峯野龍弘のアガペーブログ

心にささやかれた愛の指針

「ウルトラ良い子」論

                      G.サーバント

第1章 

今日、テレビやラジオ、新聞などでしばしば世間を騒がせている、いわゆる「問題児」と呼ばれる多くの青少年たちがいます。しかも、残虐にして冷酷な殺人や傷害の手口のゆえに、世間からはあたかも殺人鬼のように恐れられている青少年の存在も、悲しいかな珍しくはありません。しかし、これらの青少年たちの中には、本来はその正反対に、通常の平均人よりもはるかに卓越した人間性を生まれながらにして身に受けて誕生してきた青少年が、決して少なくはないのです。彼らは本来なら実に純粋かつ真実で、心やさしく、情感豊かで、その上他者配慮や使命感に満ち溢れた、まさに他者貢献的な良き資質を持った、更には鋭敏な直感力や霊感に富んだすばらしい人物たちであったのです。それゆえ筆者は、彼等のことを「ウルトラ良い子」と命名しました。

 

ちなみに通常、人々は「不登校」や「引きこもり」「いじめ」「家庭内暴力」「摂食障害」「リストカット」「麻薬」「非行」・・・挙句の果てには「自殺」や「他殺」にまで及ぶ彼らを問題児、落ちこぼれ、人格障害児、悪童(あくどう)、ろくでなし、遂には極道者(ごくどうもの)などと様々な言い方で身勝手に呼称しますが、これは何と彼らにとって不名誉な、残酷かつ無理解極まりない誤った言葉であることでしょう。こう呼ばれることによって彼らの自尊心はますます傷つき、癒しは更に遠のいてしまいます。


ところで、世間ではよく自分や他人の子供たちを、無意識の内に大枠で「良い子」「悪い子」「普通の子」、更に「極めて良い子」「極めて悪い子」の五つのカテゴリーに分類し、評価してしまっていますが、筆者はこの五つのカテゴリーに入らないもう一つのカテゴリーのあることについて、あえて提唱したいと思います。それが前述した「ウルトラ良い子」です。これを「超良い子」と日本語的に呼んでも良いのですが、より多くの親しみと、並でないスケールで彼等の本性、感性の内に宿っている天よりの賜物の卓越性を考慮して、あえて奇妙に思える「ウルトラ良い子」と命名させていただきました。その意味するところについては後程詳細に解説することにいたしましょう。
しかし、ここで一言しておきたいことは、この「ウルトラ良い子」と言う概念は、先の五つのカテゴリーと縦並びに配置して最上位にランクされると言うような、いわゆる人間の能力評価やグレードを意味しているのではなく、人間の良し悪しをはるかに超えた天与の感性や性質の卓越性を意味するものであって、誰もこれを誇ったり、媚(こ)びたりすべきものではないのです。ただ大切なことは、この性質と事実を認知し、受容し、育成、活用することなのです。

 

さて、このような天与の鋭敏で、かつ純正な生まれつきの卓越した感性を付与された「ウルトラ良い子」の存在とその性質については、今日までほとんど洋の東西を問わず世間で話題にされたことがなく、しかも専門家たちの間でさえこの問題に真正面から真剣に取り組んで来た者がいませんでした。

 

筆者は、過去50年の間、心傷つき病む青少年たち、また同様の多くの大人たちのケアーに当たる中で、徐々にこの「ウルトラ良い子」の存在とその性質について気づかされ、人間関係をまろやかに結び得ず、社会的不適応や様々な異常心理、異常行動を惹き起こしてしまう、いわゆる世間で境界性人格障害(きょうかいせいじんかくしょうがい)、解離性障害(かいりせいしょうがい)、行為障害、更には摂食障害、各種依存症、果ては非行などと呼ばれる様々な病める症状を呈する人々の内の大部分が、何と本来はこの「ウルトラ良い子」であったという驚くばかりの事実を発見するに至りました。この発見は、同時に筆者にとって二つの重大なチャレンジとなって、心に深く迫って来ました。


その二つの重大なチャレンジとは、他でもなく第一は、では「何ゆえかかる『ウルトラ良い子』が、心傷つき深く病む存在となってしまわなければならなかったのか」と言う重大な問いであり、第二は、言うまでもなく「如何にしたらこの心傷つき深く病んでしまい、かつ異常心理、異常行動を惹き起こしてしまっている『ウルトラ良い子』たちを癒すことが出来るのか」と言う重大な問いでした。

 

爾来(じらい)、今日に至るまで、筆者はひたすらこの二つの重大な問いに答えたいと切に念願しつつ、この「ウルトラ良い子」論を基盤に据えて、数多くのクライアントと共に、直面する多様かつ深刻な事例の解決に従事してまいりましたが、その結果そこに見出したこれまた驚くばかりのすばらしい事実がありました。それが「アガペー(真の愛)による全面受容とその全き癒やしの道」と呼ばれるものでした。これはまさに驚くばかりの真理であり、癒やしの法則(原理)です。筆者は、これを「神が人類に与えられた永遠不変の人間性への癒やしの原理」と呼んでいます。これは「天与(てんよ)の法則」であり、人間を愛し給う神からの大いなる祝福の賜物です。この点に関しても後で詳細記述することにいたしましょう。


 なおここで、一言前置きさせて頂きたい大切な一事があります。それは何とこの「アガペーによる全面受容とその全き癒やしの道」は、如何(いか)なる種類の心傷つき、病みかつ苦悩する人々にも適用可能であり、この道に従って歩む者には必ず待望の癒やしが訪れるという事実です。本稿をご一緒に最後までじっくりと学んでくださる方々には、この事実がきっと納得していただけるものと確信しています。次回は、「ウルトラ良い子」の特質について述べてみましょう。

 

 

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「共感すること」

                 G.サーバント

共感することは素晴らしい。

共感には心を癒す力がある。

共感はどんな言葉がけより、

またどんな助けにも優って、

痛みと悲しみを癒す力がある。

 

人が極度の苦悩の中にある時、

その痛みと悲しみを真に理解し、

そっと寄り添い、共に身を置き、

共感してくれる人のいることは、              

どんなにか慰められることだろう。

 

共感なき慰めの言葉は空虚で、

深く悲しむ者の心に届かない。

共感なき励ましは喧しい鐘の音。

心苦しむ者に更なる苦痛を与え、

一人にしてほしいと叫ばせる。

 

共感なき慰めの言葉や助けは、

まさに無用の長物のようなもので、

悩める人の心の場所塞ぎにすぎず、

むしろない方がずっと心が楽で、

痛み悲しむ者の幸いとなる。

 

下手な同情はない方が良い。

同情より共感してほしい。

同情や憐みは上から目線の、

強者の弱者への心の施しで、

心傷つき病んでいる人々を、

より惨(みじ)めにすることがある。

 

それよりももっと心寄せ、

心の耳を傾けて聞いてほしい。

知ってほしい心の極度の痛みを。

強く共感して泣いてくれたなら、

その時真の理解者を得るだろう。

 

共感こそ、真の理解者の証し。

真の理解者のおることこそ、

心傷つき悩める者の慰めの源。

共感は慰めを、慰めは望みを、

望みは勇気と力を与えてくれる。

 

だから共感は素晴らしい。

共感には心を癒す力がある。

共感はどんな言葉がけより、

またどんな助けにも優って、

痛みと悲しみを癒してくれる。

 

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自画像に悩む方へ(後編)

                       G.サーバント 

 

前編では、「自画像」を愛せない理由について学んできましたが、今日は、「ひとたび愛せなくなってしまった「自画像」を、如何(いか)にしたら再び愛することが出来るのか」について、学んでみることにいたしましょう。

 

 

<Ⅱ、如何にしたら「自画像」を愛せるのか>

 

1,主の御愛と御心を知る

その第一は、何よりも主御自身がお互い一人一人に寄せて下さっている深い御愛と御心を知ることです。他人がどう言おうと、また何をしようとも所詮(しょせん)それは不完全な、しかも罪深い、有限な人間の評価と判断に過ぎません。そのことによって何一つあなた自身の生き方を左右されるべき筋合いではないのです。あくまでもあなた自身が真にどうであるかが問題なのです。そこで最も大切なことは、自分自身がどうであるかを判断するための誤りのない、真実な基準をどこに設定するかという点です。果たしてその決定的基準はどこにあるのでしょう。それは他人の中にも、自分の中にも存在しません。それはただ永遠に変わり給うことのない愛と真理と恵みとをもって、慰め、励まし、助け、導いて下さることのお出来になる唯一の偉大な主、何事においても万事不可能のない全能の神の中にのみ存在するのです。しかもそのお方こそ、あなたの真実をことごとく知り尽くしておられ、あなたを誤りなく評価し、尊んでいて下さるお方なのです。ですからひたすらこの主に寄り頼み、この主の御心の中に身も心もお委ねし、日々歩んで行けば良いのです。なぜなら主がそれほどまでにあなたを深く愛していてくださるからです。そこでイザヤは、わたしたち一人一人に寄せる主の深い御愛と御心を、次のように記しています。

 

「恐れるな、わたしはあなたを贖(あがな)う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。・・・わたしの目にあなたは値高く、尊く、わたしはあなたを愛し、・・・わたしはあなたと共にいる。・・・彼らは皆、わたしの名によって呼ばれる者。わたしの栄光のため創造し、形づくり、完成したもの。」(イザヤ43:1,4,5,7)と。

 

何と驚くばかりの主の恵みでしょうか。その御愛は、測りがたいほどまでに深く、その御心は筆舌(ひつぜつ)に尽(つ)くし難(がた)いほど絶大です。かくしてこのようにまで深くお互いを愛し給う主の御心がはっきり分かるとき、お互いの霊魂は安息し、かくまで主から愛されている「自画像」を、心ゆくまで受け入れることが出来るようになるのです。ハレルヤ!

 

 

 

2.世俗の価値観からの脱皮

さて、自画像を愛するための第2番目に大切な点は何でしょうか。それは私たちお互いを縛り、支配している世俗的価値観から脱皮することです。換言(かんげん)すれば長い間、各人の心の中心で王座を占め、お互いの人生の価値基準となってきた世俗の価値観を、キリストにある真の聖い価値観をもって置き換えてしまうことです。その時、先に世俗の価値観の弊害(へいがい)について述べてきたように、それらの弊害(へいがい)から完全に解放されて、お互いの自画像をありのまま受け入れて、羞恥心(しゅうちしん)や自己卑下(じこひげ)によって抑しつぶされることもなく、それに代えて、主にあって生まれながらに付与されている掛け替えのない自己の尊厳を直視することが出来るようになり、平安と喜びと感謝を持って、自画像を愛することが出来るようになるのです。

 

では如何(いか)にしたらこの世俗の価値観から脱皮(だっぴ)し、その支配から完全に脱却(だっきゃく)することが出来るのでしょうか。その道は、明白です。

 

①如何(いか)に世俗の価値観が災いであるかを深く悟って、速やかにこの世俗の価値観から完全に脱却したいと切願すること、またその脱出を決意すること。

 

②その世俗の価値観に支配されてきた自分自身の罪と汚れをことごとく悔い改め、その全身、全霊、全生涯をキリストに献げてしまい、今から後、傷害の終わりまで真の永遠不変の絶対価値基準を持っておられるキリストに、一切をお委ねしてしまうこと。

 

③その時、聖霊はお互いの霊と心と体を完全に御掌握下さり、お互いのうちに住み、一切の世俗の価値観を追放し、それに代えてその全存在を聖別し、神の栄光とすべての人々の祝福のために生きるものに造り変えて下さる。

 

これはお互い人間の知恵や力によるものではなく、万事は主の御愛と恵みと力によるもので、まさに上記の如く主に全く聴従するすべてのもののうちに成就する主の大いなる約束です。何と幸いなことでしょう。

 

 

  

3,キリストにある新しい自画像を愛す

自画像を愛する事が出来るようになるための今一つの大切な点があります。これはより積極的な営みで、喜びと希望に満ちた輝かしいプロセスです。それはキリストの内にあって新しく形成されてゆく新しい自己発見を意味し、聖霊の恵みと力に満たされながら、ひたすら主と同じ姿に変えられて行く、約束の聖められた自画像です。ここにこそ、自らが今まさに約束されキリストにあって確実に受け継ぐことの出来る未来像が浮き彫りされています。そこで、このキリストにあって恵みの内に約束されている聖なる輝かしい自画像に憧れ、かつ魅せられ、その実現目指してひたすら前進して行くときに、お互いは見事に自画像を愛することの出来る者になるのです。すなわち、今までの我執に支配され、世俗の価値観に縛られ、世の人々の評価に怯えながら生活していた愛せない古き自画像を脱ぎ捨て、キリストにあって既に聖別されている新しい神の子としての自らと、またその自らに約束されているキリストに似せて形づくられた無限に成熟して行く聖なる自画像を見つめながら、それを慕い、追い求め、身に着けて行くこの聖なるプロセスこそ、自画像をより積極的に愛することが出来るようになる王道です。

 

使徒パウロが、エフェソの信徒に対して、「古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るように」(エフェソ4:22~24)と言い、またコロサイの信徒に向かって、「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着ける」(コロサイ3:9,10)べき事を語ったのは、まさにこの事なのでした。

 

今日世間でよくセルフ・イメージということが言われていますが、これらはまさに自画像を言ったものです。そして通常人々は、過去の自分や現在の自分、しかも自らの力で自己形成してきた自分の姿を見て誇ったり、恥じたりしているのですが、もはやお互いキリスト者はそのような考え方や見方をしないのです。なぜなら、もはや古い自分は死んで、今やキリストにあって新しい神の子として生まれ変わり、しかも無限に未来に向かって成長させられ、もったいなくもキリストに似る者として変えられ続けて行く聖なる自分を仰ぎ見るようになるからです。そして、信仰の導き手でありその完成者である主ご自身が、それを成し遂げて下さるからです(ヘブル12:2、イザヤ43:7参照)。お互いはこの驚くばかりの恵みとその約束を確信して、ただひたすらキリストを仰ぎ見てお従いし続けて行けばよいわけです。このキリストにある新しい自分こそ、神にある真のお互いの自画像であり、セルフ・イメージなのです。この自画像をどうして愛せないはずがありましょうか。ハレルヤ!

 

 

 

4,新しい自画像を愛せよ

さて、今なお自らの自画像を愛せず、それを憎みさえしている人がいるでしょうか。その様な悩める人が1人でもおられるなら、その方に是非以下に述べることをそのまま受け入れて、信じ、今日からキリストにあって新しく歩み出していただきたいのです。そうすればあなたはきっと今日から自画像を愛せるようになることでしょう。

 

そこで第1に、神はあなたを生まれる前から知っておられ、あなたはその神によって、かけがえのない1人として創造されたのだという素晴らしい事実を確信して下さい。

 

第2に、それゆえあなたは神から愛され、キリストから愛され、しかも固有の賜物と尊い使命を与えられて生まれてきたのです。それがあなたの本来の個性というものです。そしてそれは何人も奪い去ることの出来ないものなのです。そうです、あなた自身によってさえ。

 

第3に、そのような尊いあなた自身を損なう一切のものからあなたを救うため、主イエス・キリストはこの世に来られ、十字架に架かり、死んで甦られたのです。あなた自身の犯した罪も、また罪を犯す性質さえも、赦(ゆる)し、聖(きよ)め、新たにキリストにあって造り変え、神の子となすためにです。のみならずあなたを損なうすべての外的力からもあなたを解放し、勝利させるためにです。

 

第4に、それを実現するために聖霊があなたの内に注がれて、あなたが聖霊に満たされることにより、愛と聖きと力を受けて、あなたは敵をも愛し、いかなる逆境の中にあっても力強く生き抜き、聖き人生を全う出来るようにして下さったのです。

 

そして第5に、あなたは遂にキリストのように考え、キリストのように歩み、キリストに似た人生、つまり神には栄光、人には祝福をもたらすアガペーの生涯を生き抜くことが出来るように、すでに決定済みなのです。

 

以上のように、これこそがあなたの人生の意味するものであり、存在の目的であり、人生の使命でもあるのです。それゆえここにキリストにあって聖別され、かつ全く新しく創造されたあなたの尊い自画像があるのです。今やあなたは古き自分ではないのです。新しい自分になったのです。(Ⅱコリ5:17参照)。ですからこのキリストにある尊い自画像を愛そうではありませんか。あなたの自画像は、かくして今や全く新しくされ、かけがえのない尊いものとされているのですから・・・。

 

 

 

かくしてお互いは自画像を愛することが出来るようになるのです。ハレルヤ!

 

 

 

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自画像に悩む方へ(前編)

                                              G.サーバン

 

<序>

ゴッホの有名な絵の一枚に、「自画像」と言うのがあります。筆者は中学生の頃、美術部に席を置いたことがありました。あの麦藁帽子をかぶり、パイプをくわえたゴッホの「自画像」なるものを見て、思わず笑ってしまいました。なんとも素朴な親しみやすい顔でした。

 

ところでゴッホは、果たしてあの自画像を見て、何と思ったことでしょう。少なからず後世にその絵が残されたのですから、ゴッホはその自画像を受容できたのでしょう。もし受容できなかったのとしたなら、彼はそのままその絵を塗りつぶしていたことでしょう。幼稚園の子が、自分の顔の絵を書いて、出来栄えが気に入らず、せっかく書いた絵の上にバッ点を付けた上、ついにはぐじゃぐじゃに塗りつぶしてしまうように。

 

しかし、ゴッホの絵ではありませんが、お互いは人生という名の大キャンバスの上に、各々が自画像を描いているようなものです。なかなか思うようには立派に描けず、いかにも立派に写実的に描き上げたかと思えば、その自分の顔が、喜べない愛せない。のみならずしきりと他人の顔と見比べては恥ずかしがり、他者を羨(うらや)み、妬(ねた)み、ついには『こんな自分に誰がした』と親を恨(うら)むようにさえなるのです。何と今日多くの世の人々が、この「自画像」に悩んでいることでしょう。

 

果たして如何(いか)にしたらこの「自画像」を愛せるようになるのでしょう。その秘訣(ひけつ)は、いかに。

 

 

 

<Ⅰ.人は何ゆえ「自画像」を愛せないのか>

前回申し上げたいわゆる「自画像」を、多くの人は何ゆえ愛せないのでしょうか。その理由についてまずお話しましょう。それには概(おおむ)ね以下のような理由(原因)があります。

 

1,自分と他者を見比べること

自画像を愛せない第一の理由は、自分と他者を見比べることにあります。もう少し厳密に言えば、見比べること自体は決して罪でも、過ちでもないのですが、そこにひとつの価値観を持ち込み評価し、その結果他者を非難し、己を誇ったり、その反対に他者を羨(うらや)み、自ら卑屈(ひくつ)になったりするところに、大きな誤りが潜(ひそ)んでいるのです。

 

この人間の過(あやま)ちは、いつから始まったのでしょう。それはアダムとエバが創造主の御心に背き、罪を犯し、堕落した時から始まりました。旧約聖書の創世記を見ますと、そもそも人間はお互いの違い性をこよなく愛し、互いに受け容れ合い、むしろその違い性のゆえに相互に相手を自らにとって最も必要な大切な存在として認め、尊び合う事が出来たのです。すなわちアダムとエバ、つまり男と女、助けられる必要のある夫と助けるべき立場にある妻といういかにも対照的な違い性を持った二人の存在が、神の創造の御旨に従って見事に調和し、愛し合うことが出来たのでした。

 

しかし、そのアダムとエバが神の御心に背き、罪を犯してしまった堕落以後は、果たしてどうなったと思いますか。悲しいかな何と彼らの息子であるカインとアベルは、相互の違い性を見比べ合い、兄カインは弟アベルを妬(ねた)み、羨(うらや)み、遂にアベルを殺害してしまったのです。兄カインは、弟と自分の違い性を見比べ、自分の「自画像」を卑屈にも愛することが出来ず、遂に弟を受容できず抹殺(まっさつ)してしまったのです。ここに見比べ合う人生の悲劇がおこってしまったわけです。

 

おお、愛兄姉方よ、自分と茶者を見比べ合う人生を送っていませんか。


 


2,他人の批判と世俗の価値評価

お互いが自分の「自画像」を愛せない理由の第二は、他人からの批判と世俗の価値評価を恐れるところにあります。

 

人間は、本来皆神のご計画に従って、生まれる以前より神によって知られ、とき満ちるに及んで、神は各人に尊い固有の使命をお与えになり、一人一人は最高にすばらしい掛け替えのない存在として、愛のうちに生まれさせて頂いたのです(エフェソ書1章4節~5節参照)。ですからこの地上にある人間で誰一人として、見劣りする人間は存在しないのです。神の想像されたもので何一つ悪いものはなく、不完全なものはありません。ちなみに天地の創造の初め神は、ご自身の想像されたものをご覧になり、すべて「良し」とされたと記されています(創世記1章参照)。とりわけ人間の創造に関しては、「極めて良かった」と記されています。それと同様に、本来人間は誰しも神の御前にあっては、一人残らずすばらしい存在なのです。つまり各人は良い業をなすために髪によって創造された神の傑作品(けっさくひん)なのです(エフェソ書2章10節参照)。

 

それなのに罪深いこの世では互いに他者を批判し合い、いつしかお互いの作り出した虚構(きょこう)にすぎない世俗的価値基準に従って相互に品定め(人物評価)し、遂にお互いはこの誤った他人の批判や人物評価を恐れるものにしてしまったのです。その結果、他者の批判や評価を恐れて自分のありのままで尊い「自画像」を愛せなくなってしまったわけです。ああ、これまた何と悲しむべきことでしょう。

 

果たしてあなたは、自分の「自画像」を愛していますか?

 

 


3,虚栄心(きょえいしん)と嫉妬心(しっとしん)

自画像を愛せない第三の理由は、お互いの心のうちに潜む虚栄心(きょえいしん)と嫉妬心(しっとしん)です。そもそもこれらはいずれも前述したアダムとエバの原罪と世俗的価値観による他者の悪評を恐れるところから起因するのですが、その結果お互いの心のうちに支配し、巣食うようになった虚栄心と嫉妬心は、世俗的価値基準にもとづいて自らより優(まさ)ると判断される相手に対して、たちまち羨(うらや)みと、妬(ねた)みを引き起こし、それに比較して見劣りのする自分自身を『惨(みじ)めな者』『哀(あわ)れな者』と見做(みな)して激しい自己憐憫に陥(おちい)るのです。そのとき、途端(とたん)に相手と自分自身を受容できなくなり、その相手に対しては激しい妬(ねた)みと憎(にく)しみを覚えるようになり、遂にはその相手に対して受容どころの話ではなく、何と殺意まで抱くようになるのです。それと共に自分に対しては、もはや自己受容できなくなり、そんな自分が嫌になり、そこまで自分を追い込んだ相手ばかりでなく、そのように自分を産み育てた両親まで恨み出し、遂には自分の命を絶ってしまいたくなるほどになります。これが恐るべき嫉妬心(しっとしん)の果てにやってくる人間性破局です。

 

ところがこのような恐るべき嫉妬心(しっとしん)の更に奥深くには、虚栄心(きょえいしん)が潜(ひそ)んでいるのです。この虚栄心は言うまで無く先に述べたこの世に生きる大部分の人々の心を支配し、毒している世俗的価値観の弊害(へいがい)であって、特に幼少期にこの価値観を、両親を始めとする周囲の人々によって強く打ち込まれ、あたかも一種の洗脳にも似た躾のプロセスにおいて、枠組みされた人々においては、通常一生涯、回避(かいひ)不可能なまでに、この虚栄心がその人の思想と行動を縛るのです。元来生まれつき純粋思考型の優しく、かつ繊細な感性を持った子どもほど、強く感化されやすく、かつ毒され、傷つくのです。そして大人になった時、一般人に優(まさ)って、地位や名誉や財産、容姿や能力などにこだわるのです。とりわけ他者より自分が際立(きわだ)って優位に立つことを欲し、良ければ高ぶり、誇(ほこ)り、悪ければ恥(は)じ、恐れ、悲しむのです。これが虚栄心(きょえいしん)と言うものの極致(きょくち)です。彼らはかくして羞恥心(しゅうちしん)の虜(とりこ)となり、嫉妬心(しっとしん)の塊(かたまり)となってしまうのです。ですからかかる自画像を受容できなくなるのです。今日の社会では、かかる自画像に悩む人々が如何に多いことでしょう。そこで決定的に重要な事は、この世俗の価値観からの解放ということになるのです。

 

 

次号で

「Ⅱ,如何(いか)にしたら「自画像」を愛せるのか」を共に学んで行きましょう!

 

 

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新緑(しんりょく)の舞踏会(ぶとうかい)

皆様、ゴールデンウィークは、いかがお過ごしになられましたか?

 

私は、「駒ケ根パノラマ愛の家」で行われた、淀橋教会の合同キャンプに参加しました。老若男女75名の参加がありました。普段は、顔を合わせても挨拶程度しかしたことのなかった人たちも、グループごとの分かち合いや寸劇発表などのおかげで、互いに知り合うことができたようです。皆さん、実に、有意義な、かけがえのない時を過ごせたようで感謝でした。大阪のAFCC(アガペー・ファミリー・ケア・センター)チームも6名参加してくださいました。

 

中央アルプス南アルプスの2つのアルプスに囲まれる美しい長野県駒ケ根市にある「駒ケ根パノラマ愛の家」は、淀橋教会のブランチ教会でもあり、各宣教会、家族、個人で自由に休暇を楽しめる「心の故郷」のような場所です。

 

 

大自然の中、ただ草の上に寝転んでるだけでも、なんとも言えない「そよ風」や鳥のさえずりに癒されます。

 

5月は山菜の時期でもあります。フキ、わらび、タラの芽、ウド、コシアブラ、菜の花、筍(たけのこ)・・・美味しいものが敷地内でたくさんとれます。

 

新鮮な自然な山菜の味は「田舎」でしか体験できません。

 

良かったら是非お立ち寄りください。

 

www.yodobashi-church.com

 

 

 

さて、そんな素敵な駒ケ根での生活を思い出しながらポエムを書いてみました。

 

 

              G.サーバント       

 

何とみずみずしいことか。

万物が輝いて見える。

五月の眩(まぶし)い光を浴びて、

新緑の山々が踊っている。

 

時折、思い出したように

そっと吹き寄せる五月の風が、

いとし子の頬(ほほ)を撫(な)でる

やさしい母の手のように、

わたしの頬を撫でてくれる。

 

いま去って行ったそよ風が、

次に向いの菜の花畑を訪ね、

さらに向こうの緑の森をも訪れ、

楽しげに戯(たわむ)れている。

 

風にそよぐ木々の小枝。

五月の光を浴びて

きらきら輝く緑の木の葉。

小鳥たちも共に喜び歌い、

新緑の森の舞踏会が始まった。

 

残雪を頂いた美しい山々、

一望する雄大なアルプスの峰々。

その上に澄んだ青空が広がる。

その麓(ふもと)で新緑の舞踏会が続く。

 

おお、何と幸いなことか!

新緑の舞踏会に招かれた人々よ。

そこには創造主の愛と恵み、

生命と力が満ち溢れている。

ここですべての者が癒される。  

 

 

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イースター(主の御復活)を覚えて・・・

主イエスは、私たちの罪の身代わりとして、十字架にかかって死んでくださった(御受難)。しかも、主の愛は完璧で、事前に何度も予告して下さっていた通りに、十字架の死(御受難)後の復活の約束の成就!ハレルヤ!感謝に絶えません!この感動を詩にしてみました。

 

 

「甦(よみがえ)りの春」

               G.サーバン

 

自然界の中でも、

春になると多くの植物(ばんぶつ)が甦(よみがえ)るかのごとく

芽を出し、花を咲かせる。

一度は枯(か)れ、死んだように見えた草木が

まるで甦(よみがえ)ったかのように、春を歌う。

美しい春、小川のせせらぎも歌い、

野鳥が春の喜びを讃(たた)える。

 

人々よ、春の喜びの歌を歌え!

病める者、悲しむ者よ、

主の慈しみと憐(あわ)れみの御手(みて)が

豊かにあなたを包む。

 

釘跡(くぎあと)の残るイエスの御手が、

限りなくあなたを抱(いだ)き、

あなたの病は癒(いや)され、

あなたの悲しみは消え去る。

 

いにしえのイザヤも曰(いわ)く、

「主に贖(あがな)われた人々は、

帰って来て喜びの歌を歌い、

嘆(なげ)きと悲しみは消え去る」と。

 

万物が甦(よみがえ)るかのような春、

主の甦(よみがえ)りのおとずれが

耳元に聞こえて来る。

病よ去れ、悲しみよ失せよ。

 

ハレルヤ、ハレルヤ!

万物が喜び歌う甦りの春、イースター

祝えかし、歌えかし、

天地よ喜べ、主の甦りの春、イースター

   

 

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主の御受難を感謝して・・・

主の御受難(十字架)をメディテーションしている時、湧いてきた詩。

 

 

「十字架の主を仰ぐ時」

 

                G.サーバン

 

十字架に釘付けられた主を

心の内に深く思い浮かべる時、

不思議と如何(いか)なる苦しみも、

そして悲しみも和(やわ)らいで行く。

 

時には肉体を襲(おそ)っていた

激しい痛みや苦しみも、

そして心を苛(さいな)んでいた

諸々(もろもろ)の恐怖や不安でさえ、

いつしか消え去って行く。

 

おお、十字架、十字架!

主が釘(くぎ)づけられ、屠(ほ)られた

血潮(ちしお)に染(そ)まる十字架よ!

お前は何ゆえかくまで、

主を苦しめ、苛(さいな)むのか!

 

主の御頭を突き刺す茨(いばら)の冠(かんむり)。

むごくも釘で打ち抜かれた

御手と御足は血に染まり、

槍(やり)で突かれた御胸(みむね)からは

血潮と水液が滴(したた)り落ちる。

 

おお、ゴルゴタの十字架。

かくまで主を苦しめ苛(さいな)んだ

苦悩の極致(きょくち)の十字架よ!

知れ、お前は今や全く無力だ。

主が復活し勝利を得られたから!

 

それゆえ今こそ、こう告げよう。

おお、極度(きょくど)の苦悩(くのう)に涙する者よ、

十字架に釘付けられた主を仰げ!

その時あなたの苦悩は除(のぞ)かれ、

あなたの苦痛は見事、癒されると!

 

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