峯野龍弘のアガペーブログ

心にささやかれた愛の指針

第7章 アガペー育児法

第7章 「ウルトラ良い子」を健全に育てるための「アガペー育児法」

さて、以上において心傷つき病める「ウルトラ良い子」の癒しの道を、詳細に学んできましたが、この一連の学びを結ぶにあたって、このような「ウルトラ良い子」たちを傷つけたり、病んだりさせずに健全に育て上げるためには、果たしてどうしたら良いのかと言う、言うなれば「ウルトラ良い子のための積極的育児法」について最後に言及して、本書を結びたいと思います。

 

ここで是非くれぐれも勘違いや混同したりして頂きたくない大切なことがあります。それは本書において今まで述べてきたことは、あくまでもすでに心傷つき病んでしまっていた「ウルトラ良い子の癒し」についてであって、決して生まれたばかりの「ウルトラ良い子」や、またはいまだ心傷つきも病んでもしていない健康状態の「ウルトラ良い子」についての「育児法」についてではなかったと言うことです。この両者を勘違いしたり混同したりすると大変なことになってしまいます。この点についてわかりやすく一言すれば、今まで述べて来たような心傷つき病んでしまった「ウルトラ良い子」のための癒しの手法を、生まれたばかりやまだ傷つきも病みもしていない「ウルトラ良い子」に「100%同じように」適用するとしたら、逆に「ウルトラ良い子」を過保護と甘やかしによる未成熟な人間に育て上げてしまうと言う過ちを侵すことになってしまうからです。ここで敢えて「100%同じように」と表現したことには、極めて重要な意味が込められています。その意味は、子育ての基本となる「アガペーによる全面受容」と言う根本原理は変わりませんが、その適用においては明白(めいはく)に異なった適用方法を導入しなければならないからです。その違いを充分に弁(わきま)えてその育児に当たることこそ極めて重要なこととなるのです。それは決して単なる「使い分け」や、ましておや「矛盾」なのではないのです。本質においては常に「アガペー」を基盤に据えた堅固な育児法なのですが、その成長途上で成長過程に即応した健全にしてかつ適正な積極的人格教育を加味しながら、その成長を促進して行かなければならないのです。そこで以下においてその育児法について若干詳細に解説することに致しましょう。

 

 

Ⅰ、母の胎内にいる時の育児法

母の胎内に宿っている時の子供は、果たして「ウルトラ良い子」なのかどうか、当然ながら判別できません。しかし、このことで何一つ困ることはありません。人間は誰一人として例外なく母の胎内に宿っている時も、生まれ出た時も純粋無垢な存在であって、すべて全面受容され愛されるべき存在として人間の創造主によって尊い生命を与えられ、呱呱(ここ)の声を上げ、それぞれ固有の尊い使命を付与(ふよ)され誕生してきているのです。これらの一人一人の子供たちは誰も等しく、両親やその他の人々の愛の全面受容をもって育まれなければなりません。しかもその中のある子供たちは紛れもなく「ウルトラ良い子」であり得るので、その判別がつかなくても生まれ出るすべての子供に対して、愛の全面受容を施しておけば、絶対に過つことはないわけです。つまり両者にとって“益あって害なし”と言えましょう。しかし、もしそうしておかなかったとしたら、まさしく大変なことになってしまいます。「ウルトラ良い子」たちの多くが徐々に傷つけられて行ってしまうことになるかもしれないからです。ですから「愛の全面受容」の手法をもって育児にあたっておけば極めて安全なのです。

 

そこで母の胎内に宿っている胎児に対する育児法と言うことになるわけですが、先ず初めに母親は、自らの胎児に対してその子が肉体的に健康で、かつ何よりも精神的に心安らかな子供として誕生してきてくれるように、愛と祈り、大きな喜びと期待をもって子育てに当たらなければなりません。勿論、母の体内に宿った小さな胎児は、当初は脳の発達も精神的な営みも何一つ進んではいないのですが、あたかもそのすべてが完備しているかのようにその子に優しく語り掛け、「あなたはわたしの大切な赤ちゃん、神様からお預かりした尊い子供、お母さんはあなたを命がけで愛して育てます」と言ってあげて下さい。そしてこの言葉がけを誕生して来るまでに何度も何度も語りかけてあげてほしいのです。こうすることによって生まれて来る胎児は、徐々に徐々に母親の胎内にいる時から「自分は愛されている者、尊い存在」であることを、脳の発達と共に体感をもって学習し、記憶して行くのです。これが「アガペーによる全面受容」の源となるのです。胎内の赤ちゃんは何も知らないだろうなどと勘違いしないでください。ちゃんと「胎内の赤ちゃんは知っている」のです。

 

子育ては生まれてから始まるものでは断じてありません。よく世間で「胎教」と言う言葉が使われますが、これこそ「胎教中の胎教」と言って過言ではありません。そこで子供に対する健全な発育と育成のために不可欠な「アガペーによる全面受容」も、この胎教の時期から始めなければならないのです。決して手遅れしてはなりません。お分かりいただけるでしょうか。

 

 

 

 

Ⅱ、第1期 0歳から満3歳までの育児教育

さて、いよいよ子供が誕生してからの育児法について述べてみましょう。

 

①では、これはいつから始めたらよいのでしょうか。それはもの心がつき始め、意思的行為が芽生え始めた頃より始めて下さい。この時を逃してはなりません。もう少し大きくなってからと考えがちですが、その必要はありません。いやそれでは大切な時を逃してしまうことにもなり兼ねません。この時直(ただ)ちに始めて下さい。そして満三歳を目安に、それまではしっかりとこれを積み上げて下さい。なぜならば、この頃までに子供たちは人間として自らが身に付けなければならない極めて大切な基本的生き方を、ほぼ学習してしまうことが出来るからです。これを少し別な表現でコメントするならば、彼らが一人の人間として生きて行くために不可欠な、何をどのようにしたらよいのかと言うことに気付く基本的感覚、もしくはそれを見極めるために必要な最小限の基本的感性を、この時期に培うことが出来るのです。ですからこの大切な時期を親たちはよくよく留意して、しっかりと子育てに当たらなければならないのです。決して手遅れしてはならないのです。まさしく「三つ子の魂、百まで」と言われるように、この三歳までの培いがその子の一生を左右することになるからです。何と大切な時期なのでしょう。

 

②そこでまず初めに満三歳を目安として、どうか満三歳位までは、徹底的に「アガペーによる全面受容」に勤めて下さい。それは既に学んだように「ウルトラ良い子」の生来の感性に即した受容、すなわちその感性に即した優しく寄り添う育児を心掛けて頂きたいと言うことです。そうすることによってこの子たちが充分自らが愛され尊ばれている存在であることを、心の深みとその体感をもって存分に認識し得るからです。その時、彼らは生涯自己の尊厳を喪失することのない一人格として成長して行くことが出来るのです。よしんばその後にどんな困難な人生を歩むことがあったとしても、「三つ子の魂100までも」との諺(ことわざ)の通り、三歳までの極めて大切な人格形成の初時期に、その子の心と魂、そして体の芯にまで届くような「アガペーの全面受容」をもって愛され大切にされたその原体験は、必ず如何なる試練・逆境に遭遇しようとも、その子の自尊心(自らを『尊し』と思う心)を守り、支えてくれるのです。つまりこの貴重な原体験が、かかる場面でその子の心の深い所に自らが如何に大切な存在であって、このような試練や逆境のゆえに自暴自棄(じぼうじき)になって自己の尊い人生を台無しにしてはならないと、自ら自覚し忍耐する復元力を約束してくれるからです。ですから、胎児のときの「アガぺーによる全面受容」と共に、誕生してからのこの最初の時期に、徹底してこの原体験を与えて上げることが大切なのです。

 

③さて、次に申し上げたいことは、この場合「ウルトラ良い子の生来の感性に優しく寄り添いながら」と先に申し上げましたが、その意味をもう少し具体的に説明しておきましょう。言えば、彼らの特質である「八つの志向性」をよくよく受容し、それを引き出し、充足させる育児を心掛けると言うことです。その「八つの志向性」とは,「純粋志向性」、「本質志向性」、「霊的志向性」、「絶対価値志向性」、「独創的志向性」、「非打算的献身志向性」、「他者受容志向性」、「生命畏敬志向性」と言う八つの志向性のことでした。思い出して頂けましたか。これらについては既に本書の初め頃に詳述しましたので、そこを参照してみて下さい。ですから要するにこれらの志向性を良く理解し、それを満たして行くのです。決してそれに反したり、それらを否定したりして抑圧してはならないのです。そうすることなくそれらの特性をいよいよ引き出し、伸ばし、育て養い、彼らがその特性の持ち主であることを大いにエンジョイさせてあげるのです。そしてその特性のゆえに彼らの存在することの意義と尊さを存分謳歌(おうか)させてあげるのです。このことのゆえに彼らが自慢したり、自らを誇ったり、傲慢になることを心配したり、恐れたりする必要は全くありません。このような過ちや失敗に陥るのは全く別の事情、異なった配慮と訓練の欠如によるのです。この点についてはこのすぐ後で申し上げることに致しましょう。そこでまず何よりも大事なことは、彼らがこの時期に充分「アガペーによる全面受容」によって徹底的に愛され、受容されることによって自己の尊厳と自らの存在することの意義と価値を、彼らの意識と感覚の中に埋め込んでもらうことが重要なのです。このことにさえ成功するならば、すでに前項でも記したようにその先に如何なる試練や逆境が待ち受けていても、彼らはそれを克服できる潜在能力を有することが出来るのだと言っても、過言ではありません。この点についてよくよく心に留めておいて頂きたいものです。

 

⑤しかし、ここでくどいようですが更に良く理解し、過(あやま)つことなくしてほしいことは、誕生から満1歳を迎えるまでの乳児期を過ぎ、満1歳から3歳頃までのいわゆる幼児期前半を迎えた子供たちに対して、「如何に自制心もしくは自己抑制力を身に付けさすか」と言う重要な課題についてです。この時期における彼らのための「自制心」や「自己抑制力」の育成と言う課題は、ウルトラ良い子の育児教育の第1期の半ば頃より、手遅れすることなくしっかりと彼らに身に付けされるよう、いや心に植えつかせるように心がけなければならない重要事です。これはいわゆるもの心つき始めた頃より、徐々に子供たちの心と体の発育状態に即して意識的に、計画的に、取り組み始め、実践し、積み上げて行かなければならない決定的に重要な課題であり、また極めて大切な育児期間なのです。この点によくよく留意してこの時期の子育てに当たって頂きたいのです。

 

⑥では、この時期に如何にしてこの子たちに自制心・自己抑制力を育成したらよいのでしょうか。それは概ね以下のような諸点に留意し、子育てに当たれば良いのです。若干、既に述べたことと重複する点がありますが、いまここで纏めて列記してみることに致しましょう。

 

ⅰ、あくまでもウルトラ良い子の特質と感性をよく理解し、それを踏まえて子育てに当たりましょう。決してそれに反したり、それを逆なでするように育ててはなりません。ウルトラ良い子には、8つの特質のあったことを思い起して下さい。

 

ⅱ、子供に何かを教えたり、させたりする場合、必ずなぜそのようにするのか、しなければならないのか、その意味について彼らが理解できるような言葉と行為をもって説明し、何度も何度も愛をもって教え諭して下さい。その場合「~した方が良いから」とか「~してはいけないから」と言うのは意味の説明にはなりません。ここでそれがなぜ良いのか、なぜ悪いのかということの理由を彼らに理解させることが大切です。大人は「そうすることが正しいから」と言うことをもって充分な理由づけと思いがちですが、幼い子供たちにとってはそれでは「なぜ正しいのか」と言う意味と理由が皆目わからないのです。一般的に大多数の子供たちは「こうすることが正しいからこうしなさい」と言う親の言葉だけで、それ以外の説明なしにそれに従いますが、しかしウルトラ良い子たちは、しばしばそうはいきません。それは頑なで、不従順だからでは断じてありません。ウルトラ良い子は物事の本質、つまりその事柄の奥にある意味や理由を知りたがる素晴らしい特質があるからです。ですから親は、めんどくさがらずその都度その意味するところを丁寧に、説明してあげることが大切なのです。これをスキップして、親の正しい教えに従ってこそ当然と考えて従わせることばかりしていると、早くもウルトラ良い子の中に抑圧が蓄積しはじめるのです。よくよくご注意ください。

 

ⅲ、そこでその子がそれを理解し従うことが出来た場合には、必ず忘れずに「よくわかったわね、すばらしい!」とか「よくできたね、えらい!」などとほめてあげて下さい。そうすることにより子供の学習意欲を、ますます高めることが出来ます。またそう出来なかった場合には、決して叱ってはなりません。

 

「まだ難しかったかしら、ではまたにしましょうね」と言った具合に、微笑みながらさらっと流し、次のチャンスを待てばよいのです。そして決してあきらめず、時をかけて何度も何度も反復するのです。焦ったり、苛立つことは絶対禁物です。良い子育てには、愛と忍耐が不可欠です。

 

 

 

 

Ⅲ、第2期 3歳から6歳までの幼児期後半の幼児教育

さて、ここで「アガペー育児法」の次の段階に進んでみましょう。これは満3歳を過ぎた頃から満6歳頃までの時期で、これを称して第2期と呼ぶことにしましょう。言うまでもなく子供にも個人差があり、これはあくまでも目安であって、大体この頃と理解して育児教育に当たっていただければよいのです。

 

それでは如何なる点に留意しながら、この時期の子育てをしたらよいのでしょうか。それは概ね以下の通りです。

 

 

A、 人間関係における調和の精神と感性の育成

そこでこの時期に先ず心に留め、しっかりと育成しなければならないことは対人関係、人間関係における調和の精神と感性の育成です。これはごく優しい表現をすれば「他人と仲良く過ごす道」を教えるということです。人間が人間としてふさわしく人生を過ごして行くためには、「人間関係が円満である」ということほど、重要な資質と事柄は他にありません。そもそも「人間」という文字が「人の間」と書くように、お互い「人と人との間」の関係を麗しく調和のとれたものとしておくことは、社会生活を営むためには必須な事柄です。

 

しかしながら、既に皆様がよくよくご存知のように、今日の社会には対人関係がまろやかには結べず、いわゆるウルトラ良い子たちに限らず、多くの一般人の中にも対人関係不全症候を呈している人々が、少なくありません。これは人間関係のトラブルに巻き込まれ、長い間悩み、苦しみ、傷ついてきた結果として、そのような症状を呈するに至った人々もおれば、また幼い頃の精神的発育成長期に、十分な育成を受けることができなかったことが原因である場合もあるのです。そこでこの後者の場合のケースが、今ここで取り上げようとしている「ウルトラ良い子の育児教育」第2期の「3歳から6歳までの幼児後半の育児教育」の主要テーマでもあるのです。

 

では、如何にしてこの時期に子供たちの「人間関係における調和の精神と感性の育成」を図ることができるのでしょうか。

 

 

1 愛することの大切さを教える

「人間関係における調和の精神と感性の育成」とは、これをズバリ表現すれば「愛することの大切さを教える」ことに他なりません。ある古の聖徒が「愛することの大切さを教えないことは、両親の子供に対する最大の罪である。」と言いました。またある教育者が「子供に愛することの重要性を教えないことは、知識ある動物を飼育することである。」とも言いました。いずれもまことに至言です。

 

幼な子に如何なる知識・教育を施し、また良い躾・行儀作法を教えても、もし愛することの大切さを教え、他者との調和を図り、また仲良く過ごすことの出来る心と感性を養い育てることに失敗するなら、やがてその子供は自己中心で自己主張の強い、他者を受容することの出来ない人間に育つでしょう。まさにそれは“動物のような人間”を育ててしまうことになります。

 

そこで何よりも重要なことは「愛することの大切さ教える」ことなのです。そしてこの「愛することの大切さ」を教え、「他者と和合する心と感性」は、まさにこの時期からしっかりと養い育て、培うことが肝要です。この時期を失してはなりません。なぜならこの時期には、彼らの脳はこのことの大切さを理解し、自らの意志でこの大切なことを実践するのに必要な思考能力を最小限ではあっても、充分完備しているからです。そしてまたこの大切な時期を失すると、彼らの内に自我や我執が徐々に強く形成され、今度は素直に学習し難くなってしまうからです。ですからこの好機を逃してはなりません。

 

ここで更に一言大事なことを付記しておくとするなら、もちろんこれよりも早い時期に「愛することの大切さ」を教えてはならないというのではありません。教えてもその意味を自ら十分理解するには、まだ不十分なのです。それよりもこのより幼い時期には、両親が大きな豊かな愛を注ぐことによって、我が子に「愛されることの喜び」を十分体験させてあげることが大切です。そうすることによって、後に「愛することの大切さ」を教えられる時、より早く理解し、学習することができるのです。概して「多く愛された者こそ、多く愛することが出来る」からです。またこの第2期を過ぎた後には、もう「愛することの大切さ」を教える必要がなくなるというわけでもありません。それは更に第3期を迎えても、継続して教え続けるべきですが、それは第2期のフォローのためであって、この時期から始めたのではもはや手遅れとなってしまいます。ですから第2期にしっかり育成しなければならないのです。

 

では、具体的にはどのような点に留意して「愛することの大切さ」を教えたらよいのでしょうか。 

 

 

2 如何にして愛することの大切さを教えたらよいのか。

ⅰ.先ず何よりも第一に大切なことは、「両親が愛し合っていること」です。つまり子供にとって、両親が愛し合いながら日々生活していることを見ることに優る愛の大切さの学習は、他にないのです。両親は子供にとっての愛の大切さを教える教師である以上に、自らがそのモデルであり、模範であり、お手本でなければなりません。子供はその両親が愛し合って生きているその姿を見て、愛し合うことの素晴らしさ、大切さを学習していくのです。ですから夫婦円満でいつも愛し合っている両親の間で育つ子供は幸いです。

 

しかし、今日は何と悲しい不幸な時代でしょう。子供たちが夫婦愛し合っている両親を見出すことが、極めて困難になってしまっているからです。両親がいてもその夫婦仲が悪かったり、父親が単身赴任していてほとんど両親が一緒にいる姿を見ることが出来なかったり、最も悲しむべきことは愛し合うことによって「愛の大切さ」を教えるべき立場におかれている両親が、離婚してしまっていたりするからです。

 

先般ある会合で出会ったご夫婦が、「自分たちは最初の子供が生まれた時以来、今日に至るまで子供のいるところでは決して喧嘩をしない事にしてきたのです。そのおかげでお互いは喧嘩せずに済みました。子供は夫婦円満の守り神ですね・・・」と。何と幸いなことでしょう。このような両親の許で、子供たちは「愛し合うこと大切さ」を学び、また生まれて来る子供に対してこのような責任感をもって謙虚で真摯に子育てに当たる両親にとっては、子供こそが夫婦の愛の絆となり、夫婦円満の保証者ともなるのであるということを、改めて教えられました。

 

ともあれ、夫婦仲良く愛し合っている両親の下で育つ子供は幸いです。彼らは「愛し合うことの大切さ」を、かくして学ぶことが出来るのですから。

 

ⅱ.第二は、言うまでもなく親が子供を深く愛することによってです。先にも「愛されたことのない子供は、愛することが難しい。しかし、愛されて育った子供は、概して愛する子供となる。」と記しましたが、例外はあるにしても、多くの場合この言葉は真実です。愛されて育った子供の心は穏やかで、彼らは愛されることの喜びと幸いを十分満喫しているので、自らもまた他者に対して愛することが出来るのです。 「豊かに愛の種を蒔いた子供という名の畑からは、愛という名の実り を豊かに刈り取ることができる。」この言葉もまた至言と言えましょう。

 

 

 ところで、先般、一人の方と面談しました。その人は「私は子育てに失敗してしまいました。私は子供をどう愛したら良いのか分からないのです。私は一生懸命我が子を愛して育ててきたつもりでした。しかし、子供は私に反抗し、私を激しく罵りこう言ったのです。『お母さんは、わたしを愛しているとよく口癖のように恩着せがましく言うが、わたしはお母さんから愛されていると感じたことは、ただの一度もないわ。愛しているならどうしてもっとわたしの気持ちを理解し、わたしに自由をくれないの!』と。私はこの子供の言葉を聞いて大きなショックを覚えました。そして、今更のように痛感することがありました。それは、実は私が子供をどう愛せばよいのかわからなかったのです。なぜなら、私自身が親から一度も愛されたという経験がなかったからでした」と。

 

 そうです。この婦人は夫婦仲の悪い両親の許で育ち、始終夫婦喧嘩を見せつけられる中で過ごし、のみならず、絶えず気性の激しい母親の苛立つ言葉を浴びせられながら育ってきた女性でした。極めてお気の毒な境遇であったと言う他ありません。

 

 ですから、夫婦仲睦まじく、愛の内に子育てをすることがどんなにか大切かお分かりいただけると思います。両親から、とりわけ母親から多く愛された子供は何と幸いなことでしょう。そうされることによって、子供たちは確実に「愛すること」、「愛されること」の大切さを理解し、何よりもその喜びと幸せを自ら体験し、それを他者との間で生かして、麗しい人間関係を結ぶことが出来るようになるのです。

 

 

ⅲ.ではどのように愛したら良いのでしょうか。

 つまり如何にしたら子供に愛が伝わり、子供が愛されたことを知るようになれるのでしょうか。言うまでもなくそれは「アガペー」することなのですが、それを実践するにはどのような点に留意し、どのように具体的に現わしていくことが出来るのでしょうか。それは以下のような諸点に留意し、実践して行けばよいのです。

 

(1)何よりも先ず第一に留意すべきことは、「子供を大事にする」ことです。分かり切ったことのようですが、この分かり切ったことこそ極めて重要で忘れてはならない常時不断の心がけなのです。「子供を大事にする」ことは、大切な子供として自分が親に受け入れられ、尊ばれ、価値づけられていることを子供が体感し、そこに両親の愛を実感していくことが出来るからです。

 

(2)第二は「常に寄り添い、共にいる」ことです。この時、子供の心は安息し、不安を覚えることなく安心できるのです。特に母親の胎内で10か月間過ごして来た子供たちは、本能的にと言っても過言でないほど母親の存在を体感し、その声の響きを実感しているのです。ですから、その母親が傍にいてその声が聞こえる時、不思議とその心が安息するのです。そうでない時には、「見捨てられ感」、「見放され感」が彼らを襲います。ですから、親が「寄り添い、共にいる」時、彼らは「見捨てられていない」、「見放されていない」、つまり「愛されている」と感じ取ることが出来るのです。

 

ところが、現代においては多くの母親が、「早く乳離れ、親離れすことが出来るように育てることこそ、良い子育ての道である」と勘違いして、多くの子供たちが「潜在的見捨てられ症候群」に陥れられているのです。特に繊細な感性を持つウルトラ良い子たちにおいては、なおさらのことです。子供が徐々に社会性を取り込み、自立するまではよくよくこの点に留意しなければなりません。

 

(3)第三は「子供の話をよく聞く」ことです。つまり子供の言うことによく耳を傾け、それ以上に子供の心の声によくよく耳を傾け、聞き分けることです。今日最も多い失敗は、両親特に母親が、愛しているつもりで闇雲に我が子に多くの忠告を与えたり、教え諭そうとすることです。「愛は、先ず聞くことに始まる」と言われますが、これまた至言です。愛はそもそも相手の心、相手の事情、相手の計画等を良く知って、そこに仕えていくことでもあるのですから、子供の言い分、子供の叫び、子供の願い、その他何よりも子供の処理したいとひそかに願っている心の悩みを含めて、その声に耳傾け、それに愛の手を差し伸べるところから愛のコミュニケーションが始まることを忘れてはなりません。

 

  

(4)第四には「祈ること」です。

「愛は祈る」と言う古来からの西洋の格言があります。日本人の文化や歴史の文脈の中からは、なかなかこうした考え方は理解し難いものがあるかと思いますが、実はこれほど大切なことはないとさえ言っても過言ではないと申し上げたいのです。つまり如何にしたら子供に愛が伝わり、子供が愛されたことを知るようになれるのでしょうか。

 

例えば日本においても昔から両親とくに母親は、自分の子供が重い病を患い、生きるか死ぬかの生死の境を彷徨うような事態が発生した場合に、しかも医者ももはやどうすることも出来ないような危機に直面した時、思わず超自然の神仏の助けを求めて、ひたすら「お助け下さい。お救い下さい」と祈るではありませんか。日頃は神信心の薄い無宗教の母親でさえ、我が子の癒しや救いを求めて、思わず神頼みするではありませんか。これを「困った時の神頼み」と嘲ったり、軽視したりしてはいけません。これこそ人間が単なる動物ではなく、神の被造物としての霊魂体を有する人間の霊性の発動としての、人間固有の卓越した能力であり、尊厳ある特質です。しかも、このような万事が休してしまった時こそ、それに甘んじられず愛する子供の癒しや救いのために神仏により頼み祈ることは、「愛のゆえの必然的結果」であり、「母の愛の存在証明」でさえあります。もしかかる場合に祈れないか、祈らないとするならば、それは我が子に対する「愛の不存在」を意味すると言っても過言ではありません。そうです。まさに「愛は祈る」ものなのです。そうではないでしょうか。

 

思えば愛の主であるイエス・キリストが、自らを十字架に釘づけた人間に対してすら「父よ、彼らをお許しください」と神に祈られ、彼らのために執り成しの祈りを捧げられたのは、まさしく「愛」のゆえでした。

 

かの有名なマザー・テレサも、ブラザー・ロジェも「愛と祈り」の関係について、次のように言っています。

 

祈りです。祈りこそ、愛の源です。心を燃やし続ける愛の源。」

 

さて、ウルトラ良い子たちは、既に何度も申し上げてきましたように、その心の内に霊的感性を通常の子供たちに優って豊かに宿しています。

ですから彼らは祈られる時、その霊的感性が潤され、安息するのです。

のみならず自らが並みでなく深く「愛されている」と感じるのです。何という不思議な、素晴らしい感性でしょう。彼らの感性は、生まれながらにして霊的、神秘的、宗教的であると言っても過言ではありません。それはいずれかの既成宗教の枠組みを超えて、本質的に宗教的なのです。このような彼らの感性に深く届き、それを充足させ、安息させる最良の道が「祈り」なのです。そして何よりも彼らの耳元で優しく捧げる母親の、いや父親においても、祈る「祈り」の中に、彼らは深い愛、大きな愛を感じ取ることが出来るのです。ですから、是非、祈れる両親でありたいものです。

 

 

 

ⅳ.他者と良く交わり、仲良く過ごすことが出来る人に育てよ。

  ウルトラ良い子系の子供たちで、今日かなり多くの子供たちが他の子供たちと良く交われなくなり、一人孤立したり、不登園・不登校になったりすることがあります。それは既に何度も申し上げて来たように、その子たちの生まれながらの純粋感性と世俗的価値観にとっぷり浸りながら育ってきた普通の子供たちとの物事に対する考え方や価値観の大きな相違から来る感性 の違いや違和感によるものであるのですが、だからこそ親はこの相違や違和感を越えて他者と良く交わったり、仲良くすることによくよく留意しながら子育てをして行かなければならないのです。そうでないとますます孤立化が加速し、社会性が身につかず、対人関係不全症候群を引き起こし、心病む子供になってしまう危険があります。

 

ではどうしたら他者と良く交わり、仲良く過ごせるようになるのでしょうか。以下にその方法について一つのヒントを差し上げましょう。

 

それはわが家にお友達を迎え、そこに親自らいつも共にいて見守るのです。ウルトラ良い子たちはそこに親が共にいることのゆえに安心感を抱き、よく交わり、よく遊ぶことが出来ます。のみならず、そこで感性の違いから違和感やトラブルが生じたら、直ちに子供たちに手を差し伸べて純粋感性を持った我が子の意見と他の子供たちとの意見の違いを汲み取って、両方の考え方の調和を「真理に従って」調整してあげるのです。ここで重要なことは「真理に従って」と言うことです。こうする時、ウルトラ良い子である我が子は納得し、世俗的価値観の下で育てられてきた子供たちも「真理に従った」より優った考え方を学習し、彼らの人生に大きく貢献することが出来るのです。小僕は、これを「仲良し家庭塾」と呼んでいます。

 

かくすることによってウルトラ良い子は、知らずして自らの考えていることに自信を持つようになり、他の子供たちもこの子を受け入れるばかりか、より良い考え方を身に付けることとなり、更に楽しく交わり、仲良しになって、その延長線上で学校生活を送ることが出来るようになります。その結果、日々の学校生活がより楽しいものとなり、そこにはもはや不登園・不登校が起こりません。

 

ここで以前にも若干紹介しましたが、一つの典型的な成功例を紹介しておきましょう。

 

ある時、学校でウルトラ良い子であるA君が、クラスの中で複数の同級生たちから陰湿ないじめに遭うようになりました。学校の先生たちも非常に心配し、いじめる子供たちを呼んでよくよく話をし、再びいじめないように注意しました。その後しばらくはいじめが治まりましたが、しかし残念なことには再びいじめが始まりました。ところがA君の家庭は、敬虔なクリスチャン家庭でした。そこで両親は心を合わせて主に祈り、その良き解決の道を祈り求めました。その結果、両親の思いの内に一つの道が示されました。それはいじめる子供たちを毎日学校の帰りにA君の家庭に招き、美味しいおやつを用意し、二人の男女の大学生にもボランティア協力をしてもらい、楽しく交わり遊ぶことにしたのでした。初めは相互に緊張していましたが、叱られると思っていたのに優遇され、またボランティアのお兄さん、お姉さんの巧みなリードの下で、楽しいひと時を過ごすことができるようになりました。その内に更にそこには彼ら以外の子供たちまでが数名参加するようになり、一ヶ月もしない内に彼らは非常に仲良しになり、クラス全体がまとまりのある優良クラスに変わりました。勿論のことA君も不登校にならずに済みました。こうすることによって見事に不登校に陥りそうになっていたA君を救済することが出来たばかりか、何よりもいじめる子供たちを善導することに成功し、双方に仲良くすることの幸いと喜びを学習させることが出来たのでした。何という幸いなことでしょう。解決の道は、意外なところにあるものですね。

 

かくしてこの時期の子供たちに、是非とも他者と良く交わり、仲良く過ごすことが出来るよう、様々な機会を捉えてよくよく教え示して行こうではありませんか。

 

 

他者と仲良く分かち合い、譲り合う喜びを教えよ。

 前述の他人と良く交わり、仲良く過ごすことが出来るように育てるということとほぼ同様ではありますが、事柄をより明白にし、かつ具体的に捉えやすくするために、あえて重複したように見えるこの点について、項目を改めて以下のように述べてみたいと思います。

 

つまり自らが他の仲間たちも望んでいるような何か良い物や良い出来事に与った時、その喜びを一人占めせず、それを望んでいた他の仲間たちにもお裾分けし、喜びを分かち合う優しい心遣いや、また何か利害関係が競合するような場合には、相互に譲り合える温かい心遣いこの時期に育むことが必要です。そしてそれが如何に人間にとって大切であり、また人生をより美しく実り豊かなものとして行くことが出来るのかを、この時期に、何よりも彼らの心の内に欲心や邪念が混入し、自己中心な思いや我執が立ち上がり、その心を毒しきらない内に、よくよく体験させてあげることが重要です。そうなのです。自分一人が喜びを独占したままでいるよりも、その喜びを分かち合うことにより相手が共に喜び感謝するのを見、また自分が相手に譲歩して相手にその喜びを譲り渡したときに相手が喜び、自分に感謝するようになることを見届ける方が、どんなにか大きな喜びを自分の人生に齎すものであるかを体験させてあげるのです。これこそが聖書が教えている「受けるよりは与える方が幸いである」(使徒20:35)と主イエス・キリストご自身が語られたという人生における幸福の根本真理です。

 

実にこのような考え方、生き方を誰よりも喜び受け容れやすい性質に富んだ人間こそ、ウルトラ良い子たちです。彼らは既に何度も学んで来たように生まれながらにして他者受容性や他者貢献的性質を豊かに内に秘めている素晴らしい存在です。ですからこの時期に彼らにこそこのような自らの喜びや幸せを他者と分かち合い、またそのような喜びや幸せを他者と競い合うのではなく、喜んで他者に譲り渡すことによる“愛の喜び”を体験させてあげるなら、彼らはごく自然にと言ってもよいほど、このような美しい人間性と考え方を身に着け易いのです。そして彼らはこの時期にしっかりと「受けるよりも与える方が幸いである」と言う極めて尊い人生観、価値観、つまり人生における幸福の根本真理を彼らの内に確立させることが出来るのです。そうするならば世俗社会のただ中に放置されても決してそれに靡かず、独り占めせず他者と分かち合うことを損とは思わず、また他者に良きものを譲り渡すことを不利益と思わず、むしろそれを喜びとし誇りとさえ思うことが出来るようになるのです。すごいことだと思いませんか。何と神々しい生き方ではありませんか。このような神々しい人生観、価値観、人間性を身に着けるには、この幼少期を失っては極めて困難になるのです。ですからよくよくこのことを親たちがよく熟知して、この時期に良き子育てをしなければなりません。

 

そしてこのような子育ては、如何にウルトラ良い子と言えども、ただ生まれながらにして潜在的にかかる感性や性質を有していようとも、それをこの時期に引き出し、その事のすばらしさを具体的に日常生活の中で繰り返し体験させ、味合わせて上げない限り、それは育成されず、地に埋められた宝のように生涯葬り去れたものとなり、のみならず錆付き朽ち果ててしまうのです。そしてあたかも初めからそのような尊い資質は存在しなかったもののように、日の目を見ることなく一生を終えてしまうことになるわけです。こんなもったいないことを断じてさせるべきではありません。それは個人的ばかりでなく、社会的にも大なる損失と言えましょう!ですからこの時期の育成、訓練、鍛錬を怠っては断じてなりません。

 

しかし、今日どれだけ多くの家庭においてこの大なる損失を引き起こしてしまっていることでしょう。まことに悲しむべきこと、無念なことではありませんか!この点において皆様はいかがお思いでしょうか?

 

 

 

Ⅲ、第2期 3歳から6歳までの幼児期後半の幼児教育

B、自己抑制が出来、困難事に耐えることの出来る人間資質の育成

この時期にしっかりと育成しておかなければならない人間性の資質として、次に自己抑制のよく出来る子供に育てることと、諸々の困難事に直面した場合に、その困難事を耐え忍ぶことの出来るように子供を育てることが必要です。この自己抑制力と耐久力もしくは忍耐力は、前項で述べた人間関係の調和を実現して行くためにも、子供の頃からしっかりと身に着けて行かなければならない極めて大切な人間資質です。世間でよくあるように大人になっても他者と良く調和出来ない人がいますが、そのような人々の多くは幼少時代に自己抑制と自己克己つまり困難事を耐え忍ぶための自己訓練の出来ていなかった、いわゆる耐久力や忍耐力を欠如した人々なのです。

 

ちなみに「ウルトラ良い子」に対して「アガペーによる全面受容」をもって子育てをすることは、先にも述べたように決して子供を単に「甘やかす」ことではないのです。物事の本質を良く見極めて、常に真理に従ってウルトラ良い子の純粋感性に寄り添いながら、しっかりと養育に当たるのです。この場合、いたずらに怒鳴ったり、叩いたりはしませんが、とはいえ決して子供の言いなりになってはならず、子供がわがままを言ったり、悪いことをしたり、嘘をついたりしたような時には、しっかりと叱って戒めたり、謝らせることを怠ったりしてはなりません。このような時こそ彼らに物事の良し悪しや、是々非々をより深く学習させる絶好の好機なのですから。のみならず、このようなことを通してわがままにしたい放題のことをするのではなく、物事をよく考えて自己抑制、つまり我慢したり、自己節制したりすることを身に着けさせることが出来るからです。

 

そこで自己抑制力と耐久力もしくは忍耐力を育成するために、次のような諸点に留意することをお勧めします。

 

1 .肉体的にも、精神的にも努力し、克己しなければならないプログラムを日常生活の中に適度に取り込むこと。

それはスポーツでも、音楽でも、その他どんな習い事でもいいのですが、基本的に重要なことは、そのプログラムの中に努力・克己し、かつ持続して自己に負荷がかかる要素が組み込まれていることが大切です。そうすることによって自然と忍耐力、耐久力が備わり、自己抑制力が付いて来るからです。肉体的訓練は、必ず精神的鍛練となり、精神的鍛練を望むならば、肉体的訓練を伴う稽古事を日常生活の中に取り込むことは、非常に良いことです。是非やってみて下さい。

 

2.また「叱るべき時」には、しっかりと叱り、決して優柔不断であったり、悪しき事柄を見過ごしにしたり、あいまいにしてはなりません。

たとえ如何に「ウルトラ良い子」であっても、所詮人間は「生まれながらの罪人」ですから、時として悪い願望に引き込まれたり、邪悪な欲求に振り回されたり致します。そのような場合にすかさず両親がそれに気づき、その子をしっかりと説諭し、それでも言うことを聞かず従わないような時には、厳然とその過ちを指摘し、しっかりと叱ってあげるべきです。この場合よくよく注意しなければならないことは、単なる感情の爆発としての対応ではなく、愛と真実そして深い理解と配慮をもってなす“愛のお仕置き”、“愛の鞭”としての行為でなければなりません。その場合は決してウルトラ良い子への抑圧となることはなく、彼らはこのことにより通常時にも優って、自分をどこまでも愛してくれている親の愛を深く感じ取ることが出来るのです。

 

この言葉は決してその青年の都合の良い方便ではなかったのです。父親の自分に対する真実な愛を、そうすることによって示してほしかったのです。ですから、叱るべき時には、しっかりと叱ってやるべきなのです。これまた「アガペーによる全面受容」の範疇に属する“愛の特別表現”であるのです。

 

 

 

3. 好き嫌いの感情をコントロールし、克服することを教えること

自己抑制ができ、困難事を耐え忍び、人生を力強く生き抜いて行くことの出来る人間資質の育成に役立つこの時期からの訓練で、極めて有効な日常的・実践的手立ての一つは、「好き嫌い」を極力させないようにすることです。およそ人間で「好き嫌い」のない人など、誰一人としていないでしょう。食べ物の好き嫌い、趣味や娯楽の好き嫌い、仕事の好き嫌い、その他さまざまな種類の好き嫌いがありますが、とりわけ人間に対する好き嫌いは、人間が社会生活を営んで行く場合に、様々なトラブルを引き起こすことがあります。

 

しかし、例えば食べ物における「好き嫌い」には、いわゆる我が儘で好き嫌いをしているというのではなく、生理学的・医学的見地からその人の生まれつきの固有の体質から、体自体がその食物を受け付けないという場合があります。また動物や植物、スポーツや職業などの好き好みも、これまた我が儘から発しているものではなく、個々人の生まれながらにして身に受けている固有の性質や特性から必然的に発した極めて大切な個性的選択による場合があるのです。ですからこうした類のものは、単なる「好き嫌い」と言う枠組みの中に取り組む必要は、全くないでしょう。

 

しかしながら、いわゆる「我が儘」と呼ばれる類の「好き嫌い」は、大いに克服されなければならない人生における大切な学課です。これを克服するか否かで、その人の人格,いや更には人生が左右されると言っても過言ではありません。

 

そもそも「我が儘」から出た「好き嫌い」と言うものは、直観的・感覚的な一つの「誤った感情」の表現であって、そこにはその「好き嫌い」の対象物に対して充分な考察も理解もないままで、即座に自分にとっての良し悪しを選択・決断してしまうことを意味しています。こうすることで自分にとっても相手にとっても有益なことを排除し、またその反対に自分にとっても相手にとっても不利益なことを取り込んでしまう結果を生み出します。その結果、人生に大きな損失を被ることになるのです。

 

そこでこのような人生に思いがけない大きな損失を自ら背負い込ませせないためには、この幼児期にしっかりと我が子が「好き嫌い」を克服できるように訓練することが大切なのです。しかもこの「好き嫌い」の克服の訓練の最も重要な点は、我が子をこの我が儘な「誤った感情」から救い出し、我が子にこの「悪い願望」から自ら脱出することのできるための、「誤った感情」や「悪い願望」に対する強い「自己抑制力」並びに「忍耐力」を育成してあげることができるからです。ですからこの好き嫌いの感情をコントロールし、克服することを教えるということは、人生にとって極めて大切な自己抑制及び困難事に耐えることの出来る人間資質を育成するのに、決して欠かすことの出来ない、見過ごしてはならない大切な育児の知恵と言うことができます。

 

 

 

4 .忍耐心を培い、忍耐力を育てること

前述の「好き嫌い」を克服させる項目の中でも若干触れましたが、自己抑制ができ、困難事を耐え忍び、人生を力強く生き抜いて行くことの出来る人間資質の育成のために、「忍耐心・忍耐力」の育成と言うことが非常に大切です。この点についてはもう少し詳しく記すことに致しましょう。

 

新約聖書の言葉に「そればかりでなく、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むと言うことを、希望はわたしたちを欺くことはありません(失望に終わることはありません:口語訳)」(ローマ信徒への手紙5:3~5)と言う言葉がありますが、この言葉の明示しているように、お互い人間が人生での様々な苦難に遭遇した場合に、そこでその苦難を耐え忍び、「忍耐」する時、忍耐は決してそのままで終わることなく、その人に「練達」生み出し、更にその練達の中から「希望」が生み出され、遂にその「希望」はその人の心の内に「慰めと励まし」を与え、遂には大きな「喜びと平安」を齎してくれます。何と言う「忍耐の恵み」でしょう。ですから「忍耐心・忍耐力」を小さいうちから養い育てておくことは何と幸いなことでしょうか。

 

しかし、この素晴らしい「忍耐心・忍耐力」は、決して誰にでもほっておけば身に着くと言うものではありません。勿論、自然と身について行く「忍耐心・忍耐力」と言うものがないわけではありませんが、その程度の「忍耐心・忍耐力」では、高潔な人間性や人格を身に着けるまでには至りません。とくに今日の日本社会では、この身に着けるべき大切な人間性・人格を形成して行くために必要な主要素の一つである「忍耐心・忍耐力」を欠如した軟弱な人々が、激増しているとさえ言われています。それは何故でしょう。

 

第一に、生活が豊かになり、何事も労さずに手に入り、物事を為すのに便利な時代を迎えているために、昔ほど何かにつけ労苦したり、我慢したり、励んだりする必要がなくなってしまったからです。そして大人たちがそのような便利な生活の中で、お金さえあれば子供たちのためにも、また自分たちのためにも手間暇をかけることなく安楽に暮らせるように、電化製品や機械道具、玩具や生活備品などを手軽に手に入れ、およそ何事についても安直に対処して行けるようになってしまっている今日の状況下では、もはや「忍耐心・忍耐力」を錬成する機会が大幅に奪い去られてしまっているようなものです。

 

そして第二に、何よりも両親たちが日々の忙しさに追われ、それもさることながら、それ以上に大切な自らの子供たちに対して、その幼少時代にしっかりと「忍耐心・忍耐力」を育成し、やがてどんな困難に直面しようとも、それを耐え忍び、克服して行くことが出来るように、充分にその精神力を鍛錬し、子供たちの未来に備えることが、自分たち両親にとっての極めて重要な天与の責任であり、役割であると受け止める強い認識が欠如してしまっているからです。

 

そこで何としてもこの時期にしっかりと子供たちに「忍耐心・忍耐力」を付けさせてあげたいものです。ではその「忍耐心・忍耐力」をどう身に着けさすかと言うことが次に重要になってくるわけですが、その方法はいくらでもあります。およそ子供に未経験な新しいことを取り組ませようとする時、そこには必ず興味・関心と共に、不安やためらい、時には強い嫌悪感や拒絶感を、のみならず更に恐怖感さえ抱く子供がいます。こうした時にこそ、そのような不安や恐れ、更にはいやがる気持ちや拒否したい心を愛と祈りアガペーによる受容の精神をもって、子供の心に優しく寄り添いながら、怖がらず、嫌がらず、心穏やかに取り組むことが出来るよう導いてあげることが極めて大切です。その場合、子供一人だけをその課題の中に決して置き去りしてしまうことなく、親も一緒に同心・同行・同歩しながら、あたかも楽しいゲームや遊びに取り組むような思いをもって、共に歩んであげることです。しかも、決して無理をせず取り組み易い所から、一歩一歩取り組んで行くのです。そしてよく出来た時には大いに喜び褒めてあげるのです。また出来なかった場合でも決してそれを悲しんだり、責めたりしてはならないのです。むしろそこまで取り組んだことを大いに喜び、褒めてあげてほしいのです。そして次にはきっとできるようになるに違いないことを楽しみにするよう誘導してあげていただきたいのです。こうしたことを地味に着実に積み上げて行くところから、実に「忍耐心・忍耐力」、のみならず未知なるものや未経験な事柄に対して「精神的免疫体」のようなものが心の内に培われ、困難事や恐れていた事柄を勇気をもって取り組むことが出来る子供に育って行くものです。子供の内にはどの子にもそうした素晴らしい可能性と潜在能力が宿っているものです。それを上手に引き出してあげるのが親の責任であって、良い親となるための大切なステップでもあります。「親は子供と共に育つ」と言う昔ながらの言葉はまさに至言です。

 

 かくしてこれらの諸点においても、大いに失敗しないように心がけたいものです。

 

                     (続く)

 

 

第6章 アガペーによるフォローアップ

第6章 アガペーによるフォローアップ 
 ―神の嘉(よみ)される8原則―

 

 さて、以上で「アガペーによる全面受容とその軌跡」を辿り、心傷つき病んでしまっていた“ウルトラ良い子”たちの「自立への7ステップ」について記してきましたが、次に「アガペーによるフォローアップ」ということを記してみたいと思います。これは心傷つき病んでしまっている子供たちへのフォローアップではありません。そうではなく、ケアーに当たる両親や受容者に対するフォローアップです。なぜなら心傷つき病んでしまっていた“ウルトラ良い子たち”を癒すにあたって、気の遠くなるほどの長い年月や苦労を重ねてきた両親や受容者たちは、一向にはかばかしくは進まない彼らの癒されない現実に直面し、果たしてこれで良かったのか、もしかしたら間違っていたのではなかろうか、さもなければ神が自分たちを見捨てたのではなかろうかなどと疑いを抱き、あわや挫折しそうになったりすることがあるからです。そこでこうした危機に直面した両親や受容者の皆さんに、是非とも必要な慰めと励ましが、この「アガぺーによるフォローアップ」と言う項目なのです。より正確に表現するならば、「アガペーによる受容者のためのフォローアップ」と言うべきでしょう。この場合に小僕は、皆さんに「神に嘉される8原則」と言うことを提唱したいのです。いきなり宗教的な神懸ったことを言い出したと思わないでください。「神から見捨てられた」とさえ思う方々がおられるので、小僕はあえてそこに踏み込んで、いや決して「神から見捨てられてなどいない」、むしろここまで労苦し、自己犠牲をもあえて甘受しアガペーし続けてきた両親やすべての受容者たちこそ、「神に嘉された人々」で、神のみ心に適った最善の道を進んでこられた方々だということを申し上げたいのです。ですから決して挫けてはならないのです。アガペーによる全面受容の道を、なおも走り続けて欲しいのです。その道は正しく、必ず勝利することになるのです。そこで皆さんに更に申し上げたいことがあります。それは「神に嘉される8原則」とでも申し上げるべきで事柄です。この8原則に従ってかかる場合になおも忍耐強く受容し続けるならば、まさにそれは「神に嘉される」ことで、見事に神は報いて下さるに違いありません。それは法則なようなもので、以下に記す8つの原則を守ることをお奨めいたします。

 

 

第一原則

第一原則は、アガペーの源泉である神の存在とその全能の力を確信し、日々祈れということです。

こう申し上げるとあたかもキリスト者やいずれかの信仰者でなければならないかのよう思われるかもしれませんが、いや決してそうではありません。もちろんキリスト者やいずれかの信仰者であられれば、それに越したことはありません。なぜならこれらの方々は、すでにその信仰のゆえに人間の知恵や力を遥かに超えた全能なる神の存在を信じ、確信しておられるのですから、その信じている神に信頼し、自ら徒に疑いを抱いたり、また不安を覚えたりして、右往左往してはならないのです。信仰はまさにこのよう時のための信仰でもあるのですから。心傷つき病める人々のための癒しの業に携る受容者たちは、常に彼らに安心・安息を齎す存在でなければなりません。それなのに受容者自身が疑いや不安を抱き動揺しており、そのような不安げな暗い顔をしていると、癒しを必要としている彼らが折角ここまで回復しつつあったのに、彼らまでが心落ち着かず、再び不安の中に取り込まれてしまいます。受容者の安息こそ、癒される者の安息の堡塁です。そしてこの受容者の安息を保証する堅固な堡塁こそ、全能者の存在を信じ、全面的に神に信頼する信仰です。更にまたこのお方に寄り頼み祈り求める「祈り」こそ、その信頼と安息を深める最良の王道です。ですから日々祈る必要があるのです。

 

では特定の宗教を信奉していない方々にとっては、この第一の原則は無効もしくは不要なのでしょうか。いや断じてそうではありません。そもそも人間は本来、霊的・宗教的存在です。それが証拠に古来より如何なる民族・種族にも、たとえ他の部族・種族と触れ合うことがなかったどんな奥地に住む未開の原住民であっても、そこには固有の宗教があり、葬送の儀式が存在します。しかし、人間以外の如何に人間に近いとさえ言われてきた動物たちの間にも、宗教や葬儀は存在しませんでした。なぜなら彼らは断じてそのような霊的・宗教的存在としては創造されてはいなかったからです。ところが人間は違います。まさに人間の人間たる尊厳として、唯一人間だけは、霊的・宗教的な存在として創造されていたのです。ですから人間は生まれながらにして祈り心を有し、特定の神信仰を持たずとも、何か重要な場面で心改まって、慇懃に「心から~をお祈り申し上げております」などと挨拶することになるのです。その時、不思議と挨拶する側も、また挨拶を受ける側も心温まる思いを分かち合うことが出来るのです。わけても愛する者が亡くなった時、深い悲しみを覚えつつ、葬儀を営むのは、人間の本能的営みと呼びたいほど必然的な営みで、ここにこそ人間の人間たる所以があり、まさにそれは人間の固有の尊厳でもあります。

 

そこで愛するウルトラ良い子たちが、心傷つき深く病み苦悩している時、またその子供を受容し癒そうとして自ら労苦している時、もはやどうすることも出来ないほどの窮地に落ち込んだ時、そこで受容を断念したり放棄したりすることなく、目に見えざる大いなる御存在を覚えて、天を仰いで祈ると良いのです。その時にその大いなる御存在を意識すればするほど、不思議とその心の安息度は増し、不安が解消されます。のみならずその心ばかりではなく肉体も霊魂までもが、安らぐことを体験なさることでしょう。これこそが人間本来の霊的宗教体験とも言えましょう。すでに本書の冒頭の方で記しましたように、「アガペー」と言う愛の真理とその生命は、実にこの大いなる方(聖書でこのお方を「神」と呼んでいる)に淵源しています。

 

ともあれ宗教とか信仰とかを論じるまでもなく、人間であるがゆえにか かる場面で、思わず人間の知恵や力の限界を遥かに超えた大いなる存在を 仰ぎ見て祈る時、不思議と心と霊魂と肉体にまで平安と安息を受け継ぐこ とが出来るのです。この場合、その大いなる存在に対して信頼し、依存す る信頼度・依存度が大きければ大きいほど、平安と安息の度合いも大きく なります。そこでかくすることによって受容者の安息度を高めることによ って、心傷つき病んでしまった人々の心の平安を維持し続け、その癒しを 促進することが出来るのです。ですから、この第一原則が極めて重要であることがお分かりいただけたと思います。是非ともこの第一の原則を踏み 外さないよう、よくよくご注意くださいますように!

 

 

 

 第二の原則は、「心傷つき病んでいる子供の内に本来宿っている尊い性質と尊厳を確信かつ信頼して、その癒しと回復に専念し、待望すること」です。すでにこの点については大分前に詳述しましたが、ウルトラ良い子の内には、平均的通常人に遥かに優って「尊い性質と固有の尊厳ある特性」が豊かに宿っているのです。それだけにこのような優れて尊い性質や特性を十分に理解し、受容し、それを引き出すように育てたならば、決して心傷つけ病んでしまうまでに彼らを追い込まずに済んだのですが、悲しいかな、極く幼いうちはそれに気づかず、むしろその感性を逆なでし、敢えて逆行するような世俗的価値観をもって子育てに当たってしまったがために、身体が成長するに従って、それに反して心には大きな抑圧を受け始め、徐々に心は傷ついていってしまったのです。皮肉なことにその心の純度が高ければ高いほど、ストレスを受け易く傷つき易かったのでした。

 

 しかし、たとえその心がどんなに傷つき病んでしまったとしても、決して彼らの内に宿っていた良き資質や感性は失われてはいないのです。つまり、その「尊い性質や固有の尊厳ある特性」は、なお彼らの人格の内に温存されているのです。これは彼らが生まれた時に命の与え主である人間の創造者が、彼らに付与して下さった何ものによっても奪われることのない個性だからです。それが極度の抑圧の累積によって傷つき、心中の奥深い隅っこに幽閉され、機能停止状態に陥ってしまっているのです。ですから、この状態からの癒しと回復が必要になるわけです。その癒しと回復の最良の業が、本書における「アガペーによる全面受容」なのです。

 

 そこで、この癒しと回復の業に従事する受容者にとって、極めて大切な気づきは、今なお彼らの内に存在する「尊い性質と固有の尊厳ある特性」を確信し、如何に現在の彼らの状態が、それと似つかわしくなく、全く正反対の様相を呈していようとも、この彼らの内に今なお留まっている心中の奥底に眠っている良き性質と特性を確信し、またそれを信頼し、今こそ本格的にウルトラ良い子形成に専念していくことです。その時、彼らの眠っていた感性が目覚め、甦り、癒され、回復していくのです。この場合、極めて重要なことはこの「確信と信頼」です。この「確信と信頼」こそが、揺るがずに彼らのケアーに当たる者に勇気と希望を与え、更には長く受容を継続していくための忍耐と努力の原動力ともなるのです。のみならず、ケアーを受ける彼らにストレスや緊張を起こさせず、より安息を与え、癒していくための豊かな包容力を生み出すのです。ですから、何とこの「確信と信頼」が彼らの癒しと回復のために大切なことであるかが、お分かりいただけたことと思います。どうぞ存分と彼らの今なお心の奥深くに有している「尊い性質と固有の尊厳ある特性」を確信し、それを信頼し、アガペーをもって全面受容し続けてみて下さい。ちなみに、ここで今一度彼らが内に宿している生まれながらの「良き性質と固有の尊厳ある特性」について、思い起こしてみましょう。

 

彼らの内には、以下のような優れて尊い特性と志向性が豊かに宿っているのです。

 

純粋志向性 夢見る人、理想主義者、メルヘン志向、空想家

 

本質志向性 「なぜ」を問う、生まれながらの哲学者、思索家

 

霊的志向性 霊的感性が強い、可視的でない世界への探究心が旺盛、永遠、死後の世界、霊の存在への関心、生まれながらの宗教家

 

絶対価値志向性 相対的な他者と比較する価値観に馴染まない

 

独創的志向性 閃きとのめり込み、科学者、文学者、芸術家

 

非打算的献身志向性 損得勘定に馴染まない、他者奉仕的人間、使命感が強い

 

他者受容志向性 温順な他者配慮、弱者保護の心に富む、隣人愛

 

生命畏敬志向性 自然や動物愛護

 

 何と尊い素晴らしい鋭敏な感性でしょう。このような卓越した感性が強い だけに、世俗社会に馴染みにくく、理解されず、受容されにくいわけです。この落差の大きさがより抑圧を受け易い原因となり、幼い内から早くも抑圧が起こってしまうのです。ですから、こうした彼らの特性を良く知って、深い理解をもって、更には彼らのこの尊い感性・特性を今なおその内に秘めていることを確信し、信頼してケアーしていくことが重要となるわけです。これまたよくお分かりいただけたでしょうか。

 

 

第三の原則は、「心傷つき病んでいる子供の自尊心を高めよ」と言う点にあります。

 これまたすでに記したことですが、心傷つき病んでしまった子供たちは、例外なくと言ってもよいほど彼らの自尊心が傷ついてしまっています。そもそも「自尊心」とは、本来「自らを尊しとする心」を意味し、自分の存在を掛け替えもなく尊く、かつ大切なものであると認識する心の状態を言うのです。これは決して自らを誇り、高ぶらせ、他者より自分の方が上等な人間であると自負することとは全く違います。他者を重んじ尊ぶと同様に、自分自身をも同様に大切にし、自己の尊厳を認め知って、自らその尊厳を滅失させるようなふるまいを慎み、常にあるべき自らを養い育てることに励む心を意味しているのです。ある辞書には「自分の人格を大切にする気持ち」などとコメントされていましたが、今日の社会ではややもすると他者の人格をさえ踏みにじるようなことが横行していますが、よく考えてみますとこうした考え方や生き方は案外、自らを真に大切にし、自らの品位や人格を重んじ、自己の尊厳を失うことのないように謙虚に自らを見つめ自己管理する「自尊心」を喪失してしまっている人々の生き様なのかもしれません。だとするならば現代社会は「心傷つき病んでしまっているウルトラ良い子」たちばかりではなく、一般健常人と思われる多くの人々の中にも、真の「自尊心」の回復が必要ではないでしょうか。

 

 さてそこで「心傷つき病んでしまってるウルトラ良い子」たちは、今も申し上げましたように例外なくこの「自尊心」が傷つけられ、「自尊心」を喪失もしくは滅失してしまっています。喪失・滅失していないまでも、極めて自尊心が引き下げられ、弱められてしまっています。彼らは長い間の世俗的価値観から来る極度の抑圧のゆえに、「自分はダメな者」、「他者より見劣りする者」、「生きて行く資格のない者」、「他者より受け入れられない者」、「人から理解されない者」等々と、気の毒なほど自らを卑下してしまっているのです。時にはこの思いが屈折して、真逆に作用してやたらに他者攻撃に出る場合もあります。それはこのように他者攻撃をすることによって、自己を他者より優位・上位の者と自他ともに思わせようとする悲しい一種の偽装行為であって、これは何よりも自分自身の惨めさ、辛さを回避するための必死の自衛行為なのです。勿論、こうしてみたところで一向に「自尊心」が回復されるわけでもなく、かえってこのことによってますます「自尊心」から遠ざかってしまい、自暴自棄に落ちて行くこと以外ではないのです。

 

 そこでこうした彼らにとって必要不可欠なことは、彼らの「自尊心」を高めて上げることなのです。そしてこの彼らの「自尊心を高める」ための最良の手立てこそが、「アガペーによる全面受容」の道なのです。先にすでに学んで来たようにこの「アガペーによる全面受容」の中に、しっかりと彼らを抱き続けて上げることによって、彼らは「自分は愛されている」、「大切な人間として受け入れられている」、「理解され、重んじられている」、「生きて行く資格がある者」、「決して見劣りなどしていない」等々の新たな良き自己認識を抱くに至るのです。これこそが真の「自尊心」の回復です。

 

 そして更にこの「自尊心」の回復をより促進するために、彼らの自尊心を傷つける「禁止」、「命令」、「奨励」の言葉を一切発せず、その反対に彼らの自尊心を高めることに役立つ「感謝」、「謝罪」、「賞賛」の言葉がけを豊富に与え、暗く、重く、堅く、冷たい表情と対応を払拭し、明るく、さわやかな、優しい、温かみのあるほのぼのとした、ユーモラスな言葉がけと態度をもって、彼らに接し、仕えて行くとき、彼らの自尊心が確実に高められて行くことでしょう。この彼らの「自尊心の高揚なくして、癒しなし」と言っても過言ではありません。このような対応は必ず神に嘉され、功を奏するに至るでしょう。

 

 

 

第四は、「ひたすら共に身を置き、同心・同歩・同行に努める」ことです。

 心傷つき病んでしまっているウルトラ良い子たちの内には、かなりの多くの子供たちが、自尊心を喪失しているばかりか、自分は見捨てられていると言ういわゆる「見捨てられ感」を強く抱いています。これは彼らの長い間に亘る過去の苦悩の旅路を通じて抱くに至った極度のコンプレックスによるものです。このコンプレックスから生じた「見捨てられ感」は、彼らの心の苛立ちと不安感を更に一段と増幅させてしまっています。

 

 そこでこの「見捨てられ感」や「コンプレックス」を取り除くためにも、のみならず何よりも彼らの「傷つき病んでしまった心」を癒すためにも、第四の原則を順守することが重要となります。それが「ひたすら共に身を置き、同心・同歩・同行する」ことに努めることなのです。

 

 そもそも今までに学んで来た「アガペーによる全面受容」の継続的実行により、彼らの傷つき病んでいた心が徐々に回復し、何よりも受容者である両親等に対する信頼関係も螺旋階段を上るように段々と増し加わって来ています。こうした段階でより重要な心がけが、「ひたすら共に身を置き、同心・同歩・同行する」ことにより彼らの心にしっかりと寄り添い、また彼らの生活に密着して日々を分かち合うことなのです。こうすることによって彼らは、自らが深く愛され、受け入れられ、決して見捨てられることも、見放されることもないことを実感・体感して行くことが出来るからです。この「見捨てられることはない」、「見放されることはない」と言うことを実感し、体感させると言うことほど、彼らの癒しにとって有効・有益なことは他にありません。彼らの長い間の苦悩の旅路を通して、彼らの心と体に浸み込んでしまった「不安感」や「見捨てられ感」は、決して宥(なだ)めすかすような説得や説明では取り除くことも、癒すことも出来ません。しかし、この段階での「ひたすら共に身を置き、同心・同歩・同行する」ことによって、彼らは見事にこの「不安感」と「見捨てられ感」から解放されて行くことが出来るのです。

 

 ちなみにここで「ひたすら共に身を置く」と記しましたが、勿論これは必ず日々24時間彼らと密着して共に過ごすと言うことを、意味しているわけではありません。そんなことは現実問題として不可能です。しかし、「ひたすら共に身を置く」思いをもって、「同心・同歩・同行」に努め、与うる限り共に過ごし、大切なことは「同じ心を持って」寄り添い、彼らの「ペースに合わせて」歩み、彼らの「行おうとするところに従って」共に進んで行くことに努める時、彼らはそこに以前には全く味わい得なかった自分の傷ついた心の痛みや苦しみが理解され、共感して貰えたと言う実感を味わうことが出来るようになるのです。その時、彼らの内に長く支配していた「不安感」や「見捨てられ感」が払拭され、癒しがなお一層促進されるのです。

 

 ところが多くの受容者は、この段階までにさしかかると、彼らが以前とは随分異なって穏やかさを取り戻して来たので、つい油断してしまい、「同心」・「同歩」・「同行」することを怠り、手抜きし、のみならず親である自分の思いを優先し、一歩先走ったり、出遅れたりして心の歩調を乱したり、彼らの行動に異論を唱えたりし易いのです。こうしたことは絶対に避けたいものです。なぜならいうまでもなく折角ここまで穏やかになり、癒しが促進されてきたことを、この段階で突き崩してしまうことになるからです。そこでこの段階でこそ第四の「ひたすら共に身を置き、同心・同歩・同行に努める」ことの必要性が大となるわけです。この点をよくよく留意して、悲しい失敗をしないで頂きたい心から念願するものです。

 

 

第五番目は、「謙遜と真実をもって謝罪し、時としては深い悔い改めを表白して仕えよ」と言うことです。

 

お互いは、アガぺーをもって全面受容し続けようと心がけます。しかし、悲しいかな心ならずも失敗してしまうこともあります。その時、このことによって心傷つき病んでいたウルトラ良い子たちが、せっかくある程度まで癒され、健常さを取り戻しつつあったのに、この失敗によって再びプレッシャーを与えてしまったり、心傷つけてしまったりすることが起こり得るのです。これは彼らにとっては、折角信頼関係が生まれ、心に安息を取り戻しつつあったことを裏切られ、踏みにじられたかのような大きなショックを受けることになります。そればかりではなく受容者である親たちにとっても、そんなつもりでは全くなかっただけに、これまた大きなショックであり、地団駄を踏みたいほどの口惜しさと悲しみとを禁じ得ない出来事となってしまいます。

 

ではこのような場合には、果たしてどのように対処したらよいのでしょうか。このような場合いには、何よりも即座に相手に対して謙虚に、真摯な思いをもって心から深く謝罪することです。決して何か言い訳したり、自己弁護したりしてはなりません。そうすることはかえって火に油を注ぐような結果を招来します。なぜなら思いがけないお互いの失敗のゆえに、いままで受容されてきた彼らがやっとのことでここまで安息を取り戻して来たにもかかわらず、突然その信頼を裏切られて、またしても再びプレッシャーを受け、ショックを覚え、その心は動揺し、かつ不安を感じ、その瞬間その心に苛立ちをさえ覚えているのです。ですからこのような場合には、即座にこれらの動揺や不安、ショックと苛立ちを解消してあげなければならないのです。それなのにここで如何にそのつもりはなかったにしろ、何か言い訳をたり、正論をもって弁解してみても彼らの心は一向に安息しないばかりか、むしろ相手を傷つけておきながら、それをよそに自分の不利にならないために、しきりと自己弁護し身を守ろうとしているお互いに、苛立ちを感じさせてしまうのです。

 

ですからこの場に必要なことは、即座に謙虚な心で真実を込めて、先ず何よりも謝罪することなのです。事柄によっては時としては心からの深い悔い改めをさえ言い表して謝罪してあげることです。その極めて謙遜にして真摯な悔い改めと謝罪の言葉は、相手のために大きな癒し効果を齎します。このことは以前にも述べたことがありましたが、彼らは長い間自尊心を傷つけられてきたコンプレックスを強く抱いている人々です。その彼らがこの場面で相手であるお互い受容者から、このような謙虚にして真実のこもった悔い改めや謝罪の言葉を聞く、その瞬間自分たちがこの場面では相手より優位な立場、つまり許す側に身を置くことになるので、彼らの失っていた自尊心が回復し、コンプレックスを一瞬解消することが出来るのです。だからお互い受容者の失敗が、この謙遜にして真実な謝罪や悔い改めを通して、相手の益となり、彼らの癒しと回復のために役立つ結果となるのです。これこそまさに「失敗は成功の基」と言えましょう。

 

それゆえ決して徒に失敗を恐れる必要はありません。しかし、大切なのはその時の即座の「謙遜にして真実な謝罪と、時としては真摯な悔い改めの表白」です。ここで極めて大切なことを一言しておきましょう。それは心傷つき病んで来たウルトラ良い子には、悲しいかな一切の弁解は通じないと言うことです。親の方がどれほど辛い悲しい思いをしてでも受容し続けてきてあげたにもかかわらず、しかもその失敗が如何に不可抗力な事柄であっても、残念ながら一切の弁解は禁物なのです。何故でしょうか。それは言うまでもなく彼らはまだ病んでいて癒されていないからです。彼らにはなお引き続き“アガペーによる全面受容”が不不可欠なのです。ですからこのような場面では、まだ正論は通ぜず、なおアガペーすることによって、癒し続けることが不可欠なのです。そしてこのような場面でのアガペーの仕方こそ、「謙遜と真実をもって、時としては深い悔い改めを表白して仕えること」なのです。これぐらい効果のある関係修復と彼らの心の苛立ちと不安を解決する道は他にありません。ですからどうぞ時を逃さないようによくよくご注意なさり、これを実践してみて下さい!

 

 

 さて更にこの「アガペーによる全面受容」を続けることによって、心傷つき病んでいたウルトラ良い子の癒しを成し遂げて行くために、不可欠なフォローアップの第6番目の原則は、それは受容者がどこまでも「常に本質に根ざし、純粋に、決して差別せず、使い分けをしない」と言うことです。

 この「本質に根ざすこと」、「純粋であること」、「差別しないこと」、そして「使い分けをしないこと」と言う諸点は、すでに本書の最初のころに「ウルトラ良い子の八つの特質」について記しました時に、これらが皆彼らの特質の最たる要件をなしていたことを学びました。またそもそも彼らの心の中に引き起こされた抑圧の始まりは、彼らの内に生まれながらにして宿っていた鋭敏にして卓越した八つのウルトラ感性に対する非受容と、その無理解から来た不充足に端を発していたことについても記しました。それゆえ彼らの癒しと回復のためには何と言っても彼らのウルトラ感性を受容し、充足して行くことが極めて大切であり、不可欠なのです。その中でも世間の常識や世俗の価値観に流されず、常に物事の本質をしっかり把握・認識し、かつアガペーに深く根差した他者配慮豊かな純粋動機をもって、当該の心傷つき病んでいる我が子は勿論のこと、のみならず関わりのあるすべての人間関係においても何一つ「差別することなく」、また相手の如何によって「使い分けすることなく」対応し続けて行くことが肝要です。なぜなら癒しを必要としている彼らにとっては、受容者が自分に対しても、また自分以外の誰に対しても常に変わらず、万事に付け物事の本質を踏まえ、常に純粋動機をもってことに当たり、しかも誰をも差別することなく、また如何なる場合にも使い分けすることなく対応しているのを知って、心から安息することが出来るからなのです。もし自分だけを受容して、他者を受容していないとすると、自分に対する受容が本当に真実な受容なのか、自分だけに対する場当たりの虚偽の受容であるのかわからず、心底から安息することが出来なくなってしまうのです。それほどまでに彼らのウルトラ感性は鋭敏で、その確認ができるまで彼らの心は充足されないのです。ですからどこまでも「常に本質に根ざし、純粋に、決して差別せず、使い分けをしない」ことが重要なのです。そしてこのような真実な受容こそ、まさに彼らの癒しに直結します。

 

 彼らは長い間、両親たちのこのような受容と対応を渇望していたのでした。そしてこのような受容と対応が、一時的な「対症療法」としてではなく、これが両親たちの本心となり、平常心となって彼らを受容し続ける時、彼らはそれを感知し一気に癒され始めるのです。それはそれは素晴らしいものです。小僕は今日までの長い経験の中で、彼らの癒しの過程において如何にこの「常に本質に根ざし、純粋に、決して差別せず、使い分けをしない」と言うことが大切であるかを、痛感させられて来ました。ですから是非とも彼らの癒しを損なうことなく、いよいよ癒され続けて行くことが出来るために、この第六の原則「常に本質に根ざし、かつ純粋に、決して差別せず、使い分けをしないこと」を守り続けてほしいものです。彼らは両親たちのその真受容の心と姿を見届けたいのです。見て、知って、確かめたいのです。そして安息したいのです。ですから癒され始めて彼らを引き続きどこまでも「常に本質に根ざし、かつ純粋に、決して差別せず、使い分けをしない」でフォローし続けて上げて下さい。その労苦は必ず報われ、彼らは癒されます。そしてこのような受容者である両親たちの愛と忍耐と労苦は、必ず心病み、傷ついていたウルトラ良い子たちの心と魂を揺り動かし、更なる癒しの完成に向かって彼らを進み行かせることでしょう。それは人間の創造者である神の御心に適ったフォローの仕方であって、それゆえ必ず神の嘉されることだと確信させられています。どうぞ挫けずフォローアップして下さい。

 

 

 

さて、第七番目のフォローアップの原則は何でしょう。それは「決して見返りを期待せず、また決して恩に着せてはならない」と言うことです。このことは「アガペー」の定義の最後にある締めくくりの主要件の一つにもなっています。

 

心傷つき病んでしまったウルトラ良い子たちを癒す確実な道としての「アガぺーによる全面受容の癒し」のもう一つの要件は、まさにこの「決して見返りを期待しない」ことにありました。

 

そもそもウルトラ良い子たちは、見返りを期待されたり、恩に着せられたりすることが大嫌いです。健常な人でさえ見返りを期待されたり、恩に着せられたりすることは、決して快くは思わないことでしょう。そこには自分に親切をしてくれたり、愛を注いでくれていると思わせながら、その実その心の奥に本人自身の利益や喜びを計算しての下心があったからです。それのみならずその上に恩まで着せられたりするとしたなら、どんなにか不愉快なことでしょう。ましておやウルトラ良い子たちは、純粋で真実な愛の中に受容され、憩いたいと何よりも切願していた者たちなのですから、しかも彼らは鋭敏に人の心の動きを察知したり、人の真の思いを知りたがったりする存在なので、そこに見返りを期待したり、恩に着せる思いが抱かれたりしていようものなら、たちどころに見破られ、折角愛による全面受容によって、かなりの癒しが促進されて来ていたところなのに、またしても再び彼らを傷つけ逆向させてしまう結果となります。これは何とも残念なことで、是非とも避けたい不幸な出来事なのです。

 

ちなみにウルトラ良い子たちは、自らが癒され健常になった暁には、何一つ見返りを期待しなかったにもかかわらず、見返り以上に遥かに優った素晴らしい感謝と喜びを込めた親孝行をなし、他者貢献をしてくれるものです。恩など全く着せはしなかったにも関わらず、その恩を深くその心に受け止めて、恩返しの生涯を歩んでくれるに至ります。これこそ「無欲の勝利」と言うものではないでしょうか。それなのに「見返りを期待したり、恩を着せたりする」ことによって、これらの大きな祝福をすっかり喪失してしまうことになるとは、何ともったいない話でしょう。それゆえ断じてこの轍を踏んではいけません。しかし、悲しいかな多くの人々がこの過ちを犯し、この点で失敗しているのです。はなはだ残念でなりません。ですからこの点においてもよくよく注意しようではありませんか。

 

アガペー」の定義の主要件の最後の一つがこの「見返りを期待しないこと」であることについて、この項の冒頭で一言しましたが、それはこの最後の一要件を欠如する時、それ以外の諸要件をすべて満たしてきっとしても、この一点の欠如によってそれまでやっとのことで積み上げて来た愛の石積みが、一挙に崩れ去り「アガペー」が崩壊してしまうことを意味しています。それ以上に今まで多くの愛と忍耐を持って、しかも自己犠牲をさえ甘受して献身的に仕えて来た「アガペー」の営みが、結局は皆見返りを期待する恩着せがましい偽りの愛に過ぎなかったことを自己暴露するような結果に陥ってしまいます。それは何と空しく、悲しい結末でしょうか。こんな残念なことはありません。 ですからくどいようではありますが、決して最後まで見返りを期待したり、ましておや恩に着せるようなことをしたりしてはならないのです。そのようにしてどこまでも「アガペー」一筋にフォローし続けて行くところに、心傷つき病んでしまったウルトラ良い子たちの癒しが完成するのです。その時、お互いの受容者の長い間の祈りが成就し、それまでの一切の愛の労苦が天地万物の創造者である神の御心に適い、必ず報われるのです。これこそ見返りに優る見返りであり、何一つ恩返しなどは全く期待しなかったにもかかわらず、神がその無欲な献げきった美しい混じりけのない心と献身的な労苦を嘉されて、必ず報いて下さる恩返しに遥かに優る神の祝福(恵み)と言うものです。

 

 

さて、いよいよ「アガペーによるフォローアップ」に関する「神に嘉(よみ)される8原則」の最後の一つになりました。それは何かと言えば、「失敗を恐れず、現象に惑わされず、常に原則を繰り返し、神により頼め」と言うことです。

 

そもそも本書の冒頭から終始一貫して高調して来たことは、この「アガペーによる全面受容の癒しの道」は、お互い人間の考えによって作り上げられた単なるセオリー(理論)や施策の所産ではないと言うことです。これは人間と天地万物を創造された創造主である神の奥義であり、また真理だからです。先にも一言したようにここで筆者は、何か宗教の奨めを敢えてするつもりは毛頭ありません。しかし、それを宗教と言うか言わないかは各人のご意思にお任せして、筆者自身はもしも天地万物の創造者がおられるとしたなら、そのお方はご自身がそのご意思と目的を持って創造された人間並びに万物に対して、今もなおその内に働かれて、その創造主の聖く正しい御心に従って生きかつ歩む者のために、最善な方法をもって報いて下さると言うことを信じる者の一人です。そこで更に以下において述べることを寛大な御心でお聞きいただければ幸いです。

 

これは筆者が長い間、心傷つき病んでしまった「ウルトラ良い子」の癒しのミニストリーに携わりながら、今日に至るまで数々の臨床的体験を重ねてきた過去の事実に基づいて申し上げていることなのですが、どうか途上において如何にケアーに失敗したり、思うようにことが捗らないと言った現象に直面しようとも、決して失敗を恐れず、現象に振り回されたり、惑わされたりせずに、ひたすら原則に立ち返り「アガペー」し続けることです。「アガペーの行くところに、向かう敵なし」と確信し、「頑(かたく)なに」と思われても、「ただひたすら一筋に、最後の一息まで」、アガペーの基本原理・根本原則に従って歩み続けて頂きたいものです。決して挫(くじけ)けたり、諦(あきら)めたりしないでください。「アガペーによる受容の癒し」は、創造主が定められた癒しの原則、いや「法則」なのですから、それにどこまでも沿って生き、歩む者があれば、必ずその良き報いに与(あずか)ることが出来るのは必然であると言えましょう。またこうも言うことが出来ましょう。これがもし「法則」であるとするならば、これに則(のっと)って歩んだ者には必ずその「法則」通りの良き結果がもたらされることでしょう。そこでこの「法則」通りの良き結果は、その「法則」の信憑性(しんぴょうせい)をまさに裏付けることとなり、更にまたこの「法則」の信憑性は、その「法則」の創始者であり制定者である天地万物の創造者の存在を、まさに実証する「神の存在証明」であるともいえるでしょう。だから失敗を恐れず、現象に惑わされず、常に原則にしっかり立ち返り、それを反復・継続して実践してまいりましょう。まさに創造主なる神により頼み、「ひたすらに、一筋に、最後の一息まで」これを貫き通すところに、神に嘉(よみ)された勝利と喜びに満ち溢れた、心傷つき病んでいた「ウルトラ良い子」の癒しの日が到来することでしょう。必ずその日が到来します。それは「法則」なのですから!

 

 

第5章 心傷つき病む子供たちの癒しへの道

 第5章 心傷つき病む子供たちの癒しへの道

Ⅳ.アガペーによる全面受容とその軌跡(自立への7ステップ・法則)

 さて、以上において述べ来ったように心傷つき病んでしまったウルトラ良い子たちを癒すための最良の道として“アガペーによる全面受容”の道を説いてきましたが、いよいよこのあたりでまとめに入りたいと思います。そこでこの癒しへの道の総括として、“アガペーによる全面受容”がこれらの病める子どもたちを癒して行く素晴らしいプロセスを明記しておきましょう。

 

 小僕はこれを「癒しへの軌跡」とか「自立への7ステップ」と呼んでいます。なぜなら、彼らを全面受容し続けて行くとき、そこには必ずと言ってよいほどの“癒しへの足跡”を見出すことができるからです。これは同時に彼らが癒されて自らを健常に回復し、待望の自立にまで達して行く、まさに“自立へのステップ”をそこに見届けることができるのです。ちなみに、この“軌跡”若しくは“ステップ”には、例外がありません。必ずこの“軌跡”を辿るのです。ですからこれは以前にも申しましたように決して“奇蹟”ではなく、“法則”であると言うことができましょう。そしてそこには以下のような明確な7段階のステップ、つまり法則があります。では次にその7つのステップ(法則)について記しておくことに致しましょう。

 

 

アガペーによる全面受容の軌跡と癒しへの7ステップ(法則)

<第1ステップ> アガペーによる徹底的全面受容との出会い

当然のことながら、まず初めに“アガペーによる全面受容”との出会いがなければなりません。しかも、徹底的全面受容との“出会い”です。中途半端な受容ではいけません。“全面受容”です。のみならず真実・真心こめての徹底した全面受容です。すでにくどいほど学んで来たように、これを「アガペー」と言うのです。人は誰でも例外なく、この“アガペーによる全面受容”に出会ったところから癒しに与って行くことができるのです。“アガペーなくして癒しなし”“アガペーによる全面受容に出会う時、癒しが始まる”これはまさしく永遠不変の真理なのです。ですから、この永遠不変の真理の土台の上に、第一のステップを築きましょう!ちなみに、ここでいま一度「アガペー」の定義を繰り返し、記しておきましょう。そして、常にこの定義を思い起して口ずさんでください。この「アガペー」を日々思い起こし、「アガペー」をイメージし心の内に反芻(はんすう)しながら、心傷つき病んでしまっている、あなたの子ども若しくは病める者を全面受容し続けてあげてください。そこに確実に癒しが促進されて行きます。そこで、「アガペーとは、相手のために、しかも自らに敵対し、不利益を与える相手のためにさえ、あえて自己犠牲を甘受して、その相手の祝福のために、自らを献げ、仕えて行く、何一つ見返りを期待しない、心と生活(生き様)である」 

 

 

<第2ステップ> 充足感の到来

さて、第2のステップは“充足感の到来”です。徹底した“アガペーの全面受容”を与え続けると、そこには必ず“充足感”が与えられます。この充足感が与えるということは、彼らの癒しにとって極めて大切なプロセスです。彼らが傷つき病んでしまっているということは、そこには何一つ“充足感”を感じられなくなってしまっているということをも意味しているのです。哀れな彼らは長い間の極度の抑圧のゆえに、何をしてみても、またその反対に何もしなくても満足はなく、また何を見ても見なくても、更には何を手に入れても入れなくても心満ち足りず、満足感・充足感を得ることが出来ないのです。彼らは常に空虚で無気力に陥てしまっているのです。この得体のしれない空虚感と無気力感のゆえに、彼らはしばしば大きな不安や恐怖、更には強い焦りや苛立ちを覚え、それが彼らを異常心理・異常行動に駆り立てるのです。

 

 ところがこのような状態に陥ってしまっている彼らに“アガペーによる全面受容”との出会いが与えられるとき、彼らの心に満足感が訪れ、その満足感が彼らに引き続き持続して与えられ続けると、それが“充足感”となって彼らの心を満たすのです。その瞬間、彼らは彼らを駆り立て悩ませていた空虚感、無気力感から、更には不安や恐怖、焦りや苛立ち、そして劇悪な異常心理や異常行動から一時的に開放されるのです。勿論、この状態はいま記したように一時的なものであって、持続的恒常的安息に入るためには、なお継続的に注がれ続ける“アガペーによる全面受容”が必要なのです。

 

 大分前にも記しましたように、彼らの要求するところは、彼らが今ではすっかり心病んでしまっているため、家族や周囲の人々にとって極めて受け入れ難い、いわゆる一般的には悪い要求と思われることが多いのです。ですから、彼らの要求や願望は、ほとんど受け入れられず退けられてしまいます。とりわけ世俗的価値観に強く支配されている両親や周囲の人々からすれば、その拒絶はむしろ当然のことであって、それを受容することなど断じてあり得ないことでもあるのです。ですから、その悪しき要求を受け入れることは、その心病んでいる子どもに迎合することで、極度の甘やかしとなり、時としては“共依存”になりかねないこととして拒絶されてしまうのです。ですから、その両者の関係はますます相対峙する関係となり、両者の関係は悪化するばかりです。その結果、悪しき要求をした心病む子どもは、以前にも増して不満足となり、充足することは決してあり得ないのです。そこには対話も絶え、憎しみと争いが激化するばかりです。ですが“アガペーによる全面受容”は、そうではないのです。そこに活路を拓き、荒野に道を切り開いて行くことが出来るのです。

 

 正論は充分理解し認識しています。何も『“悪”を受け入れよ。闇雲に“悪を成す”ことを肯定せよ』と、言っているのではありません。また他者や第三者の人々に害を及ぼすことを肯定しているのでもありません。それは断じて避けるべきです。しかし、「自分一身」が受け入れ、耐え忍び、甘受しさえすれば良いことであったとしたなら、どうでしょう。「アガペー」はそれを受容するのです。我慢するのではありません。愛のゆえに積極的に耐え忍び、受け止めるのです。その動機と目的は極めて明確でなければなりません。それは唯一「相手の祝福」、つまり癒しのためにです。真の「アガぺーによる全面受容者」は、「アガペーによる全面受容」を与える時に、そこには必ず相手の心にある種の満足感と更には充足感が宿り、その瞬間、彼らの心の内に和らぎが芽吹くことを確信しているからです。そして、この和らいだ心に更に「アガペーの全面受容」を注ぎ込んで行く時、その心にゆとりが生じ、緊張がほぐれ、対話が回復されるのです。断絶していたコミュニケーションの復帰です。では、このことを可能にしたのは何によってだったのでしょうか。言うまでもなく一般常識や、ましておや利害関係を基盤にした世俗の価値観からすれば、一見不合理で、非常識にさえ思われるかもしれない行為なのですが、実にこれこそがキリスト教で言う、十字架のキリストの内から湧きあがった、自己犠牲を敢えて甘受したうえで注ぎ出された「アガペー」の愛の威力なのです。この「アガペー」が“奇蹟”とさえ思える対話の活路を生み出すのです。しかし、これは決して“奇蹟”ではなく、先にも一言しましたように実に“法則”そのものなのです。ですから「アガペーによる全面受容」は、傷つき病んでいた対話不能の人々の心に、一瞬の満足感と充足感を生み出し、その満足感と充足感が彼の心の緊張を緩め、静め、そして相手との間の心の通いの扉をわずかづつ開かせるのです。これまた心傷つき病んでいる極度の“人間関係不全症候群”に陥っている子らや人々の癒しのためのステップとして、極めて重要なことなのです。

 

 ちなみに筆者は、今日に至るまでに全国各地のAFCCのセミナー受講者たちの間で、どれほど多くの人々のうちにこの素晴らしい体験者を目撃させて頂いてきたことでしょう。その度ごとに「人間とは何と素晴らしい存在か!」と感嘆せざるを得ませんでした。

 

 ここで更にもう一言、これまた極めて重要なことを記しておきたいと思います。彼らは決して彼らの要求が満たされ、要求したものが思い通りに手に入ったから満足し、充足したのではありません。この敵対し、不利益を与える異常心理・異常行動に出る自分のためにさえ、あえて自己犠牲をも甘受して、その自分の癒しのために、何一つ見返りを期待しないで献げ、仕えてくれる真実で、美しい献身的な「アガペー」に出会ったから、彼の心の深みに満足感と充足感が宿ったのでした。 

 

 

 <ステップ3> 深みの安息の実現

 さてここでさらに次のステップに進みましょう。次は、「深みの安息の実現」と言うステップです。この「深みの安息の実現」は、心傷つき病んでいたウルトラ良い子たちの癒しの上で極めて重要なプロセスです。これは彼らが確実に癒されつつあることの顕著な証明であり、目印でもあります。前項で述べた「充足感の到来」を経験した彼らが、更に継続してこの充足感を味わい続けると、次にはそれが遂に彼らの心の深みに安息状態を生み出します。この心の安息状態は、長い間彼らをいらだたせ悩ませて来た、極度の不安感や焦燥感、イラ切れ症状やパニック症状から彼らを守り、心穏やかに人間関係を結び易くしてくれます。このことによって彼ら本人はもとより、周囲の家族や人々にも安息を齎(もたら)すことが出来るのです。それゆえ「アガペーによる全面受容」により、「心の満足感と充足感」を継続して与え続けることによって、遂に彼らの心に「深みの安息」を実現させて行くことが、如何に重要であり、素晴らしいことかがお分かり頂けると思います。

 

 しかし、ここまでに至るためには、しっかりと積み上げられ持続した「アガペーによる全面受容」の長き日々が不可欠です。そこには当然ながら愛の忍耐と自己犠牲の甘受が必要です。決して一朝一夕でなるものだと安易に考えてはなりません。勿論、時としては以前にも申し上げましたように、「アガペーの全面受容」を始めてから、日ならずしてまさに奇蹟が起きたと思えるような速やかな癒しが齎されることもあります。これこそ「アガペーによる全面受容」効果の顕著な典型的事例と言えましょう。しかし、多くの場合はそうではありません。そこにはそれぞれのケースに応じた、それ相応の時間を要します。それは概して言うならば、その心傷つき病んでいる子どもたちの心傷つき病んで来た時間経過に比例し、心傷ついた症状の軽重に比例します。

 

 さて、ここで一つの大きな障壁のようなものが癒しに携る両親やケアにあたる人々の前に立ちはだかり、大きな重荷が圧し掛かってきます。それは愛の忍耐と自己犠牲を甘受すると言うこの重要な一事を、如何に持続して実行し続けることが出来るか、と言う難題です。これは人間の並な我慢や努力では、到底乗り越えることが出来る問題ではありません。ではこの難問をどのようにして克服することが出来るのでしょうか。出来るのです。事実わたしの関わってきた多くの両親たちやケアにあたられる方々が、見事にそれに成功してこられたのです。果たしてどのようにしてそれを成し遂げられたのでしょうか。そこでここにその秘訣を、その方法をお教えしましょう。

 

①まず第一は、「“アガペーによる全面受容”を継続して行けば、必ず癒しに到達する」と言うことへの揺るがぬ「確信」です。この「確信」は、心に「希望」を齎(もたら)します。そしてその「希望」は、希望を抱くお互いの内に不思議な「平安」を与えてくれます。「きっと何とかなる。必ず報われる時が来る。決して失望に終わることはない」と言う思いが、湧き上がり「忍耐」する力を約束してくれるのです。そうです、この「確信」は、「希望」を、その希望は「平安」を、そしてこの「平安」が、持続する「忍耐」を可能にしてくれるのです。ですから「“アガペー”の向かうところ敵なし!」と確信して進んでください。

 

②第二は、「愛と祈りです。どうか心傷つき病んでいる子どもを愛し続けて下さい。愛は決して見放さず、見捨てません。そこに愛が働く時、その愛はきっとこう祈るでしょう。「世界中のすべての人が見捨てても、わたしは決して見捨てません。どうか神様、病める子を癒して下さい」と。自分の知恵も力も、そして他者の知恵も力も一切が無力に思える時であっても、愛はあきらめず、遂に日頃無縁に思われていた、目に見えない偉大な御存在、つまり「神」の救いの御手にすがりつく思いで祈るのです。ここで小僕が、何か宗教の奨めをしていると思わないでください。祈りは、人間が単なる動物でないことの証明です。人間だけが万事が窮した時に祈ることが出来る崇高な存在なのです。これは「苦しい時の神頼み」などと軽蔑すべき何ものでもなく、これこそ人間の尊厳であり、真の人間証明(アイデンティティ)なのではないでしょうか。とりわけ「愛は祈る」のです。無神論者であろうと何であろうと関係がありません。そこに「愛」があるなら、愛する者が困難に直面し、生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされているのを見て、思わず今まで信じたこともなく、見たこともない全能なる神に向かって祈るのです。何と尊く、美しいことでしょう。かくして愛が祈りとなる時、更に不思議と「アガペーによる全面受容」が持続しやすくなり、耐え忍ぶことが出来るのです。

 

 この「深みの安息の実現」は、心傷つき病んでいたウルトラ良い子たちの癒しの上で極めて重要なプロセスです。これは彼らが確実に癒されつつあることの顕著な証明であり、目印でもあります。前項で述べた「充足感の到来」を経験した彼らが、更に継続してこの充足感を味わい続けると、次にはそれが遂に彼らの心の深みに安息状態を生み出します。この心の安息状態は、長い間彼らをいらだたせ悩ませて来た、極度の不安感や焦燥感、イラ切れ症状やパニック症状から彼らを守り、心穏やかに人間関係を結び易くしてくれます。このことによって彼ら本人はもとより、周囲の家族や人々にも安息を齎(もたら)すことが出来るのです。それゆえ「アガペーによる全面受容」により、「心の満足感と充足感」を継続して与え続けることによって、遂に彼らの心に「深みの安息」を実現させて行くことが、如何に重要であり、素晴らしいことかがお分かり頂けると思います。

 

 しかし、ここまでに至るためには、しっかりと積み上げられ持続した「アガペーによる全面受容」の長き日々が不可欠です。そこには当然ながら愛の忍耐と自己犠牲の甘受が必要です。決して一朝一夕でなるものだと安易に考えてはなりません。勿論、時としては以前にも申し上げましたように、「アガペーの全面受容」を始めてから、日ならずしてまさに奇蹟が起きたと思えるような速やかな癒しが齎されることもあります。これこそ「アガペーによる全面受容」効果の顕著な典型的事例と言えましょう。しかし、多くの場合はそうではありません。そこにはそれぞれのケースに応じた、それ相応の時間を要します。それは概して言うならば、その心傷つき病んでいる子どもたちの心傷つき病んで来た時間経過に比例し、心傷ついた症状の軽重に比例します。

 

 

③第三は、「同志による励まし」です。

 この「同志の励まし」くらいケアーに当たる両親や従事者にとって、慰めと励ましになることは他にありません。長く受容を続けなければならないケアーに当たる者にとっては、しばしば極度の孤独に陥ることがあるでしょう。所詮、他者に肩代わりしてもらうことも出来ず、どこまでも一人でその重荷を担い続けなければならないのかを思うと、途方に暮れてしまうこともあるでしょう。折角心傷つき病んでしまっていた我が子のために耐え忍び、やっとのことでここまで僅かずつでも信頼関係を回復して来たのだが、この先いつまでこの状態が続くかと思う時、孤独どころではなく絶望的にさえなってしまうこともあると思います。

 

 しかし、このような時に自らと同じような境遇にある仲間や、既にそのような体験をしてそれを克服して来た先輩たちが身近にいて、相互にその体験を分かち合い、励まし合うことが出来たとしたら、どんなにか慰められ励まされ、助けになるかしれません。小僕はこれを「同志による励まし」と呼んでいます。このような「同志」が与えられる時、自分が今一人だけでこのような試練・苦しみの中を辿っているのではなく、彼らも同様な試練と苦しみに遭遇しているのだ、のみならず既にそれを越えて試練と苦しみに打ち勝ち、今や勝利の安息と喜びの中に憩っている仲間たちが共にいて自分を見守り、このように自らのために親身になってスクラムを組んでいてくれるのだと思うと、孤独感が吹き飛び、希望と勇気が湧いてきます。

 

 そこで一人で悩み苦しみ、孤独感や絶望感に苛まれている方々がおられるなら、ぜひ「同志による励まし」に出会ってください。ちなみに小僕は、今日までに各地で「アガペー・ファミリー・ケアー・センター」(通称AFCC)主催のセミナーを開催してきましたが、ここはまさにそのような「同志」と出会い、「仲間」を見出す絶好の場です。のみならずいつしか彼らは「同志」、「仲間」を越えて「アガペー・ファミリー」と呼び合うまでになっています。

 

 かくしてこのような深くて強い交わりと結束の中で、心傷つき病んでいる子供たちを全面受容して行くことが可能となるのです。実にAFCCの月例の会合を通して、またここで結ばれた「同志」・「仲間」・「ファミリー」たちが日毎夜ごと常に相互に連絡を取りながら慰め合い、励まし合い、祈り合いつつ、支え合い、助け合って共に立ち上って行く様子は、何と麗しく頼もしいことでしょう。このような営みや関係が今日如何に必要なことでしょう。もっともっと全国各地でこうした「同志による励まし」のネットワーク作りが促進されたなら、今日における日本社会の悲劇が食い止められるに違いありません。

 

 

<ステップ4> 心のゆとりの造成

豊かなアガペーによる全面受容によって心の深みに安息を経験し始めたウルトラ良い子にとって、更に必要なのがこの「心のゆとりの造成」です。

 

既に先に述べたように「アガペーによる全面受容」によって充足を与えられ、一旦「充足感」を味わった彼らが、更に引き続き繰り返して「充足感」を味わい続けることによって、今度は充足に優る「安息」を体験するようになって行きます。この更に心の深みで体験した「安息感」こそ、彼らの心の癒しにとって必須の辿り着かなければならない境地です。この「安息感」は彼らが確実癒されつつあることの明白なバロメーターです。 しかし、ここで気を良くして安心し過ぎたり、手抜きをしてはなりません。むしろこれを喜び、感謝しつつ、より一層の「アガペーによる全面受容」に励むことが必要です。なぜならば、とてつもなく長い間悩み苦しみ傷ついて来た彼らの心の旅路からすれば、やっとやって来たこの喜ばしい「充足感」や「安息感」の体験と味わいは、ほんの短い期間に過ぎません。この体験と味わいが彼らの内にしっかりと定着し、彼らの心が安定し、逆戻りすることがないまでになるには、なお引き続きの「アガペーによる全面受容」の継続が不可欠です。ここで必要なスッテプが「心のゆとりの造成」と言うことです。すなわち、彼らの心に更に「安息感」を贈り届け続けることによって、「心のゆとり」を生み出し、造りだして行くことが必要なのです。「ゆとり」のない所には、わずかな悪しき刺激がやってくると、たちどころに動揺が起こり、緊張し、不安が呼び起こされて、パニック状態を起こし易いのです。ですから「充足感」から「安息感」にまで辿り着いた心傷つき長い間病んで来たウルトラ良い子のために、更に重ねて油断することなく「アガペーによる全面受容」を続けることによって、「ゆとりの造成」が必要なわけなのです。この状態をコンクリート敷設に例えてみるならば、ある時、所定の場所にコンクリートを流し込んだと致します。流し込まれたコンクリートは、徐々に乾き始めて固くなって行きますが、完全に乾き切り固まるまではその上を歩くことは出来ません。表面は外見上ではすっかり乾き切り固まったと思えても、しばしばまだ内部が固まっていない場合があるのです。そこでなお時間をかけ、水を撒いたりしながら「ゆとり」をもって時をかけるのです。しかし、それを待たずに性急にそのコンクリートに上り、歩こうものなら折角固まりつつあったコンクリートを損なってしまいます。ですから完全に乾き切るまでの「ゆとり」の時間が不可欠なのです。

 

 そのように心傷つき病んでいたウルトラ良い子の癒しのためにも、「充足」から「安息」へ、しかも「深みの安息」の上になお安息状態が固まるための「ゆとりの造成」が必要なわけです。多くの両親やケアーに当たる人々が、しばしばこの時点で失敗してしまうことが多いようです。よくよくこの点に注意してほしいものです。あたかも飛行機が滑走路で充分な加速をつけて、遂に離陸し大空に飛び立って行くように、長い間心傷つき病んでいた彼らは「深みの安息」と言う燃料を充分積み込んで、いよいよ「ゆとりの造成」によって整備された長い滑走路を、徐々に加速しつつ「癒しの大空」へ飛び立って行くことが出来るのです。何という楽しみでしょう! 

 

 

 <ステップ5>冷静で客観的な自己の正しい位置付けの始動―謙虚な自己認識と自己受容の胎動―

さて第五のステップは、「冷静で客観的な自己への正しい位置づけ」が始動し始めることです。これは別の表現をすれば「謙虚な自己認識と自己受容の胎動」ということになります。そもそも心傷つき病んでしまっているウルトラ良い子たちは、冷静に自らを見つめたり、客観的に言動を発したり、自分自身を制したりすることが出来ません。彼らは多くの場合、極端な両極の自己認識を持っています。一つは、自己の考えを絶対視し、自分こそ正しい人間であって、正しい主張をしていると誇示し、他者を批判し、他人の意見や言葉に耳を傾けようとしません。そうかと思うと、他面においては極端に自己を卑下し、他者に対して強いコンプレックスを抱き、自分などはどうせろくでもない人間であって、生きている意味がない。自分を正当に評価し、理解してくれる人はどこにもいない。いっそのこと死んだ方がましだなどと自己否定的な考えに落ち込んでしまいます。概して彼らの内にはこの相入れないはずの極端な考えが同居し、混在しています。彼らがその時置かれている状況次第によって、このいずれかの考え方が顔を出すのです。実は彼らのこのようないずれの考え方も、先に何度も繰り返し申し上げて来た世俗的価値観による極度の抑圧の結果であると言っても過言ではありません。世俗的価値観に抑圧され心傷つき病んでしまった彼らは、悲しいかな強いコンプレックスが心の深層に存在し、自己が相手によって支配されないようにと異常なほど相手や周りの者に対して虚勢を張り、自己を高揚させて他者を制することによって、自分自身の傷つくことと落ち込むことを防御しているのです。その反対にそのような防御態勢を取ることが出来ない場合は、後者のような極度の自己卑下や自己否定をするのです。しかし、この場合も実は、これまた悲しいかな彼らの心の深層には、他者の批判やさげずみから自己を守るため、あえて他者に先駆けて自らを引き落とすことに、他者からの非難をかわし、また他者によって自らが惨めな思いにさせられないように自衛しているのです。何という辛く悲しい彼らの心情でしょう。しかも、彼らは自らこのように自覚し、意識してやっているのではありません。その場合、彼らはそんな冷静さを持ち合わせてはいないのです。無意識のうちに条件反射的に、いわば自衛本能が作動したかのようにこのような反応を示すのです。このような悲しい彼らの心理を、果たしてどれだけの人々が理解していたでしょうか? ところが何と幸いにして素晴らしいことには、このような彼らが豊かな「アガペーによる全面受容」の内に迎えられ、ケアーされることにより癒され始めると、その癒しに正比例して「冷静で客観的な自己への正しい位置づけ」が出来るようになり、極度の自己誇示も、その反対に極度の自己卑下もしないようになり、冷静にして、かつ客観的に自己を見つめ、自分が何を言い、何をなすべきであるのかを正しく判断し、他者の如何にかかわらず自らの正しい位置づけが出来るようになるのです。つまり自己と真直ぐに向き合い、謙虚に自己を見つめ、ありのままの自分を受容することが出来るようになるのです。これが「謙虚な自己認識と自己受容の胎動」と言うことです。何と幸いにして、素晴らしいことではありませんか。「アガペーによる全面受容」は、彼らをしてここで辿り着かせてくれるのです。ですからどこまでも「アガペー」し続けようではありませんか。

 

 とりわけ前述した「ゆとりの造成」が充分になされる時、次にはこのような「冷静で客観的な自己の正しい位置付け」を彼らがなし、謙虚な自己認識と自己受容が胎動するまでになるのです。ですからこのような日の到来を楽しみに待ちわびながら、しっかりと各スッテプを踏み外さず、“ステップby ステップ”登りつめて行こうではありませんか。決して焦ってはなりません。疑いを起こしてはなりません。これらのステップは、あたかも法則のようなものです。ですから必ず辿り着くことが出来るのです。遅くなることもありません。聖書の中にこんな良い言葉があります。

 

「それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ遅くても、待っておれ。それは必ず来る。遅れることはない。」(ハバクク2:3)

 

 

 

<ステップ6> 自己変革への勇気ある挑戦の開始

 さあ、長い間心傷つき病んで来たウルトラ良い子たちの生涯に、解放と癒しの山頂が見えてきました。「アガペーによる全面受容」と言う屈強にして超ベテランのシェルパ―が、常に密着して共にあり支えてくれるので、決して中途で滑落することなく、確実に山頂に辿り着けるのです。「冷静で客観的な自己の正しい位置付けの始動」がなされ、「謙虚な自己認識と自己受容の胎動」が始まった彼らは、ここで最後の力を振り絞るようにして、今までの彼らには決してあり得なかった「自己変革への勇気ある挑戦」を、自らの主体的な意思決断を持って試みるようになるのです。これは彼らの生涯にとって驚くばかりの出来事なのです。通常人、健常人にとっては、これは当たり前のことであり、取り立てて言う必要の全くない、ごく当然の行為に過ぎませんが、彼らにとっては、これはまさに奇蹟が起こったかの如く大きな出来事なのです。

 

 とりわけ前述した「ゆとりの造成」が充分になされる時、次にはこのような「冷静で客観的な自己の正しい位置付け」を彼らがなし、謙虚な自己認識と自己受容が胎動するまでになるのです。ですからこのような日の到来を楽しみに待ちわびながら、しっかりと各スッテプを踏み外さず、“ステップby ステップ”登りつめて行こうではありませんか。決して焦ってはなりません。疑いを起こしてはなりません。これらのステップは、あたかも法則のようなものです。ですから必ず辿り着くことが出来るのです。遅くなることもありません。聖書の中にこんな良い言葉があります。

 

 そもそも彼らが極度に病んでいた時には、こと更に何かを選択決断しなければならない事柄に直面すると、俄然その選択決断が出来なかったのです。のみならずその選択決断しなければならいことが直近に迫ってくると不安が高まり、緊張が増し、遂には激しいパニック状態に陥ってしまうのです。そのような場合、彼らはすっかり落ち着かなくなり、苛立ち、周囲の者に攻撃を加えるようになってしまいます。その際、不思議なことにこれまた健常人には全く理解しがたいほどの不当な要求を、自分を最も受容してくれる相手に対して発するのです。その要求はしばしば強烈なほどの自己主張となって相手を苦しめ、追い込んで行きます。これだけのエネルギーがあり、自己貫徹を図ろうとして相手に強烈な要求を突き付けて行く意思表示が出来るなら、その何分の一にも当たらないわずかな努力で、他者や物事に対する意思表示や選択決断が出来そうなものなのですが、悲しいかな彼らにはそれが出来ないのです。そこで彼らの内に生じた大きな不安や苛立ちを解消しようとして、全く訳のわからない不当な要求を、他人に対してではなく、多くの場合自らを愛し全面受容してくれるであろう母親や受容者に対して突き付けるのです。何故そのようにするのでしょうか?

 

 第一は、彼らは本来他人からの評価や批判を極度に恐れているのです。とりわけ他人によって自己が低く評価されたり、否定されたりすることを極端にまで嫌うのです。ですから自分の選択したり決断したことが、本当に他者からみて高評価を受け、自己が賞賛されるかどうかを思う時、果たしてどう評価されるか皆目見当がつかず、自信や確信が持てないため、ひたすら思い悩むのです。

 

 第二に、そこでこのような状態の中から自らの内に起こって来た大きな不安や焦りや緊張を解消するために、最も自らを理解し受容してくれるであろう最良の身内、つまり多くの場合母親やそれに次ぐ受容者に向かって、極端な八つ当たり行動をとるのです。この場合彼らの要求するところは、理屈に合わない不当な要求ばかりです。それもその筈です。もとより自ら答えを見出せず、そうかといって他者からその答えを引き出せず、どうすることも出来ない不安や苛立ち、そして極度のパニックを引き起こしてしまっている彼らなのですから、ただその時自らの心の内を駆け抜ける衝動と欲求を闇雲に相手にぶつける以外ではないのです。ですから当然のこと不当な要求とならざるを得ないのです。

 

 第三に、少々うがった表現を許して頂けるのなら、このような彼らの行為は小さな子どもが親に駄々をこねるような最も安心かつ信頼している者への屈折した愛情表現であり、甘えであるのです。こうすることによって彼らはその自らに押し寄せてきている大きな不安や苛立ち、更には恐怖やパニック症状を懸命に癒そうと叫び求めている、いわば「緊急避難行為」なのです。

 

いかがでしょう。このような彼らの心を理解していただけるでしょうか。

 

 

<ステップ7> 自己変革への勇気ある挑戦の開始

さて、このような悲しい憐れな状態の中に長い間幽閉されてきた彼らが、既に学んで来たように、「アガペーによる全面受容」の積み重ねの中で、徐々に癒され、もとより生まれながらにして彼らの内に存在していた美しい純粋感性を復元すべく、癒しへのスッテップを一段一段登り来ることによって、何と驚くばかりの生涯上の一大飛躍を経験するようになるのです。それがこの「自己変革への勇気ある挑戦」です。前述したように彼らにはこのような自己変革など全く望めない傷つき病める症状が支配していたのです。彼らは他人によって自己が変革されることなど絶対に望みませんでした。のみならず自分自身で自分を変革して行くことなど、全く不可能でした。ところが何と「充足」から「安息」へ、更には「深みの安息」から「ゆとりの造成」にまで進んで来た彼らには「冷静で客観的な自己への正しい位置づけ」が可能となり、「謙虚な自己認識と自己受容」さえ出来るようになって来たのです。そして遂にまったく自他ともに不可能だと思い、諦めていた「自己変革」へ向かっての勇気ある挑戦が始まるのです。これは周囲の人々の目にはまさに「奇蹟」のようにさえ思われる出来事なのです。しかし、これは「奇蹟」でも何でもありません。すでに本書において学んで来たように、これこそ「アガペーによる全面受容の法則」と言うべきものであって、「アガペー」に「アガペー」を積み上げ続けるところでは、いつの時代でも、どこにおいても、そして誰においても必ずこの「奇蹟」と思える素晴らしい出来事が結果するのです。なぜならば、これは「奇蹟」ではなく「法則」だからなのです。

 

こうして途方に暮れるほど長い間、どうすることも出来なかった心傷つき病んでいたウルトラ良い子とその家族の上に、闇夜は去って日が昇り、喜びと感謝と勝利に満ち溢れた完全な「癒しの朝」が巡ってくるのです。あれほど恐れ、忌み嫌い、何も取り込むことの出来なかった彼らが、何と自ら望んで、しかも勇気をもって「自己変革」することを喜び期待し、立ち上がり始めるのです。これこそ何と喜ばしいことでしょう。皆さん、この素晴らしい出来事の到来を信じられますか。ぜひ信じて下さい。それが今皆さんのご家庭でも起ころうとしているのです。ですから「アガペーによる全面受容」を、しっかり継続して下さい。何よりも「アガペー」し続けて下さい。そうです、「アガペー」の定義を思い起こして下さい。そして口ずさみ、心に深く刻み込み、「アガペー」をイメージしながら「アガペー」に向かって歩み続けて下さい。

 

 

 

アガペーとは、相手のために、しかも自らに敵対し、不利益を与える相手のためにさえ、あえて自らの自己犠牲を甘受して、その相手の祝福のために、献げ仕えて行く、何一つ見返りを期待しない、心と生活である。」   G.サーバント

  

何と幸いなことに、筆者の周りにはこのようにして癒され立ち上がった方々が、大勢おられます。それらの方々は、全国各地でこの大いなる喜びの体験を自分たちだけのものとしないため、互いに分かち合い、証しし励まし合っています。何よりも癒されたウルトラ良い子たちのその輝いた生き様は、どれほど同じような悩みと苦しみを辿っておられる方々への大きな希望となっていることでしょう。

 

 

 

<第8ステップ> 受容の愛の環境下における成功、不成功の反復学習と感覚

 

育成による自立の実現 ―他者受容・環境受容・健全な人間関係の始動と真の社会性の発芽―

さてここでいま一つの登るべき最終のステップについて述べておきましょう。これこそ彼らが自立し、他者や彼らがこれから飛び込んで行かなければならないあらゆる環境に対して適合して行かなければならないための最終準備なのです。その最終準備とは、彼らが「自己改革への勇気ある挑戦」を始め、自らの自由意志によって、はじめて物事を選択決定しそれに取り組み始めた時、並でない不安とストレスを受けるのですが、このことに対する適切な対応の仕方と、またその挑戦に失敗した時や成功した場合への最善なフォローの手だてを過たないことです

 

すなわち彼らは、今やかつてにおいては全くあり得なかった健気な勇気をもって、その新しい課題・目的に向かって取り組み始めたのです。この時アガペーによる全面受容者たちは、彼らとぴったり呼吸を合わせ寄り添い、その彼らにエールを贈り続ける必要があります。しかし、このエールを贈ると言うことは、単なる激励を送ると言うことではありません。単なる激励は、かえって彼らにプレッシャーを与えてしまいます。ここで言う全面受容者のエールとは、彼らの不安な気持ちに寄り添い、それでもなお挫けずに目的に向かって突き進もうとしている彼らの姿に、心からの感動と畏敬の念をもって褒め言葉を贈るのです。そして万が一失敗しても気を挫かないように、愛のフォローに努めるのです。もし成功したなら心から共にその成功を喜び、その労苦を労うのです。「やれば出来るではないか」と言うような言葉がけは、絶対禁物です。

 

なぜならこのような言葉がけの背後には、「今までやらなかったから出来なかったのだ」と、またしても彼らを責めているような言葉を連想させてしまうからです。そうではなくあくまでも彼らの成し遂げたその勇気と努力に感動し、それを心から讃えるのです。そしてその労苦を労うのです。

 

そしてその反対に彼らが失敗してしまった時には、如何なる場合でも彼らを絶対に咎めず、慰め労わり、その痛みと悲しみに優しく寄り添うべきです。

 

多くの場合彼らがこのように新しい、しかも今まで一度も取り組んだことのない課題に挑戦するのですから、失敗したとしても不思議ではありません。むしろ失敗して当然とも言えましょう。それにも関わらず彼らが失敗するかもしれない難題に、今や勇気をもって挑戦し、取り組んだことにこそ大きな意味があります。そこでアガペーによる全面受容者たちは、単なる慰め言葉ではなく、あたかも成功したかの如くその勇気ある挑戦に対して感動し、よくぞこの新しい課題と目的に向かって取り組んだことを高く評価し、心からの褒め言葉をもって労い、当面の事柄に成功しなかったにしろ、その挑戦自体にしっかりと取り組み、それを果たし終えたことにこそ大きな意義と価値があったことを心底から喜んであげるべきです。こうすることによって「失敗」それ自体が失敗ではなく、失敗を恐れてそれに取り組もうとしなかったことこそ、人生における大なる失敗であったことを学ぶことが出来たら幸いです。ここで何よりも大切なことは、失敗によって挫折してしまうことがないように、更なる次の挑戦が出来るように繋がせてあげることです。ここでこそ重要なことは、「アガペーによる全面受容」をもって彼らの心をしっかりと受け止めて、変わらぬ愛の受容の環境下に彼らを迎えてあげることです。

 

そこでかくすることによって失敗しても、成功しても繰り返しその体験を積み上げて行くことによって、彼らの中に自立への大切な感覚を掴ませてあげられるのです。この失敗と成功の反復学習による自立への感覚の育成は、彼らの社会的適応を可能にし、自らこのような場合にはこう対応し、またあのような場面ではこのように対処すれば、成功もし失敗もするのだと言う感触をつかませてくれるのです。このような感覚を摘み取ることに比例して、彼らは自信を持ち始め、他者への恐れが薄れ行き、他者や他者の意見を、また周囲の人間や環境を受容することが出来るようになるのです。その時健全な人間関係を結び、社会性を身に着けて行くことが出来るわけです。ですからこの失敗と成功の反復を通しての感覚育成と学習は、彼らが自立し健全な人間関係を結び、社会性を身に着けて行くために、極めて大切な最終プロセスであり、またステップなのです。このことを良く心に留めてケアーに当たる受容者の皆さんが、しっかりとフォローしていただけたら幸いです。

 

 

 

第4章 心の傷つくプロセスと諸症状②

第4章 心病む子供たちの心の傷付くプロセスと諸症状

 

III. 非受容と抑圧の果てのウルトラ良い子の諸症状

さて、かかるプロセスを経て遂にウルトラ良い子たちの中に、様々な病める症状が惹き起こされてまいります。先ずそれが彼らの内面に起こります。そして遂にはそれが外面にまで現れ、他者をも悩ますに至ります。これらについて以下に要約して記しておきましょう。

 

a. 内面的諸症状

1. 自尊心が傷つけられ、自己の尊厳性を喪失する。

  誠に憐れなことに彼らは、上記のようなプロセスを経て何よりも先ず自尊心が傷付けられ、自分はだめな人間、役立たない存在、人から喜ばれない、嫌われている存在のように思いこみ、自己を卑下し、自己の尊厳性を見失ってしまうのです。

 

2. 天与の特性が発揮されず剥奪状態が起こる。

 自己の内に存在していた天与の特性は、一向に受容され評価されることのないまま、長い間放置され続けて来るうちに、遂にはあたかも剥奪されてしまったが如き状況を惹き起こしてしまうのです。

 

3. 自らの存在意義が見失われ、無価値感が造成される。 かくする内に自らが生きている意味がなく、存在している価値が全くないかの如く思われて来てしまうのです。

 

4. 自己の存在感が喪失し、得体の知れない不安と恐怖に追い込まれる。

 

こうなると何故自分が生きていなければならないのかが分からなくなり、得体の知れない不安と恐怖が自らの内に湧き起こって来て、彼ら自身を大いに悩ますことになるのです。

 

5. 自らの存在していることに罪悪感さえ抱くようになる。

 

のみならずこれまた誠に憐れなことに、彼ら自身は何一つ悪いことなどしていないにも関わらず、自らが存在していることに罪悪感さえ感じるようになってしまうのです。何と不幸せなことでしょう。

 

 

 

 

 

b. 外面的諸症状

 そこで、ここまで追い込まれて来てしまったウルトラ良い子たちは、遂に以下のような諸々の病める症状を呈するようになってしまうのです。

 

1. 自己の存在感を模索して自己防衛的異常心理と異常行動に出る。

  憐れ、彼らは自らの存在感が失われ、得体の知れない不安と恐怖に襲われながら、「溺れる者は藁をも掴む」の諺のように、何とかして自己の生きていると言う確証若しくは実感を掴み取りたいばっかりに、自己防衛的、自己保全的に他人から見て異常と思われることを思い立ち、それを実行してしまうのです。例えば、自分より弱い者をいじめることによって、自己の優位であることを確認し、それをもって他者にではなく、何と自分自身に対して「お前は存在している」、「お前は強い人間だ」とエールを送っているのです。これはまさしく哀れな自衛行為であって、自己の存在感確認行為なのです。つまり弱者への攻撃によって自己の存在感を自己検証しようとする誠に憐れな屈折した異常心理、異常行動なのです。これは他者から見れば明らかに彼らの異常心理、異常行動であって、彼らが加害者のように見えるわけですが、しかし、その実体は元をただせばかかる異常心理、異常行動のすべては、彼らが過去に受けて来た極度の抑圧の結果であって、彼らこそ被害者であったわけです。何と哀れなことでしょう。

  

2. かくして更にその異常心理、異常行動は以下のような諸症状を惹き起すのです。

  例えば、概して内向的な子供たちは、不登校、引きこもり、摂食障害(過食と拒食)、リストカット家庭内暴力(器物破壊、動物虐待、人身攻撃)、各種依存症(アルコール依存、薬物依存、性的依存、金銭依存、遊戯依存等)、屈折した病的自己保全と自己顕示、自殺等になり易く、また外向的な子供はいじめ、夜遊び、万引き、校内暴力、様々な非行や犯罪等に陥り易いのです。

 

 

 

 

さて、以上のように見て来ると非常に残念なことなのですが、実に皮肉なことには生まれながらに平均的他者に比べて圧倒的に純正な良き性質をもてこの世で呱呱の声を挙げた「ウルトラ良い子」ほど、より早く、より深傷つき易く、心病み、自己破綻し易いとも言えるのです。彼らはいわゆる格障害や対人関係不全症候群を惹き起し易いのです。その理由は、既におかりのようにこの世の価値観が余りにも相対化、世俗化、唯物化し、かつ粋なもの、本質的なもの、絶対的なものが見極め難くなっているからです。それゆえ本来「ウルトラ良い子たち」が持っている後者の性質と前者の世俗的価値観との間の落差が大きく広がり、両者の間の理解の乖離ゆえに「ウルトラ良い子たち」は、大きなストレスや抑圧を受け易く、徐々に傷つき病んで行くようになるのです。その結果彼らは、哀れな自衛行為として、または自己の存在感確認行為として皮肉なことに異常行動を取らざるを得ないように異常心理に追い込まれてしまうのです。それゆえ彼らは、他人にとっては極めて迷惑千万な存在に陥ってしまうのです。筆者はこれを「加害的被害者像もしくは現象」と呼んでいます。それが時には弱者への攻撃と言う形を取って、自己の存在感の自己検証を試みようとする屈折した心理現象を引き起こしてしまうのです。誠に人間は、甚だ悩ましい存在であると言えましょう。

 

さて、ここで異常心理、異常行動の一つの様態として、これまた筆者がしばしば「イラ切れ症候群」と言う呼称で表現している、彼らがしばしば惹き起す典型的な病める症状があります。そこで以下においてこれに関して若干詳述したいと思います。

 

 

 

 

IV. 「イラ切れ症候群」とその特徴

1. 「イラ切れ症候群」とは何か。

先ず「イラ切れ症候群」とは何かからお話ししましょう。心病み傷ついた「ウルトラ良い子」たちは、ちょっとした相手の言葉や行為に刺激され、突然苛立ち始め、激しく怒り出したり、暴れ出したりすることがあります。巷ではよく「もう我慢が出来なくなり怒り出す」ことを「切れ」てしまうと表現しますが、「ウルトラ良い子」たちは、とりわけ我慢していた様子もない時にでも、突然苛立ち始め、切れてしまうのです。このような症状を「イラ切れ症候群」と言います。

 

2.「イラ切れ症候群」の特徴

①これは比較的ウルトラ感性の強い人々に多い症状です。

 

②彼らは鋭敏な感性の持ち主であるゆえ、鋭い感性を持って物事を洞察することから、それに他者が気付かないと、彼らの心は激しく苛立つのです。

 

③彼らは、洞察した事柄について確信的であり、それを他者に期待し、要求する傾向があります。

 

④彼らは他者に対しては批判が鋭く、厳しい。しかし、自分自身のことに関しては全く省みる心はなく、謙虚かつ慎むことはありません。

 

⑤彼らは、そうせずにはおられず、自らの内に湧き上がる思いを抑制できません。

 

⑥一見極度にわがままで、自己主張が強いように見えますが、実は自己の思いの中に閃いた考えを、余すところ無く相手に伝えきらないと心が充足せず、かつ安息しないのです。

 

⑦彼らは相手がその思いに完全に共感(同意とは異なる)しないと彼らの感情の高まりが治まらないのです。

 

⑧彼らは聞き手が完全に自己の思いを理解し受け止めてくれたことを確認できるまで、あるいは自分が完全にその思いを相手に伝達しきれるまで同じ内容を何度でも繰り返し話し続けます。

 

⑨彼らは志向傾向が純粋である反面、事物の判断が一面的、単一的で、かつ平面的であり、また静止的です。それゆえ多面的、複合的、かつ立体的、力動的に、更には統対的、総合的に物事を判断できません。その結果、相手の高所大所からの判断を理解できず、それが不純かつ誤った判断に思えてしまいます。

 

⑩彼らは自尊心が強く、従って自尊心を傷付けられることを極度に恐れ、かつ幼少時代からの累積された抑圧とトラウマがあり、他者の言葉に過剰反応を示し、怯え、極度の不安を感じ易いのです。

 

⑪彼らは自己の思いの内に立ち上がった極めて狭められた視野の中で捕らえた考えを絶対化し、他者をその中に取り込もうとして極度に他者規制します。その結果相手を取り込めないときには、極度の不安や恐怖に陥り、苛立ち、遂に切れ症状を呈します。

 

⑫彼らは自己の判断に余ることや、自らが処し難い他者の要請や出来事に遭遇する時、これまた極度の不安を覚え、おじ惑い、かつ極度の苛立ちを覚え、泣き叫んだり、逆切れしたりします。

 

⑬彼らは極端なまでに自負心と羞恥心、他者批判と自己卑下、厳しさとやさしさ、理想主義と現実主義(世俗主義)、理屈っぽい大人びた言動と幼稚で稚拙な子供っぽさなどがその人間性の中に同居していて、それが時には自らの内で拮抗し自爆してしまいます。

 

⑭彼らは、失敗や過ちを犯した場合に、相手からそれを指摘されると、激しく逆切れしてその責任はすべて相手にあると責め立て、その謝罪がない限り、その心が安息出来ません。しかし、これと全く裏腹に、自分の心に若干のゆとりがある時は、意外なほど素直に自らの非を認めて謝罪することもあります。

 

なお、この他にもいろいろな症状がありますが、以上が彼らの主なる特徴です。

 

第4章 心の傷つくプロセスと諸症状➀

                             G.サーバント

第4章 心病む子供たちの心の傷付くプロセスと諸症状

さて、以上においてウルトラ良い子たちの抑圧の最大要因について詳細に亘り解説してきたが、ここではその具体的な心傷ついて行くプロセスとその諸症状について述べてみたい。

 

 

  1. 世俗の価値観に支配されている両親や同居の親族からの非受容と抑圧

 先ず何と言っても、ウルトラ良い子たちが心傷つき病んで行く第一のプロセスは、悲しいかな、皮肉なことに誰よりも最も我が子を愛している両親、そして同居の親族たちから始まる。この場合、既に繰り返し学んできて御存じのように、両親や親族と言っても、それはすべての両親、親族を意味しない。特に世俗的価値観に強く支配されている、言わば“世俗的価値観信奉者”とも呼ぶべき両親や親族によってである。

  彼らは自らがいつしか世俗の価値観に支配され、その奴隷になってしまっている自分自身に気付いていない。彼らはむしろ世俗の価値観に従って自らを自己評価し、それが他者よりも優っていると思える時、彼らはそれを自負し、ひそかに誇りにさえ思っている。

  そのような両親や親族の深層心理には、常に世俗の価値観への「媚(こ)び」と「怯(おび)え」が支配している。それ故このような人々が子育てにあたる場合、常に世俗的評価を気にし、他の子供たちと我が子を比較し、より世俗的評価の高い道に従って子育てにあたる。

  彼らにとって愛する我が子や孫が世俗的評価の低いものとなることは耐え難く、それは我が身の恥であり、我が子、我が孫の不幸であると考える。それ故その子供の感性・資質・性質、つまり本性(天性)がどうであれ、それを無視し、見過ごして闇雲に世俗的価値観に従って、子供を躾け、教育しようとする。

  その結果、その子の固有の感性や資質、性質や本性が受容されず、その子の心が訴えている声なき叫びや本性から発する個性的要請は無視されて、いつしかその否定・抹殺の上にその子の人格形成がなされていく。それもいわゆる世で言う「良い子育て」、「躾(しつけ)」という美名のもとで成され、かくしてウルトラ良い子たちは早くもかかる両親たちにより抑圧されていく結果となるのである。

  ちなみにこの連載のかなり始めのころに既に前述したので、今更繰り返し記すのはまさに蛇足となると思うが、あえてもう一度記せば、ウルトラ良い子の超鋭敏にして純粋な感性は、通常の平均的子供たちに優って抑圧を受け易い。しかも彼らは合わせて本来心優しく、他者貢献的な感性の持ち主であるため、両親たちの意思や願いに背く事は悪いことであると考えて、どこまでも自分の思いを表明しないで、あたかも自分が両親たちの思いに心から同意しているかに思われる対応をしてしまうため、遂には自分の本意に沿わない人間形成を加速させてしまい、その結果その心は充足も安息もなく、不満足と不安を抱え込み、徐々に抑圧が重なり、物事に新鮮な感動や喜びを感じ難くなり、何事にも無気力、無感動となり、更に徐々に対人間関係が子供ながらにも煩わしくなり、引きこもりがちになってしまう。

  しかもこうした状況が長く続くようなら、更には精神的にも肉体的にも異常心理、異常行動を惹き起すようになってしまう。これらはいずれも明らかにかかる抑圧の結果、そこにもたらされる心傷つき病んでしまっていく子供たちの哀れな諸症状に他ならないのである。

 

  そこで復習ながら、ウルトラ良い子たちが合わせ持っている八つの特質についてもう一度参考までに列挙しておこう。

 

純粋志向性 夢見る人、理想主義者、メルヘン志向、空想家

 

本質志向性 「なぜ」を問う、生まれながらの哲学者、思索家

 

霊的志向性 霊的感性が強い、可視的でない世界への探究心が旺盛、永遠、死後の世

界、霊の存在への関心、生まれながらの宗教家

 

絶対価値志向性 相対的に他者と比較する価値観に馴染まない

 

独創的志向性 閃きとのめり込み、科学者、文学者、芸術家

 

非打算的献身志向性 損得勘定に馴染まない、他者奉仕的人間、使命感が強い

 

他者受容志向性 温順な他者配慮、弱者保護の心に富む、隣人愛

 

生命畏敬志向性 自然や動物愛護

 

 

 世俗の価値観に支配されている両親や同居の親族からの非受容と抑圧は、しつこいように思われるかもしれないが、あえて強調して言うならば、これまたすでに述べてきたように、親の「我執(がしゅう)」から来るエリート主義に淵源(えんげん)する教育の弊害(へいがい)であって、「より良い子育て」とか「卓越した躾け」とかという美名の下で、親自身が世俗的価値観に駆り立てられてなす、我が子への人格操作に過ぎず、その子どもの本来の個性や本質を無視した一種の洗脳教育に他ならない。

  それは、我が子に対する真の個性的人格形成への阻害行為であり、時には破壊行為となる。それこそ人格破壊と人格破綻の大なる要因となる。しかし、意外にこの種の多くの両親たちは、この重大な問題に気付いていない。いや気付き難いのである。

  

 では、その理由は何か。それは皮肉にも、我が子を誰よりも愛していると思っている親の自負心に原因がある。通常世間一般の親たちは、他人の子どもより我が子が見劣りしている事を喜ばない。せめて人並みであるか、できればそれ以上であってほしいと願っている。

  愛していればこそ自分の子どもが可愛く、決して人から軽蔑されたり阻害されたりしないために、我が子が立派に育ってほしいと切願する。子どもを愛している親で、誰が我が子はどうなっても構わないと思う親があるだろうか。

  それゆえ愛していると思う度合いが大きければ大きいほど、我が子の成長と動向が気に掛る。それどころか一挙手一投足が気になってしまう。しかもそれが親の愛の証拠だとも思っている。

  

 そして、更にそこに親の世俗的価値観や我執(エゴイズム)が混入し始め、親の欲目から何としても子どもを立派に育てよう、それが子どもの将来の幸せにつながるのだと確信する時、我が子を愛すれば愛するほど過干渉となり、親の望むこと、あるいは親の良しと思う方法に従って、子どもの躾や教育を始めてしまう。そこで叱ったり、なだめすかしたりして飴(あめ)と鞭(むち)を使い分けながら「子育て」をするのである。

  その際の親の大義名分は、常に「愛しているから」である。そして先にも記したように、愛すれば愛するほど「よい子育て」、「良い躾」という名の下で、我が子の本来の個性や本質を度外視した人格操作、つまり洗脳教育することになるのである。

  これはもはや真の人格教育ではなく、「動物的飼育」もしくは「調教」である。のみならず、今日では動物たちの飼育や調教においてすら、それぞれの動物の個性や好みを重んじて、飼育や調教が行われるというのに、それにもかかわらず我が子の個性や本質、好みや心の求めを無視して、やみくもに世俗的価値観や親の我執に基づいて、一方的に押しつけ教育をする世の親たちの何と愚かなことよ!

  ここまで来ると「我が子を愛している」と言う親の自負心こそ、何と恐るべき罪悪と言う他ない。これはまさしく「履き違えられた愛」以外でなく、真実の親の愛ではない。もしもお互いが真実な愛の何たるかを知ったならば、それまでの世俗の親の愛はすべて「偽りの愛」に過ぎず、せめて一歩譲歩したとしても「もどきの愛」(愛もどき)、「つもりの愛」(愛したつもり)に過ぎない。これでは真の良い子は育たない。

 

そこで次には「真実な愛の本質」について学んでみよう。非受容、抑圧を与えてしまう理由は何か

 

(2)真の愛の本質に対する無理解

子供の心を傷付ける原因が、非受容と抑圧にあると記しました。更にはその非受容や抑圧が親が我が子を愛していると思っている自負心にあるとも申しました。では更にもう一歩踏み込んで問えば、何故そのように愛していると思う自負心を抱くようになってしまうのでしょうか。その原因は、実に真の「愛の本質」について正しい理解を有していなかったからでした。

 

ちなみにお互い人間は、「愛」と言う言葉を用いて自らと相手との間の特別に親しいホットな人間関係を言い表しますが、この場合実はお互いが抱いている「愛の概念」や「愛の性質」には、各人の間でかなりの開きや相違が存在するのです。それゆえ「愛のすれ違い」が起こるのです。

 

ある人の求めている愛は、かなり情緒的感情的愛であり、またある人の愛はそれに比してかなり理性的哲学的愛であったりいたします。中には甚だしく肉欲的な愛であったり、その反対に実に美しい献身的愛であったりするのです。のみならず人の抱く「愛の概念」、「愛の性質」は、その人の内に持つ人生観、世界観、価値観、更には知識や人生体験そして性格などの総和の上に生み出される所産であるので、その所産は厳密に言えばそれこそ各人各様であって、人の数ほどあって千差万別です。

 

それでは「真実な愛」つまり「愛の本質」とは何でしょうか。

 

■「真実な愛」と「愛の本質」

 

ここで世界の最高のベストセラーの位置を確保し続けている「聖書」に出て来る言葉を引用させて頂きましょう。その言葉とは次の言葉です。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(ヨハネ13章34、35節)

 

ここで極めて重要な言葉は、「わたしがあなたがたを愛したように」という言葉です。これはキリストが弟子たちを愛された愛を基準として、弟子たち相互も愛し合うようにという主の戒めです。これはキリストの愛の性質(本質)並びに愛の方法(愛し方)の基準を規定したものと理解することができます。

 

ちなみにこの聖書の書かれた当時の古典ギリシャ語には、いわゆる愛を表現する用語として四つの言葉が存在しました。もしもお互いが真実な愛の何たるかを知ったならば、それまでの世俗の親の愛はすべて「偽りの愛」に過ぎず、せめて一歩譲歩したとしても「もどきの愛」(愛もどき)、「つもりの愛」(愛したつもり)に過ぎない。これでは真の良い子は育たない。

 

そこで次には「真実な愛の本質」について学んでみよう。(続く)

 

 

 非受容、抑圧を与えてしまう理由は何か

(2)真の愛の本質に対する無理解

 さて、以上述べて来たように真の愛の本質が何であるかを明白に把握するようになると、お互いは如何に自分がこの世俗社会の中にあって、真の愛とその本質から遥かにかけ離れた低いところに自らの愛の概念を設定してしまっていたかに気付かされます。

  そこで従来お互いが描いて来た愛の概念は、以前にも申し上げましたように所詮それは「履き違えられた愛」に過ぎず、また「もどきの愛」(愛に似てはいるが、実は本当の愛ではないこと)、「つもりの愛」(愛しているつもりだが、少しも真の愛ではないこと)でしかないのです。

  本物志向の純粋感性を持ったウルトラ良い子たちは、このような虚偽の愛を忌み嫌い、彼らの感性は決してこれらと馴染まず、真実な本物の純度の高いアガペーの愛に触れ、そのアガペーをもって受容されたいと心の深みから切願しているのです。彼らは決して親や他者の虚偽の愛で騙されることはありません。のみならず彼ら自身、真実な愛に出会わない限り、彼ら自身の心を決して安息させることができないからなのです。何と素晴らしいウルトラ感性なのでしょう!

 

  1. 世俗的価値観に支配されている社会からの非受容と抑圧

―親類縁者、幼稚園、学校、職場、地域社会における世俗的価値観の強要と個性の否定―

 

 さて次は、世俗的価値観によって支配されている社会からの非受容と抑圧です。子供は両親や家庭からの感化と共に、徐々に成長するに従って社会との接点を持ち始め、その中で様々な感化を受けながら成長して行くようになります。

 

 ところがウルトラ良い子たちにとって困ったことには、両親や同居の親族の下においてすら彼らの有している強烈な世俗的価値観の支配と非受容によって、大きな抑圧やトラウマを心と身に受けるようになるのですから、ましておやほとんどすべての日常の営みが、まさに世俗的価値観によって支配されているこの世は、彼らウルトラ良い子たちにとっては、決して居心地の良いところではありません。

 

 親類縁者との付き合いの中でも、近所の人々や子供たちとの日々のやり取りにしてみても、また幼稚園や学校に行ってみても、更には成長して職場や一般社会に出て行っても、この世はいずこも世俗的価値観が氾濫しています。

 

 このような社会に対して何の免疫性も持ち合わせていない純粋かつ種々の鋭敏な感性をもつウルトラ良い子たちが、いきなりこの世俗的価値観という荒波にさらされる時、そこに大きな違和感と戸惑い、そして居心地の悪さと抑圧を感じないはずがありません。彼らは一早く、いわゆる世俗の荒波に呑み込まれ、翻弄され、溺れ始めてしまうのです。ウルトラ良い子たちは極めて世俗的価値観の荒波を乗り越えたり、世俗の価値観の海の中を泳ぎ回ることが不得手なのです。

 

 ただ唯一彼らがこれらの荒波を越える事ができる道があるとしたなら、それは良き両親の下で生まれた時から成人する時まで、せめて高校時代位までは両親の「全き愛による全面受容」―これについては後で詳細に亘り説明するが―を受けて、免疫力いや波乗り術を習得しておく以外ではないのです。

 

 しかし、悲しいかなその両親が「全き愛による全面受容」ができなかったばかりか、両親自体が強烈な世俗的価値観の持ち主であったりしようものなら、その下で育ったウルトラ良い子たちは、ほぼ全員「対人関係不全症候群」に陥るでしょう。彼らは既に家庭において極度の抑圧に遭遇し病み始めてしまっていたのに、更にこの世俗社会において決定的な抑圧に遭遇するからです。ここに彼らの人生の不幸にして悲しき旅路が始まるのです。 

  

 さて、こうしたプロセスを辿りながらウルトラ良い子たちが徐々に心病み、傷ついて行くのですが、この場合決定的に病める症状が顕著に外的に露呈するのは、いつ頃どのようにしてでしょうか。

 

 それは多くの場合、既に両親の愛の不受容若しくは非受容によって多くの抑圧を溜め込んで来た彼らが、遂に家庭以外の社会から彼らの個性や感性、またその尊厳性や自尊心を決定的に批判されたり、更には否定されるような出来事に遭遇した時、彼らはこの時から一気に病める症状を呈するようになり、異常心理、異常行動を顕著に顕すように至るのです。

 

 しかし、このような同一症状が早くも社会に出る以前に家庭内で起こってしまうケースも、決して少なくはないのです。それは言うまでもなくお分かり頂けると思いますが、この社会から受けるはずの彼らの個性や感性、その尊厳性や自尊心に対する決定的な攻撃、つまり批判や否定を、何と社会に出る前に前倒しにして、強烈なまでに家庭内で両親や同居の親族から浴び掛けられてしまった時、彼らは早くも病んでしまうのです。

 

 何という哀れなことでしょう。しかもそれがウルトラ良い子の感性に馴染まない世俗的価値観の情け容赦なき断罪によって批判されたり、否定されることによってなのですから、誠に悲しいことではありませんか。

 

 しかし、今日このような子供たちが激増しています。あるいは親や社会からの世俗的価値観の強要によって、またその尊い個性や尊厳性を否定されることによって、本来ならば他の子供たちより遥かに献身的に社会貢献できる可能性を豊かに内に宿しているはずの、これらのウルトラ良い子たちを、その両親も家族も、そして社会も国家も、更には世界までが、この宝のような尊い特性や個性を持ったこの子たちを失ってしまっているのです。誠に残念でなりません。

 

 しかし、ここで一つの模範的事例を御紹介しましょう。

 

 今は立派に社会に出て社会貢献しておられる一流企業のA社長さんですが、勿論素敵な奥さんと子供さんたちもおられ、とても家族を大事にしておられます。この社長さんは、実はウルトラ良い子の典型でした。岐阜県の旧家に生まれ、御先祖は徳川幕府時代に功のあった名門で、その家系からは多くの医者や学者や政治家を生み出した家柄でした。それだけに常に世間体を気にし、他人から誹(そし)られるような汚点を残さないことこそ、この家の誉れであって、それゆえよくよく子弟の躾や教育には格別留意し、何と養育係まで配して礼儀作法を教え、勉学に精進させました。

 

  ところがこのA社長さんには五人の兄弟がいて、A氏はその内の真ん中でした。一番上はお姉さんで、あとは皆男の子でしたから彼は次男坊でした。この次男坊のAさんこそウルトラ良い子そのもので、小さい内からしばしば突飛なことをしでかし、周囲の人々を困らせました。何度言って聞かせても、時には厳しく折檻(せっかん)してみても埒(らち)が明きませんでした。頭は極めて聡明で記憶も抜群なのですが、他人から規制されるのが嫌(いや)で、学校に行くのが大嫌いでした。家柄や世間体を気にする周囲の親類縁者からは将来を案じて、やれアスペルガーだとか、どこかに異常があるのではないかとか言って、何かと問題視されました。何とか小学校と中学校は、最低出席日数だけはかろうじて確保し卒業しましたが、とうとう高校には行かず、自分の好きなコンピューターばかりをいじくりまわしていました。

 

 こんな彼を小さい内からじっと見守り続けて来た彼の両親は、一時は非常に悩み誰よりも彼の行く末を心配しましたが、自分の家には厳格な子女教育の家風と伝統があり、人間には個性と特性があり、人間の知恵や力では到底如何(いかん)ともし難い特有の天性があるのだから、この子をいじけさせたり辱めたりしないで、できるだけ他者の干渉からこの子を守り、この子がやりたいことを何でものびのびとやれるように、愛と忍耐をもって見守って行こうと決心したのでした。これをAFCCでは「アガペー(愛)による全面受容」と言いますが、これこそが遂に功を奏し、A氏は独学で英語や数学、物理をマスターし、自力でコンピューターを開発するまでになりました。その内に米国のコンピューター会社から声がかかり研究者となり、遂には今日の一流企業の社長に就任することとなったのです。

 

 これは典型的な「ウルトラ良い子」が、世俗的価値観の抑圧から両親の「アガペーによる全面受容」によって完全に守られ、その卓越した天性を存分発揮することができた最良のモデルの一つでした。

 

 

第3章 両親からの抑圧と諸問題④

第3章 ウルトラ良い子の抑圧の最大要因 

3.子供の自立心や自尊心を損なう両親の言動が惹き起す諸問題

次に子供の自立心や自尊心を損なう両親の言動が惹き起す諸問題について言及してみよう。その典型的な幾つかのケースについて紹介しよう。

 

(1)甘やかせ

世間には子供に優しい物分かりの良い親がいる。真に結構なことである。しかし、それも度が過ぎると、その優しさや物分かりの良さが仇となり、子供の自立の妨げとなり、その自立心をすっかり損なってしまうことになる。

 

余りにも親が配慮し過ぎ、行き届くため、子供はすっかり親に甘えてしまい、子供自らが幼少時代に大いに取り組み、労苦することによって身につけて行かなければならない重要な感性や資質を養い損ねてしまうのである。優しく物分かりが良いということが、子供自らが努力し、労苦し身につけて行かねばならないことまで親が肩代わりしてしまう時、これを“甘やかせ”と呼ぶのである。

 

そしてこの“甘やかせ”こそ、子供の自立と自立心を奪う恐るべき親の大罪であって、やがては我が子が何一つ自分自身では物事の是々非々を正しく判断し、行動することのできない、優柔不断な人間としてしまうか、さもなければ我儘で自己中心的な独善的人間を育成してしまうことになる。

 

彼らは依存心が強く、よろず他者依存し易く、恥じず憶せず勇気をもって矢面に立てず、他人を恐れ、引きこもり易く、対人関係不全に陥り易い。かつ自らの意図せず、気に沿わない出来事や他者の言行に触れる時、もはや自制することができず、恐怖したり、泣き叫んだり、時には狂気して暴力をふるったりすることさえある。

 

この状態を時に異常心理、異常行動と呼ぶこともある。ともあれこれらはすべて自立心、自立力を“甘やかせ”によって損なってしまった結果に他ならないのである。

 

 

(2)放任主義

また他方、この“甘やかせ”と本質的に同様な問題を惹き起すものが、“放任主義”である。両親が子供に対する子育ての責任を放棄若しくは回避して、無責任にも子供の自立心や自立力を養い育てるべく、健全にして適正な子育てをせず、子供を野放しにしておく場合、結果として子供は自らの好きかってな生き方、考え方を身につけてしまい、真の自立力、自立心を身につけ損ねてしまうのである。

 

その結果、“甘やかせ”と本質的にほぼ変わらない自己中心で、他者の感情や気持ちを充分察することのできない自制の効かない子供になってしまうのである。しかし、時としてはこの放任が幸いにも良い人々との出会いにより、また他者との辛いやり取りなどを通して、他者配慮やけじめ、努力や忍耐、義務や約束の履行の重要性などをいつしか身につけるようになったり、更にまた、彼らはそもそも放任されていることから、いやが上にも自由奔放に生きることによって、勇気や大胆な発想力を身につけたり、いわゆるガッツある生き方を習得する結果になることもある。

 

これはあくまでも例外的であって、大部分の子供たちは放任されることによって前者のような弊害を被ってしまうことになるので、よくよく両親たちは子供を放任しないようにしなければならない。

 

 また、親から放任され、かまって欲しい時にもかまってもらえず、話しかけ、聴いて欲しい時にも話してもらえず、聴いても貰えないで、ただ放任され続けていると、やがて子供たちの中に“見捨てられ症候群”とも呼ばれる不安と寂しさ、更には自分は大切にされてはおらず、要らない人間なのだろうかとの真に不憫(ふびん)な思いが培われてしまう。

 

これまたいわゆる典型的な“抑圧”とは異なった意味でのコンプレックス、若しくは劣等感を引き起こしてしまう結果となり易い。そこで人恋しく極端にはしゃいでみたり、過度なジョークを飛ばしてみたりして、他人の関心を引き寄せようと道化師のようにふるまってしまうのである。ある者はそこで遂に非行に走ることもあり、引きこもる者もいる。いずれにしても、哀れ彼らの多くが心傷つき病んでしまうのである。これまた両親が惹き起こす重大問題の一つである。

 

ちなみに更に一言するならば、両親は、常に子供たちの人生、つまり彼らの心と生活の同伴者、更には彼らの成長・発達という人生レースの伴走者でなければならない。それ以上に、両親が彼らの成長過程で常に彼らに密着し、“同心同歩”を怠らず、しつけたり、教育・訓練するのではなく、豊かな愛の受容を持って共同歩行することによって、彼らに様々な良き体験をする機会を豊かに提供することにより、自己啓発と正しき生活感覚を育成する者でなければならない。

 

これこそが彼らの真の自立促進に益する道であり、両親は常に彼らの人生の良きアドバイサーでなければならない。それなのに、放任主義は両親が責任を全く放棄してしまうことに他ならず、放任主義は子供の人生に対する親が犯す大罪である。これらのことを両親はよくよくわきまえていなければならない。

 

 

(3) 父親の権威主義とエリート志向、及び母親の虚栄心と羞恥心の狭間に喘ぐ子供たちの抑圧

両親たちの言動が惹き起こす子供の抑圧に関して、今一つ大問題について指摘しておこう。それは、父親の権威主義とエリート志向、そして母親の虚栄心と羞恥心の狭間に喘ぐ子供たちの抑圧という問題である。ここには以下のような問題要素が絡み合っている。

 

権威主義

先ず第一は、父親の権威主義とエリート志向である。とかく世の父親たちは、父親の“権威”という虚像に幻惑されて、これに自ら酔いしれているかのごとく(これを“自己陶酔”と言う)、闇雲に自分の子供たちに向かって君臨しようとする。これが権威主義的父親像である。

 

しかし、前述したように父親は“権威”ではなく“尊厳”を持って子供を養育すべきである。“尊厳”ある父親は、決して権威を振りかざし、力づくで子供を服従させることをしない。彼は自ら真理に従って穏やかに、かつ子供の尊敬と信頼を勝ち取ることができるよう、怒りや苛立ちを寄せ付けず、物事の意味する是々非々を諄々と解き明かし、子供を説得することができる父親である。

 

しかし、自らにその内実を欠如した無能な父親に限って、本来ありもしない“父親の権威”という虚像を振りかざし、力づくで子供を黙らせ、服従させようとする。その結果、子供の心を傷つけ、大なる抑圧を与えてしまう轍を踏む。やがてこれは、子供の心に抑圧の結果として反感情や恨み、憎しみ、更には軽蔑の念を造成してしまう。権威主義には害あって決して益はない。

 

 

②父親のエリート志向

第二の問題は、父親のエリート志向である。既に何度も述べてきたように“ウルトラ良い子”たちや“心の優しい純度の高い性質を持った子供たち”を極めて抑圧し易い重要事が“世俗的価値観”というものであったが、この「エリート志向」というのは、その世俗的価値観の典型的落とし子であって、他者より優秀であり、出世街道を突き進む卓越した人間となることを志向することを意味している。

 

これはおのずと純真な子供たちに、自らを他者と比べ常に優位な位置づけに自分を置いておかなければならないことを強要する結果となり、これが彼らの大なる抑圧の原因となるのである。それは「エリート」でなければ、あたかもその人間は“価値なき人間”、“ダメ人間”、“脱落者”でもあるかの如く思わせてしまうのである。それは一種の恐るべき洗脳でもあり、純真な“ウルトラ良い子”たちに誤った人間観、歪んだ人生観、価値観を植え付けてしまうことになるのである。

 

にもかかわらず、世俗的エリート志向の父親は、我が子可愛さのあまり、ひたすら「エリート」であることを強要するのである。しかも父親の権威を振りかざし、我が子にそうなることを強要する時、子供たちはその心の内に徐々に抑圧を蓄積し、やがて傷つき病んでいくことになるのである。このプロセスでは、かなりの長い時間の経過を要するため、ほとんどの親たちが、まさかそのようになるほどまでに我が子が抑圧を受け、病み且つ傷つき始めていることに気が付かない場合が圧倒的に多いのである。

 

それ故、しばしばこのような事態に遭遇した父親たちは、我が子の病める症状に直面した時、「何故突然この子は、このようになったのだろう。全くその原因がわからない」とひたすら嘆くのである。しかし、何とそれほどまでに気づかない世俗主義的「エリート志向」の自分自身が原因であったのである。

 

ちなみにとかく我が子に「エリート志向」を強要しがちな父親には、以下のようなタイプの父親がいる。

 

a.自らが「エリート」コースを走って来た父親

  ある不登校の子供の父親が、その子に常に口癖のように言い聞かせていた言葉は次のようであった。

  「お父さんはそのようにすることによって、今日の地位と身分を勝ち取って来たのだ。だからお前もそうすべきである。お父さんができたことであるから、お前も努力すれば必ずできるはずだ。およそ人間はエリート・コースを走らなければ、決して出世できず、その行く先には祝福された未来はない」と。

  これが「エリート志向」の父親たちの典型的人生観であり、第一のタイプである。 

 

 

b.自らが両親若しくはそのいずれかにより、またはエリート家系の同居の親族たちなどから強い抑圧を被った父親

   第二のエリート志向の父親のタイプは、父親自身がその両親若しくはそのいずれか一方により、また更にはエリート家系の身近な親族などから幼い頃より「エリート志向」を強要されて来た父親である。このような父親は、自らが「エリート」であるなしに関わらず、常に「エリート志向」の亡霊に脅かされて育って来たため、若しくはその反対に「エリート」であることに誤った憧れを抱かされ続けてきたために、「エリート」でなければ自らの心が安息できないほどまでにその心が傷ついてしまっているのである。それ故、寝ても覚めても「エリート志向」の悪夢に追い立てられて、遂に愛する我が子に「エリート志向」を強要してしまう結果となるのである。まことに気の毒な父親であり、また子供である。まさに「哀れ」と言わざるを得ない。しかし、今日の世間にはこうした類の哀れな父親たちが如何に多いことか。それ故、この抑圧の故に心傷つき、病んで行く子供たちが如何にも多く、かつその後を絶たないのである。

 

 

c. 自らが「エリート」でなかったためひどく他者より嫌しめられたり、辱められたりし、その心に大きな傷を受け、心病んでしまっている父親

  そこで第三のタイプは、上記の如く自らが「エリート」でなかったために、過去において何度も他者より嫌しめられ、辱められたという不幸な体験を持った人で、かつこれによりその心に大きな痛手を受けそれがトラウマとなってしまっていた父親である。このような不幸な体験を持つ父親は、自らが被った屈辱や痛手を自らの愛する子供たちが被ることのないようにとの親心から、必死になり、躍起になって「エリート志向」を我が子に吹き込もうと努めるのである。ところがこの世俗主義的価値観に基づく父親の卑屈な「エリート志向」や人生観は、純粋な子供たちには極めて不快であり、受けとめ難い生き方である。とりわけ生まれながらのウルトラ良い子には、全くその本性に馴染まず、むしろ拒絶感と嫌悪感を煽り立てる以外の何ものでもない。

 

 

  それにも関わらず、それを父親の権威を発動して強要するならば、ウルトラ良い子たちの純粋な心は徐々に抑圧を受け始め、その上更に「エリート」でないことをあからさまに悪と断罪され、かつ強くなじられでもしようものなら、それがトラウマとなり、心傷つき、遂に病める症状を呈するに至ってしまうのである。何とも早や気の毒な話である。しかし、悲しいかな、こうした哀れな父親の存在や出来事が、今日の世俗社会では至るところに氾濫しているのである。それ故、お互いはこうした世俗社会の汚濁の激流の中から、一刻も早く愛する我が子たちを救出しなければならない。しかもその最たる加害者が、父親である自分自身であるかも知れないのだから……。

 

 

 

③母親の虚栄心と羞恥心

 さて、ウルトラ良い子たちの心を傷つけ、悩まし、遂には病める症状を呈させてしまうもう一つの抑圧の原因には、母親の虚栄心と羞恥心という大問題がある。一般的にこの世の人々は、この種の事がむしろ当たり前で、少しも大問題とは思わないで日々生活している。しかし、小僕をして言わしめれば、これこそが大問題である。

   さて、そもそも父親の権威主義やエリート志向がウルトラ良い子たちの純粋な心を強く抑圧したり、大きく傷つけ、歪めてしまっていると同様に、母親の虚栄心や羞恥心がウルトラ良い子たちの人生を大きく抑圧し、傷つけ、損なってしまっていることについて、多くの人々が余り良く気づいてはいない。この点についての気付きの薄さや遅さが、ウルトラ良い子たちの大切な人生を奪い去ってしまう大きな原因となっているのである。

  極めて悲しい事ではあるが、今日の多くの世の母親たちが、この虚栄心の虜となってしまっている。父親たちが権威主義やエリート主義に毒されてしまっている以上に、多くの、いやほとんどの母親たちがこの虚栄心の奴隷となってしまっている。

  このような母親たちは、常に自分の子供と他者の子供たちとを比較し、自分の子供がいつも他者より優秀な子供、立派な子供であって欲しいと願っている。少なくても平均的な普通の子供より少しでも高い評価を受ける子供であって欲しいのである。

  それはあたかも自分が少しでも美しくあるためにより優れた化粧品を使用したり、より美しく見せるために高価な衣服を着飾ったりするのと同様に、自分の子が他者から見てより見栄えのある子供であって欲しいと願望するのである。こうした母親にとっての子育ての原理や方策は、深い人間哲学や教育理論に基づくものではなく、実は極めて浅薄な虚栄心、名誉心、欲心に根ざしたものに過ぎないのである。

 このような母親たちは、その子の個性や賜物を引き出し、その子がやがて社会において、その子はその子として喜びに満ち溢れた、充実した生涯を生き抜く事ができるように、また「あくまでもその子にふさわしい固有の人生を、その子なりの尊い使命感を持って生き抜いて行くことができるように、その子の尊い人格形成のために養育者として献身的に仕える」といったような、厳かな子育ての本質を全く理解してはいないのである。

  こうした母親たちは、よく次のような言葉をしばしば連発し、口にする。「そんなことをしていたら、みっともない」とか、「そんなあなたを見たら人々が何と言うかしら。お母さんが恥ずかしいじゃないの」というような言葉である。

  これらの言葉はまさしく母親の虚栄心を象徴する言葉であり、いや羞恥心を丸出しにした言葉である。

  これらの言葉はかの父親の権威主義やエリート志向の根底に支配しているウルトラ良い子たちを抑圧し、また傷つけ、悩ませ、あの恐るべき諸悪の根源である「世俗的価値観」なのである。それゆえ母親の虚栄心と羞恥心こそ、これまた子供たちを抑圧し、傷つけ、心病ませて行く最大要因なのである。

 

 

第3章 両親からの抑圧と諸問題③

                            G.サーバント

第3章 ウルトラ良い子の抑圧の最大要因

 2、 父の役割と母の役割の欠如による抑圧の素地

  (4) 夫婦愛を通じての人間愛の伝授の欠如

 

さて、父親と母親の役割の欠如の第4番目は、夫婦愛を通して我が子に伝授しなければならない人間愛の学習の欠如である。そもそも父、母は、子供たちにとってこの地上で最初に出会った人間で、しかも同じ血を分け合った掛け替えのない尊い身近な存在である。

 

それゆえ子供たちは他人からでなく、誰よりもこの両親たちから、「人間とは如何なる者であるべきか」、また「真の人間関係とは如何なるものか」を学習することになるのである。そうだとすれば、いわば両親は、すべての子供たちにとって、この世で最初に出会った「“理想の人間”及び“理想の人間関係”のモデル」としての存在でなければならないはずである。

 

そこで両親は、生れてきた我が子に、常に夫婦相和し、互いに相手を尊び、相互に麗しく仕え合い、仲睦ましい夫婦愛を披歴しなければならないのである。なぜなら、人間の人間である本分は、言うまでもなく“互いに愛し合って生きる”ことにこそあるからである。のみならず、真の美しい人間関係は、“真実な愛によって結ばれた人と人との関係”の中にのみ存在するからである。つまり“真の人間関係”とは、“愛による人間関係”以外では断じてないのである。

 

ちなみに、子供のことを“夫婦の愛の営みを通して生まれた愛の結晶”などと表現することがあるが、これはまことに真実であり、かつ意味深い言葉である。ところが今日、夫婦でもない男女の間から、真実な愛の営みではなく、醜い欲望の営みの果て、世に生み出されて来てしまう哀れな子供たちが、如何に多いことよ。このようにして生まれ出て来た子供たちを何と形容したら良いのか。“愛の結晶”とは程遠く、“罪の結晶”と呼ぶにはあまりにも心痛い子供たち。ああ、何と言う哀れ、何と言う悲劇か!

 

世に生まれて来る子供たちは、皆一人残らず夫婦仲睦しい愛し合っている両親の“愛の結晶”として誕生して来るべきである。そして母親の胎内にいる時も、互いに愛し合い、仕え合う良き両親の声を聴き、また生れ出た時には自らの誕生を夫婦して喜び祝う両親の喜びの顔を仰ぎ、更には日々両親が相互に愛し合い麗しく過ごす姿に触れながら生い育つ子供は、何と幸いなことか。

 

このような子供たちは、そこに一早く理想の人間関係のモデルとしての両親をこの地上で体験し、また理想の人間のモデルとしての父母に出会うことができるのである。そして最初に出会った人間である両親の夫婦愛を通して、理想の人間とは「如何なる者であるべきなのか」、また真の人間関係とは「如何なるものなのか」を鮮明かつ強烈に脳裏にインプットされるのである。

 

実に我が子の脳裏に、他の何者によっても毒されない前に、この理想の人間像と人間関係を印刻することこそ、両親が我が子に対して成すべき初仕事であり、最初の大役であるべきなのである。それにもかかわらず、ほとんどの世の両親たちが、この大役を怠り、この初仕事に失敗してしまっているのである。

 

かくして子供たちは何よりも先ず、夫婦が互いに愛し合う“夫婦愛”を通して“人間愛”の基本を体験学習していくべきなのである。そうだとするなら、“愛し合わない夫婦”こそ、子供に対する人生最初の阻害者であり、加害者なのである。

 

 

 

(5) 尊厳ある父像と敬虔なる母像の欠如

さて、父母の役割の欠如のゆえの抑圧の素地づくりという点について縷々述べてきたが、この点に関していま一つの点を指摘しておきたい。それは我が子に対する父親の尊厳性と母親の敬虔性についてである。子供たちが成長するに従って、その子供たちの人格形成にとって必要不可欠な父親像と母親像は、“尊厳ある父親像”と“敬虔な母親像”なのである。

 

そこでまず“尊厳ある父親像”とは何か。それは単に父親の威厳や権威を意味しているのではない。とかく世間では「昨今の父親は、権威がなく、父権が失墜している」などと言われているが、何も父親が権威的である必要などまったくない。しかし、尊厳ある父である必要がある。

 

“尊厳ある父”とは、その存在は物静かで頼もしく、口数も少なく、慈しみに富み、常に母と子が安心して日々を過ごせるように、どんな社会的、経済的な不安も寄せ付けず、いざという場面では常に勇敢に前面に躍り出て身を呈し、雄々しく問題を処理してくれる極めて尊い存在であることを意味する。そして小さな事柄には口出しせず、常に大所高所から大局を見て物事を的確に判断し、正しい道に家族を導いてくれる、そのような父親を“尊厳ある父”と言う。

 

ところがそうではなく、常に口やかましく小言を言い、何かにつけ父親の権威をかざし怒鳴りつけ、時には機嫌を損ねれば殴られる、そのくせいざここ一番という大切な場面で責任を回避し、何もかも母親に問題処理をさせる父、それでいて普段はほとんど仕事のため家におらず、家におる時にはだらだらとテレビを見て何もせず過ごす父、このような父親像は、まさに最悪である。

 

ちなみに、子供たちは本来“尊厳ある父親像”から、いつしか人間としての真の社会性というべきものを身につけて行くべきはずなのである。ところが残念ながら今日多くの世の父親たちは、この点において大なる失格者となってしまっているのである。

 

さて次に“敬虔な母親像”とは何か。それは常に我が子と共に身を置き、我が子に寄り添い、いつでもその“心の声”に耳傾け、それを読み取り、絶えず受容し、満たしていく母親であって、特に我が子が病み、傷ついた時など、その苦しみ痛みを自ら吸い取り、身をもって肩代わりしてあげようと思うほど我が子を慈しみ、愛する母親にして、更に我が子の無事と健やかな成長を願って、常に神の加護を祈るような心がけを持つ母親を、“敬虔な母”と呼ぶ。「子に教える前に、子から聞き、子に学べ」とか、「子をしつける前に、子の心を満たせ」という昔からの知恵者の名言があるが、これはまさに真実である。

 

しかし、今日の多くの母親たちは学識も才能も豊かであるが、これがむしろ災いして、我が子の“心の声”に耳傾けることができず、自らが学び、習得した知識や情報に従って、一早く育児という美名の下で、躾(しつけ)や英才教育に踏み込んでしまう。そこにはすでに“敬虔な母”はおらず、“熱心な教育ママ”がいる。

 

前者は我が子の“心の声”に耳傾け、我が子の個性や固有の感性を引き出すが、後者は“母親の声”に耳傾けさせ、我が子の個性や固有の感性を無視して、母親の意図する理想の我が子像に向かって、子供を洗脳し始める。これぞ最悪な母である。彼女たちはできるだけ早く乳離れし、母の手を離れる子供こそ、よく自立した良い子と錯覚するが、大切な心まろやかな人間性や豊かな愛に生きる人間としての資質を養い損ねてしまう。

 

なぜならこの大切な幼児期に自らの内に母親からの豊かな愛による受容と満たしによる“敬虔な母親”体験をすることができなかったからである。とりわけ自己犠牲を甘受してでも我が子のために献げ、仕え、更にはそれでもなお足りなければ神にすがり祈るような子を愛するがゆえの真摯な母親像を体験していなかったからである。

 

このような“敬虔な母親像”こそ、世界中どこに行っても見出し得ない、自らにとって世界で唯一の実母の内にだけ見出すことのできる“真の母親らしさ”であって、これは如何なる父親にすら肩代わりできない母親ならではの神が与えられた“母の特質”なのである。これこそ母が我が子に与えることのできる唯一にして、世界最大の贈り物である。

 

 

以上、見てきたように、父の役割と母の役割の欠如による抑圧の素地として次の5つがあげられる。

■満3歳頃までの愛による十全な全面受容の欠如

■満3歳からの本質的善悪に対する識別力・分別の育成の欠如

■真善美、神愛聖、命霊祈、天永滅などの見えざる尊いものへの畏敬心の啓発の欠如

■夫婦愛を通じての人間愛の伝授の欠如

■尊厳ある父親像と敬虔なる母親像の欠如

 

このような五つの側面からの両親の役割の欠如が、いつしか子供たちの心の内に、世俗的価値観やその他の様々な言動からやってくる抑圧を、より受け易くしてしまっているという、悪い素地作りについてよくよく学んできた。そこでどうか両親方よ、これらの諸点をしっかりと心に踏まえて、この過ちを決して犯さないように留意して欲しい。

 

しかし、極めて残念なことではあるが、今日の教養ある両親たちのほとんどが、これらの諸点を見過ごしにしたまま、大切な我が子に対する教育や躾に無我夢中になっている。誠に本末転倒である。

 

そこで今ここで、とりわけ生まれながらにして鋭敏な良き感性を持ち合わすウルトラ良い子の両親たちに、心からお願いしたい。どうかあなたのお子さんの特性とその心を大切にし、是非とも何よりも優先すべき幼少時代に施すべき前述したような両親の尊い役割を欠如することなく、存分子供を受容し、愛の内に養育し、抑圧の素地を造ってしまわないようにして欲しい。

 

そこで更に次の項目について学ぶことにしよう。これまた謙虚な教えられ易い心を持って、しっかりと心に留めて頂きたい。