛し合い麗しく過ごす姿に触れながら生い育つ子供は、何と幸いなことか。

 

このような子供たちは、そこに一早く理想の人間関係のモデルとしての両親をこの地上で体験し、また理想の人間のモデルとしての父母に出会うことができるのである。そして最初に出会った人間である両親の夫婦愛を通して、理想の人間とは「如何なる者であるべきなのか」、また真の人間関係とは「如何なるものなのか」を鮮明かつ強烈に脳裏にインプットされるのである。

 

実に我が子の脳裏に、他の何者によっても毒されない前に、この理想の人間像と人間関係を印刻することこそ、両親が我が子に対して成すべき初仕事であり、最初の大役であるべきなのである。それにもかかわらず、ほとんどの世の両親たちが、この大役を怠り、この初仕事に失敗してしまっているのである。

 

かくして子供たちは何よりも先ず、夫婦が互いに愛し合う“夫婦愛”を通して“人間愛”の基本を体験学習していくべきなのである。そうだとするなら、“愛し合わない夫婦”こそ、子供に対する人生最初の阻害者であり、加害者なのである。

 

 

 

(5) 尊厳ある父像と敬虔なる母像の欠如

さて、父母の役割の欠如のゆえの抑圧の素地づくりという点について縷々述べてきたが、この点に関していま一つの点を指摘しておきたい。それは我が子に対する父親の尊厳性と母親の敬虔性についてである。子供たちが成長するに従って、その子供たちの人格形成にとって必要不可欠な父親像と母親像は、“尊厳ある父親像”と“敬虔な母親像”なのである。

 

そこでまず“尊厳ある父親像”とは何か。それは単に父親の威厳や権威を意味しているのではない。とかく世間では「昨今の父親は、権威がなく、父権が失墜している」などと言われているが、何も父親が権威的である必要などまったくない。しかし、尊厳ある父である必要がある。

 

“尊厳ある父”とは、その存在は物静かで頼もしく、口数も少なく、慈しみに富み、常に母と子が安心して日々を過ごせるように、どんな社会的、経済的な不安も寄せ付けず、いざという場面では常に勇敢に前面に躍り出て身を呈し、雄々しく問題を処理してくれる極めて尊い存在であることを意味する。そして小さな事柄には口出しせず、常に大所高所から大局を見て物事を的確に判断し、正しい道に家族を導いてくれる、そのような父親を“尊厳ある父”と言う。

 

ところがそうではなく、常に口やかましく小言を言い、何かにつけ父親の権威をかざし怒鳴りつけ、時には機嫌を損ねれば殴られる、そのくせいざここ一番という大切な場面で責任を回避し、何もかも母親に問題処理をさせる父、それでいて普段はほとんど仕事のため家におらず、家におる時にはだらだらとテレビを見て何もせず過ごす父、このような父親像は、まさに最悪である。

 

ちなみに、子供たちは本来“尊厳ある父親像”から、いつしか人間としての真の社会性というべきものを身につけて行くべきはずなのである。ところが残念ながら今日多くの世の父親たちは、この点において大なる失格者となってしまっているのである。

 

さて次に“敬虔な母親像”とは何か。それは常に我が子と共に身を置き、我が子に寄り添い、いつでもその“心の声”に耳傾け、それを読み取り、絶えず受容し、満たしていく母親であって、特に我が子が病み、傷ついた時など、その苦しみ痛みを自ら吸い取り、身をもって肩代わりしてあげようと思うほど我が子を慈しみ、愛する母親にして、更に我が子の無事と健やかな成長を願って、常に神の加護を祈るような心がけを持つ母親を、“敬虔な母”と呼ぶ。「子に教える前に、子から聞き、子に学べ」とか、「子をしつける前に、子の心を満たせ」という昔からの知恵者の名言があるが、これはまさに真実である。

 

しかし、今日の多くの母親たちは学識も才能も豊かであるが、これがむしろ災いして、我が子の“心の声”に耳傾けることができず、自らが学び、習得した知識や情報に従って、一早く育児という美名の下で、躾(しつけ)や英才教育に踏み込んでしまう。そこにはすでに“敬虔な母”はおらず、“熱心な教育ママ”がいる。

 

前者は我が子の“心の声”に耳傾け、我が子の個性や固有の感性を引き出すが、後者は“母親の声”に耳傾けさせ、我が子の個性や固有の感性を無視して、母親の意図する理想の我が子像に向かって、子供を洗脳し始める。これぞ最悪な母である。彼女たちはできるだけ早く乳離れし、母の手を離れる子供こそ、よく自立した良い子と錯覚するが、大切な心まろやかな人間性や豊かな愛に生きる人間としての資質を養い損ねてしまう。

 

なぜならこの大切な幼児期に自らの内に母親からの豊かな愛による受容と満たしによる“敬虔な母親”体験をすることができなかったからである。とりわけ自己犠牲を甘受してでも我が子のために献げ、仕え、更にはそれでもなお足りなければ神にすがり祈るような子を愛するがゆえの真摯な母親像を体験していなかったからである。

 

このような“敬虔な母親像”こそ、世界中どこに行っても見出し得ない、自らにとって世界で唯一の実母の内にだけ見出すことのできる“真の母親らしさ”であって、これは如何なる父親にすら肩代わりできない母親ならではの神が与えられた“母の特質”なのである。これこそ母が我が子に与えることのできる唯一にして、世界最大の贈り物である。

 

 

以上、見てきたように、父の役割と母の役割の欠如による抑圧の素地として次の5つがあげられる。

■満3歳頃までの愛による十全な全面受容の欠如

■満3歳からの本質的善悪に対する識別力・分別の育成の欠如

■真善美、神愛聖、命霊祈、天永滅などの見えざる尊いものへの畏敬心の啓発の欠如

■夫婦愛を通じての人間愛の伝授の欠如

■尊厳ある父親像と敬虔なる母親像の欠如

 

このような五つの側面からの両親の役割の欠如が、いつしか子供たちの心の内に、世俗的価値観やその他の様々な言動からやってくる抑圧を、より受け易くしてしまっているという、悪い素地作りについてよくよく学んできた。そこでどうか両親方よ、これらの諸点をしっかりと心に踏まえて、この過ちを決して犯さないように留意して欲しい。

 

しかし、極めて残念なことではあるが、今日の教養ある両親たちのほとんどが、これらの諸点を見過ごしにしたまま、大切な我が子に対する教育や躾に無我夢中になっている。誠に本末転倒である。

 

そこで今ここで、とりわけ生まれながらにして鋭敏な良き感性を持ち合わすウルトラ良い子の両親たちに、心からお願いしたい。どうかあなたのお子さんの特性とその心を大切にし、是非とも何よりも優先すべき幼少時代に施すべき前述したような両親の尊い役割を欠如することなく、存分子供を受容し、愛の内に養育し、抑圧の素地を造ってしまわないようにして欲しい。

 

そこで更に次の項目について学ぶことにしよう。これまた謙虚な教えられ易い心を持って、しっかりと心に留めて頂きたい。

第3章 両親からの抑圧と諸問題②

                             G.サーバント

第3章 ウルトラ良い子の抑圧の最大要因

2、 父の役割と母の役割の欠如による抑圧の素地

(3) 真善美、神愛聖、命霊祈、天永滅などの見えざる尊いものへの畏敬心の啓発

さて、子育てに当たるご両親たちには、またしても是非心に留めて頂きたい更なる基本的重要事項があります。それはお互い人間には、他の被造物には決して与り知ることの出来ない、人間だけが理解することの出来る、目に見えざる極めて尊い存在と世界があり、そして人間はそれらを知って心から畏敬しなければならないということです。

 

果たしてそれらは一体何でしょう。それらのものこそ、実に人間をして人間以外のすべての被造物と決定的に峻別させる、人間のまさに尊厳に関わるものであり、人間が真に人間らしく価値ある存在として生きるための人間としての一大特質であり、まさに人間が人間であるための条件でもあります。

 

それではこれらの目に見えざる尊いものにして、かつ人間が畏敬しなければならないものとは何でしょうか。ここではそれらの中から特に重要且つ本質的な畏敬の対象としての四大類型だけを記しておきましょう。

 

➀真善美

先ず第一の類型は、「真善美」です。

 

a.人間は「真」を求めて生きる存在です。「真」とは何でしょう。それは一般的には「真理」とか「真実」と言われるものです。しかし、それをより本質に従って説明すれば、純粋にして永遠に変わることのない人生における生きるための法則を意味しています。お互い人間はこれに従って生きる時、その真理や真実は、人間各人の性質や人格の内に宿り、それがやがて言葉や行動、そして生活や生涯の中に開花し、結実するようになるのです。

 

ですから誰でも真に人間として生きたいならば、「真」を求めて生きなければなりません。その時、お互いは真に尊く価値ある存在としてその人間の尊厳を確保することが出来るのです。

 

しかし、もしもお互いが「真」を求めて生きようとしないならば、それは所詮人間の姿をした動物に過ぎません。なぜなら彼らは「真」を求めず、「真」を所詮理解することが出来ないからです。

 

b.また人間は「善」を求めて生きる存在でなければなりません。「善」とは何を意味しているのでしょうか。先の真理や真実は、その本質上当然「善」以外ではありませんが、しかし、「真」はそもそもそれ自体、絶対的不変的なものであって、他との比較の上で選択されたり、決定されたりすべきものではありません。

 

しかし、「善」とは、そのものが置かれている状況や環境の中で、最もふさわしく適合した状態や、また他との比較の上でより優れたものを意味しています。更にまた「善」には、「喜ばしいこと」、「幸せなこと」の意味がそこに付加されています。

 

そこで人間は常に自らの置かれている場の中で、ふさわしい適格な言行をなし、常にその直面している固有の状況下で最も優れたものを選択し、自らと他者に喜びと幸せを齎すものとならなければなりません。およそ自分だけで善しとして、他者には喜びも幸せも齎し得ないのは、不適格で決して「善」ではありません。

 

このような人は、もはや真の人間の尊厳を自ら放棄してしまったも同然で、今や動物の次元で生きている者に過ぎません。何と哀れなことでしょう!

 

 

c.さて、第一の類型にはもう一つ「美」があります。人間が「真」を求め、「善」を求めて生きなければならないと同時にいま一つ「美」を求めて生きてゆかなければなりません。「美」とは、事物が完全に仕上がり、実に見事に周囲と調和し、しかもその存在が周囲を麗しく装い、人を幸せな思いにさせる極めて良好な状態を言います。

 

ちなみに、お互い人間が美しい花や自然を見た時、あるいは美しい他人の姿や生き方を目にした時、まことに幸せな気持ちにさせられますが、その理由はそこに「美」が存在するからです。「美」はそれに触れる人々を慰め、癒やし、力づけ、更には喜びと楽しみを与え、幸福な思いに満たしてくれます。これこそ「美」の「美」たる所以です。

 

しかし、その反対を「醜」と呼びます。ある人が面白いことを言いました。「醜」とは、「鬼が酒を飲んで酔払った状態」を言い、これは実に「醜く」、これを「醜態」と言うのだと。誠に穿った面白いコメントだと思います。

 

そこで実に人間は美しいものを愛し、美しく生きることによってこそ真に人間らしく、幸せに人生を暮らすことが出来るのです。

 

さて、以上の如く「真善美」について述べてきましたが、これらに対する畏敬心を両親たちは、我が子がまだ小さい内から、特に3歳位までにしっかりと育成しておくことが大切です。お分かりのことと思いますが、これらの育成は知識としての育成ではなく、感覚若しくは感性の育成です。ですからまだ言葉も知らない、読み書きも出来ない乳児、幼児であっても充分に学習、体得出来るのです。

 

むしろ知的情報の詰め込まれていない純粋無垢なこの時期の幼子であればこそ、自らの感覚を通して体験される「真善美」の世界をストレートに自らの感性の中に取り込み、受け入れ、体得し成長して行くのです。これは体験的育成であって、体験知です。

 

ですから生まれながらに知的障害を身に負っていても、彼らもこの「真善美」の幸いな世界を体験することが出来るのです。いやむしろ彼らにとってこそ、この人間としての最も重要な基本的資質の育成が必要不可欠であり、この点の習得能力においては、彼らは決して健常者に優るとも劣ってはいないのです。

 

ところがどうでしょう。今日の社会においては、大多数の両親たちが自らの大切な子供たちに対して、この重要な基本的育成を、且つ何よりも最優先されるべきこの時期に、育成し損なってしまっているのです。ここに今日の児童教育上の恐るべき社会問題が潜んでいます。

 

 

②神愛聖

さて、次に重要なことは、「見えざる尊いものへの畏敬心」の第二の類型として、「神、愛、聖」が挙げられる。これこそ人間にとって最も畏敬しなければならない尊い存在であり、かつ最重要の認識の対象である。これは決して肉眼で検証することの出来るものではないが、本来、人間である限り誰でも、神が天地創造の初めから人間各人に分かち与えられたその理性と感性と霊性を駆使することによって、必ず認識することが出来るはずのものなのである。

 

そもそも「愛」と「聖」は、元来、「神」なるお方の本質に属する極めて尊く、聖い性質(神の属性)であって、神は人間にこれに倣って生きるよう定められたのである。それゆえ人間は、その理性、感性、霊性を幼い時より養い育てることによって、「神」ご自身の存在と共に、その神の本質的属性である「愛」と「聖」を認識することが出来るようになるのである。

 

ちなみに聖書には、以下のように記されている。

 

a.「愛」について

 

「愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです」(Ⅰヨハネ4章8節)

 

「神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」(同4章11節)

 

「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13章34節)

 

b.「聖」について

 

「召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい」(Ⅰペトロ1章15節)

 

「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」(同1章16節)

 

かくして人間は、「神」の存在を認知して、「愛」と「聖」を追い求めて生きる時、人間として最も「真・善・美」に満ち溢れた極めて尊い神に近似した存在として、生きることが出来るのである。とりわけ「ウルトラ良い子」たちは、平均的な世間一般の人々に比べて遥かに強く、このような生き方を渇望する存在として生まれついており、特色づけられていると言っても過言ではないだろう。

 

それなのに通常世間の父母たちは、このような「ウルトラ良い子」の生まれながらの感性や特質に気付かず、それを無視し、およそそれとかけ離れた、それどころかむしろそれに逆行するような躾や養育を平気で押しつけてしまっているのである。ここにも恐るべき抑圧が惹き起され、また大きな過ちが犯されてしまっているのである。

 

そこでこれを未然に防ぐためには、よくよく小さい頃から、いわゆる「神信仰」と言う宗教的枠組みを越えて、彼らの知性(理性)に神の存在を知らしめ、彼らの感性に「愛」と「聖」を体感させ、願わくは彼らの霊性に「神」、「愛」、「聖」の存在とその尊さを畏敬させるよう養育しなければならない。(続く

 

 

③命霊祈

さて、ここで更に生まれながらにして純粋で、卓越した、かつ鋭敏な感性をもって世に生を与えられてきた「ウルトラ良い子たち」に、「見えざる尊いものへの畏敬心」を育むためになお必要な第三の類型として、「命霊祈」が挙げられる。これまた前項で述べた「神愛聖」と共に人間にとって最も畏敬しなければならない最重要の尊い資質であると共に、きわめて大切な認識の対象である。

 

言うまでもなく決して肉眼で検証することの出来るものではないが、本来、人間である限り誰でも、神が天地創造の初めから人間各人に分かち与えられた天的資質であって、その理性と感性と霊性を駆使することによって、必ず認識することが出来るものなのである。

 

そもそも「命」若しくは「生命」は、それ自体人間の肉眼をもって、認識、識別することは出来ない不思議な、聖なる、神秘的存在である。それは単に人間ばかりではなく、動物や植物などの内にも宿り、そのものを生命あるものとしてそこに機能若しくは存在させている「生かす力」である。この場合、お互い人間はその命を与えられている人間自身や動物、植物を目撃することは出来るが、決して命そのものを認識することが出来ない。

 

ちなみに「命」はまことに神秘にして、厳かである。今の今までそこに命を与えられ生きていたものが、ひとたびそのものの内から命が出て行けば、たちどころにそのものは死んで、朽ち果てて行く。そしてそのものは命のある内は、決して朽ち果てない。

 

ではこの「命」とは、果たして如何なるものか。聖書は、この「命」について以下のように教示している。

 

a.天地万物の創造者である神が、命の付与者。神は人間をはじめ、天地万物の唯一の創造者にして、全能者。このお方が人間の内に命を与えられた(創世記1章1、27節)。

 

 

b.神は人間に命の息を吹き込まれ、人間は生きる者となった(創世記2章7節、ヨブ記33章4節)。この場合「息」とは「霊」と同義語であって、実に神ご自身は永遠の命を持ち給う霊的御実在であって、人間の「命」はこの永遠の命の源である神の霊の分与である。

 

そこで人間はこの分与された命の霊によって神に命を付与されたばかりでなく、霊なる神と深く交わり、神の御旨を知って、霊と真実をもって神と共に歩むのである。これが霊的礼拝であり、祈りである(ヨハネ4章24節、ロマ12章1節)。

 

 

  1. かくして神の聖い御心に従って人間が生きる時、人間を生かすため神から注がれた命の霊が、人の内に住み、人は生きることが出来る。しかし、人が神の御心に背く時、その命の霊は取り去られ、人は死んだ者となる(イザヤ38章16節)。

 

さて、通常人々は「命」について何を思い、何を感じ、どのように生きようとしているだろうか。「命」、「霊」、「祈り」の深い関わりについて、相当の学識経験者であっても、また実力者であってもほとんど考えることも、語ることもない。のみならず世俗的価値観、人生観を基盤として生きている現代人は、かかる人間の深層に迫り、人生を熟考することなど、皆無に等しい。

 

しかし、前述した生まれながらにして純粋志向性を有した、事物の本質を追い求め、絶対志向性、霊的志向性の強い「ウルトラ良い子たち」は、かかる深くして神秘的な「命」や「霊」や「祈り」の世界を、心の奥底で希求しているのである。ここに「ウルトラ良い子たち」の抑圧と渇望が余儀なくされるのである。世俗的価値観に日々生きている両親たちは、またしてもこの点において、大事な子育てに失敗してしまうことになるわけである。(続く)

 

 

 

④天永滅

さて、目に見えざる尊いものへの畏敬心ということに関連していま一つ述べておきたいことがある。それが「天永滅」ということである。これまたいずれも肉眼で認識することの出来ない世界であるが、神によって創造された極めて尊い存在であるお互い人間は、先にも既に述べたように、その内に「霊」性を与えられていることから、天を思い、永遠を見つめ、またその肉体と霊魂が死して滅び行くことを極度に恐怖する、他の被造物には断じてあり得ない極めて尊い思いと感性を有しているのである。おお、何と人間お互いは神秘的にして、不思議な存在であろうか。実にここにこそ人間の尊厳がある。

 

ちなみに「天」とは、人間の創造者である全能の神のおられる所、つまり「神の国」を意味し、「天国」とも呼ばれる。こここそ人間に生命の霊を注がれたお方、神が居ますところであるから、人間は皆、人間の霊と命の出所である「天国」を思慕するのである。そこで聖書の中には、「わたしたちの本国は、天にあります」(フィリピ3章20節)と言われていたり、また「彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していた」(ヘブライ11章16節)と記されたりしている。

 

更にまた「永」とは「永遠」のことで、これまた聖書には「神は、すべてを時宜にかなうように造り、また永遠を思う心を人に与えられる」(コヘレト3章11節)と記されている。そもそも神は永遠の実在者であり、無限である。この神が人間をこの上なく愛されて人間を創造され、その時神は、人間が神の御心に背き、罪を犯し、神に謀反さえ起こさなかったならば、人間には永遠の命を付与され、神と共に永遠に生きることが出来るよう保証された。

 

しかし、人間は愚かにも神の御心に背き罪を犯し、堕落し、「死する者」、有限な者となってしまったと聖書は教えている。この事はとりもなおさず人間には、本来あるべき「永遠」と「永遠の生命」への思慕と回帰願望が心と魂の深奥に潜在し、それが永遠への憧れを生み出しているということである。

 

最後にいま一つの「滅」についてであるが、これは「滅び」、「滅亡」の意味であって、とりわけ肉体の生命と霊魂の「死」を意味している。前者の「天」と「永」を思慕する人間にとって、当然ながら「天」と「永」から完全に切断され、「死」んで「滅亡」し、皮肉にも永遠に「滅び」ゆくことは耐え難い恐怖以外の何ものでもない。

 

「ウルトラ良い子」たちは、これらのことを認識し、「天」と「永」を心の深いところで渇求し、「滅」を恐怖し易い鋭敏な感性を有しているのである。それゆえ両親たちは、我が子のこれらの「ウルトラ良い子」性を一早く見抜いて、幼い頃よりこの感性を受容し、満たし、その渇求に応えて行かなければならないわけである。言うなれば彼らは生まれながらにして強い霊的感性と志向性を持つ「小さな宗教家」なのである。

 

それなのに両親が、世俗的価値観に支配され、世間的見栄えを気にして、知的能力の開発や他者に優る人物となるようにと英才教育や躾に明け暮れしているとしたら、早晩「ウルトラ良い子」の感性を持った子は、徐々に抑圧を受け、やがて傷つき、無気力になり、その上何かにつけ苛立ち易い精神的に不安定な心病む子供になってしまうことであろう。ここにまた両親の大なる過ちが犯されてしまうのである。(続く)

第3章 両親からの抑圧と諸問題➀

                           G.サーバント

第3章 ウルトラ良い子の抑圧の最大要因

  1. 両親からの抑圧と諸問題

さて、以上のようにウルトラ良い子の身に起こる極度の抑圧の最大原因が何であり、何に基づくものであったのかを突き止めて来ましたが、次にお互いは、その抑圧の最大の付与者、つまり加害者が実にその子の両親自身であったという、極めてショッキングな問題について言及してみたいと思います。

 

このことについては、言わば本来聖域であるはずの幼稚園や学校という神聖な環境においてさえ、もはやそれは例外ではなく、まだ幼い無垢な子供たちから成長途上の児童たちまで、世俗的価値観に支配された幼児教育や学校教育制度の中で、日々洗脳・抑圧されていってしまうのです。

 

のみならず、しかも今やそれは家庭の中まで汚染が浸透し、もはやウルトラ良い子たちは何処へ行っても逃げ場のない状況に追い込められてしまっています。時には一般社会や幼稚園、学校以上に家庭の方が遥かに汚染が進み、世俗的価値観の枠組みの強烈な両親や祖父母、時には年上の兄弟姉妹、そして更には近隣に住む親類縁者などによって、より強力に抑圧を受けていたりする場合もあるのです。

 

しかし、こうした中にあっても何よりも圧倒的に多い典型的事例は、以下のような両親若しくはそのいずれかに淵源する抑圧です。

 

A.先ずは、そもそも父の役割と母の役割の欠如ということが底辺にあって、それが真の背後の原因となって、ある時から徐々にその子の抑圧を引き起こす結果となったというケースです。

 

この場合の父母の役割の欠如とは、一体どのような役割なのでしょうか。それは概ね以下のような幼少期、つまり人間性の形成・発育期に充分に与えてあげなければならなかった基本的重要事の欠如を意味します。

 

ⅰ.第一に、先ず誕生から3歳までの間に存分与えてあげなければならなかった「愛による十全な全面受容」の欠如です。

 

これはその子の発信する心の声に良く耳を傾け、その要求する真意をしっかりと解読し、それを満たしていく豊かな受容を意味します。こうすることにより、その子の心に豊かな充足と安息を齎し、徒に無駄な不安やいらだち、更にはストレスを起こさせないで済みます。

 

その結果、その子が心まろやかな子供として成長していくことに役立ちます。のみならず何よりも大切なことは、こうすることによってその子は、自分が両親からどんなに深く愛され尊ばれている存在であるかを体感していくことが出来ます。

 

この体感こそ極めて重要であって、それは言葉や説明に遥かに優って自己の尊厳と存在価値、生への喜びを、まさに体感をもって学習し、将来如何に他者や外界からの抑圧や挑戦を受けようとも、それらをみごとに跳ね除け、自ら消化していくことの出来る充分な資質、能力を培うことになり、堅固にして豊かな感性を育成することに確実に繋がるのです。

 

平たい言葉でこれを表現するならば、将来決して如何なる場面でも「パニック」を起こさない子供に育っていくのです。ですから、この「愛による十全な全面受容」が極めて重要なのです。しかも、この学習をするのに最適な時期が、生後満3歳ぐらいまでの時期なのです。

 

 

 

1父の役割と母の役割の欠如による抑圧の素地

(1) 満三歳頃までの愛による十全な全面受容の欠如

今ここで「満三歳頃」までにと記しましたが、勿論これは厳密な意味で期間限定したのでは決してありません。経験的、臨床的な様々なケースとデータを見て、総合的に判断すると、ほぼこの辺りの年齢が最も適切な目安となると言うことになるからです。

 

とは言え、当然のことながら子供たちの固有の性質や特性などによっては、ある子供にはこの時期より早めに、次のステップに進んでもよろしいし、その反対に、ある子供には更に十分に全面受容の体験とその喜びを味わわせてあげる必要があったりするわけです。

 

ここで更に二、三の注意事項を申し上げますと、

 

ⅰ、先ず第一は、油断して、甘く見積もって、三歳までは長過ぎると判断して、余りにも早めに「全面受容」を切り上げてしまわないで下さい。充分に、かつ徹底的に愛され受容されなかった子供は、心のどこかに生涯通じてと言ってもいいほど、その「受容されなかった」という「非受容の空白」経験から来る「甘えの潜在願望」が持ち越しされて、事あるごとに「受容されたい」、「受容してほしい」と心の内で叫ぶ者になってしまうのです。

 

しかし、それは今更両親にも、ましておや他人にみっとも無くて言えません。のみならず、そんなことを言おうものならたちどころに「甘えるな!」とか「もう幾つだと思っているのか!」等々、非難を浴びせられることは自明の理です。そこでいつしか鬱々、悶々とし始め、抑圧が増し、遂には異常心理、異常行動まで呈するようになって行ってしまうのです。

 

ですから、所定の期間は充分「全面受容」して頂きたいのです。これを決して侮ってはなりません。残念ながら今日非常に多くの方々が、この点において失敗しておられます。特に子供のしつけや教育に熱心なご家庭で、この失敗が続出しています。

 

ちなみに、ここでよく一般には、そんなにいつまでも「全面受容」していたら、何も自分では出来ない「甘える」人間になってしまうのではないかと質問されますが、不思議なことに全く心配はありません。むしろその逆です。

 

この満三歳頃まで充分徹底して全面受容された子供は、その心と体の内に、自らが如何に両親から愛され、尊ばれ、価値ある存在として受容されたかを、体感を伴って深く認識され、その心と霊魂と肉体は、「全人的に充足」するのです。それゆえ自ら「甘えから自立」に向かって歩み出すことが出来るのです。

 

しかしその逆に、この重要な時期に充分「全面受容」されなかった子供たちは、どこかで「非受容の空洞」を満たされたいと切願し、前述したように「甘えの潜在願望」に駆り立てられて、遂に「甘える人間」になってしまうのです。

 

ところがここで重要な理解は、彼らはいわゆる自分が甘えたくて甘えているのではなく、彼らの心の奥にあるゼロ歳から三歳頃までの両親からの、特に母親からの充分な受容を受けられなかったために心の内に出来上ってしまった「非受容の空白」が、「甘えの潜在願望」となって、今や叫び出しているのです。

 

そこでこの彼らの真相、現実をよく理解・認識するところから、彼らを愛をもって「再受容」し直して行く、彼らのための「癒やしと回復のミニストリー」が立ち上がるのです。

 

 

 

  1. 両親からの抑圧と諸問題

1、父の役割と母の役割の欠如による抑圧の素地

(2) 満三歳からの本質的善悪に対する識別力・分別の育成の欠如

さて、極めて大切な次の問題は、満3歳頃を目安として遅れずに取り組まなければならない、物事の善悪や是々非々を識別・分別して行く感性・資質の育成という重要事です。

 

これはこの時期にしっかりと養い育てておかなければならない決定的に重要な“能力”ではなく、むしろ“感性”であり、“資質”です。いわゆる“能力”は年齢と共に無限に成長可能な力量でありますから、わずか3歳程度では能力としては、所詮大きなものを期待することはできません。しかし、“感性”、“資質”はこの段階で決定的にといってもよいほど完備されます。

 

それゆえにこの時期に物事の善悪や是々非々を見極める感性、資質つまり“識別力”、“分別力”の基礎となるべき良き感覚を、しっかりと養い育てておく必要があるのです。この時期に養われた“感性”、“資質”は、生涯変わらず持ち越して行くことができます。ですから昔の人々は、「三つ子の魂、百までも」などという格言を生み出したのでした。

 

ではどのようにしたらこの時期を失せず、善悪や物事の是々非々を識別、分別する感性を培うことができるのでしょうか。そこで以下に両親が心得ておかなければならないその幾つかの重要なポイントを伝授しておくことにいたしましょう。

 

ⅰ.まず第一に最も重要なこととして心に留めて頂きたいことは、両親が揃って、是々非々を教えることです。

 

父親と母親が違った意見を持ち、相互に是々非々の判断が異なっていては、子供はいずれの意見、判断に従ってよいのか分からなくなってしまいます。そこで子供は戸惑いの内に、けな気にも自分にとって有利な、楽な方に従います。

 

その場合、子供は、概して母親の意見に従います。子供にとって母親は本能的に父親より重要な位置づけにあり、その母親から叱られたり、見捨てられたり、嫌われたりしないために、母親の意見に従います。何としてもその子供は、母親の胎内で10カ月間もへその緒の繋がった命を分かち合う間柄として、まさに“生命共同体、運命共同体”として共に生きて来たのですから、到底父親の比ではありません。

 

そこで子供はそれが真実であるのか否かの判別がつきませんので、母親の判断を自分の判断として取り込み、それを脳裏に刻み込み、また自己の感覚の中に収めることになるのです。困ったことには、もしそれが客観的に間違っていたとしても、子供はそれを“善”として自分の感覚の中に取り込んでしまうのです。

 

且つそれが正しかったとしても、父親に対する信頼と尊敬の感覚が滅失し始め、不信と軽蔑の感情と感覚を芽生えさせてしまいます。のみならず、その子供が両親をいずれも同じように慕っているとするならば、その両親の間での是々非々の違いは、子供に相反する二重の判断基準を差し出すことになり、子供は当惑するばかりで、何ら良き是々非々の感覚・資質を養い育てる結果に繋がらないばかりか、かえって害あって益なしという結果に終わってしまいます。

 

ですから、この是々非々の感覚・資質をしっかりと養い育てる3歳期には、是非とも夫婦そろって同じ価値基準で、心を合わせて、愛の内に子供に善悪の識別感覚と資質、そして是々非々を見極める良き感性を育成してほしいものです。

 

 

そこでこの場合極めて重要なことは、かく物事の「是々非々」を識別・分別する良き資質や感性を養い育てるということは、いわゆる「何から何まで事細かに教え示したり、口やかましくしつけたりすることによって養い育てることだ」と勘違いしないことです。

 

識別力や分別眼は、その物事の本質をよく理解していることから生まれて来る善悪に対する瞬時の判別力であり、それは単に物事の表面上の外面的様式の違い性を識別することとは本質的に異なっています。それは物事それ自体の識別ではなく、その物事の背後や奥にある意味や価値を正しく理解した上で、その是々非々を判断していく直観的資質や感性を養い育てることなのです。

 

それ故両親は、小さな子供たちに優しく分かり易い言葉で、且つ楽しく、その一つ一つの事物の意味と意義、そしてそのものが果たしている、且つ担っている尊い役割や働きなどを、ゆっくり時間を懸けて丁寧に話してあげなければなりません。こうしたことの積み重ねが、その子供の心の内に物事の背後にある本質や価値、つまり物事の善悪や是々非々を、自ら正しく見抜く良き資質や感性を育成し、遂に正しい識別力や分別ある人間と成らせるのです。

 

このようにして育てられた子供は、やがて大人になって社会に出た時に、常に物事の本質を見抜き、善悪を本質的に識別しながら、物事を的確に処理していくことの出来る、いわゆる「メリハリのある人間」となります。

 

ところが、今日多くの両親たちが、世俗的価値観の支配する現代社会の只中にあって、子供に勉強させることで明け暮れし、社会全般もただ知識や技術、知的情報や物事の速効的処理能力の卓越した者を優遇する風潮の中で、両親たちは社会に媚びるかのごとく、英才教育的志向の子育てにのめり込んでしまっています。

 

何とまだ子供が生まれてきていない母親の胎内に居る頃から、英才教育への胎教が始まり、生れてくるなり今度は待ち構えていたかの如く、英才教育プログラムに従っての育児教育が始まるのです。そして三才位までには、もうかなりの知的学習が進み、両親や他者から質問情報を投げかけられると、見事な解答が戻ってくるのです。その都度、質問者からの拍手喝采を浴びて成長していくのです。

 

しかし、極めて残念なことに、両親は忙しく、ゆっくりと子供と共に時を過ごし、優しく楽しく且つ分かり易く、その知識や情報の背後にある深い意味や、その尊い意義や役割、働きや価値などについて教え、分かち合うゆとりがないのです。その結果、やがて小学校、中学校、更には高等学校、大学に進む過程で、知的能力は高く、知的情報処理ゲームにおいては卓越した点がありながら、日常生活においては自己管理が適正に出来ず、対人関係や社会的適応面においてはまろやかな対応が出来ず、やがて遂には心病み、引きこもりや発作的切れ症状、そして精神的うつ症状、摂食障害、自虐(自傷)的若しくは他虐(暴力)的行為などの異常心理、異常行動を引き起こすようになるのです。

 

のみならず、この頃ともなると急速に知的能力も減退し、学習意欲も生活行動意欲もすっかり喪失してしまうのです。そして憐れなことに、彼らは生きる喜びも人生の意義も目的も皆目見失い、生を厭い、死を欲するようになり、すべてが呪わしく見えてくるのです。ですから、物事の是々非々が分からなくなり、一切のものが無意味、無価値に思え、遂には自己破壊が進み、それが他者破壊となり、非行や犯罪の泥沼に落ち込んでいくことすら起こるのです。

 

果たして、これらの原因はどこにあったのでしょうか。何とそれは3歳までの間の両親からの愛の全面受容の欠如と、3歳頃からの本質的善悪の識別力や分別の資質の育成、そして是々非々のメリハリある感性の育成に、両親が前述したような子育を怠ったばっかりに、すっかり失敗してしまっていたからです。(続く)

 

第3章  世俗的価値観と我執がもたらす二重の抑圧

                       G.サーバント        

第3章 ウルトラ良い子の抑圧の最大要因

III. 世俗的価値観と我執がもたらす二重の抑圧

さて、そこでお互いが決定的に目覚め、認識し、かつ解放されていかなければならない人生の最重要課題は、お互い各人の心を抑圧し、支配し、そして虜にしてしまう恐るべき人生の敵である「世俗の価値観」と「我執」からの解放と脱却です。これを既に先に「抑圧の二大元凶」と呼びましたが、この二つこそが「諸悪の元凶」であり、「諸悪の根源」(根本原因)でもあったのです。

 

この二つの「抑圧の元凶」が、ひとたびお互いの心と人生を支配するようになると、そこには必ず「二重の抑圧」を引き起こしていきます。

 

 

A.先ず自らの心を抑圧し、その人生を狂わせる

世俗の価値観と我執とは、これが一旦人の心の中に侵入すると、各人の意識や意志を超えてその心の内に増殖し始め、遂にその人の感情と意志と行動、つまり人格(人間性)と生活(人生)とを支配するようになります。それほどまでに世俗の価値観と我執の抑圧は、強力にして執拗であり、遂にこれが人の一生を狂わせるようにまでなるのです。

 

これに抑圧され、支配されるようになると、お互いは常に自分と他人とを比較するようになり、世俗的価値観に従って自己の欲望・願望が自らを駆り立て、自らの欲する基準値に達していない自分を受容することが出来なくなり、他人を羨み、自己卑下するようになったり、その反対に自分がその基準値を満たしていると認識する時、他者に対して自分を誇り、他者を見下すようになってしまうのです。

 

その結果、絶えず他者の動向が気になり、それに正比例して自らの状態も気になり、とりわけ自己の今おかれている状況や状態に確信が持てない時、ただいたずらに不安と疑いだけが増幅し、鬱的症候に苛まれるか、さもなければパニック症状を引き起こし、物や他者にあたりちらし、狂い叫ぶようにさえなるのです。誠に恐ろしい限りです。これらが自己に対する世俗の価値観と我執の恐るべき第一の弊害です。

 

 

B.他者の心を抑圧し、その人生を狂わせてしまう

そこで更に恐ろしいことは、世俗の価値観と我執が自己を縛り、抑圧、支配するようになると、これによって認識し、判断したところに従って、更に自らが他人を裁き、支配しようとするようになるのです。これがいわゆる赤の他人である場合には、ほとんど問題にはなりませんが、その相手が親しい間柄や、ましてや家族・親族であった場合には、極めて深刻な問題が発生してしまいます。

 

つまり親しさのゆえに、また愛していると思っているがゆえに、自分の気付かされた認識や判断をその相手に伝え、しかもその相手がそれを理解し、受容してくれるものと強く期待し、それを欲するのです。その結果、その相手がそれを理解出来ず、受容しなかったとしたら、その途端に自分の内に働き、自分を抑圧し、支配している世俗的価値観と我執が激しく自己を駆り立て、その相手に更に強く自己の主張するところを迫るようになるのです。

 

その場合、なおも相手がそれを受け入れないとすれば、完全に争いが生じてしまいます。これがいわゆる夫婦や親子の不和・断絶であり、他人であれば人間関係の断絶となるわけです。

 

更にこの場合、相手が本人以上に強い立場にある人物であれば、そのまま決裂して人間関係が終わるのですが、しかし、その相手がその人の子供であったり、しかも先に述べた心の優しい純粋志向のウルトラ良い子であったとしたら、そこには極めて深刻な問題が発生してしまいます。

 

すなわち、その子供はこの世俗的価値観と強烈な我執の持ち主である親から極度の抑圧を受け、その支配の許に封じ込められ、自らの意志や感情は封鎖され、その上その心には大きく深いトラウマを受け、遂にはその子の人間性と人生を決定的に阻害してしまう心的障害を身に負わせてしまう結果となります。何と言う世俗の価値観と我執が齎す恐るべき弊害でしょうか。ですからこう言うことができましょう。

 

「世俗的価値観と我執とが、ある人の心と人生を支配する時、その人は次には、それをもって他人を支配するようになり、更にまた世俗的価値観と我執に支配され他人を支配した人によって支配されたその人もまた、更に他の第三者を支配するようになる。そしてこの世俗的価値観と我執の悪しき伝達ゲームは、止まるところを知らない」と。

第3章 我執(がしゅう)

第3章 ウルトラ良い子の抑圧の最大要因

 2、我執(がしゅう)

さて、以上において縷々とウルトラ良い子に対する抑圧の最大原因であり、また同時に根本原因でもある二つの元凶の内の「世俗的価値観」について詳述してきましたが、次にもう一つの元凶である「我執」についても記してみたいと思います。

 

今ここで「二つの元凶」と申しましたが、実はこの二つは深いところにおいて繋がりがあり、決して切り離せない関係にあります。言わば後者の「我執」は、前者の更に奥に潜む「真の元凶」と言ってもよく、これは個々人の人格並びに思想を形成している各人の人間性の奥にあり、その人間性を支配している醜悪な性質を意味しています。この個々人の内に巣食う醜悪な性質が顕在化し、更に集団化し、社会化したものが前者の「世俗的価値観」と呼ばれるものなのです。

 

そこでどちらか一つに抑圧の最大原因を絞り込みたいところではありますが、しかし、抑圧を受けるウルトラ良い子の側から見るときに、「世俗的価値観」と「我執」とが、あたかも双頭の大蛇の如く鎌首を上げて、入れ代わり立ち代わり自らを抑圧してくることを、非常な脅威に感じているのです。概して「世俗的価値観」の抑圧は、彼らが接するのっぴきならない様々な他者から、そして「我執」の脅威は、何と彼らの他ならない両親たちから主に被っているという悲しむべき実態が、臨床的に報告されています。

 

こうした実態を踏まえる時、やはり「世俗的価値観」という要因と、「我執」という要因の二つを、あえて「二つの元凶」として並列させて熟慮し、これらの恐るべき弊害からウルトラ良い子たちを保護し、あるいは癒やし、救済して行かなければならないでしょう。そこで以下において「我執」とは何か、また「我執」を形成している主なる要素は何かについて、詳述してみたいと思います。

 

では先ず「我執」とは何でしょう。これを定義すれば、「我執とは、お互い個々人の内に宿り、お互いを駆り立て支配している自己に対する悪しき執着若しくはこだわりである」と言うことになります。

 

この「我執」は、単に他者を悩まし、悲しませ、傷つけるようになるばかりか、実はそれほどまでに自分自身に執着していながら、悲しいかな決して自分自身に対して良い結果を齎しはしないのです。「我執」から行為されたことや、発した言葉は、あくまでも思い通りのことを行為し語っているのですから、当座は非常に楽しくもあり、幸せに思えるのですが、あにはからんや、何と後になってみると、そのこと自体がいかにも自己の人生を狭め、不自由にし、かつ悩まし、苦しめ、不幸に陥れてしまっていたかに、いやと言うほど気づかされる結果になるのです。お互いはもっとよくこの厳かな事実について知らなければなりません。

 

この「我執」について使徒パウロは聖書の中で、「肉の人」(Ⅰコリ3章1、3節)などと呼んでいますが、ある有名な聖書註解者は、これを「聖められていない自我性若しくは自分性」などとも呼んでいます。いずれにしてもこの「我執」は、聖められなければならないお互いの人間性の中に内住する極めて悩ましい悪しき性質なのです。これによってお互いは、自他ともに人生をより悩み多きものとしてしまう結果になるのです。まさに「我執」は、「世俗的価値観」と共に、ウルトラ良い子たちを悩ませ、傷つけてしまう二大元凶であるのです。

 

 

 

(1) 我執と原罪

さて、このお互い個々人の心中に執拗に巣食い、お互いを支配し駆り立てている「我執」のことを、聖書は「罪」と呼んでいます。ではこの醜悪なお互い個々人の中に根を張り支配している「罪」は、果たしていつ頃から、どのようにして人間性の中に巣食うようになってしまったのでしょうか。

 

聖書は、これを天地創造の始め最初の人間として神によって造られた「アダム」と「エバ」の堕落に起因していることを明示しています。それによれば、そもそも人間は、神の御心に従ってその御愛の内に、神ご自身の御本質に「かたどって」(創世記1章26、27節)、神ご自身に「似る」(26節)ものとして創造された「極めて良い(尊い)」(31節)存在であったと言われています。ですから人間は神から愛され、かつ神を愛し慕いつつ、どこまでも神の聖き御心に従って生きる存在でなければなりませんでした。

 

そこで、かくして誕生した最初の人間世界は、「エデンの園」(2章8、16節)と呼ばれる実に美しく聖い、かつ愛と平和に満ち溢れた神の聖き御心に適った楽園そのものでした。もちろんそこには罪も汚れも悪もなく、更には死も病も、痛みも悲しみも、そして何一つ苦しみも悩みもない、まさに地上に具現された「天国の地上的投影」つまり「地上天国」そのものでした。神が人と共に住み、人は神と共に生きるまさしく「エデン(楽園)」だったのです。

 

ところがある日、最初の人間「アダム」と「エバ」は、「園の中央に生えている木の果実」(3章3節)に目を止めました。それは誠に見て美しく、食べるに好ましく思われる素晴らしい木の実だったので、エバの心は取って食べたいとの強い衝動に駆られました。そこでエバは、その衝動に耐えかねて遂にそれを取って食べてしまいました。のみならず彼女はそれをアダムにも薦め、アダムも取って食べてしまいました。

 

しかし、そこには一つの重大な問題がありました。それは創造主である神が、彼らに他の如何なる果実も食べ物も取って食べてよいが、ただ「園の中央に生えている木の果実だけ」は、絶対に「食べてはいけない、触れてもいけない」(3章3節)との厳命を発しておられたからでした。アダムもエバもこの創造主からの唯一の厳命を決して忘れてなどいませんでした。しかも、この厳命を守るか否かによっては、「命か死か」という重大な人生の二者択一の運命がかかっていたのでした。

 

ところがエバも、そして続いてアダムも共にこの重大な禁を犯して、神の厳命された御心を斥けて、自らの願望、つまり「見たい」、「食べたい」、「取りたい」という欲望を満たすために、遂に「死」への道を選択してしまったのです。つまり、彼らは創造主である神の御心(厳命)よりも、自己の願望(欲望)に強い執着を覚え、遂にこの強い執着に支配され、敗北し、神の聖なる御心を踏みにじる重大な「過ち」を犯してしまったのでした。実に聖書では、自分の願望(欲望)に執着し、この神の厳命(御心)を否定し、それに背くことを「罪」と呼んでいます。

 

そしてこの重大な神の厳命(御心)をさえ斥けて自分の願望(欲望)に強く執着し、あえてこの人生での誤った選択を自らに迫る心中に潜む「恐るべき執着心」、「御し難い悪しき性質」のことを「我執」と言います。そして更に、この人類最初の人間「アダム」と「エバ」によって引き起こされた「我執」によるエデンの園での最初の背きの罪を「原罪」と呼ぶのです。

 

何とこの「原罪」の恐ろしさよ、またその「呪い」と「裁き」の大きかったことよ。「アダム」と「エバ」、つまり人間は、この「我執」の結果引き起こしてしまった「原罪」のゆえに、遂に神と共なる「エデンの園」での生活を喪失し、園からの「追い出し(追放)」(同3章23節)の身となってしまったのです。その結果、「エデンの園」つまり「神の楽園」の中においてのみ人間に保証されていた不死(永遠の命)、不変の愛、そして恒久的平和や絶対安息、更には無病、無痛、無苦、無悲などのすべての喜ばしい祝福された生活(幸福・至福)を喪失してしまったのでした。これを「人間の堕落」とか「失楽園」と呼ぶのです。

 

それにしても何と「我執」の恐ろしいことよ。「我執」こそ、「罪」、「原罪」の元凶であって、「堕落」、「失楽園」を結果させたのです。そして、今やウルトラ良い子たちを抑圧し、傷つけ、悩まし、遂には異常心理、異常行動にまで追い込んでしまう恐ろしい元凶こそ、実は「世俗的価値観」と不可分離に結び合っている各人の内に潜む「我執」なのです。

 

 

 

(2) 我執を構成している二つの要素―悪しき性質

そこで更にこの「我執」を構成している主なる要素について言及しておきたいと思います。そもそも「我執」は、以下の二つの要素すなわち各人の内に潜む二つの悪しき性質から構成されています。

 

ⅰ.まずその第一のものは、お互いの心中に潜む「欲望」です。ここで「欲望」とは、お互いが日常、心に抱く単なる「願望」や人類生存のために不可欠な「本能的欲求」とは異なります。これらは人間が幸せに生きて行くために必要かつ不可欠な尊い生命的営みであって、何人によっても否定されるべきではありません。これはお互いが生きていくために保証されている生存権でさえあるのです。「善」であって、断じて「悪」でも、ましてや「罪」などではありません。

 

では、ここで言う「欲望」とは何でしょう。それは、他者との均衡や調和を著しく欠いた「過度の願望」や、更には不純な動機や目的または真理に適わない自己本位の「悪しき願望」を言います。聖書ではこれを神の御心に沿わない利己心から出た間違った願望と理解し、この「欲望がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生む」(ヤコブ1・15)と警告しています。

 

それにしてもお互い人間は、何とこの「欲望」に弱く、「欲望」にしばしば容易に支配されてしまうことでしょう。そしてこの「欲望」への強いこだわり、即ち執着が遂に「我執」となるのです。

 

ⅱ.そこで第二のものは、同じくお互いの心中に潜む「自己中心癖」です。これはよく「自己中心主義」などとも呼ばれますが、それはお互いの中に巣食う強烈なほどの自己への執着心を意味し、これが他者との調和や均衡を破るほどまで自己主張される時、しばしば他者との間で摩擦が生じ、よろず争いの元となるのです。

 

しかし、これまた前者において述べたと同様に、闇雲に自分を大切にすることや自分の考えを正しく主張することのすべてを、「自己中心癖」という名の下で嫌しめたり、否定したりするのではありません。人間はそもそも個性や独自性を神から付与されている尊厳ある一人一人であるが故に、この点においてはむしろ大いに自己主張、自己確立を図るべきです。同様に自己保全本能は、人間各人が生存していくために極めて重要な人間資質であって、これなくして人間は健常に生きていくことができません。

 

ところが、これらの大切な良きものが、他者との調和や均衡を無視して独り歩きし、まさに過度に独善的に主張され、更には他者の生存や生活、心を脅かすほどまでに増長されていく時、この「過度な自己主張」を「自己中心癖」、「自己中心主義」などと呼びます。また神の御心や真理に背く「誤った自己主張」や、不純な目的や動機に基づく邪にして自己本位の「悪しき自己主張」は、自己への行き過ぎた執着であって、これはあるべからざる「自己中心癖」であり、いわゆる「自己中心主義」と言われるものとなるのです。

 

お互いはいつしか知らず知らずの内に、正当な自己主張という名の下に、その実「過度な自己主張」に陥り、また「自己中心癖」というまことに醜い性質に流されていることが、何と多いことでしょう。

 

かくして「我執」は、お互いの内心に潜み、支配するこの二つの性質、つまり「欲望」と「自己中心癖」という二要素によって構成されているのです。その結果、そこには更に以下のような四重の「悪しき主義」を生みだすことになるのです。

 

イ.巧妙な打算的利己主義

ロ.執拗な我欲充足主義

ハ.貪欲な自己保全主義

ニ.強烈な自己優先主義

 

 

 

(3) 四重の悪しき主義(イズム)

さて、今掲げた四重の悪しき主義(イズム)について、簡略説明しておきましょう。これは先にも述べましたように、我執の二大要素である「欲望」と「自己中心癖」の合したところに結果する悲しき四大主義(イズム)です。

 

イ.巧妙な打算的利己主義

我執は、必ず打算的利己主義を生み出すのです。その日常生活の中で常に自らの利に敏く、計算高く、巧妙に自分の利益を追求するようになってしまうのです。それは人間的と言うよりも、まさに動物的習性に類似しています。

 

ロ.執拗な我欲充足主義

我執は、更に何事をするにも自らの内にある我欲が動機と成り、物事の選択と決定をする時、その我欲の充足を図ろうと試みるのです。それもまたあたかも本能的習性の如く、執拗に自己の充足を図ろうとするようになってしまうのです。

 

ハ.貪欲な自己保全主義

そして更に我執は、貪欲なほどに自己の保身を図ろうと試み、他者や出来事によって自らが傷付けられ、何ものかを喪失し、不利益を被ることを極端に恐れ、身を守ることに執着してしまうのです。それは単なる自衛本能のゆえであるとは言えないほど、自己に執着し、貪欲なほどに自分の身の安全と利益を図ろうとしてしまうのです。

 

 

 

(4)強烈な自己優先主義

ですから我執は、帰するところ何かにつけ、他者のことはどうであれ、先ず自らの願望や計画を優先し、他者のことは後回しにしてしまうのです。それは誠に強烈なほどに自らの思いを支配し、もはや自分でも気付かない内に、自己優先させてしまっているのです。

 

かくして、我執は悲しくもお互い人間をここまで狂わせ、誤った主義主張にお互いを追い遣ってしまうのです。何と言う我執の恐ろしいことでしょう。人は、一旦この我執の虜になってしまう時、此の底なしの「原罪」の泥沼の中に引きずり込まれ、容易に脱出できない者に成り果ててしまいます。これはあたかも「我執の呪い」に罹ってしまったにも等しく、それは何と巧妙、執拗、貪欲、強烈であって、醜悪な我執の果ての悪しき四大主義としか言いようがありません。

 

それゆえ帰するところ、「世俗的価値観」と「我執」が主流となって支配している今日の人間社会の究極の問題とその原因は、他ではなくここにこそ潜(ひそ)んでいたことに、お互いは大いに気付かされることでしょう。

第3章 世俗的価値観③

第3章 ウルトラ良い子の抑圧の最大要因

  1. 世俗的価値観
    6). 相対主義、他者比較主義

更にまた、ウルトラ良い子たちを抑圧し、彼らを対人関係不全症候群に追い遣る恐ろしい考え方とあり方に、相対主義、他者比較主義というものがあります。そもそもウルトラ良い子たちは、既に何度も記してきましたように、本来は本質的なものや絶対的なもの、更には純粋かつ理想主義的なものを志向する性質を宿しているため、他人と自らを比べ合ったり、また他人同士を比較し合って、その優劣や善し悪しを自ら決めることや、とりわけ他者からそうされることに馴染みません。彼らはそうした相対的な他者との比較の上で物事を考えたり、行動したり、かつ判断することにおいて一般人に比べて、一見奇妙に思えるほど過剰反応を示し、更には強い抑圧感や時には一種の恐怖感をさえ抱くことがあります。

 

そこで他人や両親から、特に母親から、幼少時代より長い間かかる取り扱いを受け続けると、多くの場合は、遂に小学校上級生になる頃から高校時代を迎える頃までの間に、極度の対人関係不全症候群を呈するようになります。もはやその長い間の抑圧感が累積し、耐えきれなくなってしまったからです。そしてその頃までにはかなり深く心が傷つき、すっかり病んでしまっていたのです。

 

この場合、何故母親からの取り扱い方が圧倒的に多くの発症例となるのでしょうか。それは、今日では比較的父親より母親の方が口やかましく、しかも常に身近にいて抑圧するからですが、何よりも決定的な理由は、他の平均的な子供たちに比べて、生まれつき心優しく甘えん坊であるウルトラ良い子たちを、彼らの期待に応えて幼少時代に充分に受容し、満たしてやることをせず、それを怠り、のみならず彼らの感性に合わない相対的、他者比較的な世俗的考え方に従って、他の一般的な子たちと同様に、若しくはそれ以上に立派に育て上げようと、常に厳しくしつけたり、宥めすかしたりするからです。

 

その結果、大好きな母親から嫌われないようにと、ウルトラ良い子たちは健気にも、懸命に母親の期待に応えようと努力するのです。そのために彼らの心身に及ぼす重圧は並なものではありません。絶えず頑張り「良い子」を装い続けなければならない彼らの苦悩は、親の想像を絶するものがあります。

 

かくしてその抑圧、ストレスが徐々に蓄積されて大きなトラウマになり、それが遂に異常心理、異常行動を生み出すようにまでなるのです。受容しなければならないのは母親なのに、皮肉なことに受容して来たのはウルトラ良い子たち自身であって、彼らは母親から嫌われ見捨てられるのではないかとひたすら恐れ、母親から愛されたいばっかりに、ひたすら長い間母親の要求を受容し、満たそうと努力してきたのでした。しかもその途上、常に聞かされてきた脅威の言葉は、「他の子どもたちはこうしているのに、あなたはどうしてそれが出来ないの」とか、「他の子に負けないように、もっとしっかりと頑張りなさい。意気地なし!」とかの叱咤激励の言葉でした。

 

この他者との相対的比較の上に責め立てる母親の叱咤激励は、如何にわが子を思う母親の親心とは言え、かかるウルトラ良い子たちにとっては、害あって益なしの母親の有害言動なのです。しかし、いかに多くの世の母親、いな父親までもが揃いもそろって、わが子を傷つけてきたことでしょう。この点、お互いはよくよく留意したいものです。

 

 

  1. 世俗的価値観を構成する恐るべき諸要素

7). 排他主義、競争主義

最後にもう一つの世俗的価値観を形成している悪しき考え方について述べてみることにしましょう。それが排他主義と競争主義です。これこそが世俗社会を象徴する最たる特徴の一つです。今までに述べてきた6つの世俗的価値観を形成している諸要素の総和の帰結は、必然的に排他主義、競争主義に陥らざるを得ません。

 

しかし、ウルトラ良い子たちの本来の感性は、これまたこの排他主義、競争主義に馴染みません。彼らにとってこれほど恐ろしいことはないのです。先にも述べたように、彼らは元来純粋志向の持ち主で、人や物事の本質を探究し、絶対的に尊いものは何かを模索し、更にまた人や他の生き物に優しく、生命あるものには深い畏敬の念を持ち、その上彼らは目に見えない霊的、神秘的なものに強い関心を示し、更には夢や理想を追い求め、閃きや独創的な発想が豊かで、かつまた思いついた事柄には深くのめり込み易くあるという、真に多種の卓越した特性を有しています。

 

こうした彼らは、極めてユニークな発想をもって人や物事に対処する傾向が強いので、しばしば物事の判断が、一般人の常識的な考え方とは異なってきます。彼らにとって、人間は一人一人が掛け替えのない存在で、能力の如何や障害の如何で、断じてその人間評価をすべきではないと考えています。人間は本質的に皆平等であって、如何なる人でも、誰一人として見離されたり、見捨てられたりすべきではなく、むしろ弱く、乏しく、致命的なハンディを身に負っている人こそ、より多く愛され、重んぜられ、優遇されるべきであると彼らは思うのです。ですから、彼らが排除されたり、足手まといのように看做され置き去りにされるようなことは、断じて理解することが出来ないのです。

 

ところが今日の世俗社会にあっては、至るところに排他的行為や出来事、また相互に競い合って自己の願望を遂げようと、醜いまでに競い合い奪い合う競争社会が目の前に広がっています。ウルトラ良い子たちはこうした社会がどうしても理解できず、受け留められず、遂にこの社会から脱落・落後して行ってしまうのです。

 

彼らは決して能力がないのでもなければ、障害があるわけでもないのです。むしろ彼らこそ、その内に通常人に優った能力や感性を宿している場合が、圧倒的に多いのです。それなのに、どうして彼らは、そうなってしまったのでしょうか。その理由(原因)こそ、彼らにとって受け入れ難く、理解し難い排他主義的、競争主義的日常生活にあります。

 

彼らは何故かこれらのあり方や生き方に馴染めず、それどころか嫌悪感や恐怖感をさえ覚えるのです。何か理性をはるかに越えた彼らの内に働く霊性とでも言うべきものが、これらの考え方に怯え、反発するのです。

 

その結果、いつしか彼らはこのような社会から身を引き、これまた対人関係不全症候群に悩まされるようになってしまうのです。果たして皆さんは、このような彼らの摩訶不思議な心理を、どこまで理解できますでしょうか。しかし、これこそが彼らの現実なのです。受け留めてあげようではありませんか。

第3章 世俗の価値観②

                             G.サーバント

第3章 ウルトラ良い子の抑圧の最大要因

  1. 世俗的価値観
  2. 世俗的価値観を構成する恐るべき諸要素

4). 欲望充足主義、名誉出世主義

さて次は、欲望充足主義、名誉出世主義という、これまた典型的な世俗的価値観を構成している恐るべき要素について、解説することにいたしましょう。

 

非打算的献身的志向性や他者貢献的、かつ他者受容的感性を持った純粋志向性に富んだウルトラ良い子たちは、この欲望充足的な両親や世の人々に強い嫌悪感を持っています。自己の名誉や出世を求め、それを自分に強要する両親や他の人々に、当然ながらこのウルトラ良い子たちは、厭らしいと思うほど、生理的にさえ拒絶感を抱きます。とりわけそれが両親、更には最も信頼し大好きな母親が、このような考え方を持つ人間であることを知るようになった時のウルトラ良い子たちのショックと悲しみ、そしてその戸惑いは、並大抵のものではありません。

 

もちろん中にはそれほど強い衝撃を感ぜず、戸惑うこともなくこの時期を過ごしてしまうウルトラ良い子もないわけではありません。なぜなら、小さい内から母親から徐々に徐々に欲望充足主義や名誉出世主義の毒を盛られ、彼らの純粋感性が麻痺し、また彼らの考え方が知らず知らずの内に毒され、あるいは洗脳されてしまっているため、悲しいかな強い衝撃を受けられなくなってしまっていたからです。

 

しかし、そのような場合であっても、彼らの心の中のどこかでは、これはおかしい、これは真実な人間の生き方ではないとの疑問や問い返しが湧き起こってくるのです。そして、それにもかかわらず、相も変わらず母親たちがこうした考え方や価値観を強要し続けると、遂には彼らの心に大きなストレスをもたらし、その継続的な世俗的考え方の抑圧のゆえにそれがたまってトラウマとなり、その果てには遂に対人関係不全症候群を引き起こし、先にも述べてきた者たちと同様に、異常心理、異常行動を呈するようになってしまうのです。

 

そこで一つの実例を紹介しましょう。

 

ある時、ウルトラ良い子であったOLのA子さんが、職場からの帰り道に、某駅の構内で電車に飛び込み、自殺を図ろうとしました。幸いその不審な行動に気付いた駅員さんが、駅ホームに入車中の電車に今まさに飛び込もうとしていたA子さんを取り押さえて、九死に一生を得ることが出来ました。気力を失ってぐったりとしていたA子さんは、そのまま救急車で病院に運ばれ、その回復を待ちました。

 

その際、彼女が心理カウンセラーに打ち明けたことは、自分は小さい頃から母親から事あるごとに、「あなたは自分のことだけをしっかりと考え、他人のことなど後回しにしなさい。自分のこともろくすっぽ出来ないで、他人のことなど考える暇など、あなたにはないのよ」と叱られ続けてきたこと、まただんだん大きくなるに従って、「あなたは何でそんなことも良く出来ないの。全く仕方のない人間ね。そんなことをしていたら、将来良い大学にも、仕事にも、そして結婚にもありつけないわよ! そうしたあなたが惨めになるのを、見てなんかいられないわ」とたしなめられ続けてきたというのです。

 

心の優しいA子さんは、もとより大好きであった母親から、このような自己充足的かつ欲望充足主義的などぎつい言葉や、また名誉出世主義的な考え方を聞かされ続け、すっかり母親に失望し、のみならずやがて嫌悪感から憎悪感をさえ抱くようになりました。そんな母親からの強烈なインプットに曝され続けてきた彼女は、母親を見る度にまたこう言われるのではないかと常に緊張し、自由な対話が出来なくなりました。のみならず自分の最愛の母から、このように欲望充足的で、かつ名誉出世主義的な世俗人間であることを見せつけられることは、彼女には耐え難いことでした。そして、自分がこのような汚れた世俗的な考えを持つ母の胎内から生まれてきたのかとを思うと、悲しくなって一層のこと生れて来なければ良かった、死んでしまいたいとさえ思いつめるようになりました。

 

そんな彼女が、その日職場に行き、昼休みに友人たちと食事を共にしていた時、いつもながらのことではありましたが、その場の話題が勢い相互の内にある欲望充足的な考えや名誉出世主義的感情を丸出しにするような場面展開となり、その雰囲気に彼女は居たたまれなくなり、その場を飛び出しました。そして職場からの帰り道、遂に彼女はもはやどこに行っても、この欲望充足主義的で、かつ名誉出世主義的な人間社会でしかないことを思い、もはやこの世での生きる張り合いを見出せず、自殺を図ろうとしたということでした。

 

小僕も後日、本人からこの事を直接聞かされて、如何にウルトラ良い子たちが、純粋志向性を持った、物事の本質や絶対価値を追求してやまない超鋭敏な感性を持った人々であるのかを、あらためて痛感させられました。

 

 

 

 

5). 画一主義、規格準拠主義

さて、次には画一主義・規格準拠主義という、これまた典型的な世俗的価値観を構成している更なる要素について、解説することにいたしましょう。通常この画一主義、規格準拠主義と呼ばれることが、事物や人の外的側面だけを評価する場合に適用されるのは、さほど弊害もなく、むしろ有益である場合が断然多いのですが、しかし、これがこと人間の内面や人間性そのものを評価・判断するために適用された場合には、そこにはとんでもない悲劇が生み出されてしまいます。

 

そもそも人間には、個々人異なった固有の特性つまり個性があり、もとよりこれは画一化出来ないものです。世界広しと言えども、同一の人間はどこにもおらず、ただ一人しかいません。言わば一人一人が皆、規格外なのです。だから、一人一人は極めて希少価値が高く、のみならず世界唯一の尊い存在なのです。一卵性双生児の瓜二つの兄弟でも、それぞれ固有の個性を持っていて、全くの別人です。

 

まさに人間は、“オンリー・ワン”であり、各人掛け替えのない存在です。なぜなら天地万物の創造者である全能の神が、一人一人の人間をそのような掛け替えのない存在として母の胎内で形造り、しかもその一人一人に固有の尊い使命を与えて、誕生させて下さったからです。

 

たとえ人々が“生まれながらの障害者”などと呼び、とんでもない“格付け”をしようとも、それは人間が勝手に決めた世俗的価値観によって判断した、全く誤った悪しき罪深い判断であって、その“障害”と呼ばれる事実の奥にさえ、人生の偉大な宝が隠されており、それがその人のより優る尊い個性を際立たせ、かつその障害を通して、通常“健常者”と呼ばれる一般人が、到底足元にも寄りつけない素晴らしい人生や生き方のあることを教示してくれるのです。ですから人間は、皆、誰でも素晴らしく、最高なのです。

 

ところが、こうした個性や特性、更には個々人の尊厳や素晴らしさを蔑ろにして、その生きる喜びや幸せを各人から奪い取ってしまう恐るべき過ちが、人間の行為や外観をもって画一的に、また何らかの基準・規格によって、人間性や人間存在そのものまでも推し量ってしまおうとする、いわゆる“画一主義”、“規格準拠主義”なのです。

 

ちなみに、この“画一主義”、“規格準拠主義”的人間評価の下に形成される人間像とは、果たしてどのようなものなのでしょうか。その典型的な例を挙げれば、戦時中の旧日本軍が成した画一的軍隊教育の齎した日本帝国主義的軍人像です。もう一つは、今日の日本の学校教育が生み出した世俗的価値観を基盤とした“偏差値教育”であり、その大なる弊害は“マニュアル人間”の造成です。いずれも個々人の個性や特性を抑圧し、個人の尊厳や独自性を奪ったり、歪めたりしてしまったのです。

 

その結果、自らが自由に、主体的に、とりわけ個性的に堂々と物事を選択したり、意思決定したりする能力が減退し、いつでも誰かの指摘を恐れ、また何かの規制に脅え、他者の動向を伺い、マニュアルを検索しその指示を待ち、更には他者やマニュアルとの同一性を確認しなければ、不安で怖くて、何一つ行動を起こせないといった人々が、激増してしまったのです。その果て様々な精神疾患を引き起こしたり、不登校、引きこもりなどの、筆者のよく言う諸々の“対人関係不全症候群”を引き起こしてしまうのです。

 

これが恐るべき世俗的価値観の一翼を担っている“画一主義”、“規格準拠主義”の弊害です。そこでお互いは、これらの考え方によくよく注意しなければならないのです。

(続く)