峯野龍弘のアガペーブログ

心にささやかれた愛の指針

第3章 主と共に歩む生涯の必要性と重要性

                       G.サーバント

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主と共に、主に倣って歩む生涯の必要性と重要性については、そもそも冒頭から記して来た事柄の中で既に示されていたことでしたが、ここで改めて次のような形に整理して記しておきましょう。

 

Ⅰ、神御自身がそれを要請しておられること

まず第一に、何よりも主ご自身がお互いキリスト者が「主に似る者」となって、この世で主を証する者となってくれるように願っておられるからです。なぜなら神が人間を創造された時、お互い人間をご自身に「似せて」、「御自分にかたどって」お造りになったからです(創1:26~27)。そうすることによって人間が神と親しく交わり、心通わせ、神の御心に従って共に歩み、共に生きることが出来るようにするためでした。そして共に「エデンの園」(創2:15)に住み、神と共に歩み、死も痛みも悲しみもなく、何一つ悩み苦しむこともなく、神の永遠の祝福の内を進み、幸せに生きるものとされていたのでした。

 ところが人間は、その神の御心に背き、罪を犯し、堕落してしまいました。その結果「エデンの園」を追われ、再び人間の力によってはそこに戻ることの出来ない者となってしまったのです(創3:23~24)。この時から人間の世界には、罪と死、諸々の病と苦しみ、悩ましい痛みや悲しみなどの悪が侵入し、そしてお互い人間は不幸と呼ばれる人生の難題を背負う者となってしまったのでした。

 しかし、神はこうした人間を救い、神との親しい交わりを回復し、神共にいます「エデンの園」のような生活と人生を復元して下さるために、その独り子イエス・キリスト(救い主)をお遣わし下さったのでした(ヨハネ3:16~17参照)。そしてこの神の御子、主イエス・キリストを救い主として信じ、神との親しい交わりを回復された「神の子」(ヨハネ1:12)であるお互いキリスト者に、主は今こそこう言われたのです。

 「父がわたしを愛したように、わたしもあなたがたを愛して来た。わたしの愛にとどまりなさい。・・・わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(ヨハネ15:9,12)と。

 また使徒ペトロはこう記しています。「従順な子となり、召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。『あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである』」(Ⅰペトロ1:14~16)と。

 そうです。主は、十字架の尊い贖いの死をもって罪と死とサタンの支配から贖い出し、「神の子」として回復されたお互いキリスト者を、何としてもご自身に「似る者」として新創造され(Ⅱコリ5:17参照)、お互いをこの世に遣わし主とその福音を力強く証しする者となさせたいのです。とりわけ主の御本質である「愛と聖さ」において「神に似る者」として証させたいのです。ですから「主と共に、主に倣う者」として歩むことを、お互いに要請されたのです。これは私ども「神の子」、「キリスト者」一人一人に対する主の御心であり、また御期待です。お互いは、この主の御心であり、ご期待である神のご要請にお応えする者とならなければなりません。

 愛する兄弟姉妹、あなたはこの主の御要請のあることを、日々自覚して歩んでこられましたか?残念ながら今日多くのキリスト者たちが、この自覚なしに日々を過ごしています。毎週、忠実に聖日礼拝を守り、日々聖書を読み、祈りを捧げているキリスト者の中でさえ、この自覚を欠いている人々が少なくありません。ましておや、しばしば礼拝を休み、余り聖書も読まず、祈りもしない人であったなら、おそらくこのような大切な神の御心も御要請も知らず、その自覚は皆無に等しいかもしれません。それでいてそのような人々に限って、神からの祝福や祈りの応答は人一倍強く期待し、それが叶えられないとするならば不平、不満、呟きが多く積み重なるのです。「神の聖なるご要請を知らず、自覚できない人は、より多く自分の要求を神に突きつける人となる」とは、昔からよく言われてきたことですが、現代もやはり少しも変わっていないのではないでしょうか。いやむしろそれ以上なのかもしれません。

 愛する淀橋の「アガペー共同体」の愛兄姉方は、果たしていかがでしょうか?皆で励み、よく自覚して主の御要請にしっかりと答えながら、「主に似る者」、「主と共に、主に倣い歩む者」として進んでまいりましょう!

 

 

Ⅱ.主と共に歩み、主に似るものとなることは、人間の本分である

さて、このように人間が神と共に歩み、御心を行い、主に似る者となるよう創造され、しかも更に創造主である主ご自身からそのように生きるようにと要請されているのですから、「主と共に歩み、主に似る者となる」ことこそ、お互い人間の本分であると言うことが出来ます。

 この本分を明確に認め知って主と共に歩み通して、神の御許に迎えられた典型的な人類最初の模範者は、「エノク」でした(創5:22~24)。創世記の記録によれば、筆者は、人類最初の人間アダムからノアまでの間の系図の中でただ一人、エノクについてだけ、たった四節しか記されていない僅かな記録の中で、二度までも重複して「神と共に歩み」(同5:22,24)と言う言葉を明記しています。しかも、他のすべての人物紹介の最後には、「そして死んだ」と言う言葉をもって結んでいるのに、エノクに関してだけは「神が取られたのでいなくなった」(同24b)と言う言葉で結んでいます。これは他の人々にはるかに優ってエノクがその全生涯を通して、「神と共に歩んだ」極めて優れた人物であったことを示唆していたのだと思います。

 ずいぶん以前のことですが箱根のケズィック・コンベンションの折に、今は亡き名説教者ポーロ・リース博士が、非常に感銘深いメッセージを取り次がれたことがありました。それはまさに「神と共に歩んだエノク」についての言及でした。それによれば「ある晴れた日の秋の夕暮れに、一人の少女が大好きなおじさんと仲良く手を繋ぎながら、だんだんと西空に沈み行く夕日に向かって、緩やかな坂道を登って行きました。その二人の後姿を微笑ましくずっと見守っていると、やがて遠のいて行く二人の姿が輝く夕日の中に、あたかも吸い込まれるように溶け込んで、すっかり見えなくなってしまいました。そのようにエノクも大好きな主イエス様と仲良く手を繋ぎながら共に歩き続け、天国への坂を上りながら、死んだのではなく、いつまでも歩き続け、遂に輝く永遠の御国に登って行ったのです」と言うメッセージでした。そこにいたお互いは深い感動をもって、この説教を拝聴しました。エノクは死んだのではなく、主と共に歩み続けて、そのまま主イエスと共に天まで登って行ったのだとは、何と美しい「主と共に歩む」人生の象徴的描写でしょうか!これこそお互いの主にある人生の歩みの理想像です。是非そのようでありたいと願うものです。

 ところで祝福に満ち溢れたクリスチャン生涯を生き抜くための秘訣があるとすれば、それはやはり「主と共に歩み、主に似る者となる一筋道を登る」と言うことではないでしょうか。この点での模範者は、同じく旧約聖書の中に登場してくるヨセフです。ヨセフは、いついかなる時にも自らと共におられる主を仰ぎ見つつ、その生涯の坂道を登った人と言えましょう。ですから聖書はヨセフのことをこう記しています。

 「主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ」(創39:2)。また「主がヨセフと共におられ」(同39:21,23)と特記しています。この表現は、主の方がヨセフと共におられたと言う、主ご自身を主体として表現されていますが、いわばヨセフはいつどこにおいても主ご自身に見守られていたと言うことで、これほど「主と共にいる」ことが保証付きの幸いな人生はありません。ですからヨセフは、この主が共におられると言う恵みを存分かみしめていましたから、彼もまた「主と共に歩む」人生の重要性を深く認識して、彼の波乱に満ちた人生を常に共におられる主を仰ぎ望みながら、歩んだに違いありません。それゆえ彼の生涯上の最も重要な場面で、共におられる主を見失うことなく人生を歩み通して、遂には逆境の地エジプトで、エジプトの全土を支配する王に次ぐ宰相(顧問)の地位を占めるまでに至ったのでした(同45:8)。

 ですからお互いキリスト者の本分は、他ではないこの一事にあるのだと言っても過言ではありません。それにも拘わらず多くの人々がこの本分を離れ、それ以外の他の道を辿り主の祝福に与ろうと考えています。しかし、それは結局徒労に終わる以外の何ものでもありません。どうか愛兄姉方よ、この本分を忘れることなく、エノクやヨセフの如く、いつまでもどこまでも「主と共に歩む」一筋道を登って行こうではありませんか!

 

 

第2章 主と共に歩む生涯の究極の目標

                        G.サーバント

 

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キリスト者生涯の地上生活の究極の目標は、何でしょうか?それは「主の祈り」の冒頭で、「父よ、聖名が崇められますように!」と祈るように、「神の栄光のために生きる」ことであり、また「他者の祝福のために生きる」ことです。この二つは、実は最も重要な主の二つの戒めを満たすことに他なりません。それは主イエスが一人の律法の専門家の問いに答えて、「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタイ22:37~40)と言われたこの二つの戒めを満たすことになるからです。そうです、「聖名を崇める生き方」とは、「神を愛すること」であり、「他者を祝福する生き方」とは、「隣人を愛すること」に他なりません。実にこの地上に来られた神の御子、主イエスは、まさしくこの二つの戒めをご自身のうちに完全に実現されたお方でした。主は、父なる神を愛され、一人一人の人間をご自身の隣人として愛され、神の栄光のため、人々の救いと祝福のために、ご自身の尊い命を十字架の祭壇上に献げられたのでした。ここに主イエスの神と人間への完全な愛(アガペー)が、現わされていたのでした。

 

そのようにお互いキリスト者は、自らの生涯を通じて絶えずこの主の愛の戒めに歩み、主に倣い、神の栄光と人々の祝福に仕えることが大切です。これこそ究極の生涯上の目標であり、生きる目的でなければなりません。では果たしてどのようにしたらその目標・目的を果たすことが出来るのでしょうか。まさにこれは言うには易く、行うには難い事柄以外ではありません。しかしだからと言ってこの大切な目標・目的を喪失したり、それからそれてはならないのです。なぜならこれはお互いを神の子として下さった父なる神と御子主イエスのお互いに対するご希望であり、ご期待だからです。お互いはこれを裏切り、これを退けてはなりません。この神の子として下さった主の御愛に何としてもお応えしなければなりません。それではどうしたらよいのでしょうか。祈れば良いのでしょうか。もちろん祈らなければなりません。しかし、祈っているだけではいけません。そうです、主イエスに従い、主イエスに倣い、主と共に歩んで行けば良いのです。どこまでも、いつまでも、地上における生涯の最後の一息に至るまで、主イエスに従い、主イエスに倣い、主と共に進んで行けばよいのです。その時、共におられる主イエス・キリストご自身が、ご責任をもって私たちを導かれ、守ってくださるのです。主はその尊い命をもって救い、贖い、神の子として下さったお互いが、どこまでも主に従い、主イエスに倣い、主と共に歩むその心と生き様をお喜びになり、常に共におられて、見捨てることも、見放すこともしないばかりか、聖名の栄光にかけてお互いの生涯を保証し、全うさせて下さるのです。み言葉に次のように確約されているではありませんか!

 

「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。」(フィリピ2:13~16)と。

 

のみならず、実に素晴らしいことに努力や才能の如何に関わらず、主から寵愛されている神の子であるお互いは、主の愛の御心に従って、主に倣い、主と共に歩んで行来さえするならば、主の豊かな恵みと導きのもとに、いつしか主に似る者として頂けるのです。なぜなら使徒パウロがいみじくも「神は前もって知っておられた者(神の子)たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。」(ローマ8:29)と言っているように、お互いは既にそのようなものとして主から愛され、召されているからです。ですからヨハネもまたその手紙の中でこうも言っているのです。すなわち「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。」(Ⅰヨハネ3:2~3)とさえ記しているように、お互いは主イエスと共に歩んで行く内に、遂に主イエスに似る者としていただけるのです。何と言う驚くばかりの恵みでしょう!ですからいつでも、どこでも生涯の最後の一息に至るまで、主イエスを仰ぎ見、主をお慕いし、主イエスに従い、主イエスに倣い、主と共に歩む者であらせていただきましょう。その時、主のお約束の通りに、お互いは必ず地上生涯の究極の目標であり、生きる目的である「主の栄光のため、人々の祝福のため」に、また「神を愛し、隣人を愛する」生涯を生き抜くことが出来るのです。主の聖名をほめたたえましょう!ハレルヤ!

第1章 主と共に歩む生涯への召命と献身

                    G.サーバント

 

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「主イエスと共に歩きましょう、どこまでも」というかわいらしい「こども聖歌」がありますね。ご存知でしょう。小僕も昔、日曜学校や子供会でご奉仕していた頃、子供たちと一緒に楽しく、よく歌いました。爾来(じらい)、時々何かの折にこのこども聖歌の文句が脳裏によみがえって来て、ひとり口ずさむことがあります。まことにその通りだと思います。お互いキリスト者は、生涯の最後の一息に至るまで、主イエスに追従し、主と共に歩み続けるべきです。いつどこで何が起ころうと起こるまいとにかかわらず終始主に追従し、共に歩んでこそ真の主の弟子、つまり真のキリスト者にふさわしいお互いであることが出来るわけです。

 

しかし、お互いは何としばしば主から離れ、独り歩きしたり、主以外の人や物に心惹かれて、主を見失ってしまうことでしょう。まさしくお互いは、迷いやすい「羊」のようです。それなのになおも主は私ども一人一人を深く愛し、遠く彼方に迷い出たお互いをどこまでも捜し求めて見出し、救い出して下さるお方です。何と言う深い主の御愛でしょう。たといお互いが罪を犯し、主の御許から離れたとしても、それでも主はお互い一人一人をなおも愛されて、御許に導き返し、共にいることを喜ばれるお方です。有名なルカの福音書15章の「見失った羊」のたとえ話の中で、主はその御自身の御思いを次のように披歴しているではありませんか。

 

「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。」(ルカ15:4~6)と。

 

これはお互い一人一人を愛して、どこまでも共にいることを喜ばれる主のお心を言い表している、素晴らしい聖句だと思います。このように主がわたしたち一人一人と、かくまでも「共にいる」ことをこの上なく喜んでくださっていることを知りながら、あえてその主の御許を離れて、自らの好みに任せて自分勝手の道に踏み込んで行くということが、いかに罪深く、主を悲しめてしまう事であるかを思う時、断じて「主と共に歩むこと」を止めてはならないのです。

 

そもそもキリスト者生涯というものは、「主と共に歩む生涯」への「召命と献身」によって成り立っています。例えばその最も典型的な模範と実例は、主の最初の弟子となったペトロとアンデレ兄弟です。彼らはガリラヤ湖上で網を打ち、漁をしていました。その時、突然主イエスが湖畔から彼らに呼びかけて、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マタイ4:19)と言われたのでした。「わたしについて来なさい」と言ったこの言葉がけこそ、「主と共に歩む生涯への招き」つまり「召命」でした。それは「主イエスについて行くこと」つまり「主と共に歩むこと」により、「人間をとる漁師」すなわち「人間を救いに導くキリストの弟子」となることへのまさしく「召命」だったのです。

 

そこでこの「召命」に対してペトロとアンデレは、どのように応答したでしょうか。何と彼らは、その瞬間から「すぐに網を捨てて従った」(同20)のでした。これこそが主からの「召命」に対する彼らの応答としての「主への追従」つまり「献身」でした。まさにこの時が彼らの「主と共に歩む生涯への旅立ち」となったのでした。

 

しかし、この「主への追従」と「献身」の道、すなわち「主と共に歩む生涯への旅路」は、平坦な道ではありませんでした。険しい山あり、谷ありの苦難の道でもありました。ですからある時、主イエスは彼らにこう言われました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」(同16:24~25)と。

 

そうです。「主について行く道」つまり「主と共に歩む生涯」は、究極のところ愛と恵み、平安と喜び、勝利と栄光の満ち溢れた祝福への旅路であることは間違いありませんが、しかし、その途上には「自分の十字架を背負って」主イエスに追従し、歩んで行かなければならない苦難の茨道を突き進んで行かなければならない「献身」の道でもあるのです。

 

しかし、何と幸いなことでしょうか。「主について行く道」すなわち「主と共に歩む生涯」は、いうまでもなく「主が共におられる道」、「主が共に歩まれる生涯」そのものなのですから。愛と恵みに満ちたもう全能者なる神が、お互いと共におられ、共に歩んでいて下さる限り、たとえどんなに耐えがたいと思われる逆境や試練があったとしても、主は必ず共にいてその中からお互いを救い出し、お守りくださるのです。

 

旧約聖書の時代のヨセフは、新約時代の恵みや聖霊による絶大な恩寵については、いまだ与り知らなかったにもかかわらず、生涯自らと共におられる神の恵みを疑わず、如何なる逆境・試練の只中にあっても神を信頼し、耐え忍びました。そのような彼に対して主は、常に彼と共におられ、生涯彼を守り、祝福されました。ですから聖書は、こう記しています。「主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ。」(創39:2)。「主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれた」(同23)と。

 

また主はヨシュアにもこう言われた。「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄々しくあれ・・・うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。」(ヨシュア1:5、9)と。

 

ですからお互いキリスト者も、生涯変わらず、如何なる時も「主と共に歩む者」でありたいものです。 

 

 

 

さて、そこで既に記しましたように「主と共に歩む生涯」とは、とりもなおさず「主が共におられる生涯」以外の何ものでもありません。私どもキリスト者にとって、いやそれ以上にお互い人間にとって、創造主であり、全能者である神、主が共にいて下さると言う事に優って素晴らしい恵みが他にあるでしょうか。万物を創造し、かつ所有し、支配しておられる「主が共におられる」ならば、何一つ不可能はないわけです。人には出来ないことがあっても、神には何一つとして出来ないことはないからです。神は、万物の創造者であり、全能者でいらせられるのですから。

 

旧約の昔、アブラハムがまだ「アブラム」と呼ばれていた頃の事でした。アブラムには、サライという妻がいましたが、彼らには子供がいませんでした。既に86歳を迎えようとしていた彼は、どうしても子孫を残さなければなりませんでした。もはや子供をもうけるには不可能と言われるほどの年齢を迎えていた彼は、やむを得ず妻と相談して女奴隷のハガルとの間で子供を儲けようとしました。そこで生まれ出てきたのがイシュマエルです。しかし、神はこれを良しとはせず、彼が99歳の時に突然主は彼にご自身を現され、「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。わたしは、あなたとの間にわたしの契約を立て、あなたをますます増やすであろう。」(創17:1~2)と言われ、続いて更に「これがあなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。」(同4~5)と言われました。そして遂に主はアブラハムに、「あなたの妻サライは、名前をサライではなく、サラと呼びなさい。わたしは彼女を祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福し、諸国民の母とする。」(同15~16)とも言われたのでした。この後、三人の使いがアブラハムの許を訪ね、その旨を告げると物陰に隠れその話を傍受したサラが、思わずそんな筈があろうかと信じられずに「笑った」(同18:12)のでした。その時、主は即刻アブラハムにこう告げたのです。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。」(同13~14)と。はたせるかな、その翌年のそのころにアブラハムとサラの間に、息子イサクが生まれたのでした(同21:2)。

 

この時以来、いよいよアブラハムは自らの生涯を貫いて、神には何一つ不可能なことはなく、出来ないことは何一つないことを確信し続けるようになったのでした。のみならずこのアブラハムの信仰こそが、その後のすべての時代の、すべてのイスラエルの人々の「信仰の礎石(そせき)」となり、彼をして「信仰の父」と呼ばれる存在にしたのでした。ですからローマの信徒への手紙の中で、使徒パウロは、このアブラハムの信仰について、こう記しています。「彼はわたしたちすべての父です。「わたしはあなたを多くの民の父と定めた」と書いてあるとおりです。死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。」(ローマ4:16~21)と。

 

そうです。アブラハムの信仰とは、「神には不可能なことはない。主には何一つ出来ないことはない」という信仰でした。そもそもアブラハムが、「諸国民の父」となるとの神との契約を戴いた時、それに先立って主は彼にはっきりと「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。」(創17:1)と命じられたのでした。主は「全能の神」なのです。ですからアブラハムは、全生涯を掛けてこの「全能の神」、つまり「不可能のない、何一つ出来ないことのない神」を主と仰ぎ、生涯一筋にこのお方に従って、完全に歩むように主ご自身から求められていたのでした。実にこんな幸いなことはありません。まさに主からの「完全保証付の生涯への招き」です。これほどの行き届いた「祝福への招き」がどこにありましょうか。アブラハムは、この招きに完全に従ったのです。彼の耳元には生涯、常に「あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。」という主の御声が聞こえていたに違いありません。それゆえアブラハムは「諸国民の父」と呼ばれるに至ったばかりか、いやそれ以上に「信仰による義人」(ローマ4:3参照)とされたのでした。

 

このように「主と共に歩んだ」アブラハムには、常に「主が共におられ」彼を祝福されたのでした。それゆえ彼の生涯における如何なる困難事、不可能事があっても、彼は屈することなく前進し、遂にその生涯を全うすることが出来ました。ですから「主が共におられる」と言う事ぐらい素晴らしい「人生の祝福と保証」は、他にないのです。               

 

ところでアブラハムの生涯で、そもそも彼が主によってこの「主と共に歩む祝福の生涯」へと招かれたのは、いったいいつだったのでしょうか。それは彼がまだアブラハムではなく、「アブラム」と呼ばれていた頃のことでした。彼は父親のテラと共にカルデアのウルと言う地に住んでいました。年老いたテラは、妻の亡くなった後、息子アブラムとその妻サライ(後の名はサラ)、そしてアブラムの死んだ弟の息子ロトを連れて、長い間住み慣れたカルデアのウルの地を去り、カナン地方に移住することにしました。ところがその途上、ハランと言う地に暫く寄留している内に、テラは205歳の生涯を終えて亡くなってしまいました(創世記11:31~32)。

 

そこで主はアブラムに言われました。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る。」(同12:1~3)と。実に、この言葉こそアブラムを多くの人々の中から選び出し、祝福し、尊い使命を与えて用いようとされたアブラムと「共におられる主」の、彼に対する「召命の言葉」でした。この時、アブラムは何一つ躊躇することなくこの「主の言葉に従って旅立った」(同4)のでした。それはアブラム75歳の時の出来事でした。ヘブライ人への手紙の筆者は、この時のアブラム(アブラハム)の信仰を称讃して、「信仰によって、アブラハムは・・・これに服従し、行き先も知らずに出発した」(ヘブライ11:8)と記しています。

 

しかし、それから24年後の彼の99歳の時のことでした。主は、アブラムが全生涯を通じて「共におられる主」に全く従い続け、全能の主と共に歩み、その約束の大いなる祝福を受け継ぎ、永遠に至るまで、全世界万民の祝福の基となって欲しいと願われました。そこで主は彼に更に次のように言われました。「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。わたしは、あなたとの間にわたしの契約を立て、あなたをますます増やすであろう。」(創世記17:1~2)と。のみならず続いてこうも言われたのでした。「これがあなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。・・・それを永遠の契約とする。」(同4~5、7)と。

 

これはまさしくアブラムの「共におられる主」に対に対する追従が、決して中途半端なものではなく、どこまでも完全かつ徹底的服従を伴うものであってほしかったからです。これは「共におられる主」に対する彼の「全き献身」、「全的献身」を、主が彼に要請されたものでした。なぜなら彼がその大いなる祝福を主から受け継ぎ、全世界万民の祝福の基となる尊い使命を遂行するためには、これが不可欠な要件であったからでした。この時、アブラムは、主の御前にひれ伏して、この「全き献身」の要請に応諾しました(同17:3参照)。

 

この瞬間から「アブラム」の名は、「アブラハム」と改称され、かつアブラハムはその「共におられる主」への「全き献身」の証明として、主から「割礼」を拝受したのでした。ですからこの「割礼」こそ、「共におられる主」とアブラハムとの間に取り交わされた「全き献身契約」に対する、まさに「神的調印」を意味していたと言っても過言ではありません。

 

のみならずこのアブラハムの「全き献身」が見事に開花し、結実したのは、彼の生涯上のクライマックスの出来事と言っても過言でない、かのモリヤ山の頂で彼の最愛の独り息子イサクを、神への生け贄として主の祭壇に献げると言う、極めて厳かな出来事が起こった時のことでした。主は、突然アブラハムに「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」(同22:2)と命じなさいました。こんな惨い不合理な神の要請を、いったい誰が受け入れることが出来るでしょうか。ましておや自分の命よりも優り寵愛していた息子を、誰がどうして応諾できるでしょうか。しかし、アブラハムは何もかもご存知の全能の神であり、しかも何事をも最善以外に成し給わない「共におられる主」が、アブラハムにあえてこれを要請されたのでした。アブラハムは、既にその主に「全き献身」、「全的献身」をした「主の従僕(じゅうぼく)」でした。そこでアブラハムは、主の御心の最善を信じて、直ちに服従し、イサクを連れてモリヤの山に向かいました。ついに目的地に到着した彼は祭壇を築き、燔祭(はんさい)に小羊の代わりに自分の最愛の息子イサクを縛って、祭壇の薪の上に載せました。そして手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとして、まさに刃物を振り下ろそうとしました(同9~10参照)。その瞬間、主は御使いを通してこう言われました。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」(同12)と。

 

かくしてアブラハムは、見事に主の御声に聞き従い、「全き献身」、「全的献身」を全うしたのでした。そこでこの場所が、末代まで未来永劫に亘り、「ヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)」とか「イエラエ(主の山に、備えあり)」(同14)と呼ばれる記念すべき聖なる場となりました。

 

かくしてアブラハムは、「共におられる主」に召され、選ばれ、かつその召された目的と使命をことごとく「全き献身」をもって全うしたのでした。そこでお互いもこのアブラハムのように「共におられる主」に愛され、選ばれ、召された者として、全生涯に亘り、主の御前に「全き献身」、「全的献身」をもって、服従し忠実なキリスト者でありたいものです。              

序 「主と共に歩む生涯への召命と献身」

                      G.サーバント

 

 

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この一文は、主としてキリスト者の方々のために書き下ろした小論です。ですから何よりもキリスト者である皆様に、是非とも愛読して頂けたら幸いです。しかし、同時にそれ以外の一般の皆様にも、是非読んでいただけたら光栄です。なぜならキリスト者のために書かれたと言っても、決してキリスト者でなければ理解できないとか、役立たないと言うものではありません。お互いが人間として、まさに正しく、聖く、幸せにその生涯を、つまり「人生」を過ごして行きたいと望まれるならば、必ずどなたも同感し納得して頂けると確信しています。

 

にもかかわらずあえてキリスト者の方々にと記しましたことには、いささか訳があるのです。その訳と言うのは筆者が長い間半世紀以上にも亘って牧師を務めて来て、今更のようにつくづくと思わされたことがあったからです。それは他でもない、何と多くのキリスト者が、これから以下に書き記すような最も大切にして基本的なキリスト者としての考え方と生き方を、喪失してしまっているままで生活しているかに気付かされたからです。これは実に悲しい事でもあり、またショッキングなことでもあるのです。

 

そもそも「キリスト者」とは、「キリストに属する者」とか、「キリストに組する仲間」と言う意味で、寝ても覚めてもキリストと共に歩み、何事につけても万事キリストでなければ夜も日も明けないと言うほど「キリストかぶれ」している人のことを言うのです。こうした人々のことを初代教会時代の世間の人々は、彼らを揶揄(やゆ)して「キリスト野郎」(使徒11:26『キリスト者』、『クリスチャン』)と呼ぶようになりました。ですから彼らは常に、どこにあっても「キリストと共に、キリストに倣って」生き、かつ歩んでいて然るべき者たちだったのです。ところが今日、キリスト者の中で本気・本音で「キリストかぶれ」して、「キリストと共に、キリストに倣って」よくよくその言行に注意深く生活している人が、どれほどいるでしょうか。自分をも含めて、決して他人ごとではなく、深く反省させられています。

 

この点において紛れもなく第一人者は、使徒パウロではなかったでしょうか。彼は、「生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」(フィリピ1:20~21)と言い、また「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラ2:20)ときっぱりと言い放っています。何と素晴らしい晴天白日の心意気でしょうか!彼の心には何一つ心残りの物はなく、まさに何ものにも優って尊いキリストで、その心は満たされ切っていたのです。ですから彼はこうも言いました。「しかし,わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見做すようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです」(フィリピ3:7~9)と。

 

ですからまさしく使徒パウロは、骨の髄までキリストが浸み込み、「キリスト漬け」になっていた正真正銘の真の「キリスト者」だったと言えます。遂に彼は次のような言葉をもって聖なる自己主張をしています。「これからは、だれもわたしを煩わせないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです」(ガラ6:17)と。

 

そもそもこの「焼き印」とは、当時の奴隷たちが自らを買い取った主人の「所有物」であることを、他者に向かって表明するための目印でした。それゆえ奴隷にはもはや自己の願望や主張をする自由はありませんでした。ただ彼らに許されていた一事は、「常に主人と共にいて、主人の意のままに、主人の望むように生きること」でした。そのように使徒パウロは、あえて自らを「キリストの囚人(奴隷)」(エフェソ3:1、4:1、Ⅰテモテ1:8、フィレモン1:1)と呼び、自らは尊いキリストの十字架の死の代価を払って買い取られたキリストの「奴隷」であることに甘んじたのでした。なぜならこの世の主人に帰属する「奴隷」は、「不幸」そのものですが、キリストに帰属する「奴隷」は「光栄」であり、キリストと共に、神の聖き御心に従って生き、「キリストに倣い、キリストのように」神に栄光を帰す聖なる生涯を全うすることが出来るからです。そしてその自らの内には聖霊が宿り、自らは聖霊の盈満(えいまん)する神の「神殿」としての役割を果たすことが出来るようになるからです(Ⅰコリ6:19~20参照)。

 

そこでお互いも使徒パウロの生き様に倣って、「主と共に、主イエスに倣って」生き、かつ歩む者となるために、今ひとたび深く自分自身を反省吟味し、御言葉を学び直してみようではありませんか!

第10章 「愛(アガペー)による全面受容と心の癒しへの道」の結び

                      G.サーバント

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さて、遂に心傷つき病んでいる「ウルトラ良い子」の癒しのために共に学んでまいりましたも、これをもって不十分ながら結ぶこととなりました。ケアーに当たるご両親やワーカーの読者の皆様にとって、少しでも役立つことが出来たとしたら幸いです。何よりも本書が心傷つき病んで苦悩してきた当該の「ウルトラ良い子」たちの癒しのために役立ったとしたら、これほど筆者にとって大きな喜びはありません。

 

そこで今終わるに当たってどうしても書き記しておきたい幾つかの重要事があります。その重要事について以下に順次、記して終わりたいと思います。

 

まず第一に、筆者は一介の宗教者、つまりキリスト教会の牧師であって、決して心理学者でも、ましておや精神医学者でもありません。しかもキリスト教会における神学者でもありません。ただ、半世紀以上の永きにわたって教会の牧会に当たり、とりわけ本書において書き記して来ましたような心傷つき病み、かつ苦悩する「ウルトラ良い子」とその家族たちの痛ましいほどの現実に直面し、ひたすら祈り、聖書の教える主イエス・キリストの愛による癒しの真理を深く掘り下げ、学んでくるその過程で実践してきた牧会カウンセリングと奉仕活動を通じて、多様かつ無数のクライアントの痛みと叫びを見聞きする中から習得してきた神からの「恵みの知恵」もしくは「体験的・実践的・臨床的真理」を、ここにまとめ上げてみたものでした。

 

第二に、ですから本書は、その基盤と本質を何と言っても聖書の全巻的教えの上に据え、とりわけ聖書全巻を貫いて流れる大河の流れのような神の愛(アガペー)に置いています。それゆえ本書において解き明かしてきた「アガペーによる全面受容の癒しの法則」は、当然ながら心理学的でもなく、もちろん医学的でもなく、あくまでも聖書的、つまりキリスト教的かつ霊的牧会ケアーの原理なのです。それを出来る限り宗教性や信仰という次元で論ぜず、普遍的一般的次元に置き換えて適用可能なものとして解説したものです。もとより真理は普遍だからです。

 

第三に、本書の冒頭の序言においても記しましたように、筆者はキリスト教の牧師になってからすでに54年になりますが、不思議な導きの許でその当初からこのような癒しのミニストリーに携わるようになり、今日までに実に多くの心傷つき、病み苦悩してきた多様なケースのクライアントと共に歩んでまいりました。そうした中で途上の多くの試行錯誤やまた数多くの失敗や敗北と思われる悲しい経験を繰り返しつつ、遂に辿り着いた普遍の癒しの真理、根本原理と言うべきものが、「アガペーによる全面受容の癒しの道」であったのです。しかもこの道は、単に「道」と言うよりも「愛の原理」であり、筆者はこれをあえて「法則」と呼ぶことにしたのでした。「法則」なのですから、これに従ってケアーに当たるならば、いつ、だれが、どこで行っても、洋の東西を問わず、人種の如何に関わらず、必ず例外なく癒しに辿り着くことが出来るわけです。筆者は、この貴重な体験と確信に過去の数多くの臨床例と実績を通して、行き着くことが出来たのでした。これは単なる特定の誰かに与えられた「個人的賜物」と言うべきものではなく、万民に与えられている「普遍的法則」と言っても過言ではありません。だから「アガペーによる全面受容のあるところには、必ず癒しが起こる」と声を大にして断言することをはばかりません。

 

第四に、ここで「癒し」と言うのは、いわゆる「医学的な癒し」を意味してはいません。ここで言う「癒し」とは、「心穏やかに愛のケアーの中で、麗しい人間関係を結びながら、尊い固有の人生を生き抜くことの出来る人間となること」を意味します。そこには生涯身に負わなければならないある種のハンデがあったとしても、それはその人の人間としての尊厳を何一つとして失せるものでは断じてないのです。むしろそのハンデがあることによって、にもかかわらず懸命に生き抜くその姿、その生き様にこそ、かえってその人の人生が輝くのですから。

 

第五に、この「癒しへの道程(みちのり)」は、当然のことながら個々人によって異なります。しかも、すでに何度も前述してきたように、ある人の場合はまさに奇跡と言えるほど速やかに癒しが実現する場合もあれば、しかしある人の場合は相当の長い年月を費やさなければならない事もあります。それはその癒しを必要としている人の病める度合いや、その身に負っている症状の性質の如何(いかん)によるのです。しかしながらたとえ後者の場合であったとしても、決していたずらに嘆いたり失望したりする必要は全くありません。そうです、すでに繰り返し学んできたように「癒しの螺旋階段」を確実に上っているのですから。しかもそこには他者には到底気付いてはもらえないかもしれない、当事者のみが味わうことの出来る「途上の慰めと喜び、そして希望」が与えられるからです。それは以前の最も厳しく、苦しかった時には経験することのできなかったものでした。それゆえ決して中途で挫折せず、なおも「癒しの螺旋階段」を上り続けたいものです。そうすれば遂には心傷つき病める者と共に、そのケアーに従事した両親や関係者も共々に、愛によって築かれた美しい人間関係の頂(いただき)を極めることが出来るのです。その間に流した涙も、担った労苦も、如何(いか)なる犠牲も、何一つ無駄になることはないのです。そこで筆者は、こう激励したいのです。 「真に美しく幸せな人間関係の頂(いただき)に立つために、『愛による癒しの螺旋階段』を上り続けよう!そこに真の癒しが待っている!」と。

 

第六に、この「アガペーによる全面受容の癒しへの道」と言う真理・原理・法則は、如何なる人間も神の深い愛の御心の内にあって誕生し、たとえ先天的などんなハンディキャップをもって生れて来たとしても、本質的には何ら人間としての尊厳に目減りがあるわけではないと言う確信の上に築かれている論理です。もとよりのこと神が最善以外の何事もなさらず、また何ものをも創造されず、ましておや聖書が明記しているように人間は「神に似る者」(創世記1:26~27参照)として創造された尊い存在なのですから、誕生してきた人間は一人残らずすべて尊い価値ある存在以外の何ものでもなく、誰一人としてその尊厳性において遜色のある者はおりません。この点に関しては本文の最初からすでに強調してきましたが、今ひとたびこの終わりにおいても強調しておきたいと思います。ですからその一人一人に与えられた個性と人格は、どこまでも尊重され、絶対的に肯定されなければなりません。諸悪の根源は、すでにこれまたくどいほど論じてきたように「世俗的価値観」にあります。この「世俗的価値観」と言う悪しき枠組みの下で、お互いが人間評価をするところから、この本質的に最善以外ではない人間の尊厳や個性、人格が傷つけられ、抑圧され、更には否定されるまでに至ってしまったのです。ですからその「癒しの道」は、徹頭徹尾その癒されなければならない一人一人の人間の尊厳、個性、人格をとことん尊重し、「絶対肯定」するところに、「不動の大前提」を置かなければなりません。この大前提の崩れたところでは、絶対に真の癒しは生み出されず、促進しません。その反対に、この大前提が崩れず、持続し、その上に固く立ち、「アガペーによる全面受容」をもってケアーに当たる時、癒されなければならない相手と必ず心が繋がり、その癒しが功を奏すると言って過言ではありません。これが筆者の確信です。

 

第七に、これは蛇足のようなことかもしれませんが、この「アガペーによる全面受容の癒しの道」は、その癒しの道に従事する両親はじめケアーに当たる関係者が、常により謙虚で真実な心と姿勢をもって、愛と祈りの内に事に当たらなければならない極めて大切な一筋の道であると言えましょう。と言うのは如何に、「この道を行くならば必ず癒しに辿り着くことが出来る」と確信したとしても、それが「“自分”はここまでアガペーしているのだから、子供は絶対に癒されないはずがない。だから“自分”には自信がある。“自分”は必ずやり遂げてみせる」と言うような強い自負心を抱くようになってしまったとするならば、それは「行き過ぎた確信」と言うもので、これはもはや「傲慢」に他なりません。この傲慢さが、癒されなければならない相手に対して、新たなストレスを与えるようにもなりかねません。またその反対に、一見より謙虚な心と姿勢に見えるかもしれませんが、ある方々は途上で我が子が心傷つき病んでしまったのは、自分が極度な世俗的価値観を押し付けてしまったからだと気付かされ、深く心から悔い改め、謙虚に相手に謝罪するまでは良かったのですが、それが今度は受容するのがこの「自己の罪責感から出た我が子に対する償いの業としての受容」と言う事になってしまうと、これまた「行き過ぎた罪責感」となり、これは謙虚・真実とは異質の「自己卑下と隷従」に脱してしまう危険を冒します。こうした場合が、しばしば「アガペーによる全面受容」とは似て非なるいわゆる「共依存」を生み出してしまうのです。ここには決して人間の本質と尊厳に深く根差した相互信頼は造成されず、本来あるべき美しい人間関係や人間性の構築は起こり得ないと言えましょう。

 

そこで最後の第八として、あえてこの一事をここに記して結びたいと思います。それは「祈り」と言う事です。「祈り」とは、人間が人間自身の力や知恵によってはどうすることもできない人生の重大事・重要事に対して、目に見えない人知を遥かに超えた聖なる大いなる存在に対して、その助けを求めて心からより頼む願いや叫び、また感謝や讃美、時には会話を意味しています。「愛は祈り、祈りは愛を深める」と言われていますが、愛する者が死に直面したり、重大な事柄で悩んでいる時、自分たちの知恵や力では如何ともし難い時に、お互いは思わずその愛が祈り心に変わることを、体験したことがないでしょうか。そして祈るうちに相互の内に働き、相互の間に通う愛がより深くなるのを覚えたことがなかったでしょうか。

 

ましておや本書で学んできた「アガぺ—」と言う究極の愛は、もとより聖書が指し示している天地万物の創造者にして人間の創造者でもある神の本質である聖なる愛に基づくものでもあるので、「愛と祈り」は、深い関わりの中に置かれています。そして「祈り」は、単に人間の願望・欲求を満たすための大いなる方に対する嘆願と言うような、ご利益主義的な祈願とは無縁のものです。「祈り」は、愛と真実と謙遜な心より発せられた、大いなる方の聖き御心に適った無欲な「聖願」です。このような「聖願」であってこそ、人の心、とりわけ心傷つき病めるウルトラ良い子の心を動かし、大いなる方の御心に適い人知を遥かに超えた奇跡とさえ思われる不思議な良き結果に巡り合うことが出来るのです。これこそ愛と真実と謙遜をもって人生を生き抜く聖き人間だけが見いだすことの出来る人生の秘儀・奥義、さらには人生の至高の境地・醍醐味とでも言えましょう。そうです、「アガペーによる全面受容の癒しの道(法則)」に従事する者のためには、究極この「祈り」が不可欠と言えましょう。最後の今一度申し上げましょう。

 

「愛(アガペー)は祈り、祈りは愛(アガペー)を深める!」と。

 

 

<付記>

 以上、随分長きに亘って「アガペーによる全面受容と心の癒しへの道」について記して来ましたが、既にこれをお読みになり、おそらく多くの方々が、いったいこのような「癒しへの道」を筆者である小僕以外に誰が唱え、誰がこのような言説を主張しているのだろうかと思われたに違いありません。それはまさしく当然と思います。なぜならこれまた既に折々記し、また語ってきましたように、私自身がどなたか特定の専門家や研究者の論説に教えられ、それに範(はん)をとって記したり、語ったりしたものでは全くなかったからです。もちろんそうした専門家や研究者、医者や学者の方々の書物や言説に多くを学び、教えられて来たことは言うまでもありません。また多くの宗教家や神学者の書物や言説からも学ばせて頂きました。そうしたことを基盤に据えて長年、いや生涯を通じて教会の一牧師として心と体と霊魂の全人的ケアーに当たる中で、試行錯誤や時には失敗をも繰り返しながら、これまた先にも述べましたように心傷つき悩む人々に寄り添い、共に苦闘しながら歩んでくる中で、祈りの内に示され、聖書に教えられ、実践してくる中で体験して来た、いわば霊的体験知の集積なのです。ですからそれは一つの仮説にすぎないと一笑に付されても仕方がないわけです。しかし、そうしたことを充分わきまえつつも、あえて恥も外聞もかなぐり捨てて、あざけ笑われ、袋叩きにあっても、この長い間自らも体験し、癒された多くの悩める人々の存在とその喜びを思う時、記し語らざるを得なかったのです。

 その上、本書において終始くどいほどこだわりながら述べて来た「ウルトラ良い子論」並びに「アガペーによる全面受容の癒しとその王道と法則」は、ユニークな一見偏ったようにも思われる論説ですが、小僕はあえてこれこそ多くの人々によって見落とされてきた最も重要な奥義を物語るものとして、世に公にすることを決意したのでした。このような人間の本質の中に深く根差した、単なる精神医学的及び心理学的な「病的治療としての癒し」ではなく、人間性の本質に根ざした「真の人間性回復並びに人間関係復元の結果としての癒し」こそ、現代社会が最も求め必要としていた「癒しの道」であると、強く確信させられたからです。この事柄の真偽は、今後大いに専門家や研究者の方々の正しいご判断にお委ねすることにして、これに共感し、自らこの「癒しの王道と法則」に則って実践してみようと、心底思われる方々がおられるなら自己責任をもって、本気で実践してみて頂きたいのです。事実そうした方々によって、どれだけ多くの「癒される道なし」、「改善の余地なし」、「生涯変わることがない」と諦めていた人々とその家庭に、希望と慰めと癒し、そして何よりも喜びと幸せな人間関係と愛に満ち溢れた家庭生活が訪れて来たことでしょう。是非それを皆さんにも、確実に体験してほしいのです。

 ましておやこれは単なる理想論を述べたものでは、絶対にありません。本気でこの道筋に従って歩まれ、実践された多くの方々並びにその家庭において体験された喜びの証しが、その現実性を立証し、裏付けてくれています。ですから実験済み、体験済みのお墨付きの論説なのです。この事を実践するために失うものは何一つありません。取り返すことの出来ない、引き返すこの出来ない損失は、皆無と言って良いでしょう。あえて失うものがあるとするならば、その考え方や、その生き方を引きずっていたならば、絶対に改善されない、癒されることはないであろうと言い切ることのできるような悪い考え方や生き方が、各人の内から取り去られること以外ではありません。これは損失ではなく、大なる祝福の獲得になります。ですから是非、この道筋に従って歩み出してみて下さい。希望を抱いて、勇気をもって実践してみてください。

 最後にまたしても繰り返し申し上げたいと思います。この「アガペーによる全面受容と心の癒しの道」は、決して単なる方法論やテクニックを教示したノウハウ本ではないと言う事です。本書は、真の人間性の本質にお互いを立ち帰らせ、真の人間関係をそこに築き上げて行かせるための「深みの人間性修得」もしくは「真の人間性復元」の書です。ですから本書に従って「癒しの道」を歩み出した者は、何よりも先ず癒しの働きに従事するお互い自身の考え方、生き方、つまり人間性を真の人間の本質に従って復元しなければなりません。「医者よ、まず自らを癒せ」と言う言葉がありますが、本書に従って「心傷つき病んでいるウルトラ良い子」を癒そうと望むなら、まず癒す側の自らの人間性を癒し、修復しなければなりません。そしてその癒された真の人間性をもって癒しを必要としている相手のケアーに当たる時、その相手の内に癒しが促進されることを思うと、これはあくまでも単なる方法論やテクニックでは断じてなく、癒しに従事する者と癒しを必要としている者の双方の人間性そのものの変革に本質があるのだと言う事を、最後にもう一度力説して、稿を結びたいと思います。

 

第9章 「ウルトラ良い子」の癒しのための愛の共同体としてのアガペー・ファミリー

                    G.サーバント

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さて、最後に「ウルトラ良い子」の癒しのために極めて重要な役割を果たしてきた共同体があります。それは「ウルトラ良い子」の癒しのために日夜労苦する「愛の学習塾」に身を置く人々、すなわちそれは主に母親たちですが、この彼女たちが「愛の学習塾」やそこでのセミナーを越えて、日々の日常生活の只中に在って常に連携し、連絡を取り合い、交流し、そこで生まれた強い愛によって結ばれた「愛の共同体」であって、これを小僕は「アガペー・ファミリー」と呼んでいます。この「アガペー・ファミリー」の存在は、今や肉親の家族に優る強い愛の絆で結ばれている共同体で、彼女たちは同じ苦悩体験を共通の基盤としてその上に築かれ結ばれた心と人生の同伴者たちでもあって、まさにこの点に関しては“家族以上の家族”であり、実によく心を通わせ、また共に苦悩を分かち合う、それゆえその結果として子供の癒しの大きな喜びをも共に分かち合うことのできる最良の仲間たちなのです。

 

そこで以下においてこの「アガペー・ファミリー」の素晴らしい存在意義について簡潔に述べておきましょう。

 

1、孤独感・孤立感から解放してくれる「愛のスクラム

心傷つき病んでしまった「ウルトラ良い子」を持つ母親たちは、誰しもが強い孤独感・孤立感にさいなまれることがあります。他者と交わることもままならず、時には病める子供が、片時も離れず側で付き添うように要求するため、母親たちはあたかも助けを求める如何なる人々からも引き離され、幽閉された者のように孤立させられてしまうのです。のみならず仮に他者に相談してみても深い同情をかうことは出来たとしても、所詮一向に解決にはつながらないことがほとんどで、結局はまたしても孤立する以外にないのです。その時の悲しさ寂しさ、孤独感は以前にも増さるものがあります。

しかし、このような母親たちにとって「アガペー・ファミリー」は決してそうではありません。このような日々厳しい境遇にあるお互い同士がAFCCを通じて固く結ばれ、結束し、しっかりと「愛のスクラム」を組んで共闘する時、たとえ互いに空間的には離れていても、その空間を超越して互いに祈り合い支え合う時、「決して自分はひとりぼっちではない、自分には強い味方、いつも共に歩むファミリーがいる」と言う思いを強く抱くことが出来るのです。ましておや、今やITの時代を迎えて携帯電話やメール、ラインその他の豊富なSNSを用いて、しかも映像入りで交信することが出来るので、以前にはるかに優って心強いわけです。ですからこのように「愛のスクラム」を組むことによって「アガペー・ファミリー」の存在は、見事に孤独感や孤立感からお互いを解放し、生き抜く力を与えてくれるわけです。

 

2、体験の共有と癒しの進捗状況を知る「愛のバロメーター」

次に「アガペー・ファミリー」は、お互いの辿ってきた過去の体験をはじめとする日々の体験、極論するならば時々刻々の経験を互いに分かち合うことのできる共同体です。ですから他者が体験した過去の体験や今の体験は、自分が今体験している事柄がどのような意味を持っているのかを知ることの出来るバロメーターになり、その逆に自分が経験したことはまだその経験をしたことのない人々のために、これまた良きバロメーターともなるわけです。ここではこうした体験を相互に分かち合うことにより、子供の癒しのための指針を見いだすことが出来ると共に、その癒しの進捗状況をつかむことが出来ます。つまり自分が今経験している状況が、果たしてどのような状態であるのか皆目わからず不安を覚えているようなときに、「アガペー・ファミリー」の先輩に相談するなら、直ちにその先輩が以前全く同じような状況にあったことがあり、その時どのように対処しその状態を克服したかを話してくれることにより、我が子の癒しのための具体的な指針をつかみ取ることが出来ます。のみならずその癒しの進捗状況も確認することが出来ます。これはただ一人でいたずらに悩んでいた母親にとって、どんなにか慰めとなり、励ましとなることでしょう。ですから「アガペー・ファミリー」の存在は癒しの状況やその進捗状態を確認するための「愛のバロメーター」の役割をも果たしてくれていると共に、大きな慰めと励ましの存在でもあるのです。何とありがたい存在でしょうか! 

 

3、先を読む

 心傷つき病んでいる「ウルトラ良い子」のケアーに当たる両親やワーカーにとって、「アガペー・ファミリー」の存在は、何とありがたい存在でしょう。その最たる幸いの一つは、何と言っても“先を読む”ことが出来ることではないでしょうか。とかくケアーに当たるお互いがまだ未経験であり、かつ、また、たった一人で孤軍奮闘している場合には、今まさに直面している問題を如何に解決して行ったら良いのか、またその先はどうなってしまうのか皆目先を読むことが出来ず、それゆえなお一層不安が増し、苦悩が深まってしまいます。しかし、同じ問題と悩みを抱え、既にそれを越えて解決してきた先輩たちや仲間が多数いる「アガペー・ファミリー」においては、互いのそれらの経験を親しく分かち合うことによって、「先を読む」ことが出来ます。今こう対処したら次にはこのような道を講ずれば良いとか、もしもその道が不発に終わっても、その場合はこう対処すれば乗り切ることが出来るとか、その行く先が見え易くなり、心にいたずらに不安や迷いを持つことがなく、心安らかにケアーに当たることが出来ます。行く先が読めるか読めないかでは、同じ問題や悩みに遭遇していても、俄然(がぜん)そのための解決への速度が違ってきます。前者では早く、後者では当然遅くなります。のみならずその間に費やすエネルギーは、前者では軽微で、後者では甚大です、そしてその間に受けるストレスも前者は少なく、後者は大なるものがあります。ですから「先を読めるか、読めないか」は、ケアーするにあたって極めて重要な事柄なのです。ですから愛の共同体である「アガペー・ファミリー」の存在とその交わりの輪の中に身を置くことが、如何に幸いであるかが、よくよくお分かりいただけると思います。

 

4、とりなしの祈りと支え合い

~共に泣き、共に笑う「アガペー・ファミリー」の恵み~

そして更に幸いなことは、互いに“とりなし合い”、“支え合う”ことが出来ると言うことです。とくにクリスチャンである場合には、互いに相手のために“祈り合う”ことが出来ます。これを「とりなしの祈り」と言います。これは大きな慰めとなり、励ましとなり、助けとなります。そして心に不思議な大きな安息をもたらしてくれます。しかし、クリスチャンでない方々でも、今ファミリーの内の誰かが大きな困難や苦しみに直面していることを知ったとするなら、思わずその相手のために見えざる大いなる存在である神に向かって慰めや癒し、折に適った助けがあるように、心から念ずるものがあるのではないでしょうか。このような相手を思いやる温かい思い、熱い心は必ず相手に通じ、また天にも通じるものです。こうした関係を、“とりなしの祈り”の関係と呼んでいます。「アガペー・ファミリー」の中に身を置くことによって、お互いはこの「とりなしの祈り」によって互いに強く「支え合う」ことが出来るのです。もしお互いの力や知恵に限界を感じることがあってもこの「とりなし合い、支え合う」ことによって不思議と守られ、その限界と思えたことでさえ乗り越えることができるのです。人生にはこのような素晴らしい出来事がどれほど多くあることでしょう。これこそ個々人の持つ個人的な力や知恵を遥かに超えた“関係の生み出す不思議な力”、「ファミリーの威力」とでも言ったなら良いのでしょう。そこでこうすることによってケアーにあたるお互いが、“喜びも悲しみも”、そして人生の如何なる難局も、すべて共に分かち合うことの出来るこうした仲間、まさに“愛のファミリー”の存在のゆえに、“共に泣き、共に笑う癒しへの旅路”を、その途上での一切の困難・苦悩・悲しみ・痛みをも越えて、遂にゴールまで歩み続けることが出来るのです。これを“共に泣き、共に笑う「アガペー・ファミリー」の恵み”と呼びたいと思います。

                                                                                                                        (続く)

 

第8章 「アガペーによる全面受容」を実現するための愛の学習塾

                              G.サーバント

 

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以前より「アガペーによる全面受容の癒しの道」について、共に学んでまいりましたが、間もなくするとこの一連の学びも終わりを迎えます。そこで本書を結ぶにあたってなお二つの点について言及し,本稿を結びたいと思います。

 

その二つとは、第一にアガペーによる全面受容を実現するための“愛の学習塾”としての「アガペー・ファミリー・ケアー・センター」の存在についてです。第二は、「ウルトラ良い子」の癒しのための“愛の共同体”としての「アガペー・ファミリー」の存在についてです。この二つのものの存在は、「アガペーによる全面受容」を成功させて行くために大変有益であり、かつ不可欠と言ってもよいほどに皆様にとって役立つ存在だからです。では以下に順次この二点について説明しておきましょう。

 

Ⅰ、「アガペーによる全面受容」を実現するための“愛の学習塾”

 

この学習塾を通常「アガペー・ファミリー・ケアー・センター」(略称AFCC)と呼んでいます。ここでは月例のカウンセリング・セミナーが持たれています。午前中は学習講座が持たれ、昼食時はメンバーたちが会食を共にしながら互いの体験を分かち合い、午後は「グループ・カウンセリング」と言って、順番に午前中の講義の内容に関する質疑応答がなされ、更に今直面している問題・課題についての報告が行われ、続いてこれに対する適切なアドバイスがなされます。そしてこの学習塾の存在には、概ね以下のような重要な意義と目的がそこにあるのです。

 

① 継続学習・反復学習の必要性

先ず第一は、継続学習・反復学習の必要性です。心傷つき病んでしまった「ウルトラ良い子」の癒しのためには、長い癒しの期間が必要です。また一度や二度学んだからと言って「アガペー」が身に付くわけではありません。のみならず知識としてそれを理解し、知ったからと言っても、それはあくまでも単に観念的知識に過ぎず、一つの方法論を学んで対処療法を試みることに過ぎません。しかし。真の「アガペーによる全面受容」は、すでに学んで来たように単なる方法論や対処療法の一つではなく、受容者の人格的、本質的、根本的な人間性もしくはその性質の変革から生み出されるものなのです。つまりその人の考え方、価値観、人生観、そしてその性質が「アガペー化」されたところから発信された新しくその人の内から溢れ出た「人格的アガペー」が、その子供を癒して行くのです。これは一朝一夕で決して身に付くものではありません。繰り返し、繰り返しの反復学習によって吟味して行かなければなりません。少しばかり成長し、身に付いたと気を良くしていると、すぐに後戻りしたり、またアガペーしているつもりが、いつしかそれが風化してしまったりするものなのです。こうしたことを予防し、「アガペー化」を深めるために大いに必要かつ役立つのが、AFCCによる継続学習・反復学習なのです。これによって毎月々自己点検し、新鮮な刺激と活力を得て、受容の濃度を増し加え、着実に「アガペーによる全面受容」を深めて行くことができるからです。まさに「継続・反復は力」です。

 

② 反省と改善

第二に、お互いは常に「反省と改善」が必要です。自分一人で懸命に努力していても、所詮独りよがりになり易いものです。のみならずただ一人で孤軍奮闘しているだけでは、いたずらに労苦だけが重なり、疲れ果て意気阻喪してしまいがちです。そればかりではなくあまり成果が上がらず、何か堂々巡りばかりしているかに思われ、「アガペーによる全面受容」に失望を覚えたり、疑問を感じたりしてしまうことも起こってきます。何よりも自分のアガペーの仕方に過ちや不十分さがあってもそれに一向に気付かないまま、時間ばかりがむなしく経過してしまうことになるのです。しかし、月例のセミナー(学習塾)に身を置くことにより、その都度自己点検をすることが出来、必要な反省と改善を図ることが出来ます。単なる反省だけでなく、明白に過ちや失敗点を認識することによって、二度と同じ過ちを繰り返すことがないようそこにしっかりと楔(くさび)を打ちこむことが出来、それを足場に更に上に上ることが出来るようになります。まさに「失敗は成功の素」になるのです。また当然のことながらそこから更なる良き積極的な改善がなされ、「アガペーによる全面受容」がいよいよ本格的に稼働して行くことになるのです。これもまたAFCCへの継続受講の意義と目的であり、これまた受講の恵みと言えましょう。

 

③確認と確信

第三に、この月例の学習塾でお互いが共に学び続けることにより、月毎に自らの「アガペーによる全面受容」が本道から逸れたり、独りよがりになってしまってはいないか、子供の心を安息させる受容とコミュニケーションがよく出来ているかなどを確認することが出来ます。とかく自分は良き全面受容をもってアガペーしているつもりでも、いつしか惰性に陥ってしまっていたり、自負心だけが独り歩きしていて、相手には一向に受容されたという思いも安息も与えていないことがあります。その言葉遣いや、態度にはいつしか愛がこもらず、上から目線で語り対応していたり、ときにはまたしても威圧的であったり、抑圧を与えていたりすることもあるのです。しかし、このアガペーの学習塾で常に謙虚になって自己点検し確認し合うことにより、常に初心に立ち返り、初々しい心でアガペー道を歩むことが出来、アガペーの行く先には必ず目に見えない天の助けが注がれ、愛の労苦は報われ、癒しが促進されることを確信できるようになります。それはこの学習塾で自分よりも先に歩んでこられた多くの先輩たちの失敗談や成功談を聞くことにより、アガペーの本道を歩んだ者は、皆等しくその祝福に与ることが出来るのだという確信を掴み取ることが出来るからです。つまり「確認し、ひたすらアガペーによる全面受容の正道を突き進むところには、必ず勝利と祝福が待っている」と言う確信を持つに至るのです。

 

④希望と忍耐

第四に、そこには希望と忍耐が生まれます。

これは必然と言えましょう。なぜなら確信は、疑いや迷いの霧や黒雲を打ち払い、安息と希望の光を仰ぎ見させてくれるからです。人間の心は正直で素晴らしいものです。物事に確信を持つことが出来ると、その途端にその心は安息し、更にその行く先に希望を抱くことが出来るようになります。そしてこの希望の光を仰ぎ見て前に進み、上に登り始めると、そこにある様々な困難や苦しみをより耐え忍び易くしてくれるのです。それはあたかも闇夜の荒海で遭難した船人が、疲れ果て今にも溺れそうになった時、真っ暗な闇夜の中で前方に陸地の光を見つけたようなものです。彼はその瞬間、「陸地だ、光だ。俺は助かるのだ!」と強い確信と希望を抱くことが出来るのです。その時、弱り果て、力尽きるかに思えた彼の内に再び力が湧き上がり、この確信と希望のゆえに彼は襲い来る荒波に打ち勝ち、遂に生還するのに似ています。この荒波を克服させた彼の忍耐と耐久力はどこから来たのでしょうか。言うまでもなくそれは「陸地は近い、光だ。俺は助かるのだ」と言う強い確信と、その確信がもたらした希望の故でした。そうです、まさに希望は忍耐を生み出し、その忍耐が人生に勝利をもたらすのです。ですからこのアガペーの学習塾は、お互いに希望と忍耐を育成してくれる最良の道場とも言えるでしょう。

 

⑤現状把握と適切な対応

そして第五は、現状把握と適切な対応です。

お互いはただ一人で孤軍奮闘しているだけでは、如何に一生懸命アガペーによる全面受容に励んでいても、なかなか自分の受容が果たしてどこまで届いているのか、成功しているのか把握しにくいものです。ところがこの月例の学習塾で月毎に現状報告をし、講師から、あるいは先輩や仲間たちからアドバイスを受けることにより、良きにつけ悪しきにつけ正しい現状認識と把握が出来るのです。そこで先にも述べたように反省と改善が適切になされ、また確認と確信が与えられ、希望と忍耐をもって歩んで行くことが出来るわけです。ここで適切な時宜(じぎ:ちょうどよいときのこと)を得た対応が可能になるのです。これは何と喜ばしい積極的、生産的な営みでしょうか。かくしてよどみないアガペーによる全面受容の促進が、各自の内にはかられて行くのです。

 

ですからこれらが概ねのアガペー学習塾の存在意義と目的と言えましょう。

                                                                   

                                                                      (続く)