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峯野龍弘のアガペーブログ

心にささやかれた愛の指針

「第56回 日本ケズィック・コンベンションに想う」



                 G.サーバント 峯野龍弘

                 日本ケズィック・コンベンション中央委員長

                     

 

頌主!

ハレルヤ!

私達の思いを遥かに超えて、主は豊かに豊かにすべての面で祝福してくださいました!

本年は「祝福された生涯へのリセット」と題して、開催されました。

 主題聖句はイザヤ書55章12節でした。  
「あなたたちは喜び祝いながら出で立ち/平和のうちに導かれて行く。」

 

 

本大会と、東京大会の様子が以下をクリックして頂けるとご覧いただけます。

懐かしいですね。映像を見るとより鮮明に感動がよみがえってきます。

 

 

第56回 日本ケズィック・コンベンション

 (通称:森林公園コンベンション)

日本ケズィック・コンベンション2017(森林公園コンベンション) - YouTube

 


 

 

東京大会

東京大会 (日本ケズィック・コンベンション)2017 - YouTube



バイブル・リーディングも聖会も交わりもすべて素晴らしかったです。

 

スティーブ・ブレディ先生(イギリス)、ローバート・カンビル先生(インド)、本当に心から感謝申し上げます!時にかなたメッセージに、皆さん、全身全霊くぎづけになって聞き入っておられましたね。

 

 

ご存知の方も多いと思いますが、実は、56年の歴史的年輪を数えることになった日本ケズィック・コンベンションが、主の御摂理の内に本年2017年より開催地を神奈川県箱根町から埼玉県熊谷市に移すことになりました。半世紀以上に亘(わた)り親しまれ用いてきました天下の景勝地、箱根のホテル小涌園を後にして、他の場所に会場を移すにはまことに忍び難い思いがありましたが、諸般の事情からやむなく武蔵野丘陵地帯の森林公園近くのホテルヘリテージに会場を移ったのです。

 

 

思えば何と過去56年間、小僕は毎年2月には、箱根小涌園で開催される日本ケズィック・コンベンションに、欠かすことなく皆出席してきました。それゆえある方々からは、別名“Mr.ケズィック(ケズィック男)”との異名をもって呼ばれるほどでした。

 

 

小僕にとって、ケズィックは、“わが魂の故郷”のようなところで、都会に出ている人々が毎年正月には故郷に帰るように、小僕はケズィックに帰って行くのです。故郷は、良いものです。そこには少年時代過ごした懐かしい風物が留められており、帰る度に沢山の楽しい思い出がよみがえってきます。父、母、兄弟、そして少年時代共に遊んだ友たちとの懐かしい思い出などが、走馬灯のように脳裏に浮かび、何とも言えぬ喜びに浸ることが出来ます。丁度そのように小僕は、ケズィックに帰る時、献身前の青年時代における聖霊体験の思い出や、献身直後の燃えるような熱情、若き伝道者時代の忘れ難い数々の恩寵体験等を、毎回走馬灯のように思い返し、常に初心に立ち返ると共に、更に新たなる霊的刷新を与えられ、聖別と再度の献身と派遣の恵みに与って、ケズィックを終え箱根の山を下りるのでした。

 

 

こうした恵みに年々歳々与る中で小僕はいつしかケズィック・コンベンションの役職をも担うに至って、遂には東京委員会の委員長のみならず、全国の中委員長の重責をも担わせていただくことにもなりました。爾来早くも55年間、半世紀以上にも亘って、ケズィックによって自らの霊性を養って戴くことが出ました。小僕にとってもしもケズィック・コンベンションとの、この出会いと関わりがなかったとしたなら、小僕は遠の昔に霊的に枯渇し、伝道と牧会の戦線から退いてしまっていたことでしょう。小僕の今日あるのはまさにケズィック・コンベンションのお陰であったと言っても過言ではありません。

 

 

こうしたケズィック・コンベンションが、第56回目の本年を期して懐かしい箱根ホテル小涌園から、新たに森林公園のホテルヘリテージに移行したわけですが、たとえ場所が変わり会場が変わりましょうとも、決して内容が変わるわけではありません。むしろこの変化を生かして心機一転し、惰性やマンネリ化を一掃し、より充実したケズィック・コンベンションの再構築を図る絶好の機会とすべきと思いました。イザヤ書の御言葉が指し示しているように、「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き、砂漠に大河を流れさせる。」(43:19)と言われた主が、まさにお言葉通りに新たな移行と旅立ちを祝福して下さいました!

 

 

初めての会場で、皆さんにご不便、ご心配がないように、事務局・スタッフ一同、思いつく精一杯を捧げさせて頂いたのですが、恵まれておられる皆様の笑顔に逆に励まされました。

 

 

電車利用なら池袋から1時間足らずの交通至便なところ、また車使用なら教会から高速道路利用で1時間30分余りの極めて行きやすい場所です。その上、森林の中の静かな広々とした広大な敷地の中に佇む温泉豊富なリゾート・ホテルで、皇室の方々も宿泊される素敵な環境です。来年もご期待ください!

 

 

【第57回  日本ケズィック・コンベンション】

日程:2018年2月20日(火)~22日(木)

主講師:イアン・コフィ―博士(イギリス)

    ロジャー・ウィルモア博士(アメリカ)

会場:ホテル・ヘリテイジリゾート

   (埼玉県熊谷市小江川228)

 

 

 

【東京大会(日本ケズィック・コンベンション)】

日程:2018年2月24日(土)~25日(日)

主講師:イアン・コフィ―博士(イギリス)

    ロジャー・ウィルモア博士(アメリカ)

会場:淀橋教会(東京都新宿区1-17-8)

 

 

今からスケジュールをチェックしておいてください。

この絶大な恵みをお見逃しなく!

 

 

 

 全国各地のコンベンションも本年と同じ時期に2月初旬~3月初旬にかけて日本列島を縦断いたします。詳しくは、Facebook「日本ケズィック・コンベンション」 https://www.facebook.com/japankeswick/ をご覧ください。

 

 

 

 

 

 

日本ケズィック・コンベンション2017~ケズィックの聖所に上ろう!

人は私を「Mr.Keswick(ミスター・ケズィック)」と呼びます。
ケズィックによって私のキリスト者生涯が深められ、高められ、豊かに祝福されてきた事を覚えます。先週は第45回小原十三司記念聖会でした。先代の小原師も精魂込めて大切にしてこられたケズィック・コンベンションは、私の中にもそのDNAが受け継がれています。ケズィックの恵みをご存知ない方も是非今年、日本ケズィック・コンベンション、全国各地のケズィック、地方大会にお出かけください!

 

【さあ、ケズィック・コンベンションの聖所に上ろう!】

~第56回 日本ケズィック・コンベンションのご案内~

まもなく恒例の日本ケズィック・コンベンションです!
今回は、場所を新たに開催いたします!


2017年2月21日(火)より23日(木)

埼玉県熊谷市  ホテルヘリテイジ・リゾートにて

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宿泊されて、恵みにドップリつかれる方は宿泊を是非お勧めします!

様々な事情で宿泊が難しい方も、日帰り聴講料(1日当たり2千円)で参加可能ですので是非この機会をお見逃しなく!

主な集会の予定を下記に記載します。

 

<2月21日(火)>
12:00  受付開始
14:00~15:30 バイブル・リーディングⅠ スティーブ・ブレディ博士
19:00~21:00 聖会Ⅰ   ロバート・カンビル博士


<2月22日(水)>
6:00~7:15 早天祈祷会 深谷春男師
9:30~11:30 バイブル・リーディングⅡ スティーブ・ブレディ博士
11:30~12:00 幼児祝福式(子ども祝福式)
14:00~15:30 レディース・コンベンション  
        ユース・コンベンション
        教職セミナー  
        信徒セミナー
19:00~21:00 聖会Ⅱ   小菅剛師

 

<2月23日(木)>
6:00~7:15  早天祈祷会 深谷春男師
9:30~11:00  バイブル・リーディングⅢ スティーブ・ブレディ博士
11:30~13:00 聖会Ⅲ   ロバート・カンビル博士

 


 過去55年間の長きに亘り、当コンベンションは箱根・ホテル小涌園を会場に開催されて参りましたが、同ホテルの事情により来る2017年より、会場を新たに埼玉県熊谷市の国営武蔵野丘陵森林公園に隣接するホテル・ヘリテイジ・リゾートに移す運びとなりました。“日本ケズィック・コンベンションと言えば箱根”と言われるほど、長い間皆様に親しまれてきた箱根の地を離れることには、大きなためらいがありましたが、万事を益となし最善を為される主の摂理の御手に一切をお委ねし、「初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う」(イザヤ43:18,19)と言われる主の御言葉に押し出されて、新天新地に向かう喜びと希望をもって、この移転に踏み切ることしました。
ちなみにインターネットで検索して頂ければ、一目瞭然にお分かりいただけることですが、この新しい場所はこれからのケズィック・コンベンションの発展と祝福を思う時に、箱根に優るとも劣らない格好の場である言えます。

 

 第一に、ここは西には秩父連山を望み、また東に広大な武蔵野丘陵を眺めることの出来る豊かな緑に囲まれた、静かな保養地・別天地です。

 

 第二に、ここにはこれまた箱根に優るとも劣らない豊富な湯量と各種の温泉が楽しめる四季の温泉が湧き出ています。

 

 第三に、何よりも幸いなことは、都心から車で約1時間半、電車では池袋から西武線で約1時間の至便な距離にあることです。圏央道関越自動車道などを使えば、埼玉県はもとよりのこと、神奈川県からも山梨県群馬県、栃木県などからも参加しやすい立地にあり、今までは箱根に来るのには不便を感じていた方々も、大いに参加し易くなりました。新幹線利用の方々は熊谷で下車してくだされば、ホテル直行バスに乗ることも出来ます。

 

 第四に、今まで参加なさることが出来なかった埼玉県などの方々は、車で来られれば広大な駐車場のあるこのホテルなら、日帰り参加も大いに可能となります。

 

 以上のような好条件を思う時、是非一人でも多くの方々をお誘い下さり、楽しみにお出かけ下さるように、心からお勧めし皆様のご来会をお待ちしています。  

 

 今年も素晴らしい講師陣を迎え、「祝福された生涯へのリセット」と言う総主題の下で、充実したプログラムが展開されます。ご期待ください。

 主の御祝福を心よりお祈りしつつ・・・

 

f:id:minenotatsuhiro:20170127215037j:plain  メイン会場

f:id:minenotatsuhiro:20170127215238j:plain  スティーブ・ブレディ博士 

f:id:minenotatsuhiro:20170127215400j:plain  ロバート・カンビル博士

 

【詳しくは以下のサイトもご覧ください】

①HP「日本ケズィック・コンベンション」
http://www17.plala.or.jp/keswick/


フェイスブック「日本ケズィック・コンベンション」
https://www.facebook.com/japankeswick/


You Tube「日本ケズィック・コンベンション」
https://www.youtube.com/watch?v=yrqP_Yna__M

    

④HP「ホテルヘリテイジ・リゾート」
http://www.hotel-heritage.co.jp/

 

 

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【Ⅰ、ケズィックへの招き〜キリスト者生活の深化と聖霊の満たし】
 神は御子をお遣わしになり、御子は私達を祝福し、救い、きよめ、御名の栄光を表すために私達を用いようと計画されています。そのような神の御心が私たちの上に注がれていることを思いますと、ただ信仰生活をなんとなく続けるだけでは、まことに主に申し訳ない思いが致します。中には信仰生活を長く続けることすらできずに、短いうちに信仰生活を喪失してしまう人もおられます。イエス様を心に主とお迎えされた方、洗礼をうけて間もない方も居られるでしょうが、生涯の最後の一息まで神の御心に従って忠実に従ってください。

 「ケズィック」は、信仰の継続を励まし、強める聖会とも言えますが、もっと大切なケズィックの目的は「クリスチャンライフが年ごとに深められていく。人間性が深められ高められていく、引き上げられていく」ことです。つまり、ケズィックは、「豊かな成長と円熟」のために毎年受診するにふさわしい霊的クリニックです。霊的状態を確かめ、健やかであり続けるように素晴らしい霊的な栄養にあずかる集い、それがケズィックです。表現を変えますならば、「聖霊様に満ち満たされる聖霊体験と日々の聖霊の導き(刷新)」「聖霊様との密なる関係を深めていく」のがケズィックです。年度末、月末のお忙しい時期とは思いますが、万難排し、是非、聖なる自己犠牲を甘受しながらご参加ください。霊的に健全であれば、めりはりのあるクリスチャン生活を送る事ができ、社会において存在感のある、神の栄光を表すような証しができることでしょう。


■ケズィックの目的は、霊的刷新と深化(聖化)
 ・「より高き、より深いキリスト者生活の促進」を願う者たちのための聖会。
 ・一人一人の会衆が、主のみ言葉と主のご臨在の前に招かれ、聖別と派遣の恵みに与る現代の至聖所である。
 ・それゆえそこには“聖なる目的意識”を持って人々が集う
 
■ケズィックのモットー(合言葉)は、「みなキリストにあって一つ」ガラテヤ3:28
 ケズィックでは、教団教派や神学や教職・信徒の違いなど関係はない。
 色々な違いを超えて、神の御心に適う聖なる者として、高められ、深められ、 
 この世においてキリスト者として力強い証をできるように神の御言葉の前に 
 聞こうとする集会です。

 

■ケズィックの特徴は、バイブル・リーディング
このバイブル・リーディングとは、力強い御言葉の解き明かし。聖書全巻の光の下で、霊的も神学的にも牧会的にも社会的実生活においても実にインパクトのあるトータルなメッセージが解かれ、それを聞く一人一人の眼前に主を見る威力をもったメッセージです。


■「聖なる渇望」こそ、キリスト者生涯の成長と成熟を促進する
 ☆「神の御心」「使命」に気づいて派遣される
 ☆社会的使命、祝福を流す

 


【Ⅱ、英国ケズィック・コンベンションの歴史、目的と精神】

 1875年6月28日、英国北部のカンバーランドの湖沼群のダーベント・ウオーター湖の畔にある村ケズィックで起こった聖霊による聖化運動に始まり、それが大きなリバイバルとなり、聖霊様の著しい取り扱いが一人ひとりの人格のうちに引き起こされた集会。そもそも英国のリバイバル運動の影響を受けて、パラソル・スミス夫妻を講師に招き始めようとしたこの集会が、講師の突発事情で中止寸前に追い込まれ、遂に意を決して、28日夕刻の祈祷会から自前で始めたところに聖霊の恵みが注がれリバイバルに発展し、世界に波及!翌日29日からは、「実際的ホーリネス促進のための合同集会」と命名され一大超教派運動に発展しました。第一次・二次世界大戦のため6回休会しましたが、今日まで続く世界の偉大な霊的指導者を次々はぐくみ送り出すような感化力の大なる聖会となりました。

 


【Ⅲ、日本ケズィック・コンベンションの歴史】
☆1962年2月、箱根湯本・三昧荘で「日本キリスト者修養会」(仮称 ケズィック)の名称でスタート。参加者は、300名も来たらすごい時代でしたが、300人の予想を遥かに超え、600名以上の方が参加。

☆「ケズィック」の名前の使用許可を小原十三司先生、金井為一郎先生、車田秋次先生がイギリスに出向き、了解されました。

☆1963年~会場をホテル小涌園にて移し、1100名以上の参加者。

☆やがて、全国から集まるのは大変だということになり、ブランチがまず北海道、大阪に起こされ、やがてさらに沖縄、九州、東北にまで拡がりました。近年では、コンベンションと共に神戸、京都、奈良、東京に地区大会が開催されるようになりました。

☆ちなみに、この日本のケズィックは、1961年に開催された東京クリスチャン・クルセードの落とし子として誕生したもので、WVI(ワールドビジョン国際)の総裁ボブ・ピアスと、副総裁ポーロ・リースの支援によって開催されました。

 

百聞は一見に如かず!是非、どこかのコンベンションでお会いしましょう!

 

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祈りによる共同体の復興と聖霊による新紀元③

連載になっていますので、①②もお読みください。

 

祈りの重要性、聖霊の力について共に学んで行きましょう。

 

                  G.サーバント  峯野龍弘

 

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Ⅳ、祈りと嘆願

 預言者ダニエルは、神の御前に出で御顔を仰いで、粗布を纏い、灰をかぶり、ひたすら断食をもって祈り、嘆願したのでした(ダニエル9:3)。それは背信の民となり果てた選民イスラエルのための執り成しの祈りでした。それは強く胸を打つような哀願・切願の祈りでした。その祈りは先にも一言しましたように、大罪を犯したイスラエルの民の罪を裁く祈りではなく、またその反対に不信仰な民の心の迎合し、安易な気休めの赦しや平安を祈る祈りでもありませんでした。それは自らと民を一つにつなぎ留め、彼らの犯した大罪を、まさに自らの犯した罪として深く心に受け止め、悲痛な叫びをもって主の憐みに縋り、神の赦しをひたすら乞う切々たる執り成しの祈りでした(ダニエル9:4~19)。そこには何度も繰り返して、今まで長きにわたって神の御心に背き続けて来たイスラエルの民の罪を何一つ言い逃れすることなく赤裸々に認め知って、その罪を嘆き告白している真摯な嘆願の祈りが捧げられています(ダニエル9:5,9,11,15等)。この一連の切実な執り成しの祈りの中には、しばしば「わたしたち」と言う第一人称複数形と、「わたし」と言う単数形の言葉が入り混じって出てきますが、ここにこそ預言者ダニエルが自らと罪を犯した民とを一体のものと考え、同化連帯させた執り成しの祈り手としての預言者ダニエルの真骨頂が窺(うかが)われます。

 

 かくしてダニエルは、ひたすら選民イスラエルの罪の赦しと回復、とりわけ荒廃した聖所の回復と祖国への復帰を祈り、神に嘆願しました。

 

「それゆえ、われわれの神よ、しもべの祈と願いを聞いてください。主よ、あなたご自身のために、あの荒れたあなたの聖所に、あなたのみ顔を輝かせてください。」
ダニエル9:17 

 

 

 

 

Ⅴ、聖名のゆえの回復と神の栄光 

 さて、ここでお互いはこのダニエルの嘆願の祈りの中に表わされている極めて重要な一事に気付かされます。それは「憐れみ」(ダニエル9:9,18)と言う言葉と「主御自身のために」(17,19)とか「聖名をもって呼ばれる」(18b,19d)が意味するところに関してです。これは、実にその赦しや回復の根拠が選民イスラエルや預言者ダニエルの中に、更には今日のお互い人間の中には、一切存在していないことを意味しています。その赦しや回復の根拠は、ただ主の「憐れみ」と「主ご自身の聖名」の栄光のみにかかっているのです。

 

 ダニエルは、もはや選民イスラエルや自分自身、つまり人間サイドのいかなる理由によっても、その罪の赦しと選民の回復を神に祈り求め、その願いを叶えて戴く根拠・理由付けを見出すことは出来ませんでした。ただあるとすれば次の二つの内のいずれでしかないことを、はっきりと彼は認識したのでした。その二つとは、一つは「神の憐み」であり、もう一つは「主御自身の聖なる聖名のゆえに」でした。ですからダニエルは、「主よ、正義はあなたのものですが、恥はわれわれに加えられて、今日のような有様です。すなわちユダの人々、エルサレムの住民および全イスラエルの者は、近き者も、遠き者もみな、あなたが追いやられたすべての国々で恥をこうむりました。これは彼らがあなたにそむいて犯した罪によるのです。」(ダニエル9:7)。「あわれみと、ゆるしはわれわれの神、主のものです。これはわれわれが彼にそむいたからです。」(9:9)と犯した罪を切に悔い改め、自らの側からの一切の回復の根拠となるべきことは、もはや何一つないことを知っていました。それゆえダニエルは神の深い憐れみに、ひたすらよりすがり、「それゆえ、われわれの神よ、しもべの祈と願いを聞いてください。主よ、あなたご自身のために、あの荒れたあなたの聖所に、あなたのみ顔を輝かせてください。」と祈ったのでした。そして「われわれがあなたの前に祈をささげるのは、われわれの義によるのではなく、ただあなたの大いなるあわれみによるのです。」(同9:18c)と祈りました。

 

 更に、ダニエルは、究極の根拠とすべき一事に縋(すが)りつき祈りました。それは「主御自身の聖名」でした。なぜなら荒廃した聖所は、神の「み名をもってとなえられる町」に建てられていました(同9:18)。何よりも選民イスラエルの民は、畏れ多くも「御名をもって呼ばれる」民でした(同9:19)。選び主である神が、もし彼らを裁き、見捨て、回復なさらなかったとしたら、それこそ神の名が侮(あなど)られ、汚されることをダニエルは恐れました。これは丁度、預言者エゼキエルが「それゆえ、あなたはイスラエルの家に言え。主なる神はこう言われる、イスラエルの家よ、わたしがすることはあなたがたのためではない。それはあなたがたが行った諸国民の中で汚した、わが聖なる名のためである。」(エゼキエル36:22)と神が言われたことを耳元に聞いたように、ダニエルもまた今この同じ御声を聞いていたに違いありません。そこでダニエルは、今や「主御自身のために」、またその「聖なる聖名のゆえに」ひたすら荒廃した聖所の回復を祈り求めたのでした。そうすることによって何としても「み顔を輝かせて」(ダニエル9:17)頂きたかったのでした。つまり神の栄光を現して頂きたかったのでした。

 

 おお、なんと素晴らしいダニエルの祈りと嘆願であったことでしょう!お互いも何としてもダニエルのような執り成しの祈り手となりたいものです!

 

 

 

 

Ⅵ、「祈りによる共同体の復興と聖霊による新紀元」

 お互い個々人が真に目覚めて、切に主に祈る者となり、とりわけダニエルの如き良き執り成しの祈り手とならなければなりません。祈り執り成すところに聖霊が注がれ、お互いは覚醒され、そこに霊的変革を体験し、個々人としても共同体としても霊的新紀元を画することが出来るのです。

 

 お互いは以下の事柄を深く心に留めて、各自励み、また各宣教会、各方面会、各グループ、各委員会等で互いに励まし合って、祈ってまいりましょう!

 

  • 何事を始めるにも祈りをもって初め、何事を終えるにもまた祈りをもって結びましょう。そしてその間終始、祈りをもって主と共に歩み、絶えず目覚めて祈り続けましょう!
  • 各集会前には必ず祈り、集会中は祈り心を持って聞き、集会後にはしばらく祈って、感謝の内に立ち上ってまいりましょう!
  • 日々、個人祈祷(デボーション・静思の時等)を怠らず、毎週いずれかの公同の祈祷会に励みましょう!
  • 各自祈りの友をつくり、祷告グループを編成しましょう!
  • 日々、聖書を読み、霊的書物を読む習慣を身に着けましょう!
    日毎のデボーション誌の活用。

 

 ※聖書は、口語訳を引用しております。                                                                                                    

 

 

祈りによる共同体の復興と聖霊による新紀元②

連載になっていますので、①もお読みください。

 

祈りの重要性、聖霊の力について共に学んで行きましょう。

 

                  G.サーバント  峯野龍弘

 

 

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Ⅱ、とりなしの祈りを捧げたダニエル 

主は、ダニエルが選民イスラエルの復興のためにダニエル書9:17で切願したように、私たちにもその使命と聖なるミッションを達成するために、真剣に主に祈り求めるように促しておられるのです。

 

「それゆえ、われわれの神よ、しもべの祈と願いを聞いてください。主よ、あなたご自身のために、あの荒れたあなたの聖所に、あなたのみ顔を輝かせてください。」(ダニエル書9:17)

 

 

そもそもこの御言葉は、預言者ダニエルが同胞である選民イスラエルのために、罪の赦しと回復のためのとりなしの祈りです。「選民イスラエル」は、自分たちの主から託された「尊い使命」も「聖なるミッション」も忘れて、いたずらに「異邦の民(異邦人)」に向かって己を誇り、特権意識にのみ立てこもり、主の御心を踏みにじり、「背信行為」に明け暮れしていたために、遂にその犯した大罪のゆえに祖国を失い、神殿を廃墟と化し、自らを異邦権力下に支配される者としてしまったのでした。

 

そこで、ある預言者たちは彼らを断罪し、彼らを裁くばかりであったり、その反対に別の預言者たちは、自らの「保身」と「安寧(あんねい)」を願い民の罪を野放しにして、ただいたずらに甘言(かんげん)をもって民の機嫌を伺いながら「偽りの平安」を祈るようなありさまでした。

 

しかし、このような状況の中でダニエルは、そのいずれでもなく、あえて自らが大罪を犯したかのように、「選民イスラエルの罪を肩代わりして、主の御前に深い嘆きをもって、とりなしの祈りを捧げた」のでした。

 

お互いは、キリスト者生活の原点でもあり、信仰生活の基本線・生命線でもある「祈り」にしっかり立ち返り、絶えず祈り、祈り合いながら、その尊い使命と聖なるミッション達成のために勤(いそ)しんで行きたいものです。

 

 

 

Ⅲ、荒れた聖所(荒廃した聖所)とは?

そこには二重写しの映像の様に、二つの意味があります。

第一は、文字通りの「神殿聖所」の崩壊です。選民イスラエルにとっては、彼らが神の御心に背き罪を犯してしまったがゆえに、遂に敵に踏み込まれ「崩壊してしまったエルサレム神殿」とそこでの「神殿礼拝の崩壊」を意味していました。しかし、これはまさしく今日的にはお互いキリスト者の不信仰と不従順によって崩壊寸前に追い込まれてしまっている「現代教会とその礼拝」を意味しています。日本の現代教会は、活力を失い、無力化していると指摘されています。宣教能力は低下し、救霊は衰え、若者は教会離れし、高齢化が加速しています。礼拝出席者や聖日厳守者は激減し、日本の毎週の平均礼拝出席者数は、40名前後とも言われています。まさにリバイバルが必要です。この「荒れた(荒廃した)聖所」を、いつ誰が回復・復興させて下さるのでしょうか。それはお互いが、真に霊的に覚醒されて主の御心に立ち返り、不信仰と不従順、罪や穢れをかなぐり捨てて、主と共に歩みだすほかにありません。

 

また、第二に、「崩壊した神殿」とは、「内なる神殿」若しくは「霊的神殿」の崩壊です。つまり信仰者個々人の「霊性の崩壊」です。使徒パウロは、コリント信徒への手紙Ⅰの6章19、20節において、次のように言っています。

「あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。」と。旧約聖書においても、新約聖書においても信仰者は皆、「生ける霊的神殿」であるべきなのです。真の信仰者は、誰でも、いつでも、どこにおいても神の御心を各自の心の中に迎え、その神の御心に従って神と共に歩み、主と共に生きて行くのです。使徒パウロは、それどころではなく更に「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。」(ガラテヤ2:20)とまで言っています。ですからお互い信仰者は、その自らの体(全存在)の内に主を迎えた「生ける霊的神殿」なのです。それゆえお互いは己の欲と罪をことごとく主に献げて、常に主のみ心に従って神中心・キリスト中心の生活を、喜んで真心から歩んで行かなければならないのです。そこで使徒パウロは、こうも言っているのです。

「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。」(ローマ12:1)と。

 実にこのような霊的生活が崩壊してしまっているところから、そこに「霊性の崩壊」若しくは「霊的神殿の崩壊」が起こり、遂に「礼拝聖所の崩壊」や「教会や礼拝の崩壊」が結果するわけなのです。

 

選民イスラエルにおいては、このような霊性の低下や欠如から「信仰の形骸化」や「律法主義」、更には「選民的特権意識」や「排他主義」等の諸々の過ちが引き起こされ、遂には「背信の民」、「亡国の民」と化し、神殿の崩壊を来したのでした。同様に今日の教会とその礼拝の衰退・疲弊・無力化は、個々の信仰者の霊性の低下と霊的神殿の崩壊が原因であると言っても過言ではありません。

 

 ではどうしたらこのような状態から立ち上がることが出来るのでしょうか。その打開の道は、どこにあるのでしょうか。それが「祈りと嘆願」であり、神の憐みによる「聖名のゆえの回復のみ業」です。これこそがリバイバルなのです。

 

 

※次回に続く

※聖書は、口語訳を引用しております。

 

 

 

 

 

祈りによる共同体の復興と聖霊による新紀元①

何回かに分けて掲載します。

祈りの重要性、聖霊の力について共に学んで行きましょう。

                  G.サーバント  峯野龍弘

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序、キリスト者アガペー共同体の使命、ミッション

エゼキエル書47:12
「 川のかたわら、その岸のこなたかなたに、食物となる各種の木が育つ。その葉は枯れず、その実は絶えず、月ごとに新しい実がなる。これはその水が聖所から流れ出るからである。その実は食用に供せられ、その葉は薬となる。」

 

お互いの使命は、聖所から流れ出る聖なる泉の如く、四方に川々となって流れ下り、その岸辺に潤いを与え、その潤いは岸辺のあらゆる植物に命を与え、芽吹かせ、根を張らせ、それがやがて幹を生じ、枝を茂らせ、花を咲かせ、更には豊かな実を産出し、遂にはその実や葉を収穫して食した人々に栄養を付与し、病を癒し健やかになすようになることでしょう。つまり、アガペー共同体のお互いが、教会や礼拝などの‟聖所”から世に遣わされ、家庭や職場や学校等の多くの触れ合う人々に、潤いを与え、豊かな活力と祝福をもたらす良き存在となることができます。これこそが世にある教会とキリスト者の尊い使命であり、また聖なるミッションでしょう。

 

 

 

Ⅰ、聖霊の御業と祈り

   しかし、如何(いか)に真剣にお互いがキリスト者アガペー共同体の使命に目覚め、その聖なるミッションを達成しようと願い、努力しても、所詮(しょせん)、人間の力や知恵や財力などによってその使命を遂げ得ることはできません。それは、人間の業を遥かに超えた神の御業と霊の働きによらなければなりません。預言者ゼカリヤが、主ご自身から「武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって」との御言葉をあずかったように、神の霊、上からの力、つまり聖霊の御働きによらなければなりません。そして、この何よりも重要な聖霊の御働きにあずかるために、お互いにとって大切なことは「祈り」です。誰が祈りなくして聖霊の御働きにあずかることが出来るでしょうか。いや断じてできません。

 

 ちなみに、御復活なさった主イエスが遂に昇天される時、弟子たちに「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。」(マルコ16:15)と尊い使命、聖なるミッションを託された時、決してその使命を彼らだけで、しかも彼らの知恵と力だけで遂げさせようとされたのではありませんでした。いやそんなことは断じて出来ようはずもありませんでした。それは霊的戦いでもあり、神の御業でもありました。ですからマルコの福音書の終わりには、「弟子たちは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主も彼らと共に働き、御言に伴うしるしをもって、その確かなことをお示しになった。」(マルコ16:20)と明記されているように、主が共にお働き下さったのでした。しかもその後、主は使徒言行録が鮮やかに記録を留めているように、弟子たちに「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい。すなわち、ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう。」(使徒1:4,5)と言われ、更に「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう。」(使徒1:8)と約束されたのでした。そして果たせるかな遂にそのお約束の通りに、五旬祭(ペンテコステ)の日が到来した時、「突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。」(使徒2:2~4)のです。これはもはや人間の知恵と力、弟子たちの働きを遥かに超えた主ご自身のお働き、つまり聖霊による御業でした。

 

 しかし、この聖霊の御業は人間の働き、弟子たちの働きと無縁かつ没交渉の働きではありませんでした。弟子たちは主の御命令通りにエルサレムに戻り、何をして主の約束の御霊の下るのを待っていたのでしょうか。彼らはエルサレムに戻り、逗留(とうりゅう)していた家の屋上の間に集まり(同1:13)、「心を合わせて、ひたすら祈をしていた。」(同1:14)のでした。そして祈り続けて五旬祭の日を迎えたのです。祈りの祭壇の上には、弟子たちの心を合わせ、熱心に祈る『祈りの薪(まき)』が充分積み上げられ、『祈りの火』が点火され盛んに燃え続けていました。遂にその所に待望の『天からの火』すなわち『聖霊の火』が降ったのでした。そうです。『下からの祈りの火を燃え続けさせるところに、上からの聖霊の火が降る』のです。

 

 また、「祈りは、地中深くから永遠に尽きることのない地下水」、つまり「御聖霊を汲み上げるために必要な『霊的呼び水』」なのです。ですから“祈りなくして聖霊は降ることなく、祈りなくして神の御業は拝しえない”と言っても過言ではありません。

 

 

 

 お互いに尊い使命と聖なるミッションを明確にお示し下さった主は、その使命遂行、聖なるミッション達成のために、何よりも祈る者となし、お互いが存分祈る者となることによって、そこに聖霊の御業を現し、その尊い使命と聖なるミッションを実現させ、かつ御自身の栄光をご顕現なさろうとしておられるのです。

 

 

 

※次回に続く

※聖書は、口語訳を引用しております。

 

 

 

 

愛の文化を生み出す教会の宣教とキリスト者(2)

前回の続きです。

―美しい人間関係の新創造とキリスト者の使命―   

                G.サーバント(峯野龍弘)

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Ⅲ、21世紀という終末的時代における教会とキリスト者の宣教の使命

 さて、私たちは今や21世紀という終末的様相の色濃い恐るべき時代を迎えています。時代はますます悪化・俗化の度合いを増しています。主は弟子たちの質問に応えて、終末時代の最も顕著な兆候の一つについてこう指摘されました。それは「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える」(マタイ24:12)でした。つまり愛を基とした美しい人間性や美しい人間関係、そして美しい共同体としての社会が崩壊して行くとの指摘でした。何故そうなるのでしょうか。その理由は、明白です。

  • 「欲の文化」つまり欲望充足型の文化が、はびこるからです。
  • 「エゴの文化」つまり我執や自己中心の文化が、主流となるからです。
  • 能力主義の文化」つまり相互に優劣を競い合う競争文化が支配的になるからです。
  • 「富の文化」つまり物質的、経済的豊かさをもって人間の幸福を推し量る価値観が独り歩きするからです。
  • 「裁きの文化」つまり相対的、世俗的価値観により相互に相手を批判、非難し、抑圧し合うことが日常茶飯事となるからです。

 そこには多様性や個性、個々の人間の尊厳や真価などが否定され、最大公約数的な世俗の価値観に従って良かれとされたある種の枠組みだけが絶対化され、それに従って相互に裁き合う文化が大道をまかり通るのです。最も重要な愛は失われ、愛による相互受容や赦し、更には献身的な他者奉仕、他者のために喜んで担う自己犠牲と言う極めて尊い生き方は卑しめられ、美しい聖い精神や生き様は失われて行くのです。今日の日本はまさにその破局を迎えつつあります。


 そこで今こそかかる日本社会の中に置かれている私たち教会とキリスト者の使命と責任は甚大です。このような終末的現代社会の中に誰が美しく聖い真実な「愛の文化」の花を咲かせ、この殺伐とした慰めも安息もない、裁き競い合う現代砂漠に、喜びと幸せを齎すことができるのでしょうか。それこそ主イエス・キリストの十字架のアガペー(愛)とその恵みに与った教会とキリスト者でなくてどういたしましょう。


 ところがそれにもかかわらず、もしお互いがその尊い使命と責任を果たさないなら、お互い教会とキリスト者はまさに「塩気を失った塩」(マタイ5:13)、「枡の下に置かれた燭台」(同15)のごとき存在であって、何をもってこの世に愛の塩味を取り戻し、この世に愛の光を輝かすことができましょうか。使徒パウロが言ったようにまさしく

  • もし「愛がなければ」異言やしるしの賜物も所詮、「騒がしいどら、やかましいシンバル」(コリⅠ13:1)に過ぎず、
  • またもし「愛がなければ」山を移すほどの福音主義信仰も神学も、「無に等しい」(同2)ものとなり、
  • そして更にもし「愛がなければ」全財産を貧しい人々に施し、命懸けで社会改革を叫んでみても、それは「何の益もない」(同3)のです。


使徒パウロは、ですから尊いのは「愛によって働く信仰だけ」(ガラ5:6口語訳)であり、「愛の実践を伴う信仰こそ」(同新共同訳)大切であると断言しました。


 実に終末の世界が真に必要としているのは「愛の文化」、しかもそれは十字架のキリストのアガペーの愛から流れ出てくる実践的かつ贖罪的「愛の文化」以外ではないのです。そこには

  • 「赦し」と「とりなし」、
  • 「愛の自己犠牲」と「献身」
  • 「癒し」と「回復」
  • 「和解」と「共生」
  • そして「美しい人間性」と「人間関係」更には「愛の共同体」としての新世界の形成

などがまさに生み出されて行くからです。そしてその時、世の人々は現代社会を終末化させてきた我執や自己中心主義、裁きや競争心、更にはそれらを煽りたててきた世俗的価値観から解放され、「愛による共生の文化」を開花させることができるのです。そしてそこに多様性と固有性が融合し合う豊かな調和の文化が実を結ぶことでしょう。

 
 とりわけ、かくして遂に「主の祈り」にあるような神の御心にかなう美しい社会が誕生し、個々人の内には愛に満ち溢れた美しい人間性が修復され、また美しい人間関係も再構築され、そこに美しいキリストにある交わりと共同体が形成され始め、更には使徒言行録2章おいて実現されたような、聖霊に満たされたキリストの愛による共存・共生・共有し合う聖くて美しい、しかも唯一の世界大、いや宇宙大のスケールの大きな愛の文化圏、つまり「新世界」が実現するのです。(使徒2:42~47)

 

 これこそが21世紀の苦悩する愛なき現代社会が切願している新世界です。そしてまたこれこそが愛を喪失し、美しい人間関係も崩壊し、愛の破局を迎え生き地獄化して行く終末的現代社会に対して、お互い教会とキリスト者を派遣なし給うた主の大いなる御心なのです。それゆえお互いはこの大いなる御心と御國の成就するために、今ここに「キリストにあってひとつ」されて立ち上がり、愛に満たされた美しい人間性回復と美しい人間関係再生のために、更には美しい愛の共同体としての社会形成のために、共に献身しようではありませんか。そして主イエスの証し人としてこの年の教会標語のように、「社会に祝福を齎す愛の共同体」となって、共に祈り、霊と心と体を合わせて、21世紀の終末的現代社会に遣わされて行こうではありませんか!そこで今、心と声を合わせこう祈ろうではありませんか!

 

「天にましますわれらの父よ、聖名を崇めさせ給え。

 御國を来らせ給え。御心の天になる如く、地にも成らせ給え!アーメン」と。

 

            

愛の文化を生み出す教会の宣教とキリスト者(1)

―美しい人間関係の新創造とキリスト者の使命―   

                G.サーバント(峯野龍弘)

 

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Ⅰ、苦悩する21世紀の社会に対する教会とキリスト者の使命

 それはこの醜いまでに人間関係が崩壊しつつある21世紀社会に向かって、キリストの愛の奥義を明白に宣証することによって、そこに真に美しい人間関係と社会を回復して行くこと、いや新創造して行くことに他なりません。それは人間関係が限りなく崩壊してゆく終末的様相の色濃い現代社会のただ中にあって、心傷つき病み苦悩しているすべての人々と社会に対して、キリストの愛に基づく新しい文化・新しい社会を新創造して行くことでもあります。これは強烈な表現を許して頂くならば、キリストの愛による一大社会変革を齎すまさに「愛による一大文化革命」を目指すものです。ここにこそ究極の教会とキリスト者の使命と責任があると確信するものです。

 ちなみに、教会とキリスト者の果たすべき真の宣教の究極的目的は、決してキリスト教という宗教の繁栄や、単に信徒数の増大を意図するものではなく、また、ただ世の人々とは決定的に異なった聖書的・福音的集団を生み出すと言うことでもありません。それらはあくまでも当然そうあるべき教会とキリスト者の経過点であり、中間目標に過ぎません。その真の宣教の目的は、この恐ろしいほどに愛の冷え切った終末的現代社会、そして世界に向かって主イエスが命じている通りに、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝える」(マルコ16:15)ことによって、「地の果てに至るまで」(使徒1:8)、いわゆる「全地」「全人類」が、遂にキリストの愛の内にあって皆ひとつに帰一し、そこに愛と平和と義の実に満ち溢れた一大「愛の共同体」としての「地球大の愛の新世界」を実現することにあります。ここにこそ主の宣教派遣命令の究極的目的があるのです。それはまさしく使徒パウロが、かの日エフェソ信徒への手紙において展開した彼の教会論とキリスト者論において目指したもの、つまり愛の一大共同体としてのキリストにある新世界の実現に他なりません。(エフェソ1:10,2:13~22、4:1~17等参照)

 またそれと同時に何よりもお互いは、ここで今一つの重要な真理に気付かなければなりません。それは「主の祈り」の基盤となっている前半部の祈りの真意についてです。つまり、

「天にましますわれらの父よ、聖名を崇めさせたまえ。
  御国を来らせたまえ。御心の天になる如く、地にもならせたまえ。」

と言う祈りには、まさに神の愛に満ち溢れた天上の神の御国が、天におけると同様にこの地上にも到来し、この地上の万民がキリストの全き愛の御心の支配の下に服し、全くひとつとされ、遂にそこに究極の美しい愛の共同体としての「神の国」を実現するよう祈り求めよとの、主ご自身の深い御心が込められているからです。それゆえ教会とキリスト者の究極的使命とその使命達成のための宣教は、まぎれもなくこの「主の祈り」の成就を目指すものでなければなりません。

 そこでお互いはこの「主の祈り」の成就のために、如何なる教理や神学的立場、また教会の伝統や歴史的違い性を超えて、「キリストにあってひとつ」にされ、共に宣教し、共に祈り、働くものとならなければなりされません。ちなみに、この使命と目的達成のために労することのできる有資格者は、まさにキリストの尊い血潮の贖いにあずかって御國の民とされた者たちの共同体であるお互いの教会と個々のキリスト者以外の何者でもないのです。

 

Ⅱ、キリストにある愛の文化の発信

 さて、そこでお互いが主より要請されているこの尊い究極の使命・目的の達成のためには、如何なるアプローチ・手立てが具体的に必要なのでしょうか。それは「愛の文化」の発信を通してです。そのためには教会は常に「愛の文化の殿堂」とならなければなりません。そしてお互い個々のキリスト者たちは常にキリストの「愛の文化の担い手」となるべきなのです。

 ここで言う「愛の文化」とは、「キリストの愛を基としてその上に築かれて行く、美しい人間性と人間関係、そして更に愛の共同体を生み出して行くために必要な、日常生活の中に生きて働く心と生活上の祝福に満ちた諸要素」を言うのです。

 このキリストにある「愛の文化」には概ね以下のような素晴らしい「改変力」があります。

  • 慰めと安息を与える(平安)
  • 癒し新しい生きる力を与える(治癒)
  • 聖く生きる力を与える(聖化)

a, あらゆる試練・困難を克服する力(忍耐)

b, 無から有を生み出す力(創造)

c, 犠牲を甘受し他者に仕える力(献身)

  • 愛と受容の力を与えられる(隣人愛)
  • かくして神には栄光、人には祝福を齎すことができる。(神の栄光)

 そこでお互い教会とキリスト者は、この心病み傷ついている人々の多い現代社会の中にあって、かかる豊かな改変力のあるキリストの「愛の文化」を強力に発信・提供し続けなければならないのです。今日の日常生活のあらゆる現場で人々が必要としている最も重要事な一事は「愛の文化」に出会うことです。   

今日のすべての家庭に先ず「愛の文化」を!そして学校教育の現場にも「愛の文化」を!また職場の中にも、地域社会にも、更には政界や経済界にも、そして医学界にも、のみならず福祉・芸術等すべての分野に「愛の文化」を必要としています。

 その時、人々は大きな慰めと安息、癒しと新しい生きる力を受け、そこに愛に満たされた美しい人間性と人間関係を修復し、更には美しい愛による共同体としての共生社会を実現して行くことができるからです。

 

次回へ続く